1 朝日の中で
カーテンを引き忘れた窓からの朝日に促されて、 何か明るい風景のような浅い夢を辿りながら僕はかなり早い時間に目ざめた。 二日酔いの頭痛もなかった。 「うーん、快調、快調。」 なんて一人で勝手にいいながらベッドの上で伸びをした。 網戸になったままの窓から見上げれば、山の端から少し上った朝日は、 早くも熱帯の突き抜けるような青空を照らしだしている。 ふと風に揺れるようにラジオ体操の音楽が流れてきた。 朝食までには時間がかなりあいていたので、 昨日のTシャツとランニングパンツ一枚でゴム草履をつっかけて音のする方に出かけ た。いくつかの民宿と商店がならぶ車一台程の幅の路地を進む。 日陰には朝の冷たい水の匂いが残り、 昼間の土の匂いを含みはじめた日向と競い合っている。 不意に開けた島の小学校のグラウンドでラジオ体操は元気良く進行中だった。 坊主頭の小学生達が白いTシャツを着て腕や足を振りあげている。 校門の脇には学校全体を支えるように大きなガジュマルが根を張っていた。 僕はガジュマルの木によりかかって、 小さな白い旗が翻るようなラジオ体操を見ていた。 ふと見上げるとガジュマルの木にはたくさんの蜘蛛の巣がある。 朝露を飾った小さな白い窓が、 ガジュマルの機の幹のゴツゴツした樹皮の隙間に開いていた。僕は、 たくさんの蜘蛛の巣を見上げながら、 ガジュマルの木にたくさんの命が暮らしている姿を想像した。 それは島の自然に網を張って生きているたくさんの生き物や人間の姿に結びついた。 朝日が照らしだす校庭で細い体を精いっぱい張って体操をする少年達。 それは夏の朝日を迎える礼拝のようだ。そういえば僕の故郷の町では子供が減って、 もう朝のラジオ体操はやらなくなったと母からの電話できいた気がする。 故郷の朝に夏の太陽はどんな表情で昇るのだろうか。 僕がぼんやりとラジオ体操を眺めていると体操は終わった。少年達は、 かつての僕たちと同じように大きな声で一日の冒険の計画を確認しあいながら蜘蛛の 子のように散らばって行く。そして校庭には二、三人の子が残り、 土の上にしゃがみ込んで何か密やかな打ち合わせを続けている。 僕はさわやかな気分で港の方に歩いて行く。口を大きく開けてあくびをすれば、 海風が喉の奥に潮の香りを残す。 途中の家々の門の上にはシーサーが必ず置かれている。立派な家、ささやかな家、 誰も住まなくなった家。シーサーは大きな口を開けて魔を払う。 港の堤防に着くと何人かが朝の風に吹かれていた。 そこには真昼の時間を除いてだれかしらが座っている。 僕は海にむかってシーサーみたいに大きなあくびをした。 隣に座っていたしわしわのお婆が軋むような声で「おはよう」と声をかけてきた。 僕はあわてて「おはようございます」と言った。お婆は「どこから来た」 と琉球言葉できいた。僕が「東京からだ」というと、お婆は 「東京の客は夜更かしでいけない」と言った。そして「今日が何の日か知っているか」 と尋ねた。「知らない」と応えると、「後でいいからすぐ側の白い木の柱を見てみろ」 とか言った。そしてお婆は「ごめん下さい」とかなんとか言いながら、 よたよたと自分の屋敷に戻っていった。 堤防から降りて近寄ってみれば、その白い木の柱には「沖縄戦・米軍初上陸の地」 というようなことが書かれていた。僕には、 少し強すぎる朝の日差しが邪魔な気がして空を見上げた。
2 海面の下は宇宙九時くらいに宮下が部屋へやってきて、 この島にきてダイビングをせずに帰るのは馬鹿だと言った。 僕がライセンスをもっていないと言ったら、「体験ダイビング」 ならライセンスなしでできると教えてくれたので、 僕は宮下の宿に近いダイビングサービスに明日の体験ダイビングを頼んできた。 そんなわけで、僕が形而上的な砂浜にでてきたのは十一時を少しまわった時間だった。 昨日と同じように緑と青の縞模様の大きなテントが翻り、 数人の海水浴客が散らばっていた。着替える手間を省くために、 僕はスイムショーツの上に白くて薄いパーカーを羽織り、 ゴム草履をつっかけてきていた。そしてパーカーを適当な松の木にかけると、 すぐに澄み切った朝の海水に身を浸した。 海岸から五メートルも行かないうちに珊瑚礁が広がっている。 珊瑚の角で怪我をするし、何がいるか分からないから(毒をもった貝がいたり、 ヒトデがいたりするらしい)ここに直に足をつくのは危険だ。 だから僕は足がつきそうになるほど浅いところには行けず、 珊瑚礁の周りをまわるコースを泳いでいる。 海面から珊瑚礁の頂上まで一メートルほど、 海底から海面まで六メートルほどの具合だ。 海底は白い砂で明るく見える。所々島のように小さな珊瑚礁が海底に散らばっている。 それぞれの珊瑚礁の上には雲のように小魚が舞っている。 その島々の上に大きな緑色のブダイが飛行船のように浮かんでいる。 海面近くには銀色のダツが、翼を付け忘れた旅客機のようにすいすいと進んでいる。 僕はダツと同じ位置にいて、この海底を見おろしている。 少し空を飛んでいるような気分になる。水中眼鏡でみる自分の足は白くて細い。 かつて故郷の川の中でみた光景と同じだ。僕は水中で魚のように一回転してみた。 海面で白い太陽がまん丸く広がっている。 僕は仰向けのまま少し死んだふりをしてみた。海面の下は静かで青いところだった。 呼吸を止めた僕は本当に死んだ人のような気がした。 それでも死んでいるのは四十秒が限界だった。 泳ぎ疲れて砂浜に座りこみ、パーカーを羽織って海を見ていた。 昼過ぎの沖縄の太陽は強烈で、 まともに肌をやいたら火ぶくれになると宿の主人が言っていた。 何も知らない県外からの客には病院おくりになる人もいるのだそうだ。 だから僕は用心してフードまでかぶっていた。 フードの限定された視界の中を色とりどりの水着を着た男や女やおばさんや子供が通 り過ぎていく。誰一人として知った人がいないというのは気楽な気分だ。 沖の方に出ていった奇麗な女の子を視線で探したり、 いちゃつくアベックを観察したりして、僕は形而上的な砂浜に座っていた。 「エロスとはなんでしょう!」と哲学の最初の授業で叫んだ教授の顔が思い浮かぶ。 大学の休みは、いつの間にか始まっていつの間にか終わっていた。 休みは単位を取得すべき講義のテストの終了と同時に、もしくはそれ以前から始まり、 大学の友達からの「夏明けの最初の授業はいつだ?」といったような電話で終わった。 夏のキャンパスの様子を僕は知らない。運動部に入っていたなら、 いろいろなドラマがそこで演じられているのをかいまみることができたろうし、 自分がその中に巻き込まれることもあったかも知れない。けれども僕は、 白い紙切れを教授の机にたたきつけて蒸し風呂のような試験会場から脱出した瞬間か ら、夏の水脈を探す騎士に変身した。そして針金で作ったように細い自転車に乗って、 どこか遠い冒険の町を目指した。 自転車は気高い乗り物だ。疲れるのでおじさんには乗れない。 結構危険なので子供には乗れない。一人しか乗れない。 交通ルールなんかまるで無視できる。乗っている人間が生きている限り前に進める。 そして静かなので風の音が聞こえる。 僕は学生時代にあちこちの町をまわった。でも僕は町が好きなのではなくて、 町と町を結ぶ細い山道を好んだ。夏の木々がおおいかぶさる街道、道の脇の湧き水、 道に沿った渓谷の涼風。静かにまわる車輪の音。 夏の水脈は自転車とともに静かに移動した。風と道への静かな集中は、 夏への不思議な一体感をもたらしてくれる。少年達が自転車を忘れて車を買い、 隣に女の人を乗せるようになると、夏は彼らを見放していく。 カーステレオから流れる音楽は風の音を遮り、 香水の匂いは水脈の匂いを覆ってしまう。 僕も大学を出てから自転車には乗っていない。 仕事の関係で休みらしい休みがとれなかったのだ。 いつしか自転車は錆び付き捨てられた。僕は騎士の称号を剥奪されて夏は姿を消した。 喉が乾いたので、僕は砂を払いながら立ち上がると、 松林のなかのたった一軒の小さな売店を目指した。松林の中は必要以上に暗く感じる。 売店の愛想のいいオバチャンからビールを二缶受け取ると、 僕は側のベンチに腰をおろした。 売店の毛の長い小さな犬が僕の足元にじゃれ付いてきた。 するとその後からまだよちよち歩きの子供がやってきた。 そのまた後ろから十七歳くらいの女の子が「だめよ、だめよ」と言いながらでてきた。 僕は 「この子オバチャンの子?」 と聞いた。するとオバチャンは大笑いしながら 「あたしはもう五十よ。その子の母親はそっち」 と十七くらいの女の子を目で示した。僕はちょっと驚いた。 十七くらいのお母さんは軽く会釈をして自分の娘を抱いてあやしだした。 小さな娘は口から赤い飴玉をこぼした。 お母さんはそれを手で受けとめると自分の口に含んで軽くなめて、 口移しで娘に与えた。 僕は不思議な感覚にとらわれてその様子を見つめた。 木漏れ日が辺りに光の斑点をまき散らし、ゆらゆらと揺れた。 次の客がきてオバチャンにビールを注文して、その世界は現実に戻った。 僕はまたハレーションを起こす海岸に降りていく。 明るい浜辺はコンクリートで固定したように白く不変な感じだ。 僕はもう一本のビールを飲みながら浜辺で理論哲学者になり、 パーカーを脱いで海中で実践哲学者になる。浜辺はあまりに明るくきれいなので、 形而上的だ。そして松林はあまりに暗いので、 猥雑な生命の神が幼い娘に命を吹き込んでいる。
3 青い夜民宿の夕食が終わると、僕にはする事がなくなった。部屋に戻って、 持ってきた小説をぱらぱらと読んでいても退屈だ。 本を部屋のすみに投げ出してスタンドを消し、僕は目を閉じた。 窓から外の明かりが青く漂ってくる。昼間見た青い海の中を思い出す。 夜の海はどのくらい青いのだろう。宮下が潜ったナイト・ダイブのことを考える。 夜の海の底は群青に沈んで、淡い明かりを灯した熱帯の魚がゆっくりと舞っている。 きらきらとプランクトンが光の帯を作って流れていく。まるで天の川のようだ。 突然黒い影が底のほうから立ち登ってくる。 どんどん広がって真っ黒な闇を作っていく。どんどん、どんどん広がっていく。 トントンとノックする音で僕は目を覚ました。僕は電気を付けずにドアを開けた。 だいたいドアには鍵などかかっていなかった。 ドアの向こうには夢の中で広がったような黒い影が立っていた。それは宮下だった。 「居酒屋があるから、飲まないか。」 と言った。 「乗った。僕も退屈していたんだ。」 と僕はTシャツにランニングパンツといういつもの格好でゴム草履をつっかけた。 家々の明かりの散らばる細い路地を通り過ぎていくと意外なところに居酒屋はあった。 ドアを開けると珊瑚の残骸で作った鳴子がカラカラと鳴った。「いらっしゃい」 と以外に若やいだ声がした。僕たちはいちばん奥のテーブルに腰をおろした。 この島のどこにいたのかと思うくらい派手な化粧の若い女がおしぼりを持ってきた。 宮下は慣れた様子で 「オリオン二本。それとスルメ。」 と注文した。宮下は今日の海の様子やダイビングのこと、 ほかの海のことなどを話した。 僕は形而上的な浜辺のことや東京の自分の仕事の話をした。 宮下はあちこちの海に潜っていた。 「どのくらいやってるん?」 と尋ねたら十年という答が返ってきた。おそらく大学時代から続けているのだ。 「いろいろ潜ったけど、ここがいちばん。いちばんきれいで、魚がたくさんいる。」 と宮下は言いながらスルメを裂いた。 「明日はあんたも潜るんだろ。潮の流れだけには気をつけなよ。 気がつけばどんどん流されているからね。ま、もっとも、 体験ダイビングではそんなところには行かないけどね。」 「体験ダイビングは宮さんが世話になっているところと同じショップだよね。」 「うん、そう。だから明日は同じ船だね。」 僕たちは明日の無事を祈って乾杯をした。 僕たちの突然の乾杯に別のグループがこっちを向いた。 そのときカウンターで島の男たちと飲んでいた女の子がこっちにやってきた。 彼女はショートヘアーで、僕は昨日のパーティーの女の子ではないかと思った。 ところがその通りだったのだ。 「昨日は楽しかったわ。一緒に飲んでもいい?」 ときれいな標準語で話しかけてきた。 「どうぞどうぞ」とかいいながら、僕たちは席を開けた。 彼女はこの島の町役場の職員だった。出身は名古屋で大学は東京だった。 大学時代に沖縄の島に魅せられて、とうとう住民として住み着いたという。 「東京で生まれて、東京に住んでいても、住民票だけはこっちという人も多いのよ。」 と彼女はいった。 「実は僕もそうなんだ。」と宮下が言った。 「へえ、じゃあ君は出稼ぎ労働者なんだ。」 「そういうことになるな。」 僕たちはくすくすと笑った。島のことに詳しい町役場の職員の参加で、 僕たちの酒の輪はどんどん広がり、 そこらへんの島のオジチャンなども加わって大騒ぎになってきた。 島の小学校の先生もやってきた。 細い金縁の眼鏡をかけているなかなかお洒落な先生だ。 まだ年は若くて僕と同じくらいだと思った。 「ところで夏の水脈ってのがあるのを信じますか。」 と僕はきりだした。 「“夏の水脈”ねぇ。」と宮下。 僕は故郷の海や、自転車で進んだ山間の渓谷の思い出を話した。 「私は分かるなぁ。子どもの頃の夏休みって何か特別な時間だったわ。」 「そうでしょう。僕はそれを取り戻しにこの島まできたんですよ。」 「わぁー、ロマンチストね!はーずかしぃー!」 と彼女に笑われてしまった。でもすぐ後に彼女は 「確かにここには子どもの頃の夏があるわね。」 と真顔でいった。 「私は永遠の夏休みを取るためにここに移ったのよ。」 彼女は勝ち誇ったように宣言した。 「あなたも住民票を移してここの人になっちゃいなよ。今ならお安くしとくわよ。」 彼女はビールのコップを持ち上げて、いたずらっぽくいった。僕は「そうだね」 といいながら、かなり本気になって住民票の移転を考えた。 島の酒場はますます盛り上がっていたけど、僕は宮下と彼女を残して酒場を出た。 帰り道にどこからか蛇皮線の音色が聞こえてきた。 低く琉球民謡を歌う声が流れてくる。ゆったりとした夜が流れてくる。 さらさらとした夜が紺色に鈍く輝きながら辺りを満たした。 この間の生け垣の白い花が、風の止まった空気の中で強く匂っている。 今夜は蒸し暑い。僕は夏の水脈を捕まえた気がした。 それはショートヘアーの女の子と何か密接に結びついてるような感じがする。 僕と同じように夏を探しにきて、夏の官吏となった女の子。 僕もここの住民となるのだろうか。 低く蚊が耳元を通り過ぎた。 そういえば部屋の蚊取線香はまだ残っているんだったっけ、 と僕の思考は身近な問題に移った。「今夜は良く眠らなくちゃ。 明日はダイビングの日なんだから。」ザクザクと白い珊瑚礁の砂が足元で音をたてた。 (つづく)
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白田 秀彰 (Shirata Hideaki) 法政大学 社会学部 助教授 (Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences) 法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450) e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp |