1 はじめにクリントン政権が情報スーパーハイウェイ構想を掲げたことで、電子ネットワークは遽に一般の人々の注目を集めるようになっている。なかでも、全世界的情報基盤(Global Information Infrastructure) として事実上機能しているインターネットは、その本来の利用目的である研究者同士の情報交換のみならず、現在は商業利用の可能性が模索され、産業界のインターネット利用が増大しつつある [1]。 インターネットは1960年代末に研究者同士の情報交換のために実験が始まった ARPAnetに起源を持つ [2]。それから、現代までの約30年間には、当初からの利用者たちによって独特の倫理、道徳、思想、慣習法とでも言えるような漠然とした規範が形成されている。こうした電子ネットワーク上の先住者たちとでも言えるような人々、すなわちハッカーたちの規範と、後から参入してきた現実社会の規範にはかなりの程度のずれが存在していおり、現在ネットワーク上で生じているコンピュータへの無権限アクセスや著作権侵害等の法律問題の原因として大きく影響している [3]。 しかしながら、法律学の領域でこの電子ネットワーク上の規範について正面から検討されたことはなく、また、一般の人々がネットワークに不慣れなことに起因して、ハッカーは常習犯罪者(outlaw)であるという理解が一般的になっている。実際のネットワークの運用で慣習的に形成された彼らの規範を一切考慮せず、先のような法律問題を直ちに違法行為であると判断することは、ネットワーク上の法律問題を考えるときの態度としてはやや一面的だと思われる。そこで本稿では、「ハッカー倫理 (hacker ethic)」とも呼ばれうる考え方を彼らの主張をもとに整理し、それがアメリカ法に与えつつある影響について検討する。
2 ハッカー
2.1 ハッカーとはまず、「ハッカー」という言葉は、「日本人」「アメリカ人」という語と同様に、それぞれに異なる個性を持った個人を包括的に指していることに注意する必要がある。従って、ハッカーが全て同じような人物であると一般化することは誤りである。次に、この語の指し示す対象が「技術に精通した人」であることについては、これまで参照してきたいずれの資料でも一致している。しかし、その対象が持っている属性については、肯定的なものから、否定的なものまでかなりの幅がある。コンピュータにそれほど精通していない人々が接する放送や出版物などの媒体では、「(とくに電子工学的)技術を悪用して不法な行為を行う人」であるという否定的認識が一般的なものである。一方、コンピュータの利用者の中でもとくに早い時期からコンピュータに親しんできた人々(彼ら自身が否定的意味におけるハッカーでないとしても)の間では、ハッカーという呼称は尊称として肯定的に用いられる場合がある [4]。近年、コンピュータ・ネットワークが一般化するにつれて、否定的認識がますます大勢を占めるようになっているが [5]、早い時期からのコンピュータ愛好家たちは、ハッカーという呼称の本来の肯定的意味についての啓蒙活動を行い、否定的な意味におけるハッカーのことを「クラッカー(cracker)」と呼ぶように提唱している [6]。 ハッカーという言葉の由来について『ハッカーズ [7]』を見ると、そもそも「ハック」とは、工学系の技術を習得する場合の習得者の態度を示したものであることがわかる [8]。すなわち、その方法が学究的であるというよりも、むしろ情熱的で力任せである点で、しばしば通常の規範を逸脱していることを特徴とする。こうしたハックはしばしば結果において賞賛すべき成果を生み出す一方、その過程で「禁じられていることでも行う」という反社会的な態度を導くのである [9]。 また、ハッカーたちが大学で学生生活を送っていた時期が、丁度ベトナム反戦運動およびヒッピー運動の時代と重なったことを原因として、本来政治的要素を持たなかったハッカーという言葉に反政府的、無政府主義的要素が結合することになった。この時期を境に現在まで続く否定的ハッカー象が形成されたものと思われる。とくに、この時期、巨大産業に対するささやかな対抗意識と、単に電話料金を支払いたくないという堕落した倫理観を背景にして、電話交換機を不正に動作させ、電話料金を免れる「フリーキング(phreaking)」が流行した。この電話交換機の不正利用を行う「フリーク(phreak)」とハッカーはしばしば同一人物だったため、ここでもまた、フリークとハッカーの混同が生じて、「ハッカー」に否定的属性を追加したのである [10]。 さらに、コンピュータへの無権限アクセスを行うクラッカーたちが自らを「ハッカー」と僭称することが、ハッカーの語義をますます否定的なものとしている。クラッカーたちが無権限アクセスの手法等について記述した電子的文書である“Phrack”で、「ハック」という言葉は無権限アクセスのための手法と同義に用いられた [11]。例えば、「UNIXをハックする」「電話回線をハックする」という場合、このハックは無権限アクセスのために必要な作業のことを指している。こうして、ハッカーは常習犯罪者と同義の言葉として広く認識されるに至ったのである。 本論ではハッカーという語が二面性をもつことを踏まえながらも、あえて古典的かつ肯定的な意味でハッカーという語を用いる。このため、一般的な意味でのハッカーを指す語として、クラッカーを用いる。ジョージタウン大学のデニング (Dorothy Denning) 教授と筆者との電子メールでの議論で、同教授はハッカーが示す対象は「システム侵入者」に外ならないと主張し、ネットワーク社会における貢献者をなぜ素直に「プログラマ」と呼ばないのかと批判された。しかし、肯定的な面におけるネットワーク文化でさえ、いくらか治外法権的状況の下で発展してきたことを考慮すると、やはり、貢献者たちをハッカーと呼ぶのが適切だと思われるのである。 しかしながら、この両者が曖昧微妙な境界によって区別されていることに注意すべきである。例えば、後に紹介する著名なハッカーであり、Free Software Foundation (FSF) の代表であるストールマン(Richard Stallman)は次のように述べている。
どのハッカーも権力には我慢することができないのだ。ハッカーの権力に対する反応はいつも、何人も自分を支配することはできないということである。私は賢い方法でそれをなんとかするのである。それゆえに、ハッカーはセキュリティを破ることを学んだのだ。というのは、セキュリティはある種の支配を意味するからだ。我々は他の人々にコントロールされたくはない。 2.2 ハッカー倫理上記のハッカーが常習犯罪者であるとする一般的認識の一方で、とくに、コンピュータの技術に長けた管理者や研究者、愛好家たちには最も古典的な意味でのハッカーという用法に執着する人々も多数く存在する。こうした人々の間では、ハッカーとは該博なコンピュータの知識を応用して優れたソフトウェアを作成する貢献者のことを意味する。例えば、「C言語ハッカー」「TeX ハッカー」という用法は、それぞれC言語あるいはTeX 組版システムの達人を意味している。こうした貢献者たちの努力によって発展せられてきたコンピュータ・ネットワーク共同体の中には、独特の文化あるいは緩やかな倫理が存在している。この文化は時としてネットワーク文化などと呼ばれているが、明確に整理され定義されてはいない。しかし、この文化の基礎となった精神的態度は明確に文書化されている。それは、レヴィーが、著書『ハッカーズ』の第二章に整理して紹介した「ハッカー倫理」と呼ばれるものである。それは次のような内容である。
レヴィーの記述によれば、これらの規範は、能力の乏しいコンピュータを効率的に動作させる手法を追求するマサチューセッツ工科大学(MIT)の学生たちの共同作業の中から生じてきたものだった。また逆に、コンピュータを極限まで効率よく機能させるためには、上記の態度が必要とされたのである。現在、爆発的な勢いでコンピュータやネットワークの利用者が増大している。こうしたシステムで作業を行うとき、利用者がシステムに要求する能力はしだいに増大していく。一方、利用者が費すことのできる資源は有限である。この条件の下、個々の利用者は、自分の求める水準に応じて、システムを効率よく動作させるための手法について取り組まなければならなくなる。このとき、この利用者は、ある程度 MITの学生たちと同様な考えを持つに至ると考えられないだろうか。 また、現在のコンピュータ利用者が恩恵を受けているさまざまな技術の原形は、コンピュータ草創期に存在したハッカーたちの生み出したものであるという歴史的事実と、こうしたハッカーたちが強力な個性を発揮して、それぞれが伝説となっていることを背景にして、彼らの「良い目的のためには禁じられていることでも行う」という精神的態度は、コンピュータの研究家・愛好家たちに現在も影響を与え続けている [13]。また、ハッカーたちの精神的態度が、技術的合理性の立場から見た現実の社会に対する批判である一方で、こうした精神構造の持ち主が技術を再生産することを通じて、現在主流となっているネットワーク技術は彼らが好むシステムに親和的な構造、すなわち分散的で水平的な構造を持つようになっている。こうした構造をもつネットワークを一般の人々が活発に利用するようになれば、そのネットワーク構造が暗喩している精神のあり方が、直接にハッカー倫理に影響されていない人々にも影響を与えることになると思われる [14]。 さらに、このハッカー倫理は、特定の言語をもって唱道されているのではなく、日々利用されるシステムの構造として表現されているので、その影響は特定の言語圏に限定されるものではない。しかも、このネットワークは利用者層こそ特殊ではあるものの、先進国および一部の発展途上国を包含するものとなっており、影響力の地理的な広がりはこれまでにない規模だということができる。したがって、ネットワークにおける「情報の自由」を検討する場合の基礎として、このハッカー倫理を無視することはできないのである。 しかしながら、ハッカー倫理それ自体はアメリカ国内でも廃れたものとなっている。レヴィーの著書の中でも、既にハッカー倫理の時代は終わったとして記述されているし、ストールマンもまた、それが失われたことを認めている。筆者は、後に紹介するElectronic Frontire Foundation (EFF) のマッキャンドリッシュ (Stanton McCandlish)と電子メールで議論したが、そのなかでも彼はハッカーが常習犯罪者として認識されていることを認めている。しかしながら、EFFやFSFがハッカー倫理を受け継いで、それを活動のなかで具体化しているのではないかという筆者の指摘を肯定している。すなわち、ハッカー倫理は、EFFやFSFの活動の基礎として生き続けているのである。
3 情報の自由
3.1 政府情報の公開クラッカーがなぜ他者のコンピュータに侵入するか、という点について考えてみると、それが単に面白く、自らの技術を誇示できるからであるというのが一番の目的であり、つづいて、他者のコンピュータに格納されている情報から、何らかの経済的利益を獲得するのが二番目の目的だろう。しかしながら、さまざまな種類のクラッカー関連文書を読んでみると、コンピュータへの不正侵入を試みるような種類のクラッカーたちには共通した性向がある。それは、政府と、民間とを問わず巨大な官僚組織に対する反感と不信である [15]。彼らの反感の対象は集中管理された大型汎用コンピュータとこれを管理する組織に象徴される権力であり、彼らはそれらの組織を攻撃し、脆弱性を暴くことによって、こうした組織が持つ権威の破壊を狙うのである。草創期のハッカーたちの目的は、管理者の裏をかいて大型汎用コンピュータを自由に使うことであり、自らの知的好奇心に忠実なだけだったといえる。しかし、ベトナム反戦運動の頃には、攻撃目標はもっと一般的な社会機構へと広がりを見せるようになる。当時の学生たちは政府と対立的な関係にあり、彼らが政府の情報収集能力に対して妄想的な被害者意識をもっていたことを背景として、民衆の情報力の強化が模索された。その結果が電子掲示版システム (Bulletin Board System: BBS)であり、パーソナル・コンピュータだった [16]。彼らは、個人情報の保有という点で個人にはるかに勝る政府に、技術で対抗しようとしたのである。政府機関の保有するコンピュータへの侵入についても、行政手続法から情報自由法を発展させるというような手続を踏まえた国民による政府監視ではなく、技術の力による直接的な政府情報の公開を狙ったものと言えるかもしれない。 現在は、Computer Fraud and Abuse Act (CFAA) 47 U.S.C. 1030 et seq. により、コンピュータへの侵入は、試みただけでも違法となっており [17]、少なくともハッカーたちは法で禁止されるような種類の侵入行為を避けるようになっている。こうしたなかで、合法的な政府情報へのコンピュータによるアクセスを求める動きが起こるのは当然の動きといえるだろう。 ネットワークにおける市民活動団体として著名な Electronic Frontier Foundation (EFF) はその設立当時から、コンピュータによる政府情報の公開を主張して活動している [18]。 現在アメリカ政府が進めている政府組織のネットワーク化はこうした市民団体の圧力によるものというよりも、業務の効率化とサービスの向上を狙った自発的な改善とされている [19]。しかしながら、この政府組織のネットワークは、従来のように中央統制的で閉鎖的な機構構造を独自に構築したものでなく、ハッカーたちが育て上げてきた水平分散的で開放的な機構構造をもつネットワークの一部として整備されつつある。そこで、EFFは、NII計画を積極的に支援する態度を表明している [20]。この水平分散的ネットワークを政府に導入することによる結果としては二つの筋書きが考えうる。一つは、ハッカー倫理にかなった形態でのこのネットワークはクラッカーの違法行為を減少させるだけでなく、違法行為に著手しようとするクラッカーをハッカーが抑制するという善の循環が達成されるというもので、もう一つは、政府情報への侵入の入り口を政府自ら拡大することで、一層の無権限アクセスの危険が増大し、重要な政府情報が流出するというものである。 この二つの筋書きのいずれが現実のものとなるかは、NIIで提供される政府情報の程度に依存するものと思われる。「政府の情報は納税者のもの」という情報公開の原則に立てば、流通が制限されるべき情報は、プライバシーに該当するもののみということになる。政府情報への回路を十分に提供することは、無権限アクセスへの動機付けを減少させるとともに、無権限アクセスそれ自体を違法なものとするための基盤として必要不可欠なものである。民主主義が、国民による政府の監視を前提とする以上、政府が政府情報を過度に秘匿したまま、政府情報へのアクセスを禁止することは、違法者に対して正当化の口実を与えることになるだろう。
3.2 情報の自由の拡張: 知的財産権「情報の自由」の主張と相対すると考えられている権利に著作権や特許権等の知的財産権がある。ハッカーの知的好奇心が人一倍強いこと、彼らが経済的にゆとりのない青年を中心として構成されていること、そして、ある程度は左翼運動の影響と思われるが、知識を「共有すべし」との信念を持っていたことから、個人用コンピュータの歴史の極めて初期の段階から知的財産権法上の問題が生じていたし、現在でも同様の問題は生じている [21]。一般に批判されているように、ハッカーが何らかの形で著作権法に違反する行為をしてきたことは間違いない。しかしながら、彼らが、著作権について一般の人々と比較して、顕著に順法意識や倫理観に劣っているともいえない。というのは、一般の人々の間でも、音楽CDやVTRテープの違法複製が広く行われていることは、周知のことだからである。ハッカーの著作権に対する無頓着さが強調されるのは、彼らが一般に馴染みのない著作物を馴染みのない機器を用いて複製しているからだと思われる。そうであるからこそ、彼らは、何か貴重な著作物を違法に複製しているという増幅された印象を与えるのである。 ハッカーおよびクラッカーが行っている著作権法違反について詳細に検討することは、本論文の目的ではないので割愛し、こうした違法行為を回避するために、彼らがどのような活動をしているのかについて検討することにする。 ハッカーとは、すなわち、コンピュータに関する知的探求を行う者であるから、彼らは自分の(合法、違法を含めて)所有しているハードウェアおよびソフトウェアの解析を自由に行えて当然であると考えている。しかし、実際には解析が禁止されている場合が多い。このことが彼らを刺激するのである。彼らはハードウェアの細部まで解析を行い、その情報を公表することに大きな意義を見いだしているし、そのような行為はプログラムを書く上で必要不可欠な情報を共有することであるから、他のハッカーたちの賞賛を得ることになる [22]。 こうしたハードウェアの解析は時として、製造者の知的財産権を犯すこととなっている。しかし、ハッカーたちは、単に解析を行うだけでなく、そのハードウェアを効率的に動作させるためのソフトウェアや周辺機器を作成するので、製造者としては、彼らの行為を禁止することは、市場における優位性を低下させることになるため、黙認する場合がある。すなわち、彼らに対してハードウェアの解析を禁止したならば、彼らは、そのハードウェアを運用するときに生じた問題点の解決方法の公表を行わなくなり、その結果、それぞれの利用者において独自に問題を解決しなければならなくなるため、利用者全体で見た場合の運用に必要なコストが増大するからである [23]。 このことは、ソフトウェアについても同様であり、ハッカーは、法的な制限が設けられている商用ソフトウェアをできるだけ避け、自分たちが自由に複製、頒布、解析、改良ができるソフトウェアを作りだそうと努めている。こうして、彼らのネットワーク共同体に蓄積された、著作権に基づく排他的独占権が何らかの形で放棄されているソフトウェア群が存在している。これらのソフトウェアに添附されている使用条件はさまざまであり、一概にまとめることはできないが、次のような種類に分類されている。
これらのソフトウェアによって、コンピュータ上での一般的な作業は全てまかなわれており、ハッカーは、全てのソフトウェアを上記のいずれかの種類のソフトウェアでまかなっていることが多い。この意味で、優秀なハッカーは自由なソフトウェアの利用と著作権法の制限の競合を回避しているのである。ネットワークで流通しているソフトウェアの大部分はこのように、合法的に流通している自由ソフトウェアなのである。逆に、このような状況でなお、商用ソフトウェアの違法複製を行う利用者はハッカーたちによっても批判の対象となる。 ハッカーたちは、自ら作成したソフトウェアを自由に使用できるよう提供する代わりに、他者が作成したソフトウェアもまた自由なものとして公開してほしいと考えている。そこで、通常プログラムのソース・コードを公開しない商用プログラムに対して、対抗心を抱くことがある。例えば、ソース・コードを公開しないプログラムの作者が、自分の作成したソース・コードの一部を使うことは不当であると考えるし、また、ハードウェアのインターフェースを公開しない周辺機器製造者のハードウェアの制御に自分のソフトウェアが使用されるのを好まない場合がそうである。また、そのような閉鎖的な企業のハードウェアについて、それをより効果的に動作させることのできるソフトウェアを提供しないと宣言することによって、そのハードウェア会社がインターフェース情報を公開するように働きかけることもある。 このように、自らの信念を主張する手段として、自らのプログラムを使用するためには、完全に著作権を放棄するのでは不都合である。そこで、彼らは、彼らの考える情報の自由に従って行動する場合にのみソフトウェアの使用を自由とする、ある権利関係を設定した。それは、ネットワーク上で、コピーレフト(copyleft) として知られる GNU一般公有使用許諾 (GNU General Public Licence: GPL)である。
3.2.1 コピーレフトコピーレフトは、ハッカーとして著名なストールマンによって提唱された「情報の自由」の一形態である。彼の主宰するFree Software Foundation (FSF) は全てのプログラマが自由に使用、改善することができるソフトウェア群を提供するというGNUプロジェクトを推進している [27]。このプロジェクトによって作成された GNUプロダクツと呼ばれる一連のソフトウェアは、基本的でありながら、高度な内容のものであり、教育研究機関のみならず一般企業にまで広く利用されている。 ハッカーたちに人気の高い基本ソフトウェア(OS)であるUNIXは、AT&T社の研究機関であるベル研究所の4人の研究員によって 1969年に開発された。それは、「スペース・トラベル」というゲームプログラムを、研究所ではあまり使用されていなかったコンピュータで動作させる過程の中で誕生したものであった。すなわち、UNIXは中心的な開発計画から外れた趣味的で周辺的なシステムとして誕生したのである [28]。UNIXは、非常に緩やかな使用許諾条件で配布された。AT&T社はUNIXが商業的に成功するとは考えておらず、自由な利用と改善を通じて、よりよいコンピュータ環境が実現されれば良いと考えていたからである。このため、UNIXのライセンス料は非常に安く、また、1974年からはソースコードも提供されていたので、教育・研究用OSとして広く普及した。また、UNIXは自由にソースコードを解析することができ、自由に改良を加えることができたために、さまざまな改良が非常な速度で進んだ [29]。このUNIXの普及と成功は、プログラミングにおける情報の自由の必要性の論拠を側面から助けている。 また、UNIXの発展における一支流であるバークレイ版UNIX (BSD)は、現在のインターネットの基礎である ARPAnetのOSとして改良された。このために、ネットワークを基本とした研究開発環境としてのUNIXの地位が確立された [30]。したがって、自由なUNIX文化とインターネットの自由さは一体不可分の関係として結びついていたのである [31]。インターネットが分散的で管理不能である構造を採用しているのは、それが核攻撃に耐えうる構造だったからというARPAnet時代の名残りというだけでなく、むしろ官僚主義や中央統制を嫌ったハッカー倫理の具体化のように思われる。 ところが1983年以降、AT&Tは、広く普及したためプログラムの命令体系が混乱していたUNIXを商用OSとして整理統合し、使用者に対してAT&T標準との互換性維持の厳格な義務を課し、これまでに比較すればかなり高額のライセンス料を請求するように方針を変えたのである [32]。そこで、UNIXを愛好する技術者たちの手によって、UNIXと同じ機能を提供するものの、AT&Tが権利を保有するコードを含まない、自由な互換UNIXが登場することとなっている。例えば、MINIXやFreeBSDやLinuxと呼ばれるOSである。ストールマンも同様にAT&Tの著作権から全く独立に作成された、UNIXと同一の機能を提供するOSと、そのOS上で動作するソフトウェア群を作成する計画を1984年に開始した。これがプロジェクトGNUである。 このプロジェクトGNUを進めるにあたって、彼は、ソフトウェアをより自由な状態におくためには、単に著作権を放棄するだけでは不十分であり、むしろ作成者が著作権を主張し、ソフトウェアの使用条件として、「ソフトウェアの自由な使用を妨げる行為を禁ずる」という権利主張の方法を考案した。これがGNU 一般公有使用許諾 [33] である。 一部のコンピュータ利用者は、自分たちが使っているソフトウェアがこのような理念と配布条件のもと提供されていることを意識していないと思われるが、GNUプロダクツの浸透にともなって影響力を増すものと思われる。しかしながら、「ソフトウェアは自由であるべきである」とする一方、FSFの理念に疑問を表明するハッカーも存在する。その理由の一つとして、非常に高品質かつ高機能でありながら、無料あるいは非常に低廉なソフトウェアが提供されているために、ソフトウェアの多様性が損なわれていることを挙げている [34]。
4 プライバシー
本節では、電子ネットワークにおけるプライバシーの問題に関して検討する。プライバシーについて、ハッカーたちは、個人対個人の場合と、個人対政府の場合とで相反する態度をとることが多い。 個人対個人の場合、彼らは、開拓時代の西部のように、それぞれの個人が自らの情報力をもって他人を制するという状況を楽しんでいる [35]。この意味で彼らはやはり無法者としての自らを容認しているのである。一方、個人対政府の場合、彼らの態度は一変する。彼らの観念では官僚的組織は対抗すべきものなのである。したがって、政府が彼らを取り締まるにあたって行う情報力の行使、すなわち、ネットワーク上での捜査については、合衆国憲法を盾に自らのプライバシー権の保護を主張する。これらの矛盾した態度は一個人それぞれについてみるならば、いずれかに統一されているのかも知れないが、ハッカーという集団で捉えたとき解決されていない。しかし、1990年に行われたハッカー一斉取締をめぐる諸事件をきっかけに一つの方向性がハッカーの側から提示されることになった [36]。
4.1 情報力の支配クラッカーは、しばしば自らの技術力・情報力から得られる破壊的力を誇示する。いわく、「アメリカ中の電話交換機を停止することができる」あるいは「国防省の軍事機密情報を入手することができる」と。時として、これらの行為は現実に行われ、ハッカーに対する社会の恐怖を喚起するのである。また、一方で、彼らは、これらの違法行為を行うことの正当化理由として、「一般の人々が信頼して依拠しているコンピュータ・システムがいかに脆弱で不安定なものであるかを示すことによって、社会の注意を喚起しているのである」という。摘発されたクラッカーたちが、社会復帰した場合、しばしばシステムの安全管理者として生計を立てていることをみるとき [37]、先の正当化理由が全く逃げ口上であるとは言えないように思われる [38]。実際、彼らはシステムの脆弱性をよく知っているし、彼らの目的は自らの技術的能力を他者に認めさせることにあるのであって、それを認めてくれる人々がシステムの管理者側であろうと、システムへの侵入者側であろうと、いずれでもかまわないからである [39]。 コンピュータを日頃から使用している人にとっては常識と思われるが、コンピュータは実に脆弱である。小さな個人用コンピュータから大型の汎用機に至るまで、わずかなトラブルによって致命的な破壊を招く危険を常に内包している。この脆弱性はシステムの機能についてのみならず、プライバシーについても全く同様にあてはまる [40]。コンピュータに記録されている全ての情報は、常に、何らかの形で読み出し得る状態になっており、それはシステムの側から見て、記憶領域に格納された電磁気的記録である点では、国家機密も他愛ないおしゃべりの記録でも同様なのである。 さらに、近年進行しているネットワーク化によって複数のコンピュータが電気的に結合されるようになると、より脆弱な要素が増大する。ネットワークはコンピュータ相互の情報交換用に設置されるのであるから、理論的には、ネットワークに接続されている全てのコンピュータに侵入することができる。ネットワークの安全対策はソフトウェア的に達成されているものであり、ハードウェア的には無防備であると言っても過言ではない。したがって、ネットワークに接続された一台のコンピュータの脆弱性はネットワーク全体の脆弱性として拡大し、事故の起こる可能性は飛躍的に増大する。このことをプライバシーについて考えてみると、ハッカーたちには、コンピュータに収められた全ての情報が、あたかも幕が掛けられた掲示版に書き連ねてあるように見えるだろう。幕をめくれば全てがそこに記述してあるのであり、ただ、その幕をめくる方法を一般の人が知らないだけだということになる。 電子ネットワークによる情報通信は不可視である故に、電話のように通信内容の秘密が維持されていると思いがちであるが、実際には、電話でさえ盗聴され得ることは周知の事実である。まして、コンピュータによる情報通信は、送り主と宛て先を付加されたパケットと呼ばれる情報単位に分割されて世界中に送り出されているのであり、そのパケットが通過するコンピュータの記憶領域には一時的にでも必ず格納されるのである [41]。適切なプログラムを作成すれば、自分宛でないパケットを受信して、元の通信文を復元することも可能である。こうしてみると、コンピュータを用いて通信をするということは、葉書によって文書を送っているのに等しい [42]。 現在では、インターネットの商業利用について期待が大きいが、インターネットが分散的で開放的なシステムであるが故に、これまでになくプライバシー的に問題のあるシステムであることを再確認しなければならない。クラッカーたちが行使していた技術力、情報力とは結局のところ、システムの本質を理解し、発見された脆弱性を悪用していたに過ぎず、技術者の視点から見れば、むしろ幼稚なものである。その意味で、優秀なハッカーはクラッカーたちを軽蔑しているし、システムの破壊などというような単純な行為には興味を抱かないのである。 法律や教育によって「できることではあるが、してはいけないこと」を知らしめることは重要な作業ではあるが、数知れず参入して来るだろう一人一人の利用者が、出気心を抱かないように期待することは困難だろう。そこで、ネットワークのプライバシーでは、最も現実的な解決法として技術的な解決、すなわち「暗号化」が議論の中心となるのである。誰でも覗ける掲示版に書かれていても、秘密の記号列ならば、宛て先の人物しか読むことができない。このことは、あたかも封書で文章を送ることに例えられるだろう [43]。 しかし、誰もが自由に暗号化技術を使うことを認めるべきかについては、個人対政府という局面で別の問題を生ずるのである。
4.2 ハッカー 対 政府1989年から90年にかけて行われたハッカー一斉取締によって、いくつかの個人用コンピュータが押収された。そのうちのいくつかはネットワークの電子会議室システム(BBS) として使用されており、その中には利用者の私信や個人的なファイルが多数格納されていた。それらのファイルはBBS機材に格納されたまま、捜査官によって没収され、財務府検察局(secret service) 調査官によって読まれることになった [44]。このハッカー一斉取締によって押収されたBBSのうちには、捜査官の誤解によって押収されたものもあった。そのうちの一つ、スティーブ・ジャクスン・ゲームズ会社 (Steve Jackson Games Inc.: SJG社)は、EFFの支援のもと、同社のBBSの中の電子メールや電子会議室記録をBBS機器ごと押収する行為が、電気通信プライバシー法 (Electronic Communications Privacy Act, 18 U.S.C. 2510 et seq.: ECPA)にで禁止された通信の妨害(interception)を構成すること [45]、および、同社の出版物の原稿を押収する行為が、プライバシー法(Privacy Protection Act, 42 U.S.C. 2000aa et seq.: PPA) で禁止された公表前の文書 (documentary materials) および職務活動の成果物(work product materials) の押収に該当すること [46]、を主張し、BBS機器の返還と損害賠償を求めて提訴した [47]。判決の中で裁判所は、PPAに関する部分について、財務府検察局が十分な事前調査を怠ったことで、プライバシー侵害がなされたことを認めた。すなわち、コンピュータに格納されている電子的記録が合衆国憲法修正第4条の保護を受けることが確認されたのである [48]。一方、ECPAに関する部分について、コンピュータに格納された電子メールはECPAに規定されいてる意味での通信に該当しないと判断し、捜査員が通信の妨害を行ったとする原告の主張を退けた [49]。SJG社やEFFは、電子メールが通信であると認められなかったことを不服として控訴している [50]。 この判決は、電子ネットワークでの捜査で、取締側がプライバシーについて十分な配慮をしなければならないことを示した点で、画期的なものであり、合衆国憲法がネットワーク上のプライバシーを保護していることをあらためて認識させる事件だった。しかし、裁判所の令状に基づけばBBSへの捜査が可能であること、またそれが実際に行われていることも、ネットワーク利用者の間に強く印象づけられた。 そうしたなかで、個人の私信についても暗号化しようという動きが強くなるのも当然である。この私的暗号化の提唱は違法行為を司法権力の目から逃れさせようとするクラッカーの身勝手な主張というだけでなく、前節のネットワーク上のプライバシーの問題とも結合することになった。こうして、暗号化技術に長けた人物によって作成された、数種類の暗号化プログラムがネットワーク上で提供されることになった。こうした暗号化プログラムは、送信者と受信者しか、この暗号を復号化する方法を知りえないものだった。この意味では、ネットワーク上のプライバシーは完全であり、暗号化して送信している限り、第三者から送信内容を読まれる危険性は消失したのである [51]。 ところが、これらの私的暗号化について、治安および防衛上の観点から問題点が指摘されることになった。例えば、麻薬取引の連絡にこの暗号が使用された場合、捜査当局によっても通信文の解読が不可能であるため、ネットワークの普及は常習犯罪者たちにとって好都合となる。このように、暗号化技術はネットワークを真の無法地帯とする危険性をはらんでいるのである [52]。また、暗号化技術は国防上の観点から、国外持出禁止となっているのだが、一旦ネットワークで提供された暗号化プログラムが、国外に持ち出されるのを差し止める方法はない [53]。 こうした動きのなか、プライバシーとネットワークの治安という両方の問題を解決する案として、FBIは「デジタル電話通信に係るプライバシー促進法案 (Digital Telephony and Communications Privacy Improvement Act)」を準備した。これは、送信者、受信者および司法権力の三者が通信内容を解読できる方式の暗号化技術のみを合法とするものである。同法案では、この暗号化方式を実行する“Capstone Chip”および “Clipper Chip”と呼ばれる暗号化回路を通信機器に装備することを義務づけ、これによって、ネットワーク上のプライバシーを維持したまま、ネットワークが無法地帯となることを回避しようとしたのである [54]。 この案については、ハッカーおよび法学者の側から轟々たる非難が沸き起こった [55]。一部のハッカーは再び強力な暗号化プログラムをネットワークで提供するようになった。こうした私的暗号化技術を利用する運動、および賛同者たちは「サイファーパンク(Cypherpunk)」と呼ばれるようになった。ハッカーたちの本能的な政府嫌いと基本的態度が発揮されたわけである。このように、何種類かの暗号化プログラムが出まわってしまっている以上、政府が狙ったような犯罪抑止効果は既に失われているように思われる。個人が政府と同等の情報力を獲得した場合に、個人と政府との力関係が変動することを実証した事例であると同時に、ネットワークの将来に大きな懸念材料を提供することになった。
5 まとめ本論文では、常習犯罪者として一般に認識されているハッカーについて、その変遷を示すことで彼らの思考・行動様式について示した。そしてこれらを端的に整理したものとして「ハッカー倫理」を紹介した。このハッカー倫理はすでに廃れたとされているが、現在ネットワークの中でなされている「情報の自由」と「プライバシー」に関する市民活動や議論に強い影響を与えていることを示した。 情報の自由については、ネットワークが情報をより早く幅広く流通させることができる能力を持つという点で、情報公開にとって有利な環境である一方、知的財産権に脅威を与えていることが示された。しかしながら、ネットワーク環境の中で、ネットワークの性質に調和した、新しい知的財産権の形態が模索されていることも示された。 次に、ネットワークのもつ情報伝達能力の故に、コンピュータに格納されている情報について、プライバシーが否定されかねない状況にあることが示された。しかしながら、裁判においてネットワークにおいても「合理的なプライバシーの期待」が存在すると認められたため、ネットワークにおけるプライバシーについて具体的に検討する必要が生じている。また、この問題を技術的に解決するために、暗号化技術が改善されたが、法の執行能力を維持したいと考える政府と暗号の利用者の間に摩擦が生じていることが示された。 これらの検討を終えて二つの提言をしておきたい。 第一は、ネットワークにおける一般規範の研究である。ネットワークが一部の研究者・愛好家のためのものではなく、一般社会の人々も参入するものとなってきている。こうしたなかでは古参者と新入者の間での軋轢が生じているという例を数多く目にする。かつては参入者の数が限定されていたので、古参者たちが新入者を個人的に指導するなかで秩序が維持されてきたのである。しかしながら、現在ではそのような指導が有効ではなくなってきている。そこで、何らかの秩序維持にあたる主体が必要とされるかも知れない。しかしながら、ネットワークが国家の枠を越えて広がり、また、ハッカー達が権力の介入を嫌い、さらに、ネットワーク技術自体が全体的な管理を不能とするような仕組みを採用しているために、国家が統制することは不可能だろうと思われる。こうしたとき、これまで自発的に維持されてきた秩序を維持し、発展させるために、法学者はネットワーク文化を正しく理解し、整理し、提示することでネットワークにおける一般規範の形成に寄与する必要があるだろう。ネットワーク文化と現実社会の法規範との冷静なすり合わせが求められるのであって、秩序維持の問題はハッカーやクラッカーを駆逐すればすむという単純な問題ではない。 第二は、ネットワークにおいて生じつつある新しい価値の維持・発展である。本論で示したように、ネットワーク文化の一部は、明らかに人類普遍の自由や権利に基づいており肯定されるべきものである。また、これらの価値を具体化するための活動も活発に行われている。確かにこれらの活動は既存の法規範との摩擦を生じさせているかも知れないが、このことをもって直ちにそれが否定されるべきではない。我々が現在享受している自由や権利は、長い過去の法規範との衝突の末に獲得されてきたものである。例えば、200年ほど前までは、世界のどの国家においても自分の考えを世に問うことは危険を伴う行為であった。ネットワークにおける新しい価値について検討する我々に求められているのは、近視眼的な違法合法の判断ではなく、いずれの価値が我々の幸福に寄与するのかを問う大局的な視点だろう。
References
Note
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白田 秀彰 (Shirata Hideaki) 法政大学 社会学部 助教授 (Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences) 法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450) e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp |