De Legibus et consuetudinibus Interreticuli

自力救済と紛争解決

白田 秀彰とロージナ茶会

P2Pネットワークで自分たちの商品が違法に共有されている、と思ってるアメリカのレコード会社や映画会社が、P2Pネットワークを攻撃することを合法化するように、アメリカ議会に要求し始めたという記事を昨年の8月くらいに見た。つい先日には、その法案をさらに強化した法案が再び提出されそうだというニュースも出た

現在のところ、たとえその目的が正当なものであっても、クラッキング (他人のコンピュータへの侵入や妨害行為) は違法行為とされている。アメリカでは、「コンピュータ詐欺濫用防止法 (Computer Fraud and Abuse Act of 1986, 18 U.S.C. Sec. 1030 et seq.)」からはじまるコンピュータへの攻撃を禁ずる一連の法律によって禁止されている。日本でも、1987年に刑法へ「電子計算機損壊等業務妨害罪 (刑法 第234条の2)」が追加され、クラッキング行為一般は禁止されている。

アメリカのレコード会社や映画会社たちが支持している「P2P海賊行為防止法案 (P2P Piracy Prevention Act)」は、彼らの著作物が、違法にP2Pネットワークで共有されることを抑止する目的で、クラッキングに用いられている各種技術を用いて、違法なファイル交換を行っているシステムの無効化、遮断、妨害を行うことを合法化するものだという。自分たちの商品を盗むような連中には、お仕置きが必要だ、というのが基本的な発想だろう。

このように自分の権利を自分自身の力で守ることを自力救済という。自分の権利を自分で守って何が悪い、と言われそうだが、悪いということになっている。皆が自分の信じる法や権利にしたがって、自分の力でそれらの法や権利を実現するようになると、トマス・ホッブズのいう「万人の万人に対する闘争」[*1] が始まってしまう。結果的には、力の強い者の法と権利のみが実現することになる。

近代国家の基本構造は、(1) 国内における暴力(軍隊や警察)を国家が独占し、その独占された暴力を背景に、(2) 国家が法によって認められた私人の権利を司法手続を通じて実現するというものだ。すなわち、正義の実現はあくまでも法に基づいて国家が行うべきもので、私人は勝手に自分の権利を実現したりすることは認められない。駅の駐輪場で盗まれた自分の自転車を乗り回しているヤツを見つけたからといって、追いかけて捕まえて取っ組み合いで相手をノシて自転車を取り戻すようなことをしてはならないことになってる。あくまでも警察に届けて犯人逮捕してもらい、自転車を取り戻してもらわなければならない。

法は、特別な場合に限って、自力救済を認めている。それは、急迫していて国家の司法権力が発動するヒマもないほどの事態であり、かつ侵害されている権利が事後的に回復困難である場合に限定される。だから、上記の「P2P海賊行為防止法案」のやり方というのは、近代法の原則から外れているといえる。

このような前提から考えると、ある事態について私人による自力救済を認めるということは、その事態について国家が正義を実現する能力を持たないということを認めたことになる。近代国家の成立以前の社会では、法を実現する権力が統一されておらず相対的に弱かったため、広く自力救済が認められていた。というか、中世までの社会では、国王や領主は紛争における審判の役割にとどまり、裁判の結果にもとづく権利の実現は当事者たちに任されていた。P2Pネットワークを用いた権利侵害に対して自力救済を認めよ、という要求が出てきたことは、インターネットのある領域について国家が統治能力をもっていないということを証明することになる。

もちろん、ネットワークの秩序維持に関する法律は、いくつも作られている。問題は、現実世界における軍隊や警察に該当するような強制力を、国家はネットワーク上でどうやって発揮するかということだ。そりゃ、最終的には警察と軍隊を用いてハードウェアや管理担当者を支配下に置くことで、国家は究極的な統治能力を持っているに違いない。けれど、それは、隣人同士のケンカを止めるためにミサイルを使うようなもので、賢い方法とはいえない。

ネットワークにおける統治という問題を考えるとき、近代法の枠組みをそのまま使うなら、国家は (a)すべてのネットワーク利用者を特定する能力、(b)すべてのコミュニケーションの内容を傍受・記録する能力を持ちながら、一方で (c)そうした能力をあくまでも法の枠組みに沿って限定的に行使する、ということになるだろう。現在の法整備も、この方向で進んでいる。

でも、このアプローチは、民主主義政治体制の前提とされている「内心の自由 / 言論・表現の自由」に危うい緊張をもたらす。意図しない誰かに見られている、聞かれているという意識そのものが、私たちの言論を内側から制約するからだ[*2]。国家を信頼できると考える人は、国家の統治能力の拡大を主張し、国家を信頼できないと考える人は、法に基づく国家の統治能力の制限、すなわち利用者の自由の確保を主張することになる。いずれの主張が結果的に私たちの幸福につながるのかは、私には判断できない。しかし、ネットワークにおいては、曖昧であやふやな現実世界以上に、徹底して厳密な統治が原理的に可能であるということを指摘しておきたい。

以上のように、現在のところ、ネットワーク上の権利の実現については、まだ自らの力に頼るところが大きいということについて、読者のほとんどの同意が得られると思う。

さて、読者の皆さんから送ってもらった事例を見る限り、紛争が起こる可能性がもっとも高いのは掲示板であり、次いでメーリング・リスト。個人が対峙する一種の公共的空間なんだから、紛争が多いのは当然。まあ予想通りだ。

そこでの紛争解決法は、1970年代から続く伝統にしたがって、フレームが主流のようだ。当事者の一方が罵り合いに飽きて降りた場合に、勝敗が決まる。掲示板やメーリング・リストに残った方が勝利宣言するわけだが、実際に勝っているのは、降りた方である場合も多い。まわりで罵り合いを見ていた利用者たちが、一連のプロセスをどのように判断するかが実際の勝敗を決めているわけだから。このように考えると、紛争当事者双方が「評判を落とす」という意味で損害を被ることは避けられないこともわかる。罵り合いから降りた人物が別の空間で相手を謗ることで、また紛争が再燃することもよく見られる。

もう一つの紛争解決法は、掲示板やメーリング・リストの主宰者、すなわちその空間の上位権力が介入し、当事者の一方あるいは双方を排除することだ。排除された者は、その上位権力の支配の及ばない別の空間でその紛争を継続することが多い。したがって、この措置によって紛争は解決されるというよりも、むしろ拡散するというべきだろう。また、当事者双方に加えて、判断を下した主宰者が別の紛争に巻き込まれることが少なくないようだ。前回も指摘したように、ネットワークにおいては「言論・表現の自由」が強い価値として認識されているようで、当事者の排除という措置の妥当性について他の利用者との間に論争・紛争が起きるわけだ。

また、ネットワークにおいては、排除を完全に行うこともできない。個人を特定し指定する方法は、現状ではIPアドレスやメールアドレス程度しかなく、機械的な設定により排除する場合には、この両者を用いるほかない。ところが、現実社会と違って、これらはすぐ再取得できる。排除したはずの人間が、次の日にはまた別のアドレスで参加していたなんてことは珍しくない。

このようなわけで、ネットワーク上の紛争は解決されるというより、拡散する状態にある。それゆえ「ネットワーク上の言論は程度が低く悪口ばかり」といった評価を生み出すことになる。さらに、紛争当事者は、自分を攻撃している相手側を処罰しうる究極的な上位権力が存在しないことに苛立つことになる。日本では、なにか紛争がおこると、その紛争を仲裁できる顔役がでてきて場を丸く治めることが伝統的な解決方法だった。こうした文化が背景にあるから、日本では、誰かえらい人がうまく紛争を解決してほしいと願う。当事者達は意識していないかもしれないけど、その願望の行き着く先は、何らかの形態の権力(どこかの国家かもしれないし、国際的な組織かもしれない)によるネットワーク空間の完全な掌握だ。それは私たちの望む世界だろうか?

そこで、絶対的な上位権力が存在しなかったヨーロッパ中世において、どのような紛争解決が行われていたのかを紹介して、つづく議論の前提を作っておきたい。「わが国ニッポンにはニッポンのやり方があったのだ!」とか、「アジア的価値観に基づいた紛争解決こそ次世代のスタンダード!」とか、そういう意見は当然あると思うので、そう考える人には、ぜひツッ込みを投稿していただきたい。正直、私はよく知らないので。「ヨーロッパ中世」なんて大雑把な括りについても、目くじら立てられると困ってしまうので、ゲルマン人たちが行っていた「人民集会裁判 (Dinggenossenschaftliche Justiz)」を代表例として挙げたい、というか法学部の法制史の初等教科書にでてくるので。

まず、この集会に参加できたのは、経済的・政治的に独立した自由人だけ。自由人とは、戦争にあたって自分自身で武装を整え参加できる人、またそうした武力を背景に権利の実現を自らの力で行える人のことを指す。自由であることと、自分の権利を守る力をもつことは等値だった。自由は、法的な権利というよりも事実として確保される他なかったわけだ。そうした相互に独立した、力をもつ人々の間で紛争が発生した場合、どうなるか。当然、私闘ということになる。ゲルマンの部族たちは、同一の血統によって結ばれていると信じている人々の集まりである氏族単位でこの私闘を行った。これをフェーデ (Fehde) という。しかし、こうした私闘は、氏族間の小規模な戦争となるのが常であった。ゆえに、裁判は、このフェーデをなんとか停止する仕組みとして現われることになる。

上位権力はあるにはあるが、力が弱いので、単独で紛争当事者の双方に対して絶対的な支配権は揮えない。そこで裁判官は、両当事者の紛争の「審判」としての機能のみを果たす。裁判官は、フェーデの停止と法に基づいた紛争解決を当事者に呼びかけ、裁判を主宰する。ただし上位権力は、裁判を主宰する「権威」を守るために裁判において誤ることができない。ゆえに自らは判断をしない。では、誰が判断するのかといえば、紛争当事者たちと同身分の人たち(同輩 / 法仲間)から選抜された判決人と呼ばれる人々が行う。

裁判では、紛争当事者の申し立てが聞かれ、裁判官の指揮で論点が整理される。裁判官は判決人に判決を出すよう求める。応えて判決人は妥当だと考える判決の提案を行う。この裁判方法において、判決に服従する当事者への圧力は、自分たちと同じ力をもった多数の人々によって判断がなされているところから生じる。もし判決を無視するならば、紛争の相手方のみならず判決人たちとも戦闘する覚悟が必要だからだ。

多数の同輩による判決提案は、おそらくほとんどの場合、共同体の伝統や感情の中で妥当なものだったろう。また、一方当事者に与するような判決よりも、両当事者の「顔」を立てた和解や調停の提案であることも多かった。そうせざる得ない理由もあった。判決を確実に執行する権力が存在しないのだから、両当事者、とくに敗訴した側が判決に従うことに合意しなければ、結局また私闘が開始されるだけだから。

仮に判決に不服な場合は、判決非難が行われた。判決非難は判決人の判断に対して、当事者から行われるもので、これは、判決人の名誉に対する挑戦であると考えられた。このように裁判が紛糾してしまうと、あとは生命、名誉、全財産を賭けて、自らの主張の真実性と自らの潔白を主張する神判 (ordial)[*3]、決闘 (battle)[*4] あるいは雪冤宣誓 (compurgation)[*5] ということになる。この場合、自分自身どころか氏族をも巻き添えにすることもしばしばだった。

神判、決闘、雪冤宣誓に失敗することは、神に誓って語った内容が虚偽であったことになるので、死刑や財産没収の上での追放など過酷な刑を受けることになる。この期に及んでもなおかつ刑に抵抗することができたかもしれない。でも、周りの氏族全てを敵に回して生き残ることはほとんど不可能だっただろう。神判、決闘、雪冤宣誓は、科学的・合理的な立証が困難だった時代に、偽証を抑制するための方法として採用されたらしい。そりゃ、自分の発言に対して命を賭けることを要求されるなら、そう軽々と口からでまかせを語るわけにはいかない。

で、現在のネットワークにおける紛争でも同じようなことをヤレと言っているわけではない。こうした裁判官、判決人、当事者の関係は、ギリシアやローマやその他の地域にも見られる、ある程度の普遍性をもった構成らしいので、応用を考えてみたらどうだろうか、ということ。

言うまでもなく、裁判官はその空間の管理者、判決人は紛争を周りでみている利用者たち、とくに当事者の見解を支持する利用者は宣誓補助者の役割をするわけ。現在でも似たような構造は、多くの掲示板やメーリング・リストで見られるのではないだろうか。ただ、そうした紛争解決のプロセスが、得てして脱線して泥仕合になっていくのは、そのプロセス、すなわち「(手続)法」が未確定だからだ。紛争解決にある程度成功している掲示板管理者からの事例が集まれば、ネットワーク上での標準的な「裁判」の手続きが明らかになってくるかもしれない。私たちが、そうした「法」を受け入れるとき、絶対的な上位権力の介入を排除しつつ、ネットワークの秩序維持が可能になるかもしれない。

でも、中世の裁判が、宗教的信念すなわち「神」の存在に多くを負っていること、また、自力救済を支える「暴力」に依存していることに気がつくと思う。いまさら、私たちは「神」を信じることはできないだろう[*6]。また、先にも書いたようにネットワークでは身元を隠したり、偽ったりすることが容易だ。だからその人の生命や身体を、暴力のもとに担保とするような方法は使えない。第一、神判や決闘は現代においては犯罪だ。

とはいえ、神判や決闘において問われていたのは、自らの正当性を訴える者が、自らの発言に生命、名誉、全財産を賭ける覚悟があるか否かという誠実さだ。「神」や「暴力」による制裁は、その誠実さを引き出すための手段にすぎない。ネットワークにおいて、誠実さを引き出すための方法は存在しないだろうか? この疑問について次回「名誉」について言及した後、再び「自力救済」に戻ってみたい。

今の日本では「毀損される名誉」は山ほどあるけど、全人格を賭けた「名誉」は絶滅寸前みたいだから、「名誉」なんて言われても (´,_ゝ`)プッ という感じかもしれないけど。

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[1] 中学や高校の教科書に、必ず出てくるトマス・ホッブズ。なんらの上位権力もなく、また、それぞれ各人の勢力がほぼ均衡している状態を自然状態として置き、そこから権力や国家が設立され秩序がもたらされる仕組みを「神」の観念抜きに説明しようとした。彼が自然状態を「人間は人間にとって狼である」とか「万人の万人に対する闘争」として描いたので、「性悪説に立つ人」とか、「人間の悪徳を強調した」とか悪い人みたいに言われているけど、リアリストで合理主義者というだけだったんだと思う。

[2] J.S. ミル 『自由論』「...社会的暴虐は、かならずしも政治的圧政のような極端な刑罰によって支えられてはいないけれども、遥かに深く生活の細部にまで浸透し、霊魂そのものを奴隷化するものであって、これを逃れる方法は、むしろより少なくなるからである。それゆえに、官憲の圧政に対する保護だけでは十分ではない。優勢な意見と感情との暴虐に対してもまた、同様に保護を必要とするのである。」

[3] 神判は、赤熱した鉄を握ったり、煮えたぎる熱湯に手を入れて物をつかんだり、水に沈められたりするもの。そうした行為を行っても火傷をしなかったり、水に浮かばず沈めば、その当事者の主張に対して神の加護がある、すなわち真実であるとされた。現在から考えれば相当無茶な話だ。神判は、法の保護のないものや、身分の低いものに適用されることが多かったらしいので、それ自体が一種の刑罰だったのかもしれない。

[4] 決闘については、説明の必要はないだろう。判決人の判決に対して非難する当事者は、判決人に対して決闘を申し込み、自らの潔白を証明しようとした。決闘は身分の高い者が行うことのできる名誉ある証明方法だと考えられていた。もちろん、真実を語っている者に神は加護を与えるという信念が、この証明方法の根底にある。

[5] 雪冤宣誓は、神判や決闘よりは穏やかな方法で、当事者が自らの潔白、無責任について宣誓し、一定の数の宣誓補助者が、この当事者の主張の正しさを宣誓するというもの。この場合、一定の宣誓補助者を集められなかったり、宣誓者が定められた形式のとおりに宣誓することに失敗すると敗訴することになる。

[6] 「R. ストールマンに、私はこのプログラムがオリジナルであることを誓う」とか、「J. ポステルに、私はこの発言が真実であることを誓う」なんて言い出すのも私は悪くないと思う。面白いので。あと、2ちゃんねる には多数の「降臨する神」がいるみたい。いかにも「八百万の神」の国だなあ、と思う。日本の「神」はあるがままに存在し祭られるもので、秩序や規範を与える厳格な一神教の「神」とはまったく別のもの。だから、日本の「神」の観念は、秩序の根拠になることは、まずないだろう。

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告知

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相変わらず、投稿少ないです。ああ、もうネタが... これが紙ベースの雑誌だったら、ページ真っ白の恐怖に直面しているところです。しかし、それでも読者を信じてネタを待ちます。前回、「自力救済・制裁」で書くと言っておきながら、テーマがズレてしまったのは、投稿が少ないからなんです... 次回は上記のとおり「名誉」。ネットワーク上において、「評判」や「名誉」がどの程度重視されているのか、についての皆さんの意見を聞きたいです。評判の高いコテハンの発言と、名無しさんの発言では信用度が違うでしょ。そんな感じの事例についての主観的な意見で十分です。shirata1992@mercury.ne.jp 宛てによせてください。

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Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 准教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp