題名未定

* 題名未定 *

白田 秀彰

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1 記憶の砂浜

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seashore

少し生臭い風が前の方から吹いてくる。 ざわざわと鳴る松林は激しく木漏れ日をちらつかせる。 細い獣道を風の吹き付ける方に向かって進んでいけば、 青い宝石のような三角形のきらめきが迫ってくる。 そして焼きつける砂浜に僕は駆け出す。

波打ち際には巨大な太古の生き物の骨のようなテトラポットが打ち上げられている。 そこは僕たちの領域だ。 僕たちはチョークでそれぞれの隙間に名前を書きつけて自分の隠れ家にしていた。 大雨のあとは時として砂が流れ込み、チョークが流れ、僕たちの領有は曖昧になった。 そのときはいち早く浜にでてきた奴から、 手あたりしだいに自分の紋章を書き込むのだ。

ときどき浜辺には何かよく分からない死骸が打ち上げられた。 夏の激しい日差しの中で死骸は急速に乾燥していくか腐敗していった。 そのとき急激に立ち登る腐敗臭はなぜか強く海を印象づけた。 海の匂いは腐敗の薫りとにている。

そんな記憶を辿りながら、僕は松の木の多い沖縄の山道を越えて浜辺を目指していた。 急な上り坂のアスファルトの道路は僕にかなりきつい運動を強いていた。 それは重い鞄を肩にかけて通学した夏休み前の下校のつらさににていた。 坂を登りきると、大きな入り江が目の中に飛び込んできた。 浅い入り江はその先の海流の深い藍色とは違って明るいクリームソーダ色をしていた。

不意に強い海風が吹いてきた。そこには腐敗臭がなかった。

海岸に向かって続く下り坂の道の両わきには、 真っ赤なハイビスカスが垣根から吹き出すように咲いている。 ハイビスカスの赤と垣根の緑と強い日陰の黒が混ざりあってマチスの絵を連想させる。 道はだいぶ海岸に近づいてきたので、 海は少し変わった種類の松林の向こうがわになった。道ばたに山羊の小屋があった。 山羊は那覇のホテルの主人のように疲れた首を持ち上げて「メェー」といった。 あたりの熱い空気は今は静止している。空気までが熱で疲れているようだ。 道は行き止まりになって埃っぽい広場になっている。 僕は松林の中の細い道に入っていった。黒い深い松林だ。

黒い松林をでたところで僕の視覚は大きなハレーションを起こした。 それは長い上り坂の記憶とつながった。

僕たちは海を目指していた。そこは「泳げる海」だ。 そこは僕たちの住む町から長い距離を走った先にある二つの連続した山を越えたとこ ろにあった。僕たちは中学生だった。だから自転車で朝早く家を出た。 水道の水を小さなポリタンクごと凍らせてリュックにつめた。 仲間内ではスポーツドリンクを凍らせてくる奴もいた。

太陽は高く上り、既にポリタンクの中の氷は溶けて半分くらいになっていた。 強烈な上りと下りはもうどのくらい繰り返されたのか見当もつかなかった。 僕たちは疲れきっていた。まだ、もう一つの峠が残っていた。 この上り坂を登りきったら次は下りだ。このことだけが僕たちを前に進ませる。

僕の視覚はハレーションを起こしていた。 視点のずっと先の曲がり角の上に広がる空が真っ白だった。 道路が鋭角的に切りとられていて先が空に溶けていた。後ろで水を飲み込む音がした。 僕が振り返ると友達がポリタンクから水を五分刈の頭にまき散らしていた。 彼の進んだあとの道路は黒く水脈を形作っていた。 僕は自転車の篭に入っているポリタンクを不安定に持ち上げ、水を口に含んだ。 ポリタンクの生臭い水が口に流れ込んでくる。

夏の山道はじりじりと焦げて僕たちをあぶるようだ。 僕たちはそんな日々を踏みしめながら進む。 そしてすぐ五メートル先の曲がり角から世界を飲み込む海が広がっているなどと誰も 気がつきもしない。

ハレーションがおさまると、僕は白い砂浜にいた。 適当な数の海水浴客が疎らに海や砂浜に散らばっている。 緑と青の縞模様の大きなテントが広げられて、 その影の中には気だるい人たちが横たわっている。 繰り返される波のリズムには不思議な旋律がまとわりついている。 それが波打ち際を作る砕けた珊瑚礁の白い残骸が、 波の力で打ち合わされて作るメロディーだとは、 波打ち際に寝そべるまで気がつかなかった。

海の匂いは爽やかな香気を発している。 白い砂浜は強い日差しのもとであくまでも白く、 波打ち際で砕ける波はピンクやグリーンの炎を上げているようだ。 僕のふるさとの猥雑な海に比べれば、まるで非現実な海岸だった。

僕は全く新しい種類の自然の海岸に、新しい記憶を形作る。それは夏の新しい国家だ。 僕は澄み切った実体感のない海水に全身を沈めると沖に向かって平泳ぎでのりだした。 僕も新しく清冽な世界の一部となるのだ。

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2 堤防の上で

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ブルーシール・アイスクリームのチョコレートをうけとり、三百円を渡すと、 僕はアイスクリームをなめながら薄暮の港へと向かう。夕暮れの防波堤には、 観光客や島の人が海風に吹かれるために集まってくる。 僕はすっかり塩辛くなった口の中を甘いアイスクリームでなごませながら、 荒いコンクリートの防波堤の上に腰掛けた。四、 五人の人があたりをゆっくりとうろついたり、 僕と同じように堤防に座り込んだりしている。少しはずれには語り合う恋人達がいる。 女の子の方は白いTシャツにカットオフのジーンズを履いているようだ。

僕は堤防に座っているタンクトップの男が宮下だと気がついた。 彼はオリオンビールをやりながら哲学者のような顔で暮れていく海をながめていた。 僕は彼の方に堤防の上を近づいた。

「よお、今日はどうだった」と僕は聞いた。 なんていったらいいかよく分からなかったからだ。

「今日は、午後に二本、これからナイト・ダイブで二本いくつもりだ」と彼は言った。

それがダイビングのボンベの数だと気がついたのは相づちをうった三秒後だった。 つまり彼はこれからもう一度ウェットスーツをきて、暗い海に乗り出していくのだ。

「あんたはこれからどうするつもり?」と宮下は聞いた。

「とくに予定はない。」 といいながら僕はアイスクリームの三角形のコーンの残りをバリバリと食べた。

「ダイビングの仲間から聞いたのだけど、 この先の岬にあるキャンプ場に本島からジャズバンドの連中がきていて、 今夜はダンスパーティーを開くらしい。誰でも来ていいというからいったらどうだ。」 と宮下は親切な感じで教えてくれた。

「あんたはいかないのか」と僕は聞いた。

「ナイト・ダイブが終わったら、たぶん行くことになる。でも、 疲れてたらいかない。」 宮下は少々散文的な言い方で海を見つめながらいった。彼にはこの島は海の「おまけ」 でしかないのだ。

太陽は島の影に隠れて、防波堤は次第に夕暮れの中で色を失っていく。 僕は宮下の隣で黙ったまま彼の見ている方の海を見ていた。と、宮下は「じゃ、 潜ってくるよ」 といってザリザリとコンクリートにゴム草履をこすりつけながらいってしまった。 夕暮れの中で彼の広い肩幅が印象的だ。

僕は宮下の後ろ姿を少し見送ると、何となく彼の消えていった方の反対側を見渡した。 白くひらひらしたものが揺れているのが見えた。海風にふるえるような感じで、 細い声が聞こえてくる。かろうじて僕はそれが東京の言葉であることが分かった。 白いひらひらはゆっくりと近づいてくる。僕はしっとりとした夕暮れの中で、 堤防に座って海を見つめたまま、息をつめてそれを待っていた。 夏の少女との再会がこの薄暮の中で行われるのだろうか。

白いひらひらは僕の傍らにきて止まった。彼女と僕は夕暮れの中で思わず見合った。 彼女は三十歳くらいだった。 そして彼女のすぐあとからは同じくらいの年格好の男の人が一緒だった。 僕は軽く会釈をすると少し体をずらして彼女に道をゆずった。 彼女は僕の背中を少し回り込むと、またひらひらと堤防の上を歩いて遠ざかっていく。 その後ろに黒いポロシャツをきた男が彼女を支えるように歩いている。

夏の少女はもう既婚者だった。風に乗って彼女の声が聞こえてくる。 かつてどこかで聞いたような声だ。 それはやはりふるさとの川岸ですれ違ったときの声だったかも知れない。 夏の少女は実在した。そして今は、 引退した女優のようにバカンスの夕暮れを散歩する。誰も彼女に気がつかない。 そして、彼女も過去のことを思い出さないのだ。

僕が堤防を降りて、宿の方向に歩いていく頃には空は一面の星空になっていた。 オレンジ色の平らな明かりが船着き場の事務所のあたりにともり、 岸壁のはずれの方では大きな花火が太い光の柱をまき散らしている。 幾人かの人たちがオレンジ色の光の中でだるそうに座り込んでいる。

蛍光灯の青い光をこぼしているアイスクリームスタンドには、 先ほどのかつての夏の少女と黒ポロシャツの男がアイスクリームを食べているのが見 えた。彼女は日に焼きすぎた肌を気にして、 さかんに肩をふりまわして男に見せていた。僕は白い花の咲く路地に入る。 明かりのない静かな路地だ。微かな甘い香がした。 白い花は闇の中でひらひらと揺れているように見えた。

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3 岬をまわって

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遠くから見る町の明かりは、まき散らされた宝石を連想させる。 辺りが闇であればなおさらだ。やけにはっきりと暗黒の空にかかる雲は細やかで、 淡い天の川の明かりと空の彩りを競っている。もう僕は随分歩いたはずなのに、 まだ岬をまわりきっていなかった。

岬を過ぎれば町営のキャンプ場があり、 そこで真夏の夜のパーティーが開かれるはずなのだ。 左手に絶え間ない海のざわめきを聞きながら、 僕は一人で暗い夜道を岬を目指して歩いている。 僕はなんとはなしに鼻歌をうたいだした。 いつしか僕の隣には微かな甘い汗の薫りと蚊取線香の匂いが漂ってきた。 僕は彼女の手を握った。

ざわざわと海風の鳴る夜に、僕たちは岬の御堂の明かりを目指していた。 御堂は昔から漁師の守神として地元で大切にされてた朱塗りの小さな奇麗なものだ。 ぷっくりと太った神様が大きな鯛を釣り上げている額がかかっていた。

お盆前の月のない夜に町内会で肝試しが催されていた。 町内会の子供達は二人一組で長い海沿いの笹道を明かり一つで歩いていかなくてはな らないきまりだった。僕は近所の「まさみ」 という子と二人で懐中電灯に照らされた足元を進んでいる。 僕たちは恐くてたまらないので、しっかりと手を握りあっていた。 あんまり強く握りあっているので汗をかいていたが、 それでもしっかりと手を握りあっていた。

山鳥が明かりに驚いてばたばたと派手な音をたてながら薮の奥の方に逃げていった。 僕たちは一瞬体が凍り付き、次には大量の汗が吹き出した。 僕たちは思わず身を寄せあったので、腰に吊るした蚊取線香の缶がカタカタと鳴った。 そして僕は女の子の甘い汗の匂いを初めて感じたのだ。 僕は不思議な夜の感覚に体が止まってしまった。 それでも次の瞬間にはゴオッと風がふき、 僕たちはほとんど半べそになりながら御堂に向かってがむしゃらに走りだした。 夜の道は昼と違っていつまでも続いていた。

暗闇の中で思い出にふけっていると僕はいつのまにか岬を回り込んでいた。 そしてすぐにちらちらとした明かりが見えた。 その明かりは蛍光灯の青い明かりではなく、裸電球の赤い光のように見えた。 実際にはランタンなのかもしれない。

柔らかな足元の松の葉を踏みつつ、明かりの中心に入っていくと、 小さいながらも立派な音響設備が整えられていた。 青いビニールのシートが大きく広げられ、客席がしつらえてあった。 薄いプラスチックのコップがたくさん用意されていて、 茶色い瓶にはいった久米仙という泡盛が十本ばかり並べられていた。 陽気に笑いながら人々は忙しく明かりから出たり入ったりして、準備は続けられた。 他のテントのキャンパーたちは淡い明かりの中から遠巻きにして様子を見ている。 キャンプ地の中は強い蚊取線香の匂いが漂って、けむいくらいだ。

白い電気ピアノが運ばれてくると準備はおしまいのようだった。 色とりどりのシャツを着た髭のおじさん達がでてきて、琉球言葉で 「今日は少々お騒がせするが、誰でも好きなように飲んでいいし、 踊っていいんだから、みんなもどんどん参加して、楽しく盛り上げましょう」 というようなことを言った。 それを聞くとまわりのテントからも日焼けした肌にタンクトップというような格好の ねえちゃん、あんちゃんたちがどんどんでてきて、次々にコップを受け取った。 僕もコップを取ろうとすると、 ワイルドな感じのカーリーヘアーのお姉さんが陽気に渡してくれた。 その中にはもう既に独特の匂いのする泡盛が注がれていた。

髭のおじさん達がラテンのリズムでダンスミュージックをはじめると、 ボーカルのお姉さんが「カンパーイ!」と叫んだ。みんなも「かんぱーい」 といってコップの中の泡盛を含んだ。最初のうちはみんな気兼ねして、 音楽に併せて手拍子をするくらいだったが、 一人の男が自分の連れの女の子の手をとってタンゴのまねをはじめてから、 みんなはコップの中の久米仙を飲み干して、てんで勝手に踊り始めた。 音楽はスピードをあげて、激しさを増していた。辺りに何もないキャンプ場だから、 どんなにさわいでも誰も文句を言わなかった。関係者全員が踊っているのだから。

誰かに蹴飛ばされた空のコップが僕の方に転がってきた。 僕ももう一杯景気付けに久米仙を飲んでから踊ろうと、一升瓶に手をのばした。 ショートヘアーの女の子が先に瓶をとってコップを渡せという仕草をした。 僕は自分の(かどうかよくわからなかったけど)コップを渡した。 彼女は目一杯注いでくれた。僕は少し「困った」 という顔をして一気に飲んでしまった。少し僕は酔っぱらっていたんだ。

ここのディスコには照明施設が裸電球だけだったけど、 てんでに踊る人々の影と久米仙で酔っぱらって、 くらくらしている僕の脳味噌には世界はぐるぐるまわっているようだった。 僕はショートヘアーの女の子と手を取って勝手な踊りを踊った。 酔っぱらった明かりの下で、 彼女はいつかどこかであったことのある人のような気がした。 そのうち彼女の瞳は僕の視界の中で少しずつ大きくなった。 僕と彼女はほとんど顔をくっつけるようにして踊っていた。誰かが「コノヤロー」 と景気よく叫んで僕の後ろにくっついた。 そして彼女の後ろにもどんどん人が並びはじめた。 むかでのようにつながったみんなは、僕と彼女を先頭にしてぐるぐるとまわった。 音楽が琉球のリズムになった。みんなが知っている曲だったらしく、 酔っぱらいの二匹のむかでは大きな声で歌い出した。 リズムは少しずつ緩やかになってきた。

「これでおしまいー」 と赤いアロハシャツの髭おじさんが叫ぶとみんなは名残惜しそうにやけっぱちおどり を踊りだした。 バラバラにほぐれていく人波の中で僕はショートヘアーの子を見失ってしまった。 いつでも偶然に手にいれたお宝はなくしやすいものだ。 人混みの中に僕は宮下を見つけた。

「あんた来てたのかよ」僕は酔っぱらっている。

「おう、少し遅れてきてみたら、おまえが女の子とうまくやってるじゃねぇか。 それでおまえの後ろにタックルしてやったら、みんな真似してねぇ。」 「それでむかでになっちゃったのか。」 「そうそう。はははは。」 「ひゃはははは。」僕たちは大笑いした。

岬からの帰りは宮下の泊まっている宿屋の主人が運転する小型バスだった。 僕たちは酔っぱらっていたから、 宿の主人が酔っぱらっていたかどうかは分からないが、 僕は少し前に彼が泡盛をあおっているのを見たような気がする。帰り道、 僕はほとんど寝ていた。バスの騒音の中で誰かが「ここはハブがでるかも知れない」 と言っているのを聞いて、少しびっくりした。 僕はそんなところを一人で歩いて岬に行ったのだ。 酔っぱらい集団のバスは島に一つだけある駐在所の前を軽やかに通り過ぎて港につい た。

僕はふらふらした足どりで宮下の宿の斜め前の自分の宿に入った。 この宿の部屋はそれぞれに入り口があって、いつでも出入り自由なのだ。 少しあとまで宮下の宿の方からざわめきが聞こえたが、僕は眠りに落ちて行った。

(つづく)

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白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 助教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp