1 海の上と海の下と
「宮下! おまえ、いつ社員になったんだよ!」 と僕が呼びかけると、宮下はサングラスをかけたままこっちを見て、 「ずっと前からさ。」 とこともなげにいった。側のダイビングサービスの人が 「宮はずっと前からうちの従業員だ。」 と冗談っぽく言った。みんなサングラスをかけて髪が脱色して赤くなっている。 「あんたが今日の体験の人だね。今日は体験の人が他に三人いる。ま、詳しいことは船の上でしよう。とにかくよろしく。」 と太い腕をした古株らしいサングラスの男が手を差し出した。僕は 「こちらこそ。」 といいながら握り返した。港は潮が引いている。船の舷側は波止場のはるか下の方になっている。僕は体一つなので船の上に音をたてないように飛び降りた。 どうやら体験ダイビングをするのは僕の他にはOLらしい三人組だった。長い爪に真っ赤なマニキュアがしてあるのが何か変に思えた。体験ダイビングの僕たち四人を除いて、ほとんどの人は船にのってすぐか、乗る前にウェットスーツを腰から下だけ着て、肩は出したままの格好になった。エンジンが低く回転しだした。船はゴンゴンと音をたてて岸を離れた。 船は光をまき散らしながら、派手に波をけたてて進んだ。今日のポイントは大きな株の珊瑚のあるところだ。株の位置までは潮の流れの少ない浅い海底で、その株を境にして深く落ち込んでいる場所だった。だから、僕たち初心者は浅い側で遊び、ライセンス取得者はその深みの中に入っていくことになっていた。 船は風をきって、海はすばらしい藍色をきらめかせた。次々と現れる小島や、他のダイビングボートがおもちゃのように海面に散らばっている。僕は船の舳先の方に座ってその光景をながめていた。OLたちは大胆な切れ込みの水着を気にしてポーズを作り、船の揺れに耐えるのが精いっぱいといった感じだ。そしてクチャクチャとガムのようなものを噛んでいる。 船がエンジンをとめて碇をおろすと、すぐにダイビングポイントを示す赤い旗付きのブイが投げ込まれた。ライセンスをもった人たちは手際よく様々な道具を身につけると、船端にこしかけ、仰向けにひっくり返るように海に沈んでいった。 船には操舵手と補助者とさっき握手したサングラスの男と僕たち四人だけが残った。 「さあ、それじゃはじめますかぁ。」 と男は何かをふっきるように叫んだ。僕たちの足元には人間の抜け殻のようなスーツと不思議な道具が散らばっていた。 「大丈夫だから!」 という声を上の方に聞きながら、僕は泡だらけの世界に包まれていた。他の女の子達は梯子を使って船から海に降りたのだが、「あんたならできそうだ」といわれてその気になって、僕は上級者がやるように仰向けのエントリー(船から海に入ること)をしたのだ。 泡の中で僕はシュウシュウと自分の呼吸音をききながら、ぐるぐると海中で回転した。周りの泡が晴れてくると僕は先に海中に入った女の子達が下の珊瑚礁につかまっているのを見つけた。すると僕のすぐとなりにザブンと泡の塊が落ちてきて、すぐに体制を立て直した。そして僕に手で「耳抜きをしろ」と合図して、自分でもマスクの鼻の位置を指で押さえながら、ゆっくり沈んでいった。 僕は海底に足を付くと海面を見上げた。丸い光の塊がゆがんで揺れている。その傍らに僕たちの船の底が黒い影になって浮いていた。僕はゆっくりと呼吸しながら自分が海底に立っていることに満足した。銀色の風船のような自分の吐いた泡は、出口を探してあわてふためく羊の群れみたいに登っていく。 黒っぽいスーツをきたサングラス男(もちろん今は水中眼鏡なのだけど)が「こっちへこい」と手で合図した。これから30分のお魚ショーが始まるのだ。僕はわざと体をひねって若い魚のように男の後に続いた。海は澄み切って、ずっと遠くのライセンス保持者のグループが青い魚のようにヒラヒラと珊瑚礁に群がっているのさえ見えた。そして本当のお魚は、風に舞った木の葉のように珊瑚を取り囲んでいる。 海の中は青いセロファン越しに覗いたように見える。だから僕は小学校の時の夏の工作の課題で、空き箱に青いセロファンを張って、水族館を作って持っていった。赤い色紙を厚紙に張って、蛸とヒトデを作って、銀色と青の色紙で魚を折って作った。青いセロファン越しにみる赤いヒトデはくすんだ深い色をしていた。ピンク色の珊瑚は紫色になった。セロファンの水槽の周りは糊でシワシワになっていて、揺らめく波のように見えた。 今、僕の視界に映っているのはもっと透き通った明るい海底だ。水はアクアマリンの宝石のように澄んでいて、海面から降りてくる光の網がゆらゆらと踊っている。遠くのほうは青い水彩絵の具を溶かしたように染まって、白い砂の海底をぼんやりと消していた。たくさんの銀色の小魚が掌からすべり落ちていく砂粒のようにさらさらと流れ、黒い蝶のような魚は僕の目の前をひっきりなしに飛び回る。 僕の隣の女の子はサングラスの男から渡されたなが細い魚の半分をちぎりながら水にまき散らしている。すると僕の目の前の黒い魚は激しい流れを作りながら彼女の方に群がった。魚に取り囲まれた彼女は、ホラー映画の被害者のように魚に包まれたまま逃げまどった。まるで魚で組み立てられたボールから足がでているみたいだ。 僕の手の先でゆらゆらと揺れているイソギンチャクに指を触れてみる。不確かな手触りなのだがイソギンチャクがすっと触手を縮める事で僕の指が触れた事がわかる。隣の黒い羊歯のような生き物に触れようとしたら、隣のダイバーが僕の視界に手を差し入れて、「それはさわってはいけない」と身ぶりで示した。僕はいつもより派手に頷くと、自分の吐き出す泡が上っていく方を見上げた。自分の頭の上に船のそこが浮かんでいるのはとても不思議な光景に思えた。 流れのない場所なので、海底の水は静止している。僕は空気のような媒質の中を漂っていく。珊瑚礁の上で恐ろしくゆっくりとした"とんぼ"を切ってみる。海底は僕の頭の周りを一周していく。自分がふと水色のジェルの中に閉じこめられるような感覚にとらわれる。それほどに水の抵抗は太くて確かだった。 海中から上がってくるときのダイビング機材は恐ろしく重い。僕はよろよろと船端に腰をおろすとBCジャケットをぬいでタンクから解放された。 「はあ。」 とため息をつくと海上の風は少しなま暖かく、湿っているように感じた。他の女の子達もだいたい同じ感じのようだ。上級者が戻ってくるまで少し時間があるので、僕たちは船の上でぼんやりとしていた。あんまりたくさんのきらきらお魚がよってくるものだから、僕は少しうんざりしていた。どうやらここでは魚の餌付けをしているらしい。 サングラスの男は魔法瓶から冷たいオレンジジュースをみんなにまわした。喉が乾いていた僕はありがたく飲み干した。そのときOLの女の子の一人は爪をながめて 「やだ、われちゃった」 と愚痴をこぼしていた。僕は「馬鹿野郎」と思った。そのときふとサングラスの男の方をみたら「馬鹿野郎」と言った後の口の形をしていた。 海から上がってくるダイバーはずぶ濡れのネズミのようだ。基本的に暗い色のウェットスーツはぬらぬらと熱帯の太陽に照りかがやき、激しく飛沫を辺りにまき散らして、船の上は水浸しになる。海水は船のすみの方にながれていき、行き場を失ってみずたまりを作る。 宮下は水に濡れて不思議な質感をもったスーツを上半身だけ脱ぎ、黒く日に焼けた肩を太陽に誇示した。手際よく彼の道具はまとめられて、甲板のすみに並べられた。そして宮下は不安定な船の上で少しよろめきながら、僕に 「どうだった?」 と聞いた。僕はダイビングでみた海底のことよりも、宮下の一連の動作が美しいと思ったので、少し笑いながら 「良かったよ。また、潜りたいね。」 といった。 人間にはそれぞれいるべき場所がある。宮下にはぎらぎらした太陽の下の甲板で、水を滴らせながら働いている姿が似合うような気がした。ふと、彼が都庁の机の前にいるときの、飼い慣らされた犬のような姿を連想した。僕はどこにいるべき人間なのだろうか?僕はなぜか日に焼けた自分の首筋が見たいと思った。 船は既にエンジンをかけて、快適なスピードで港に向かっている。OLの一人が舳先に座って風に自分の長い髪の毛をなびかせている。髪は風を含んでいきいきとはねまわった。きらきらとした水滴が彼女の背中を流れていく。原色の赤い水着が誘うように僕の目に関わってくる。それはそれで美しい光景のように思えた。 船が港に戻ってくると、波止場にはダイビングサービスのトラックが来ていた。手際よく綱が投げられ、くるくると太い金具に結び付けられた。僕は自分の荷物は何もないし、宿もすぐそばなので、「ありがとう」とサングラスの男に言うとさっさと岸壁に上がった。宮下は自分の荷物がたくさんあるし、たくさんのタンクを陸揚げしなくてはならないので忙しそうだった。 僕はじゃまにならないようにと、声もかけずに、波止場の白いコンクリートの上を宿に向かった。少し遅れてOLたちが続いたようだ。ジョリジョリとゴム草履が鳴って、自分の頭の影が少し先に進む。後ろの方でキャラキャラと笑い声が聞こえる。僕の足元には、ぽとぽとと滴が垂れたが、焼けたセメントに吸い込まれていく。 僕はちょっと港の入り口にあるアイスクリームスタンドに目をやった。アイスクリーム屋の日陰の店内では、太ったおねえちゃんが退屈そうに新聞を読んでいた。細い道を入った宿の入り口近くの生け垣には、たくさんの赤い花が咲いている。その中のいくつかは太陽の日差しにちぢれて茶色に枯れていた。僕は門を回り込むと屋外の立ちがれたひまわりのような粗末なシャワーに近づいた。ふと鉄の匂いが鼻をついた。 生け垣の向こうの方から、 「やだぁ、こんなにやけちゃった。どおしよお。たいへんだぁ」 という聞き覚えのある声が聞こえてきた。 「さあ、どうしようかね」 と僕は思った。そしてその部分だけ磨かれて、夏の太陽を反射するコックをひねって真水のシャワーを浴びた。少し甘い味のする真水は僕の体を伝い、コンクリートの上を流れて水脈を作り、赤い花の根元辺りに吸い込まれていった。
2 赤い岬少し遅い午後は一日で一番けだるい時間だ。僕はアイスクリーム屋でコクのあるチョコレートアイスを食べながら退屈そうな新聞をながめている。ときどき目を上げて港の向こうの輝く海を見ると、涼しげな日陰のここが、まるで取り残されたようにも感じる。扇風機が低くうなりながらまわっている。窓際の僕には海からの少しなま暖かい風がやってきて、外の焼けたコンクリートの名残を感じさせる。店のおねえちゃんも奥に入って、店には誰もいない。扇風機に派手な音をたてて蝿がぶつかっていった。外ではときどき想いだしたように車が通り過ぎていく。 静かな足音がして一人の客が入ってきた。店の人は誰も気がつかないらしく店の中の静寂は破られない。僕が新聞を大きな音をたててめくっても真夏の固定した空気は動かなかった。僕は相変わらず退屈に新聞をながめている。その誰かは気配もなく僕の前に座った。こんなにがら空きなのに、と僕は不信に思ってその誰かをみた。それは町役場の女の子だった。カットオフしたジーンズにTシャツというラフな格好だ。下着のラインが少し透けていて、僕は少しどきまぎした。 「こんにちは、やっぱりあなたね。」 「ああ、どうも、こんにちは。仕事はどうしたんですか?」 「今日は土曜日よ。公務員は午後はお休みだわ。」 「なるほど、ここでは曜日の感覚がなくなっちゃうからね。」 僕は改めて新聞の日付をみて、この新聞が昨日の新聞であることに初めて気がついた。 「ところで、僕は君の名前を聞いてなかったね。」 「美砂よ。」 「美砂さんか。狭い島とはいいながら良く出会うね。」 「町は狭いから、知ってるものなら一日に一回はすれ違うわ。観光者が多いから気がつかないだけよ。それにこの島にはまだ他に集落があるのよ。」 「それは知らなかったな。だいたい僕はこの島の港の周辺と岬の向こうのキャンプ地にしかいったことがない。」 「何なら、案内しましょうか?私は島の役場の職員だから、島の観光ピーアールに貢献する義務があるわ。」 「そりゃ、悪いよ。だいたい君のせっかくの休みだろう。」 「なにいってんのよ。私はこの島に住んでいるんだから、ときどき変わったことしなくちゃ、退屈で死んじゃうわ。」 店の奥からおばちゃんがでてきた。彼女はストロベリーを注文して受け取ると窓際の僕の席に戻ってきた。彼女はアクアマリンに輝く午後の海を背景にしてアイスクリームを食べだした。おばちゃんはまた奥の方に引っ込んでいった。蝿もおばちゃんの後を追って奥に消えていった。 店の中は低い扇風機のうねりと店の外から漂ってくる海の音だけになった。サクサクと彼女がアイスクリームのコーンをかじる音が聞こえる。それは海辺を歩いている足音のようだ。彼女はコーンの最後の一かけらを口にほおりこむと「いきましょう」と目で合図した。なぜなら彼女の口はもぐもぐと忙しかったからだ。 彼女の車は錆があちこちに吹いたジープだった。僕がしげしげとながめると 「海が近いところではどうしたって錆ちゃうわ。気にしないことよ。」 と笑った。 ジープの助手席のシートはひなたにでていたらしく、恐ろしく熱かった。僕は彼女にそのことを告げて後ろの荷台に座った。彼女は豪快に車をだすと、港の広場を大きくまわって島の一本しかない県道に入った。あまり上等といえない舗装のため、僕の座っている荷台は激しく揺れた。彼女が前の方で「しっかりつかまって!」と叫んだ。すぐに道は急な上り坂に入り、僕は荷台の端にしっかり捕まっていないと転げ落ちそうな気がした。 いつもの形而上的な砂浜にでる道とは反対のほうに入る。松林の隙間から遠くの海岸が白い。港の反対側にもたくさんの島々が海に浮かんでいる。切り立った崖になっているところでは影が海に落ちている。再び道は下り坂になってきた。小さな港に疎らに漁船が散らばっている。遅い午後の日差しの中で無人の光景が白々と続いている。 港の反対側にある集落は申し訳ないぐらい静かだった。解体業者、ゴミの消却場、木造の公民館、彼女のジープはすばらしい勢いでこれらの光景をおいてきぼりにした。乾いた道路から上がる土埃が振り返った世界を白くおおっている。振動のせいだろうか、彼女は一言もしゃべらなかった。僕も一生懸命ジープにつかまっていた。 道はまた上りになった。今度はどんどん山の方に入っていく、道は海沿いから離れて深い林の中をジープが駆け抜ける。道の両わきからでている木々の枝がフロントガラスにピシピシとぶつかる。ついに舗装道路が終わり、揺れはますます激しくなった。 突然周りが明るくなって、僕たちは切り立った崖の上にでた。傾きはじめた太陽が遥か下の水面に光を投げかけている。崖は僕たちのいるところのすぐ先から切り離されるような格好で海面に落ち込んでいた。下の方では中型トラックぐらいの大きさの岩に、どちらかといえば穏やかな波がきらきらと泡をかぶせている。すこし気をつければ岩の先の海中に巨大な珊瑚礁が広がっているのが分かる。そこは他の海面と違って少し黒ずんで見えるからだ。 彼女は少し放心したようにハンドルを握ったままエンジンを回していたが、思いだしたようにエンジンを切った。突然音を失った風景はすぐに風の音を取り戻した。 「ここにつれてきたかったのよ。ここはこの島で夕日がいちばんきれいに見通せる場所なの。」 「それにしてもたいへんな道だったな。自分の顎にひざをぶつけるかと思ったよ。」 「だって夕暮れは私たちがやってくるのを待っててくれないのよ。」 「まだまだ日の入りまでには時間があるじゃないか。」 「変化していくところが大事なのよ。」 彼女はジープから飛び降りると崖の縁のすぐそばまでいき大きく伸びをした。僕も荷台から降りた。降りるときに腰が少し痛むのを感じた。だから僕も彼女の隣にいって大きく伸びをした。遠くからやってくる海の風は少し甘い薫りがした。遥か前方の海は近づいた太陽に白く輝き空も白っぽく光っている。まるで忘れられた遠くの記憶のようだった。 ところどころ輝く海面に黒い点が見える。 「あれはなんだい?」 と僕は彼女に尋ねた。 「ダイビングボートよ。あの辺りには大きな根があってポイントになっているのよ。」 彼女はずっと遠くの海面を見つめたままだ。 僕たちは柔らかい草の上にぺたんと座り込んで、そんな風にいろいろなことをしゃべり続けた。自分の仕事のことや彼女の以前の仕事のこと。少年の頃のこと、少女の頃のこと。海のこと山のこと。穏やかな日のこと、台風の日のこと。少しずつ時間が動いていく。 気がつくと彼女の横顔は沈む夕日の強烈なコントラストを受けて黄色くやけた絵のような色合いに染まった。僕は振り返って島の中心部の山を見上げた。島も夕日に黄色く染まっていた。やけに青すぎる空が不自然な感じに目に映る。 ふと僕は港で出会った島のオババのことを想いだした。白い木の柱の「沖縄戦・米軍初上陸の地」という文字が記憶によみがえってきた。僕は戦争のことはしらない。少し古い写真のようなこの光景が瞬間的なタイムトラベルの感覚を呼び起こした。 「この島は戦場だったってね。」 と僕は呟いた。 「遠い昔のことよ。ここは私の選んだ場所だから、いつまでも夢を見ていたいわ。」 目の前の山の光景は写真が色あせるように赤みがかっていく。僕がもう一度彼女の方を向き直ると彼女はまだ金箔を散らしたような海面を見ていた。何か彼女にはこの岬への思い入れがあるのかも知れない。 太陽が西の空を燃え上がるように赤く染めあげて海面に没していく。遠くの方で海鳥が舞っているのが鮮やかなシルエットで見える。振り返れば、深い藍色に染まった空に彼女の横顔が奇妙な感じで赤く輝いている。 「すごい夕暮れだね。全く世界はまっかっかだ。僕の地元の海は太平洋岸だから、朝日は登っても夕日は沈まないんだ。こんなのはじめてみたよ。」 僕が彼女の顔を見つめたとき彼女の瞳が潤んでいるように見えたのはなぜだろうか。 「きれい。私はここの夕暮れがすきなの。」 彼女は感傷的な口調だった。 見おろせば切り立った崖は真っ赤に輝いている。ぎらぎらと輝く海面に散らばった黒い芥子粒の様なダイビングボートの影は緩やかな航跡を曳いて移動をはじめていた。 そして太陽が姿を消すと急速に夕闇は紫色に変わっていく。少し悲しい夕闇が辺りに忍び寄ってくる。僕は生臭い水の匂いがやってきたことを感じた。水の匂いは僕の視覚からやってくる。太陽が沈んでいった空の遥か天頂に僕は一番星を見つけた。ぼんやりと星を見つめていると崖の方に引き込まれそうな気がした。 エンジンのまわる音がして僕は我に帰った。彼女はライトをつけると僕に手で合図した。彼女は帰り道は少し穏やかな運転をした。助手席に座ったからかも知れないけど、港に戻ったとき今度は腰が痛まなかった。僕たちはこの間の居酒屋で待ち合わせする約束をするといったん別れた。帰り道でまたどこかから蛇皮線で奏でる琉球民謡が聞こえてきた。静かな砂の上で僕の足音がかすかに鳴っている。 (つづく)
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白田 秀彰 (Shirata Hideaki) 法政大学 社会学部 助教授 (Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences) 法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450) e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp |