1 はじめに比較法史学会で発表させていただくことになりまして大変嬉しく思っております。 私はこの学会が数年前に主催された河口湖合宿に参加させていただいたのですが、 そのときの気さくな雰囲気を思い出します。この学会なら、 私の粗削りで奇妙な発表についても大目に見ていただけるのではないかと期待してお ります。 本日の発表の題目は、「著作権の原理と現代著作権理論」となっております。 本発表と私の研究全体との位置づけについて簡単に説明させていただきます。 私はコンピュータが大好きな人間でありまして、 このコンピュータが切り開く新しい社会に期待している一人であります。 そうした関心から、情報化社会とそれに関連する法を研究するという「情報法」 に取り組んでいます。この領域については近年 書籍も出るようになりまして、 ある程度学問としての枠が定まってきたようにも見えます。 そうした「情報法」には、それまでの法律の枠組みでは憲法、民法、 刑法などの各法領域に関係する部分が含まれています。平たく言えば、「情報」 をキーワードにして、各法領域をつまみ食いするものであるといえるでしょう。 そうした中で私は「著作権法」に最も力を入れて取り組んできました。 著作権法は特殊な法としてあまり注目を集めてこなかった領域ですし「情報法」 の枠の中でも大きな領域を占めている訳ではありません。 しかしながら、コンピュータネットワークにおける法律問題を考えるとき、 ネットワークにおける「財産」 を支配する著作権法の存在は非常に大きくまた基本的な物であると考えます。そして、 著作権法は最も古くから「無体」の財を制御する法として発達してきたのです。 そうした意味で、「法は情報をどのように取り扱ってきたのか、 またどのように取り扱っていくのか」という「情報法」 の基本問題に歴史的観点を導入する際には必須の領域であると考えています。 このような発想のもと、 大学院ではイギリスとアメリカにおけるコピーライトの歴史的発展を検討するという 歴史研究をしてまいりました。そういう意味では、まさに「比較法史」 という領域に当てはまる研究ということになります。しかしながら、 基本的には21世紀型の著作権の姿を探るという目的がありました。そして、 延べ650年分におよぶ著作権の歴史を観察した結果、 幸いにも自分なりの指針を得ることができました。概略に止まりますが、 それを本日発表させて頂こうというわけです。
2 著作権とコピーライト歴史研究は、 口頭で概略をお話するとその複雑に絡み合った事実のニュアンスが伝わりませんので、 すでに雑誌に掲載しました「イギリス編」 と今度あらたに発表することになる 「アメリカ編」をご覧になっていただくことにしまして、 ここでは、 結論だけを述べさせていただきますと、 (1)ベルヌ条約法系でいうところの「著作権」とアメリカでいうところの 「コピーライト」は同じ物ではない。コピーライトは独占そのものであり、 自然権の観点から正当化される「著作者の権利」とは必然的に結びつくものではない。 (2)コピーライトがもたらす独占は、 コンテンツの流通に費用がかかる場合には社会的厚生を増大させる効果を持ち、 正当化される。しかしながら、デジタル時代、 コンピュータネットワーク時代で、 仮にコンテンツの流通に費用がかからない場合は、否定されるべきである。 (1)の点については、これまでの歴史研究の結果を踏まえて説明させていただきます。 また、(2)の点については、法の経済分析の観点から説明させていただきます。 法の経済分析と申しますと、「経済学帝国主義」 などといわれて嫌う先生方もいらっしゃいますが、ここでの議論では、 コピーライトの経済分析として経済学で提示されていたモデルが適切な物ではないこ とを、(1)の観点から指摘しまして、修正するものであります。すなわち、 経済分析の法的修正というようなもので、 経済分析を法学が道具として利用するものとご理解ください。 さて、レジュメの年表をご覧ください。
2.1 著作者が作品を「所有する」ということ「著作者の権利」は、 自然法という発想以前から当然のように認められてきたものでありまして、 著作者が自らの作品について、 まさにその創造主として当然にもつべき権利といえましょう。具体的には、公表権、 氏名表示権、剽窃を禁じる権利が挙げられます。 講学上はこれに同一性保持権を加えるのが通常なのですが、 歴史的に見れば同一性保持権は印刷術の後のものとなります。また、 ここでベルヌ条約法系では、 著作者の権利の当然の属性として作品に対する所有権を観念するのですが、 この所有権の観念についてすこし検討したいと思います。私たちがある作品、それは文学でも音楽でも絵画・彫刻でもよいのですが、 作品を作ったとします。それはなぜでしょう。 職業として創作活動を行う人も明確な経済的対価を意識しながら創作することはあま りないのではないでしょうか。なにか伝えたいメッセージがあり、 それを媒体の上に表現する。 そしてそれが広く世間の人々の関心や支持を集めることが何よりも望んでいることな のではないでしょうか。経済的対価についていえば、 作品が日々の生活を支えるだけの収益をもたらしてくれれば、 それでよいというのが通常なのではないでしょうか。 ある作品をより強固に自分の物とすること、 これが著作物の観念的所有にほかならないと考えるのでありますが、 そのためには二つの方法しかありません。それは、 誰にも知らせずに自らのもとに留めること。 そしてもう一つはできるだけ広く世に知らせて、 万人が著作者と作品との関係を承認することです。 第一の方法は社会的には作品が存在しないことを意味しますから、 その法的意味を考察する必要はないでしょう。 中途半端に作品が世に出ることは作品を剽窃される危険を増すことになります。 具体的に言えば、 私の論文を何処かの学生さんが剽窃して卒業論文にしてしまうことは簡単でしょう。 しかしながら、夏目漱石の「坊ちゃん」 をそのまま剽窃して小説を発表することは困難です。世間の多くのひとが「坊ちゃん」 の内容と夏目漱石の結合を知っているからです。すなわち、夏目漱石は強固に 「坊ちゃん」を所有しています。同様の意味で、 プラトンやシェイクスピアも考えられ、その所有は数百年を経てもなお不朽の物です。 彼らはなぜそうした不朽の観念的所有を勝ちえたのでしょう。それは、 優れた作品として多くの書籍が数百年にわたって出版されつづけたからです。そして、 それが今なお続いているからです。長い歴史をみますと、優れた作品であっても、 十分に流布しなかったために忘れ去れられた著作者もいるものと思います。 こうしてみると、できるだけ広く、 長く流布することが著作者の目的に結びつくといえます。また、経済的対価にしても、 まず広く作品が流布して名声が確立した後にようやく得ることが可能になるもので、 まず大量複製による宣伝効果を前提とするものです。
2.2 大量流通は著作者の利益となる経済学では、情報の価値、すなわち作品の交換価値は、 より限定された人々に売却されることによって高まることを前提としていますが、 これは作品の経済的価値が生成される過程をまったく無視した誤った前提です。 くだらない作品でも大量の宣伝費をかければそれなりの経済的収益を挙げることがで きます。アイドル歌手の音楽の売り方を見れば一目瞭然です。作品を求める人に、 作品を出し渋ることで高く作品を売りつけることができるのは、 すでに名声を確立した著作者に限られることはすぐに理解が行くでしょう。彼は、 それ以前に優れた作品を広く流布させたからこそ、 高く作品を売ることが可能になったのです。こうして考えてみますと作品が大量に広く出回ることは、 たとえそれが海賊版であっても著作者の目的に合致するということが言えます。実際、 印刷技術が未熟な時代には、優れた作品は海賊版が大量に出回り、 それによって広い読者を獲得してきました。そして、ある経済的前提では、 海賊版は著作者の利益とも合致しうるのです。
2.3 海賊版はなぜ禁止されるべきかそれでは、なぜ無断複製、すなわち海賊版は禁止されなければならないのでしょうか。それは、印刷術の発明と「コピーライト」の誕生に関係しています。 印刷術が誕生する前のことを考えてみましょう。書籍などの著作物は、 経済学が対象としているような「Yes」か「No」 かというような短いメッセージから成る「情報」とは違って長いメッセージです。
野口 悠紀夫 著 『情報の経済理論』 東洋経済新報社 p.26より抜粋
経済学では「情報」はゼロの追加的費用でいくらでも伝達、 拡散することができるということを前提にしています。 これは著作権法を検討の対象とする場合には誤りです。 さて、印刷術が登場しまして、原版さえきちんと作成されていれば、 たいへん少ない費用で複製を作成することができるようになりました。 また印刷が擦れたりする可能性を除けば、複製術は、 ほぼ誤りなく作品を伝達することができる手段ということができます。 先に述べたような伝達コストは、印刷術の発明で劇的に低下しました。 これは著作者にとっては大変な福音です。 より劣った作品でも大量の複製を造ることができ、より広く、 より長く読者を得ることが可能になったのです。すなわち、 印刷術は作品の伝達に必要だったコストを大幅に低減させたのです。 ただ、印刷術にはこれまでと違ったコストが生じました。それは印刷機、活字、 鉛版すなわちステロタイプ、を作成する費用です。 その初期投資にかかるコストは筆写していた時代とは比べ物にならないほど大きくな りました。この初期投資のコストは、作品を大量に複製するほど、 一つの複製物に薄く転嫁することができますから、 例えば一冊あたりの書籍の価格は安く設定することができ、 読者にも利益となりますし、 またたくさんの複製物の存在が著作者の利益に結びつくことは先に述べたとおりです。 加えて、大量の複製物が市場で売れれば、 出版社が得た利益の分け前を、著作者が要求することも可能になるでしょう。 さて、 ここで同一のある作品について複数の事業者から出版された場合を想定してみましょ う。その作品を受け入れる市場の大きさが限られていると仮定しますと、 その作品を出版する事業者の数が増加すればするほど、 初期投資が無駄な重複投資となり、 出版社は十分な収益を得ることができなくなります。 海賊版の存在によって読者は安い書籍の存在で利益を得ることができますが、 印刷業が成り立たなくなります。そうすると、出版は行われなくなり、 印刷術の発明以前に逆戻りです。こうなると社会の大きな損失となります。
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左のグラフにおける点線は、総費用を商品数で割った平均費用を意味している。書籍出版においては、原稿の準備、鉛版の作成などに多額の初期費用がかかるために、商品数が少ない局面では平均費用は非常に大きくなる。しかし、商品数が増加するにつれて、初期費用が一単位の商品の費用に占める割合が低下し、究極的にはある商品を追加的に1つ作成する費用すなわち製造原価と同じになる。したがって出版活動は、供給曲線で示される商品一単位あたりの価格が平均費用を上回った場合にのみ行われる。 |
3 コピーライト制度の正当化の歴史印刷業を社会のシステムの中で維持していく方法としては、 要は一つの生産設備からある作品がすべて生産され、 ある事業者が社会の需要を見ながら流通量を調整できるようにすればよいのです。 歴史的に見ますと、どこの国でも国王大権による独占の付与から始まり、 ギルドの営業独占を根拠とする独占へと展開しました。独占権であるとしても、 権利として売買・譲渡されて行くうちに、 出版業者たちは独占出版権を所有権の一種だと考えるようになりました。 すなわち出版所有権論です。このころ、イギリスでは、 この所有権類似の独占出版権を「コピーライト」と呼ぶようになりました。ところが、 市民革命の頃になりますと、 国王大権もギルドの独占も社会の批判を浴びるようになります。そこで、 社会的に批判を受けない強固な根拠で、 この独占を正当化しなくてはなりません。 このころ初めて自然法上の「著作者の権利」が「コピーライト」と結合されました。 すなわち、著作者が自然に保有している作品に対する所有権が存在し、 出版者は、その所有権を金銭で買い取ったのだと主張しました。しかし、この頃、 著作者に支払われたいわゆるコピーライトの対価は微々たるものだったことはしばし ば指摘されるところです。しかしながら、職業著作者としましては、 出版されないと彼の収入はゼロになってしまうわけです。だから、出版者が 「コピーライト」を維持するために「著作者から権利を買っているのだ」 と主張している限り、わずかでも収入を得らるだけ利益があったのです。当然、 有名作家になればそれなりの収益も得られるようになってきました。 このころイギリスでは世界最初の近代的成文著作権法である1709年法を制定し、 排他的独占権の源泉として著作者の権利を掲げました。また、 1760年代にはウィリアム・ブラックストーンもまたいくつかの裁判や著書を通じて、 コピーライトが著作者の自然権に根拠を持つ人的財産権であると説明しました。 そして、 ドイツやフランスでもこのイギリスの法理論に影響を受ける形でそれぞれの著作権法 を形成し始めるようになりました。そして著作権法の歴史として説明されるのは、 これに続く時代のこととなります。 すなわち、欧州各国では「著作権が自然権に根拠を持つ」 という説が台頭した頃から著作権の歴史が始まっているのです。そこでは、 「著作者は自然権に基づいて所有権を持っているのだから、 その当然の効果として作品に対する支配権、すなわち排他的独占権を持っている」 と考えられました。しかし、著作権法の最も重要な部分、すなわち、 排他的独占権は、出版者のための権利であるコピーライトそのものなのです。
4 なぜ近年「著作権法」が注目を集めているのか排他的独占権は出版業が存続するために必須の権利であることは間違いありません。 また、著作者の最大の目的である「作品を広く長く流布させる」 という機能を持っている限り、著作者の利益と出版者の利益は結合しています。 そういう観点からすれば、 海賊版は著作者の利益を侵害する結果になるということができるでしょう。 ところで、 ごく最近まで個人がある作品をそのまま複製することは大変困難だったことを思い 出してください。 その時代には個々人が行う著作物の使用にほとんど法が影響していませんでした。 すなわち私的領域では、著作物の複製は現実的に不可能だったため、 その利用法は自由にされていたのです。ただ、 著作者が別の著作者の作品を引用する場合のルールや、 出版者が他の出版者の海賊版を差し止めるといった、 生産者の部分のみに著作権法は作用していたのです。 これが近年まで著作権法があまり重視されてこなかった理由です。 ところが、カセットテープレコーダーの普及、VTRの普及、乾式コピー機の普及、 コンピュータの普及などで個人のレベルでも複製が容易に作成できるようになりました。これらの機器は、 再生を行うプレーヤーがそのまま記録を行うレコーダーでもあるところに特徴があり ます。この変化は印刷術の発明にも匹敵する変化いえます。すなわち、 万人が出版者と同じ水準で複製物を作成できることを意味しています。 万人が個人的に行う複製を禁止したり、使用料を徴収するためには、 それぞれの個人の行動を監視するか、 複製機器や複製媒体に課徴金を賦課するしかありません。 最近では後者の方法が取られています。 前者にはプライバシー上の問題があるからです。
4.1 なぜ個人が私的複製をするのかしかし、経済学の観点からは、少し様子が違ってきます。 カセットやVTRの複製にはデッキが2台必要です。それは数万円します。 それだけの投資をしてなぜ個人で複製するのでしょう?しかも、 複製媒体を購入しなければなりませんし、 アナログでの複製には品質劣化も伴うというのに。 それは、個人で複製した方が安上がりだとそれぞれの個人が考えているからです。 これは奇妙なことです。コースの定理で有名なロナルド・ コースは企業の存在を市場での取引費用の最小化で説明しました。 すなわち、 企業は社会的コストを最小化する故に存在意義があることを示したのです。もし、 それぞれの個人が複製した方が安上がりだと感じているとするならば、 商品として販売されている複製物を供給している企業には不効率があることが示され ます。企業は、個々の利用者が「自分で面倒な複製をするよりも、 正規版を購入した方が安上がりだ」 と感じる価格・品質で正規版を提供しなければならないのです。事実、 便利で高音質なコンパクトディスクが発売されていらい、 FMラジオ放送をカセットテープに録音して済ませる利用者が激減し、 レコードの売り上げは回復したと聞きます。すなわち、 出版者は個々人の複製を批判する前に、 しなければならないことがあるということです。もし、それが不可能ならば、 廃業しなければなりません。 一方、高音質のデジタル音楽放送が開始された後、 MDなどのデジタル記録媒体の普及にともない、 再びCD の売り上げは減少に移ったもと報じられています。 デジタル放送とMDによる複製の費用がCDの価格を下回ったからです。 CDを販売している事業者は企業努力によってCDの価格を下げるか、 CDの品質を向上させなければなりません。 しかし、出版者は単に複製物を提供しているだけではありません。 出版すべき作品を探索し、版面を構成し、宣伝を行い、著作権者に支払いをし、 流通を管理しています。こうしたコストを個々の私的複製者は負担していません。 そうした意味で、現代でも私的複製や海賊版は批判されてしかるべきです。
5 著作権法の理論さて、以上のような大まかな著作権およびコピーライトの歴史を踏まえて、 著作権法の理論について考えてみましょう。 著作権法の理論は大まかに分けて自然権理論と規制理論に分けられます。 規制理論はアメリカで特徴的に見られるもので、 欧州系の理論はすべて自然権理論に分類されます。 自然権理論に分類される各学説の形成とその詳細な検討は、半田正夫先生の 『著作権法の研究』に紹介されています。これによれば、 自然権理論は精神的所有権論、人格一元論、二元論、droit double論、 新精神的所有権論、著作権一元論に分類されるとしています。 精神的所有権論は、書籍業者たちの出版所有権論を裏付けるために登場しました。 欧州諸国でもこの展開は同様でした。したがって、 ドイツやフランスの学説でも精神的所有権論の根拠は自然法に求められておりまして 共通の主張は無体物たる著作物についての排他的権利を著作者固有の権利として承認 しているところにあります。 また、人格権一元論は、刑法の面から偽版を取り締まるために構成され、 保護の客体を人格であるとしています。ここでも、 著作物は人間精神の発露であるから、 著作者は創作者と創作物との間の関係に見られるごとき自然権を有すると主張されて おり、自然権を理論の根拠に据えています。そして、人格権からの演繹の結果として、 経済的利用の局面でも著作者の排他的支配が全面的に及ぶことを主張しているのです。 これに続く、二元論、droit double論、著作権一元論は、基本的には、 精神的所有権論と人格一元論を現実の著作権処理の中で調和させることに努力してお り、それぞれの理論の違いは、 人格権と財産権の交錯領域をどのように理論づけるかの違いであると理解されます。 すなわち、 自然権に由来する著作者の著作物への排他的支配が所与の前提とされている点でいず れも同一の基盤に立っているのと考えられるのです。 一方、コモン・ローの伝統を引いているアメリカのコピーライト研究者たちは、 コピーライトの基本的性質についてどのような態度を取るかによって、 大きく2つの流派に分けることができます。一つは「規制理論」をとる論者です。 これは、コピーライトの本質を、学芸振興のための必要悪である「容認されうる独占」 として把握するもので、「コピーライト悲観論者」ともいわれます。 歴史的研究を基本とする論者にこの傾向が強いといえます。彼らは、 学芸の振興という目的に必要な限りで権利は保護されれば足りると考え、 過剰な権利の保護は、後進の創作者たちに過度の制限をもたらすと考えています。 もう一つは「財産権理論」をとる論者です。これは、コピーライトの本質を、 誰のものでもない創作者個人の精神的活動から生み出された最も純粋かつ絶対的な財 産権として把握するもので、「コピーライト楽観論者」ともいわれています。 ベルヌ条約法系の著作権理論を基本とする理論家や、 実務に携わっている論者にこの傾向が強いといえます。彼らは、 コピーライトが極めて個人的かつ私的な財産である以上、 この権利を広く保護することは法的な正義であり、これによって、 結果的にコピーライト制度が目的としている学芸の振興が達成されると考えています。
5.1 自然権理論の問題点と規制理論の利点さて、私はどちらかといえば、規制理論を支持する者です。 少なくとも現在の自然権理論、財産権理論には重大な問題があると考えます。それは、 もともと別物である「著作者の権利」 を振りかざして独占にほかならないコピーライトをどこまでも拡張することを可能にす る理論だからです。もちろん、 それぞれの理論では公共の利益や常識から乖離しないように「権利の内在的制約」 などを説きます。しかし、財産権理論では、 作品の起源である著作者に排他的所有権があると想定しているので、 この原則から演繹すれば、 著作物のすべての利用形態について自動的に排他的独占権が付与されることになってし まいます。 いわゆる権利者たちが財産権理論を支持するのはこうした理由があるのです。最近の事例としては、ゲームソフトの中古販売を禁止したり、 ソフトの価格を拘束するために販売店に出荷停止などの制裁を行っていたソニーが、 自らの不当取引行為を正当化するために著作権の「頒布権」を持ち出してきたことや、 ( 小倉秀夫さんが書かれた、この問題に関する優れた論考があります。) 再販制度の撤廃に抵抗している出版業界が、 著作権の保護を再販制度擁護の理由として掲げていることが挙げられます。また、 最近では、オリンピックの商業化に伴い、「五輪」「聖火」 という言葉さえ知的財産権であり、 スポンサーでなければ使用してはならないと主張されているようです。 それぞれの事例の検討は割愛するとして、このように無体財産の事実上の独占行為に 「自然権的」正当化の装いを与えてしまうのです。 一方、著作権を独占権にほかならないものと把握する規制理論では、 すでに独占権が与えられているもの以外については自由利用を基本とし、仮に、 新しい形態の媒体や利用法に独占権が必要であるならば、 それはどのような制度にすべきかを検討することを可能にします。この点、 著作権がもたらす排他的独占権を所与の前提として、 検討の対象にさえしない自然権理論とは大きく異なります。ただし、 規制理論に基づいて検討した場合、独占の規模や形態は、 必要最小限のものとされる可能性が高いので、権利者たちの利益は、 財産権理論を採用した場合よりも潜在的に小さなものとなるでしょう。 一方利用者の利益は増大します。 さて、著作権法の目的は、 著作者の利益をどこまでも正当化することではなく、また、 著作者が社会に貪られるままにすることでもありません。 法のあらゆる原則と同じく、 調和と均衡が問題とされるのです。 私は、「言論の自由の原理」とも調和する考え方として、 あらゆる人が自らの考え方を自由かつ容易に社会に伝達することができ、 そうした考え方が競争し、 淘汰される中でよりよい社会状態が実現されることが望ましいと考えます。また、 そうした中で著述や作曲や芸術で生活する専門家が存在することもまた望ましいと考 えます。言いかえれば、社会的厚生を最大化することが重要なのです。 問題が哲学的なものではなく、著作物の生産と消費、 そしてそこから生じる社会的利益の配分の問題となりました。このように 「著作権の分析」を可能にするのも規制理論の利点です。さて、 社会的厚生と配分を検討する学問としては経済学があります。そして、 経済学では古くから知的財産権の問題について検討してきたのです。 この著作権の経済分析については、私が次の論文で取り上げる予定の内容ですので、 詳細は割愛するとして、その基本的アイデアだけを示します。
6 法学の視点からの経済学への批判経済学の手法への批判として、モデルの抽象化が恣意的だということが挙げられます。 複雑な社会事象を検討する際に、ある程度抽象化することが必要ですが、 経済学の論文を読んでおりますと、モデルへの適合を目的とするため、 あまりに多くの非現実的な仮定が導入されます。また、検討の前提が誤っていれば、 いかに複雑な数式を用いたとしても、導かれる結果は誤ることになるでしょう。 これまで私が検討した著作権の経済分析を行っている論文については、それらの批判が 実によく当てはまります。 そもそも、経済分析の論文では、 特許と著作権をまったく同一の物として扱っています。 なぜ特許と著作権が別々の法として存在しているのかを経済学者は検討しないからで す。 また、著作権法が保護しているものを「情報」であると誤解しています。 情報の経済学で取り扱う情報は、 ゼロの追加費用でいくらでも誤りなく伝達できるものと仮定されています。すなわち、 「ナポレオンが敗北した」程度の情報です。これでさえ、 口伝えしか方法がない場合には100人を経由した後では「ナポレオンは勝利した」 になりかねないのは前述したとおりです。著作権が保護しているのは、 とても口で伝えることが困難な長いメッセージです。 その正確な伝達には大変なコストがかかります。 また、経済学では、 著作物の複製物の販売から得られた経済的利益がそのまま著作者に還元され、 次の創作を促すものと仮定されています。著作権の議論でもインセンティヴ理論、 誘因理論と呼ばれている考え方です。どんな人でもそれなりに投資すれば、 優れた作品を生み出すものとされているこの仮定は、 著作物の人格との結合や固有性を無視した考え方です。 投資と生み出された作品の価値については、 なんらの関数的関係もありえないというのが私の考え方です。また、 市場から回収された経済的利益の大きさが著作者本人の利益と結びついているという 考え方も架空のものです。 また、著作者と利用者がまったく違った主体として説明されているのも誤りです。 著作者は著作物の利用者のうち、創作を行った人のことを指し、 利用者のなかの部分集合です。すなわち、 著作者の利益は利用者の利益と結びついているのです。 また、著作者として想定されている主体は、 著作者本人と出版者などの媒体企業として分割しなければなりません。 自然人としての著作者や利用者と、企業は同一の主体となり得ません。というのは、 著作物の流通で、著作者の存在と利用者の存在は不可欠の要素ですが、 一定の条件では、媒介としての企業の存在は必要ないからです。これなどは、 媒体企業が著作者の代理人として、 あたかも著作者本人であるかのように振舞ってきた歴史が反映しているといえます。 また、媒体企業と消費者の間では、 実際には著作権の使用料が支払われているわけではないことにも注意しなければなり ません。 利用者は「商品」として文庫本や映画やLPやCDを購入します。そのなかの幾ばくかは、 著作権者への支払に当てられているでしょうが、その支払いは、 あたかも商品の原材料の購入のように、卸で購入され、 商品のうちに占める割合は機械的に均質化されて適用されているのです。利用者は、 費用を掛けてパッケージ化された商品に対価を支払っているのであり、 その価格はパッケージの作成にかかった費用が反映されているわけです。 一方、人気作家は莫大な著作権料を得ることもできます。 その著作権料の決定では、 それぞれの作品毎に検討されているのではありません。 その作品以前の作品から得られた収益、すなわち「実績」に基づくものです。また、 その額は、著作者本人と媒体企業との間の契約に任されており、 著作者の媒体企業に対する交渉力に影響されます。 交渉力の弱い著作者を媒体企業の搾取から救済するような種類の強行法規、例えば、 原稿の買い上げ契約を禁止する法規とか、 売り上げを著作者本人に報告することを義務づけ、 印税率の下限を設定するような法規ですが、そうしたものは著作権法に存在しません。 もちろん、私はそうした法規が望ましいと言っているのではなく、 媒体企業の市場から挙げる収益と、 著作者本人に還元される利益の間になんらかの関連性があるという神話を否定したいわ けです。 このような視点から、複製・流通の過程をみますと、 著作者から媒体産業に至る過程では、「著作者の権利」が重要であり、 媒体産業から利用者に至る過程では、「コピーライト」 が重要となることがわかります。経済分析では考慮されていませんが、 著作物には二つのまったく性質の異なる市場が存在するのです。 言い換えますと、ベルヌ条約法系の著作権法理論は、 著作者と媒体企業の間の関係で適合的であり、 ある作品を生み出した至高の創造主である著作者本人を保護するように理論を発達さ せる必要があるでしょう。いくら権利処理が複雑になるからといって、 職務中の創作物の権利がそのまま雇用主のものとなるように規定する職務著作の規定 や、映画の著作物で権利主体が映画会社とされるような規定は、不適切といえます。 現在、 コンピュータネットワークでやり取りされる複雑な著作物の権利処理を行うシステム が構想されていますが、そのようなことが可能ならば、 そのシステムを職務著作や映画の著作物の煩雑な権利処理のために応用することもまた可能でしょう。 また、 先人の作品を利用し応用することもまた著作者の権利であると考える必要もあります。 作品の著者の名声や感情を実質的に毀損することもない改変について同一性保持権を 振りかざすのは適切ではないでしょう。どれだけ多くのパロディが作られたとしても、 そのオリジナルがいかなるものであるのかわかっている限り、 著作者本人の人格を侵害することにならないはずです。もし、 自分の作品のパロディを作られて憤慨する人は、直接名誉毀損で訴えるべきでしょう。 一方、媒体企業を維持するための独占であるコピーライトについては、 媒体企業と利用者の間に適合的でしょう。媒体企業は、 著作物を大量に複製して社会に伝達することで、 それが存在しなかった場合の社会的コストを低減し、 社会から消費者の利益の対価を回収し、著作者に与える機能があります。しかし、 それ以上のものではありません。著作者の権利を盾に、 過剰に利益を貪るような行為は慎むべきです。 逆に、 採算を割るような著作物については私企業である媒体企業にはなんらの出版義務はあ りません。幸い、21世紀を目の前にした現在には、 採算割れになるような小さな市場しか想定できない著作物を広く伝達するための媒体 が存在します。すなわち、 インターネットに代表されるコンピュータネットワークです。 しかし、このインターネットの利用にも費用がかかっていることを考えますと、 媒体企業には、存立の可能性が常に残されています。 ネットワークで大きなデータを転送するためにはかなりのコストが必要です。 とくにたくさんの人が一度にアクセスする場合には、 回線が込み合い時間コストがかかります。 毎週数百万部の売り上げを誇る「少年ジャンプ」のコンテンツを ネットワークで販売したらどのような事態が生じるか、すぐに想像がつくでしょう。 そうした場合には、 そのデータを焼き込んだCD-ROMを書店などで購入した方が安上がりのことも多いのです。実際に書店では、 多数のフリーソフトウェアをCD-ROMに焼き込んだものが販売されています。 一つ一つのソフトウェアは無料であるのですが、それを検索したり体系だてたり、 転送してくる費用を考えると安いからです。 買った方が安い物を消費者はけっして違法複製したりしません。 21世紀型のコピーライトを考えるとき、著作物の流通にはどのような障害が存在し、 この障害を克服するためにはどのようなサービスが必要であるかを考え、 そのようなサービス産業が存立しうるよう権利を設定しなければなりません。 いったん適切な権利が設定されれば、 あとは市場が社会の厚生を最大化するように自動調節してくれるでしょう。
7 21世紀型コピーライトの方向例えば、次のようなサービスが考えられます。 正確に広く伝達するために費用がかかった現実世界における著作物とは逆に、 コンピュータネットワークにおける著作物は、流通を制限するのに費用がかかります。 また、一つ一つの著作物が広汎に伝達・流通されるから、 目的とする著作物に至るまでの検索に費用がかかります。また、 痕跡を残さず改変できるので、 氏名表示権や同一性保持権を保護するのに費用がかかります。また、 実際の問題としてネットワークそれ自体の運営に費用がかかっています。 ネットワークには良質悪質いずれも玉石混交な情報が無秩序に存在しています。 すなわち、情報があまりに大量に存在することから、情報の探索、 選択のコストが増大しつつあるのです。 そこで「検索エンジン」というようなサービスがすでに存在していますが、 膨張を続ける情報を背景にすでに機能不全に陥っているという指摘もあります。また、 子供に不適切な内容を遮断するためのサービスが重要視されています。 すなわち、必要な情報に必要なときにアクセスし、 不要な情報を排除してくれるサービスが求められているのです。 実はこうした情報の選別と秩序付けの機能は伝統的に出版者が果たしてきたものです。 とすると、ネットワークで有望な事業として、 子供に不適切な内容だけではなく、多くの人が読むべき価値のある内容を探し出し、 格付けし、リスト化、データベース化し、また、内容の真正性 (すなわち著作者による内容の保証があるもの) を保証するというサービスがありえます。こうしたサービスの一環として、 先の不適切な内容を遮断するサービスも可能でしょう。 こうしたサービスは実際にWest Law やLEXIS で実現しています。 テキストそれ自体は無料である判例について、 精緻なインデックスやデータベースの使用料として高額な対価を徴収しています。 いまのところ、 判例それ自体が無料で配布されていることを理由として同社が経営危機に陥っている というような話は聞きません。 こうしたサービスがネットワーク時代の新しい情報媒介(媒体ではない)産業であり、 こうした産業が存立できるような形態での新しい権利構成を考えることが、 積極的な意味での21世紀型コピーライト制度の基本であると考えるわけです。 すなわち、歴史的偶然に過ぎなかった「著作者の権利」と「コピーライト」 の結合を分離して、 新しい経済状況に適合的な権利を設計することがなにより必要なのです。 そのためには、コピーライトは「著作者が保有する自然権」 の装いを捨てなければなりません。
Referenceこの発表の後、文献データベースとそれに付属したノートをみていたら、 Lyman Ray Patterson and Stanley W. Lindberg, The Nature of Copyright: A Law of User's Rights, University of Geogia Press 1991. の要旨とほとんど同じことを喋っていたことが発覚(^^;)。英語の読める人は、私より権威のあるパターソン教授の著書を読んでみてください。注文先は、親切かつ確実なAMAZON.COMがお勧め。ちなみにパターソン教授は、 Lyman Ray Patterson, Copyright in Historical Perspective, Vanderbilt University Press 1968. Lyman Ray Patterson, Monopolizing The Law: The Scope of Copyright Protection for Law Reports and Statutory Compilations, UCLA Law Review, 1989. Lyman Ray Patterson, Private Copyright and Public Communication: Free Speech Endangered, Vanderbilt Law Review, 1975. 等書いています。サイバー関係のコピーライトでは著名な パメラ・サミュエルソン教授 も素敵ですけど、がっちりした歴史研究を基礎に、利用者を含めた人々の利益について考えるコピーライト論を展開するパターソン教授にシンパシーを感じてます。 Pamela Samuelson, The Future of the Information Society and the Role of Copyright in it, (邦訳: 情報化社会の未来と著作権の役割, 1998) も、超クール!
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白田 秀彰 (Shirata Hideaki) 法政大学 社会学部 助教授 (Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences) 法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450) e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp |