この論文はもともと修士論文として提出したものです。ようやく、内容を加筆・訂正・整理したものを「一橋研究」に連載するようになったので、こちらを掲載してあります。
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(1)---近世イギリスの出版特権---「一橋研究」19巻4号 1995年1月
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(2)---営業独占内部のコピーライト---「一橋研究」20巻1号 1995年4月
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(3)---17世紀イギリスにおける検閲制度とコピーライト---「一橋研究」20巻3号 1995年10月
本稿では、1620年代に成立していたコピーライト制度が、イギリスにおける宗教上の対立という背景のもとに検閲のための道具として政府の仕組みのなかに取り込まれていく様子を示す。すなわち、公の制度としてのみコピーライト制度を把握するならば、なるほど検閲と一体のものとして始められたように見えるかもしれないが、実際にはすでに業界慣習として存在していた「書籍業者のコピーライト」が検閲制度に取り込まれることによって、国家の制度として公認されたという過程を辿っていたのである。 | |
(4)---検閲制度からのコピーライトの分離----「一橋研究」20巻4号 1996年1月
すでに見たように、検閲制度とコピーライト制度の結合は、権限の拡大を求める書籍業カンパニーと、書籍業カンパニーを違法出版の取締機関にしようとする政府側のもくろみの一致から始まった。そして国王権力の衰退と反比例して、検閲制度は書籍業カンパニーの諸権力の後楯として重要度を増したのである。そして1680年前後には、検閲制度とコピーライトの結び付きは当然のものと認識されるようになっていた。 ところが、書籍市場の構造変化、および言論統制に関する為政者側の認識の変化によって、実効がなく害の多い検閲制度への批判が高まるようになる。こうした批判にさらされたとき、書籍業に携わる人々は、自分達が必要とするものが検閲に関する法律ではなく、自らの商売の基礎になっている権益に関する法律であったことをようやく思い出したのである。 | |
(5)---成文法の制定とその影響---「一橋研究」21巻1号 1996年4月
1704年のディフォーの小冊子が示したように、文筆家だけでなく、政府内部でもコピーライトを「著作者の権利」として把握するようになっていたから、この時期に著作者たちが団結して行動していたならば、あるいは後世のコピーライトの発展を全く異なったものにしていたかもしれなかった。しかし、コピーライトの母体だった書籍業カンパニーの影響力が、制定法上のコピーライトの性格を決定することになったのである。 | |
(6)---書籍業者の戦争(前編)---「一橋研究」21巻2号 1996年7月
1710年頃のアイルランド(ダブリン)およびスコットランド(エディンバラ、グラスゴー)の出版業界は、ロンドンの出版業界よりもはるかに未発達だった。刊行点数は少なく、わずかな出版物にしても地方的な内容を取り扱ったものだった。ところが、1730年代には状況が変化していた。スコットランドとアイルランドのいずれもが、文化的・経済的に革新の時期を迎え、この地域の出版物は大幅に増加していたのである。これらの出版物を販売するための市場が必要だった。そこで、これらの地域の出版業界は、ロンドンからの書籍の供給が順調とはいえなかったイングランド北部へと進出した。このようにして、スコットランドおよびアイルランドの出版業者たちは、ロンドンの書籍業者たちがコピーライトを保有していた売行が良いいくつかの書籍を海賊版にして、イングランドに輸出するようになった。 | |
(完)---書籍業者の戦争(後編) および 自然権論批判--- 「一橋研究」21巻3号 1996年10月
そこで本節では、ロックの財産権論から現在の著作権制度で保障されている排他的独占権が導かれうるのかを検討する。そこで明らかになるのは、創作物の公表以前の実質的占有状態を維持することが永久の排他的独占権の前提であり、創作物を公表して経済的に利用しようとした瞬間から、それは実定法の示すところに従うというものである。このことから、排他的独占権を実定法上の権利だとする説、またはそれが自然法上の権利だとする説のいずれをとっても、ロックの自然権理論を援用する限りでは、排他的独占権の内容および存続期間は実定法に従うことが明らかになるのである。 | |
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白田 秀彰 (Shirata Hideaki) 法政大学 社会学部 助教授 (Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences) 法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450) e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp |