De Legibus et consuetudinibus Interreticuli

名誉と自力救済、そして法

白田 秀彰とロージナ茶会

前回、(a) ネットワークにおいて自力救済が必要とされるような領域が存在していること、(b) それは究極的な権力がネットワークにおいて存在していないことから生じること、(c) そうした究極的な権力が存在しない社会における紛争解決の例、について書いた。今、見直してもまとまってないですなぁ。

今回は、(A) 究極的な権力が存在しない社会での紛争解決で必要な「誠実さ」を生み出す「名誉、信用、評判」について触れた後、(B) 名誉等を重視した上での自力救済が法をもたらす基礎となるということ、要するにルールに則った喧嘩が法を生み出す基礎になるのだ、という話で進めたい。進められるかな...? 今回もまとまり悪そうです。

名誉について語るためには、もうひとつ前の段階の話をすべきことに気が付いた。その前の段階の話というのは、ある時代や社会的位置において主流である生活手段・生存条件と法の発展との関係。

一般に、ある時代ある人が、どのような法を最重要視して発展させるかというと、その時代その人の生活手段・生存条件となってるものを制御する法であるといえる。(a) 農業に依存する社会は、土地所有制度を発達させ、(b) 家産(相続財産)を背景とした軍事力と権威に依存する貴族たちは、複雑な結婚と相続の制度そして名誉に関した法を発達させ、(c) 商取引に依存する商人たちは、貨幣制度と複雑な(取引上の)信用制度に関する法を発達させた。では、現代ではどうかというと、とくに資産家でもない給与生活者(サラリーマン)であれば、何よりも雇用が重要であり、雇用を基礎とした(金融上の)信用がそれに続くことになるだろう[*1]。

自分の生活がかかってるならば、紛争解決に本気になることは当然。下手をすれば殺しあいすら起こりかねないのだから。そうだからこそ、きっちりとした紛争解決のルールが発達したわけだ。私法(民事法)は、私闘の代替物として成長したという前回の話を思い起こしてほしい。

現在のネットワークでは、アーキテクチャ以外の法や制度の助けなく所有できるものは「名」しかない[*2]。ネットワーク内では「名」を軸として信用が築かれる。他の財産的なもの、たとえば、コンピュータやネットワークの運用技術は現実世界のあなた自身の技能であるし、知的財産と呼ばれるものも現実世界の法を根拠に存在する。したがって、それらの財産は、ネットワーク上で形成されたとしても、現実世界に持ち逃げできるわけ。だから、ネットワークにおける秩序維持について考える場合には、紛争において「賭ける」ものにはならない。逆に、ネットワーク上での「名」を軸として形成された名誉、信用、評判は、現実世界に移行させることは容易ではない。

責任・誠実さは、ある状態から容易に離脱できない拘束性から生じる。

現在のネットワークは、現代社会の大多数を占めるだろう給与生活者の生活手段とは無関係あるいは補助的なものだから、現実の自分とは結びつかないハンドル(変名)や匿名を用いて、ネットワークで活動している人たちが多い。こういう人たちのことを遊戯的参加者と呼ぶことにしよう。

仮にある特定のハンドルが、ネットワークにおけるある社会的な関係の軸として使われたとしても、まったく別のハンドルで、別の社会的関係をつくりだすこともできる。遊戯的参加者にとっては、あるハンドルを軸として構築された社会的関係が生活手段と結合していないから、なにか他者との間にトラブルが生じたとき、そのハンドルを捨てることに躊躇はないはず。(1) 自分の現実世界での生活との無関係さと (2) ネットワークにおける社会的関係を使い捨てできる気楽さ がネットワークにおける交流の利点として挙げられる。だからこそ、現実世界での発言がもたらす生活手段への影響や、現実世界の社会的関係のしがらみから逃げられる場として、ネットワークがもてはやされたのだろう。

もとより、遊戯的関与であるから、ネットワーク上での自分の活動に対して、自らの使用するハンドルへの良い評判や実績といった、何らかの人間関係上の蓄積を必要としないかもしれない[*3]。また仮に、何らかの社会的蓄積が生じても、それが現実世界での生活手段に影響しなければ、闘争あるいは法によって守る価値のある利益として認識されないだろう。

その一方で、仕事に関連してネットワークへの依存度が高い人たちも増えつつある。こういう人たちのことを実務的参加者と呼ぶことにしよう。仕事に関しては、ネットワークと現実世界のいずれにおいても責任が重くなるので、その場合、現実の自分とネットワークでのハンドルとの関連を示す必要がでてくる。この現実世界の本人とハンドルとの間の関連のことをここでは、「同一性」と呼ぶことにする。

たとえばネットワーク上のみで営業する商店が、顧客からの信用を獲得するためには、現実世界での連絡先や代表者の氏名を掲げることが要求されるだろう。彼らのネットワークでのハンドルには、それまでの取引関係から生じる信用が蓄積していく。それゆえ、遊戯的参加者のように、ハンドルを「使い捨て」にするわけにはいかない。また、ネットワークである特定のキャラクター(≒人格)を保有し、かつそのキャラクターが他の利用者たちに強い影響力をもつようになった場合も、そのキャラクターやハンドルに権威や名誉が発生することがある。

こうした実務的参加者は、自らの生活手段の一要素となっているネットワークでのハンドル、およびそれに付随した名誉、信用、評判を守ろうと努力するだろう。付け加えれば、法なき世界での正当性の維持は、多数の人々の支持に依存する。前回触れた人民集会裁判などは、その典型例だ。ゆえに名誉、信用、評判は、安全の要であり、これを毀損されることは、致命的問題でもある。

ここで、前回の話に戻して、絶対的な上位権力の介入を排除しつつ、ネットワークの秩序維持する条件について考えてみる。実務的参加者については、紛争解決において その「名」を賭けることで、発言に関する誠実さを担保することができそうだ。紛争をまわりで見ている人たち、前回の例えを用いれば「判決人」たちに嘘や不誠実さを印象付けてしまえば、それまでハンドルを軸として蓄積してきた名誉、信用、評判を大きく損なうことになるからだ。一方、遊戯的参加者の場合は、法を発展させるだけの誠実さを期待することは難しいだろう。もとより、固定的な人格を表明しないか、あるいは容易に捨て去ることのできるハンドルしか固有のものを持たないからだ。

ネットワークにおいて法を発生させ、発展させるためには、主要な(全体における多数である必要はない)参加者が「名」を所有する必要がある。「名を所有する」という言い方はヘンだと思われるかもしれないけど、相続財産を生存条件とする貴族や、信用を生存条件とする商人の秩序においては、他のあらゆる財産に優先して「名」が重視された。 固定ハンドルに蓄積された名誉、信用、評判が財産であるとすれば、ここを基点に誠実さを形成し、前回の例でいう人民集会裁判のような紛争解決法が可能になるかもしれない[*4]。

ネットワークにおいて、自律的な秩序を形成するためには、使い捨てのハンドルと匿名が大きな勢力をもっている状況を変更し、実名あるいは固定的なハンドルを用いる人々が主たる勢力となる状況が必要だ。しかし、実際には逆方向、すなわち匿名が有利となる状況ばかりが目立つ。

ネットワークにおいて、固定ハンドルを用いている発言者の発言や、実名で発言している人の発言が、匿名の発言者よりも信頼され、重視され、影響力をもっているというような状況はないようだ。むしろ、発言の真偽は文脈や複数の情報源からの内容をつきあわせることで判断されている。現実世界に見られるように、誰が発言するかによって信憑性や影響力に差がつくような状況は明確ではない。これは、それまでの言論媒体と異なって、複数の情報源を比較することが容易な環境であることが影響しているかもしれない。したがって、固定ハンドルを採用することへの社会的あるいは規範的な動機は弱いということができる。

架空のキャラクターの人格を軸として発言するサイトに、多数の閲覧者が集中するといったことは起きるようだ。しかし、ここに集まる人々、またその人々への影響力を一種の財産として把握する感覚があるかというと はっきりしない。むしろ、そうした立場から経済的利益を得る立場に移行する場合、サイトの運営者はネットワークから現実世界に移行してしまう。ネットワークにおける人気は、ネットワーク上で直接的に経済的利益に変換できないからだ。たとえば、サイトの閲覧にともなう課金システムを導入することが非常に難しいことは、すでに証明されている。だから、固定ハンドルを採用することへの経済的な動機も弱いということができる。

また前回述べたように、ネットワーク上での紛争において、当事者双方が傷を負うことを避けられないとすれば、遊戯的参加者が、実務的参加者に対して圧倒的優位に立つことになる。かたや守るべきものがないのに対して、かたやネット上での全信用を賭けてハンドルを守らなければならないからだ。例えは悪いと思うけど、映画『七人の侍』に出てくる盗賊たちと、村を守らなければならない村人たちのような関係にある。だから、固定ハンドルを採用することは、紛争において不利な立場を選択することになる。

こうして、ネットワークでは、固定ハンドルを採用する動機が弱い。このため、紛争解決のルールが形成される前提条件が形成できないということになる。

これを覆す方法としては、いくつか考えられる。「市場」と「アーキテクチャ」を組み合わせて、あらかじめ登録した個人情報と結び付けられたハンドルでしか利用できない魅力的なサービスを設定するとか (たとえばマイクロソフトの Passport システム)、現実世界の「法」と「アーキテクチャ」を組み合わせて、実名発言の強制あるいは国民IDと特定のハンドルを結合するようなデータベース・システムを作るとか (実際に韓国ではそうしたシステムを導入する計画らしい)。「規範」と「アーキテクチャ」を組みあわせれば、システムの機能として匿名発言を排除するような言論システムを作ることもできるだろう (かなり基本理念は違うと思うけど、Slashdotがこれに類似したやり方かもしれない)。

これらのやり方は、たしかに匿名性から発生する問題の大部分を解決するかもしれないけど、匿名発言が根本的にもっていた個人的価値や社会的価値 (詳しくは前々回を参照のこと) をかなりの程度失わせてしまう。それらの価値と現在のネットワークが享受している自由を維持しつつ、秩序≒法を成長させるためには、最小限の規範として、ほとんどの場面で固定ハンドルを使うという「文化」をネットワークにおいて定着させるしかない。匿名は、「伝家の宝刀」として大事に使ってほしいわけ。固定ハンドルと現実世界での身元との同一性は必要ではない。ただ、ネットワークでの活動において固定した「名」を持ち、その「名」においてネットワーク社会での一種の地位が獲得されるような慣習があれば、紛争解決のルールが形成され、法へと発展する足がかりが築ける。

こういうことを書くと名無しさんたちに批判されるだろうけど、名無しさんによる発言は、発言に対する無責任性と、発言が現実世界での人格に関係しないようにすることで、未然に紛争を回避しようとする臆病な心情から出ているんだろうと思う。Slashdot では、「匿名の臆病者 (Anonymous Coward)」とはっきりとその心情を示しているし。私だって、トラブルになりそうな場や、物議をかもしそうな内容について書き込むときには匿名を選択したくてしょうがなくなる (で、なんにも発言しなかったりする)。

でも、名無しさん匿名は、現実社会での法の機能を阻害することに加えて、ネットワークにおける紛争解決ルールの成長を阻害してしまう。名無しさん匿名の発言については、その正当性について厳しい目が向けられるような慣行が形成できれば、匿名発言から生じる害悪のかなりの部分が問題とならなくなるのではないだろうか。逆に、実名あるいは固定ハンドルで活動を続けている利用者たちは、紛争時に圧倒的に不利な状況にあるにもかかわらず、それらの「名」を掲げているという点で、貴族的な勇気あるいは市民的な責任を持っていると言っていいかもしれない。

ネットワークで法を生み出そうとするならば、責任を引き受ける覚悟のある独立した個人が、主体にならなければならない。というか、西洋法の歴史では、つねに法発展は、責任を負う独立した人々によってなされてきた。ネットワークが完全匿名の遊戯的世界でよいと考えるなら、現実世界の権力の介入を招き、そこからさらに逃避していくためには、実力行使としてのクラッキング技術が必要になるだろう。その結果、更なる混沌と強力な介入を招き、圧倒的多数の利用者がID管理システムの下に置かれる一方、技術エリートたちのみが自由な実力主義世界になってしまう。これは、最悪とは言わないにしろ、明るいシナリオじゃない。

ネットワークに法をもたらすには、他人の力に依存しない自力救済の精神と、それを支える手続き的正義の実現、その手続き的正義を支える名誉感情、権利意識といった、えらく前時代的な精神態度が要求される。この点については、法学部一年生でほとんどの学生が読むだろう(今の学生は読まないかな)、R. v. イェーリングの『権利のための闘争』を読んでもらいたいな、と思う。

世界中のすべての権利=法[*5]は闘い取られたものである。重要な法命題はすべて、まずこれに逆らう者から闘い取られねばならなかった。また、あらゆる権利=法は、一国民それも個人のそれも、いつでもそれを貫く用意があるということを前提としている。 ..... 闘争は権利=法の永遠の仕事である。労働がなければ財産がないように、闘争がなければ権利=法はない。

イェーリング 『権利のための闘争』村上 淳一 訳, 岩波文庫 pp. 29, 139.

抜粋部分は、同著の冒頭と末尾からのものなんだけど、ここだけ読むと、なんだか凄い内容の本みたいに思えるだろう。でも、この本は古典的名著なんだから、全体を読み通してもらえれば、「闘争」という言葉の意味を理解して、もうすこし穏やかに納得してもらえると思う。法学って、本来は 小ズル賢い理屈の学問ではなく、もう少し堂々とした男らしい(というと一部の人は怒るんだろうなぁ)学問なんだ。

で、ここでアメリカの話。アメリカ人たちの法文化は、中世的なものだとの指摘がある。

アメリカの民主主義や個人主義は多分に中世ヨーロッパの伝統を引き継いでいる。彼らは、絶対主義を知らない民であり、その限りで市民の自由と自力救済のシステムを中世的世界から直線的に発展させ、可能な限り公権力に頼らず、むしろそれを制御する制度と精神を築き上げてきた。 .... 私(山内教授)もまた、アメリカにおける「市民の武装権」も「個人の権利」も、ヨーロッパ中世における自力救済の思想に根ざしている、と考える。それどころか、自力救済と自己責任の精神と態度は、イングランドからアメリカに引き継がれ、ある面でさらに強化されたように思われる。

山内 進 『決闘裁判』 講談社現代新書, pp. 229--230.

ハッカー・カルチャー、クリプト・アナーキズム、サイファー・パンクといった技術エリート主義的活動において、彼らは自分たちなりの「大義」を打ち出して活動しているし、彼らは自らのハンドルに対して誇りを持っているようにみえる。ネットワーク上の市民的権利について活動する各種団体、FSF、EFF、EPIC、CPSR、CC等もまた、現実世界の権力のネットワークへの介入に対抗しうるだけの独自の秩序、規範の形成を目指す自力救済的活動を目的とする組織だ。そして、前回冒頭に掲げた、P2P攻撃法案もまた、そうした自助の精神を背景に出てきたものだ。彼らには彼らなりの正義があるのだ。そうした、相対する正義を掲げてルールに基づいた闘争をする中で、法を形成していくことがアメリカ人たちの法文化だといえる。

他人ではなく自らの力と正義に恃み、責任を背景に決闘を行う西部劇的精神は、よかれあしかれ、ネットワーク時代の法発展を駆動している。お上に恃み、集団に溶け込むことを善しとする日本の法文化があることは事実。しかし、「名無しさん」の海にまどろむことの危険についてすこしだけ考えてほしい。現実世界の人格を賭ける必要はない。ネットワークにおける「名」を賭けて活動する武士道・騎士道的精神をもってほしい、とお願いするのは、やっぱり時代錯誤なんだろうか。

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[1] 私たちは、現金であるとか所有物とかを財産として考えることに慣れている。しかし実際には、雇用であるとか信用であるとか、富の生産手段のほうが重視されるべきであるし、実は重視されている。現在、情報が大事だと声高に言われるけど、名誉、信用、評判といった人にかかわる情報は、昔から主な財産のひとつだった。

武力と土地所有から商業資本へと富の源泉が移行するときに見られた、富についての観念の移行に類似したことが、今後のネットワーク上の財産に関する観念にも起きるのではないだろうか。現在の市場経済・貨幣経済システムに依存している私たちからすれば、なぜ名誉や評判が富であるのかをすぐには納得できないかもしれないけど、将来的には、重要な財産のひとつとして認識されるようになるだろう。現時点においても既にネット上の名誉毀損訴訟等を通じて、その動きは現れはじめている。

[2] ネットワークで真の意味で固有のものは、メールアドレスのようなIDでしかないわけだけど、私たちが交流する日常的空間においては、なんらかの「名」である個人が代表されることで用が足りている。現実世界でも、同姓同名の人というのはたくさん存在するけど、同姓同名が問題になる場面は あまりないはずだ。

[3] ある文脈のみに依存するID すなわち捨てハンと現実世界の人格の分離可能性は、段階的自由を意味するものかもしれない。

ネットワーク上において何かを積極的に行うときに、IDとしてのハンドルが必要になる。匿名掲示板であっても、ある発言に対してマジレスするときには、特定の発言番号がそのスレッドのハンドル代わりとして用いられることがあることが、その例。

[4] 日本の紛争解決でよく見られるように、顔役を立てた仲裁、和解という解決法がありうる。しかし、仲裁、和解による解決には、(1) ある解決案が出されるまでのプロセスが不明瞭で、後の類似の事件に適用可能な前例とならない。すなわち、事例(判例)が積みあがらないので法が形成できない。(2) 紛争全体が上位権力の判断に任されるため、紛争の中心的な論点が明確化されないまま放置されうる。すなわち、ネットワーク上で「何が対立を生み出す重要な問題なのであるか」が浮き上がってこない。さらに、(3) 事件の個別性・個人性に重点がおかれ、後の事件に適用しうるような一般性に欠ける。残念ながら、近代的な意味での「法」を生み出す基礎にはなりにくい。

[5] 「権利=法」と書いてあるのは、ドイツ語の Recht には、「権利」という意味と「法」という意味の両方があるから。

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告知

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投稿、ぽちぽちいただいてます。送ってくださった皆さん、ありがとうございます。とくに18歳の君、君です。心意気にうたれます。茶会にきませんか、って北海道からじゃ無理ですね。

でも、やっぱり連載を継続するのに十分なネタは集まりません。もうだめかも。『法と慣習』の「慣習」部分を基礎にするのはあきらめて、手持ちのネタを出せるだけ出してしまうしかないです。いやあ、援軍なき持久戦みたいな気分。

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Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 准教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
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