De Legibus et consuetudinibus Interreticuli

匿名発言について

白田 秀彰とロージナ茶会

Winnyというソフトウェアをご存知だろうか。NapsterやGnutellaに代表されるP2P型ファイル共有ソフトウェアの一つだ。Winnyは、ファイルリストを提供する中央サーバを持たないGnutellaの流れを受け継いでいる。ユーザーそれぞれが起動しているWinnyは、ファイル交換を行うクライアントであると同時に、ファイルリストを提供するサーバとしても動作するため、どこかのサーバを止めることでは、他のユーザー間のファイル交換を停止することはできない。また、Winnyの特徴的な点として、暗号化が挙げられる。Winnyでは、ネットワーク内で共有されるファイル自体が全て暗号化される。転送もまた暗号化した状態で行われる。加えてファイルの転送の際に、Winnyを起動している別の誰かのPCをキャッシュサーバとして利用することで、あるファイルを誰がアップロードしたのかを追跡困難にする仕組みを取り入れている。

最近、類似した方法でファイル交換を行うMorpheusというソフトウェアについて、カリフォルニア州中央区連邦地方裁判所は、そのソフトウェアが違法なファイルを交換すること目的として専用に作られているのでない限り、ソフトウェアの存在自体には違法性がないとの判断を示した。これは、ベータマックス事件判決を根拠としたもので、妥当な判断だと思う。仮に、Morpheus事件がソフトウェア自体に違法性を認定した場合、その判例は拡張され、最終的にはコンピュータやネットワークの存在それ自体が違法化されかねないものだったから。Winnyを含むP2P型ファイル交換ソフトウェアについて否定的な見方をする人たちがいる一方で、今のところ、その存在自体は違法なものではない。

著作権の問題は複雑で込み入っているので、後の回で取り扱うことにして、今回は、そのWinnyに追加されようとしている新機能について考えてみたい。現在開発が進められているWinny Ver. 2には、大規模な掲示板機能が追加されるという。これは、実質的に誰からも管理されえない言論の場を作り出すものといわれている。Winnyの高い匿名を維持する仕組みが掲示板機能に応用されることになるからだ。ちなみに、Winnyに先行する匿名発言のためのツールとしては、Freenetや、Hacktivismoというグループが発表したsix/fourが存在する。

インターネットの祖先といってよいARPAnetでは、1970年代半ばころには、電子メールでのフレーム (flame: 利用者間の激しい口論)が激化していたという記述がある。しかし、この頃の匿名発言に関する利用者の見解についての記述については見つけられなかった。ただ二つのことは言えるだろう。一つめは初期のネットワークでは、多数のメンバーが学会等を通じて知り合いであったということ。二つめは、自らを匿名とするよりも、実名を用いて知名度を上げることのほうを優先しただろうということ。「ハンドル」と呼ばれる変名を用いていたとしても、ネットワーク・コミュニティの中で、本人との同一性はかなりの程度とれていたと見てよいだろう。

研究者のネットワークとして形成されたインターネットは、電子メール、ネットニュースへの投稿のいずれにおいても実質的に実名主義であったと言ってよいだろう。基本設計として固定的なアドレスを必要とするインターネットでは、そのアドレスが端末の物理的な場所を暗示していたわけだから、もともとインターネットは個人の特定をかなりの程度許す仕組みだったといえる。

それゆえ、メールやニュースへの発言の署名として、実名に加えて所属研究機関、内線番号等まで書かれていることは珍しくなかった。これは発言に対する責任を明確にするものだとされていた。また、初期のインターネットの電子メール配信が不安定であったため、メールが行方不明になることもしばしばあった。それゆえ、緊急あるいは重要な連絡に電子メールが使えないと考えられていたからでもある。ただし、インターネットにおいても、匿名での発言が禁じられていたわけではなかった。ただ、匿名による発言は、その内容について責任をとる主体が不明であるため、信用の点において大きく劣るものと見られていた。出所が不明な情報を信用しないというのは、研究者たちの基本的なエートスだ。

その一方で、1980年代後半から1996年頃まで一般の利用者に勢力をもっていた商用パソコン通信の世界では、サービス・プロバイダから割り当てられた、機械的に生成されたIDが本人を示すものであり、もとより匿名であったとみることができる。IDに代わる名称を設定する場合でも、実名を掲げるよりも圧倒的にハンドルを用いる人の方が多かった。初期条件として匿名が支配し、誰がいるかわからない不特定多数の言論空間において、自身の現実世界におけるプライバシーを守るという目的が主であった。また掲示板によっては、発言者の性別・年齢・社会的地位を議論に持ち込まない目的で、ハンドルの使用を推薦していたこともあった。

匿名発言は、いくつかの理由からネットワークで根強く支持されてきた。

第一に、「健全な民主主義を維持するために匿名発言は必要だ」という主張。これはアメリカの匿名発言に関する議論でもっとも勢力をもって語られるもので、その場合に引き合いに出されるのは、18世紀末のアメリカで匿名出版された『コモン・センス』という小冊子だ[*1]。これがイギリスのアメリカ支配を批判し、独立戦争へと国民を駆り立てたという歴史的事実が、とくにアメリカの議論において匿名発言を擁護する雰囲気へとつながっている。こちらを匿名発言の社会的価値とよぼう。

第二に、ネットワークにおいては、発言が本人の意図を超えて伝達され利用される可能性が高い。それゆえ、発言者が一般の人である場合は、プライバシーに代表される個人的静穏を他者の攻撃から守るため、現実世界における自分自身を特定するような情報を、できる限りネットワークで公開しないように薦められることが多い。こちらを匿名発言の個人的価値とよぼう。

匿名発言の社会的価値は、アメリカでは合衆国憲法修正第一条で保護された「言論の自由」の一部の問題として語られる。それゆえ、『コモン・センス』や、やはり筆名で出版された『ザ・フェデラリスト』[*2] が引き合いに出されることで、正当化の根拠として十分とされることが多い。

しかし、匿名発言は、私たちの表現活動の基本的形態であり、権利であるよりは事実であった。「誰かが文章を書く→署名をしない→それを他者の目に触れる場所に掲げる」という行為が、言論の自由が権利として認識されるよりも、はるか以前から行われてきたことは明らかだ。

なぜ、こうした自然な行為が権利とされるに至ったか。それは、権力者が匿名による発言を禁じたからだ。法を定める権能をもつ権力者は、しばしば匿名発言によって攻撃を受けてきた。そこで権力者は、印刷術という大量複製技術が導入されたころから、権力を揺るがす種類の宗教的・政治的出版物に対して厳しい検閲を課すようになった。このとき、そうした種類の出版物に、かならず著者と出版者の名を掲げることが義務付けられた。もともと自然な状態では、匿名発言は事実として自由であったが、法によってそれが禁止されるようになったというわけだ。こうして厳しい検閲の15、16世紀の200年ほどを通過すると、署名せずに宗教的・政治的文書を書くこと自体が好ましくないことのような一般認識が形成されてくる。もちろん、署名するほうが、執筆者がよりいっそう内容に責任をもつだろうことも事実だが。

ところが、仮に法が禁止していても匿名による宗教的・政治的発言は根強く行われた。そのうちのいくつかは、宗教的・政治的問題点を指摘し、ひろく議論を喚起することで、それ以前の社会状況を改善したと考えられた。こうして、法的に匿名発言を禁じる制度との緊張関係において、匿名発言は法的な権利の一部として認識されるようになったわけだ。現在では逆に、匿名発言の権利を含む言論の自由が、検閲制度を復活させない法的な縛りとして憲法の中に書き入れられている。

どの文献を見ても、ネットワークのごく初期からの価値観として、言論の自由、アクセスの公平性、個人のプライバシーなどが基本とされてきたという。現在においてもそれらの諸価値は、ネットワークにおいて現実社会と同程度かそれ以上に重視される価値だと主張されている。しかし、ネットワークでの匿名発言の権利の位置付けは、現実社会のそれとは違った状態にある。

まず自然状態では、匿名発言は権利というよりもむしろ事実であり、それが権利として主張されるのは、自然状態を犯すような制度が設定されることを禁ずるためだ。逆に、ネットワークではその構造上、端末まで確実に特定される。もちろん、その特定過程のリンクを遮断するような技術的手段は存在しているが、それはネットワークの基本構造を技術的に変更したものだ。たとえばアノニマス・リメーラなどがこれに当たる。

そして端末が特定されれば、その端末を利用している人物を特定することは容易だ。ネットワークにおける匿名を保障しているのは、電気通信事業者が負っている利用者の「通信の秘密」を守るという法的義務の存在だ (電気通信事業法 第3条、第4条)。ネットワークにおいては匿名発言は、ある制度を基礎にようやく維持されているというのが事実。そして、制度は法律によって容易に変更されうる。アメリカの1996年連邦電気通信法の規定 を参考にして制定された、日本の通称「プロバイダ責任制限法」では、一定の条件のもと、他人の権利を侵害するような発言をした利用者を特定しうる情報を請求者に提供できることになった(第4条)。制度的に守られていた匿名発言の自由は、制度的に変更可能なわけだ。そういう意味で、ネットワークにおいてこそ、匿名発言は権利として主張されなければならないことになる。

とはいえ、もう一つの条件もまた逆になっていることに注意しなければならない。匿名発言が違法であった時代、法を侵してまで匿名でなされた発言で、かつ裁判にまでなるようなものといえば、何らかの意味において権力を持っていた人たちにとって不都合な、すなわち社会的影響力の大きな発言であった。また、それが社会的影響力を持つためには、それなりの費用をかけてある程度大量に配布されることが必要だった。それゆえに、法的問題となるような種類の匿名発言には、高い水準の閾値を超えた、評価すべき価値があるものと考えられてきた。

ところが、ネットワークにおける情報発信に必要な費用はとても小さい。それほど高価でもなくなったコンピュータとネットワークが手に入れば、ほとんどゼロに近い費用で、何千、何万単位でメールを送出することすらできる。これに加えて、制度的に匿名性が保障されているのだとすると、ごく些細な発言までもが匿名によってなされることになる。現在のネットワークで交換されているメッセージの大部分は、現実社会における本人の特定には直接つながらないハンドルを用いて発言されたものだと考えてよいはずだ。

1995年以降のインターネットの爆発的普及によって、「互いにわかりあっている研究者のネットワーク」としてのインターネットのエートスは、「誰が見ているかわからない」というパソコン通信のエートスに近いものに移行したと言ってよいだろう。そこでの匿名の利用は、「民主主義的価値を守るため」という社会的価値を背景にしたものではなく、「自己の現実社会でのプライバシーを守るため」という個人的価値を背景にしているはずだ。いつまでも、『コモン・センス』や『ザ・フェデラリスト』を錦の御旗にしていられないと私は考える。

大量のメッセージの交換が行なわれれば、そのメッセージによって様々な法的紛争が起こるのは確率的に当然のこと。そこにおいてほとんどの利用者があたり前のように匿名であるならば、匿名性が法的紛争解決の第一の障害になるのも当然だ。法と法廷は現実世界にあり、裁判は当事者が確定しなければ始まらない。ネットワーク上の紛争を解決しなければならない立場にある人々は、個人的価値にとどまる匿名が問題解決を妨げているという現実を前に、匿名発言の正当性を疑いはじめることになるだろう。

ネットワーク上の紛争を現実世界の法と法廷で解決するという方針が確定しているのであれば、遠くない将来、ネットワークにおける匿名発言は、事実として不可能なものとされていくと私は考える。プロバイダに課されようとしている通信ログの保存義務や証拠としての提出手続の整備などがその取り組みの第一歩だ。

ところが、Winny Ver. 2が狙っているのは、ネットワークのアーキテクチャを変更することで、これまで制度的に保護されていたに過ぎないネットワーク上の匿名性を、アーキテクチャ的に保障しようとすることだ。それ自体は、「善い・悪い」といった倫理判断の対象ではない。匿名性が保障されていなかったネットワークのメッセージ交換の仕組みを変更して、匿名で発言できるようにしようというだけだ。この点は、ネットワークの状況を現実世界の状況に近づけただけということもできる。しかしながら、極めて低い費用で大量のメッセージを送出できるという、ネットワークの特徴は変更されていない。Winny Ver. 2の完成は、ネットワークにおける匿名発言をどのような性格のものとして把握するのか、という問題の位相を新しいものにするだろう。

まとめよう。Winny Ver. 2のようなP2P型匿名発言ソフトウェアが創り出す言論空間は、アーキテクチャ的に匿名発言がデフォルトとなるような世界である。それは、ネットワークの伝統的価値観に合致するし、現実世界での状況を反映したものにすぎない。一方、事実として保障された匿名性のゆえに、低廉な費用で大量のメッセージを送出できるというネットワークの利点が濫用される危険が大きい。仮にそうなれば、Winny Ver. 2どころか匿名発言それ自体に対する批判が勢力を増すことになるだろう。そこにおいて、「発言者のプライバシー保護」という個人的価値は、匿名発言の濫用から生じる社会的害悪との比較衡量の上で説得力を失う可能性が高い。そうなれば、Winny Ver. 2 が潜在的に持っていた、「民主主義的価値に貢献する」という匿名発言の社会的価値まで失わせてしまうことになる。

法や制度は、社会的合意の上に成り立つ。社会的合意は、ある行為が事実としてどのような結果をもたらしているかという一般的な認識を基礎とする。ネットワークにおける言論の自由、匿名発言の自由を私たちが主張するならば、それに相応しい積極的理由が求められる。私たちの幸福や自由のために、Winny Ver. 2 はどのように使えるのか。

政治的匿名発言に使うことのできる聖剣を、違法な情報交換という錆で覆ってしまわないために、私たちの手元から磨き続ける必要がある。私たちは、好奇心過剰で、利己的かつ利他的な生き物だ。エロ・グロ情報や、ワレズものを共有することは楽しいことかもしれない。でも、それらが、私たちの自由を支えている究極的な根幹を汚しつづけていることを、エンター・キーを押す瞬間に思い出してほしいのだ。

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[1] アメリカの植民地人たちに独立戦争を決意させた、トマス・ペインによる小冊子。1776年1月フィラデルフィアにて匿名で出版され、多数の海賊版が出回ることでひろく流布した。世襲君主制を否定し、イギリス本国からの植民地の独立を当然の「常識」であると平易な言葉使いで訴えた。

[2] アメリカ独立初期に連邦憲法案擁護論を展開した論説集。ニューヨークの新聞に掲載された85編の評論のうち77編は Publius という筆名で発表された。立憲政治の精髄を説く優れた政治的文章として、各地の新聞に盛んに無断転載されることで流布した。

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告知

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事例の応募ですけど、あまり多くないです。やっぱり。どちらかというとボットがメアドを拾って送ってくるSPAMの方が多かったりして(苦笑)。応募してくださった方、いずれ事例をまとめて取り扱う回をもうけますので、しばらくネタ集めに付き合ってください。 さて、次回は、ネットワーク上における「自力救済・制裁」について考えようと思います。他人に迷惑をかけるようなユーザーを (1) どのような基準で有罪と考え、(2) どのような方法で罰を与え、(3) どの程度の罰が妥当だと考えるか、また、(a) 他人からネットワーク上で攻撃を受けた場合、どのような方法で報復を行うか、(b) どの程度の報復なら正しいと考えるか、というようなことについての事例・意見を募集します。shirata1992@mercury.ne.jp 宛てによせてください。

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Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 准教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp