『インターネット原理主義』について

* 『インターネット原理主義』について*

白田 秀彰

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先日、名和先生から著書を贈っていただいた。「デジタル・ミレニアムの到来」という本だ。最近のトピックを取り上げつつ解説するもので、網羅的ではあるが各問題の表面をさらりと撫でただけの印象が拭えない。紙幅、対象読者および目的からすればやむをえないか。

さて、同書で先生は新しい言葉をあみ出した。「インターネット原理主義」である。私はこの言葉をこの本で知ったが、もしかするとすでにどこかで使われている言葉かもしれない。「インターネット原理主義」とはどんなものだろうか?これについて述べられている部分を引用しよう。

    インターネット・コミュニティには「しつけのよいアナーキズム」の遺産がある。この理念はインターネットを建設した研究者のものだったが、この旗を商用化のあとでも掲げているグループが少なくない。インターネット原理主義とでもいったらよいか。彼らのスローガンは「情報やシステムに自由にアクセスしよう」「すべての権力的な抑圧へ反対しよう」などである。インターネット原理主義を掲げるコンピュータ・エリートはハッカーと名乗ってネットワーク上で自由に行動し、このような理念を持たない単なる破壊主義者をクラッカーと呼んで蔑んでいる。

    インターネット原理主義はあらゆる規制に反対している。したがって、その美しいスローガンは、インターネットの中に存在するハラスメントやスパミングを、結果的には助長することはあってもコントロールすることはできないでいる。

(「デジタル・ミレニアムの到来」丸善ライブラリ p. 70)

    ...逆の流れもある。それは「しつけのよいアナーキズム」の理想を、研究者の世界にかぎらず、企業人の世界にも消費者の世界にも拡張しようとする発想だ。いわばインターネット原理主義といってよい。この発想は、企業人の世界には共有化の理念を持ちこみ、消費者の世界に自己責任、つまり弱肉強食の理念を押しつけている。原理主義者は「しつけのよいアナーキズム」を「破壊的なアナーキズム」へ変質させてしまうだろう。

(「デジタル・ミレニアムの到来」丸善ライブラリ p. 185)

どうやら先生は「ハッカー倫理」「インターネット原理主義」と読み替えているようだ。「キリスト教原理主義」や「イスラム教原理主義」と聞くと、狂信的で破壊的な集団を想起してしまうこのごろだが、「ハッカー倫理」の「原理主義」への読み替えが、そうした負のイメージを引くために用いられているとするなら、あまり上品な読み替えとはいえない。

さて「原理主義」であるからには、その主張は「原理」を守るところにある。一方「原理主義」の対義語は「修正主義」又は「応用主義」だろうか。

科学技術の世界では「原理」は欠くべからざる基本である。原理を無視した応用はありえない。オームの法則を無視して電気回路の設計をすればどうなるか。笑い話にもならない。科学技術以外の分野における「原理」については、ある宗教や主義の「原典」を守ることになる。これは、それ自体悪いことではない。原典が基本として存在するから、修正や応用が存在するわけであり、原典を無視すれば、それは単なる「御都合主義」だ。そして宗教や主義が単なる御都合主義に堕せば、原理主義よりも数百倍危険であることはいうまでもない。宗教の原理主義にしても、それ自体は何の問題も無い。いかなる宗教を信じるかは、個人の内心の問題だからだ。ただそれが「XX教原理主義過激派」となったときに問題となる。

また、先生は「インターネット原理主義はあらゆる規制に反対している」とおっしゃる。仮に先生がハッカー倫理の原理がそのようなものだと理解しているなら、それは先生の誤解だろう。

ハッカーは規制に反対するのではなく、権威を疑うのである。権威とは何か。他人を強制し服従させる威力である。権威に服する人がその威力に裏付けを認めているならよい。しかし、私たちは大抵のばあい理由もなく「偉い人だから」「お上だから」と服従する。ハッカーは自ら実践し検証する人たちである。彼らは自ら確認した権威にしか服従しない。彼らは、自ら確認した権威にはむしろ従順である。「とにかく威力に服従すべき」と考えるのは、単なる権威主義であることに注意しなければならない。

    【権威主義】社会現象を権威によって意味づける主義。権威に対する自己卑下や盲目的服従、弱いものいじめの態度や行動としてあらわれる。

また、美しいスローガンが悪を助長しているとおっしゃる。ちょっと意地悪な例だが、美しいスローガンとしてハッカーの主張の一つである「自由」を置いて考えてもらいたい。

近年、放埓な自由が社会を毒していると指摘されることが多い。私たちは自由を持て余して悪に走る。私のような自由主義者、市場主義者でも、さすがに少しは道徳や倫理の箍を締め直したほうがいいような気がしている。

「だからやっぱり自由は駄目だ、エリートが愚かな人民を率いていかねばならないのだ」と考えるとファシズムになる。人類はファシズム・全体主義でだいぶ痛い目にあっているのに、同じことをネットワークでやろうとするなら、それは愚の上塗りだろう。だから自由を否定するのではなく、自由を濫用する人たち自由の名の下に悪を行う人たちに、自由を勝ち取った先達の偉大さを伝え「真の自由」について理解させねばならない、というのが市民革命と対ファシズム戦を戦い抜いた私たちの結論だ。事実、教育はこのように行われている。

だいたい、革命など起こした連中は、旧勢力から見れば強盗・泥棒にほかならない。イギリス国王の宗主権と財産権を踏みにじったアメリカ独立。ブルボン王朝と貴族の財産の暴力的略奪であるフランス革命。ロシア革命しかり。少女漫画で美化されているフランス革命にしたところで、革命の後、身の毛もよだつ恐怖政治が行われたことは周知の事実だ。それでも、私たちは私たちに自由をもたらした革命を学び、革命の立役者たちについて学ぶ。なぜか。

実際に歴史を動かした人物たちの言動には、私たちが享受している「自由の原理」が示されているからだ。私たちが自由を履き違え、自由を濫用しているのは、自由の原理について無知だからである。ならば自由の害悪の原因は、自由についての「御都合主義」にあることになる。でなければ「自由」そのものが否定されるべき悪徳ということになる。

「愚かな人民に自由など与えるから、犯罪が起こるのだ」というのはいつの時代もファシストが夢見る幻想だ。人間は、人間であるからこそ不完全であり過ちを犯す。自由を剥奪すれば犯罪が抑止できるのは当然だ。独房のなかの人間は犯罪を犯せないだろう。恐ろしいことに、そうしたことを主張する人は、自分が決して犯罪者にならないと信じているらしい。

先生が言われるような「インターネット原理主義」の唱道が、企業には共有化(これがそれ自体としてなぜ否定的に用いられるのか理解しかねるが)を押し付け、消費者には弱肉強食をもたらす、という主張は根拠薄弱である。まして、ハラスメントやスパミングを助長しているという主張は、「自由」に内在するその代償を「インターネット原理主義」にこじつけているとしか言いようがない。

譲ってハッカー倫理が現実社会の秩序と対立的な部分があるとするなら、両者についてその「原理」をきちんと踏まえた上で、調停すべく研究・努力するのが為政者や学者の仕事である。すると、私たちに必要なのは「ハッカー倫理」を「インターネット原理主義」として隠蔽・排除することではなく、むしろ「ハッカー倫理の原理」についての研究だろうし、またその内容に関する啓蒙だろう。

あまりにも「ハッカー」という言葉は「御都合主義」によって汚された。ここでこそ「原理」に立ち返るべし、というのが正当ではないだろうか。

先生をはじめとして、皆さんの御批判を請う。

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1999/5/4山根氏から以下のコメントを頂いた。 1999/5/11崎山氏から以下のコメント頂いた。 とのことだ。ぜひ参照していただきたい。

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Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 助教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
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