題名未定

* 題名未定 *

白田 秀彰

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1 失われた夏休み

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少年の頃 永遠に繰り返されると約束された夏休みは、 今や記憶の中に遠ざかってしまった。 夏の中だけにいた白いワンピースと麦わら帽子の似合う、 よく日に灼けた少女たちも強い日差しの中に溶けてしまった。 僕に残された夏の数なんて、あと五十回もないというのに。

少年の頃の夏は決して失われることのない永遠の国だった。

朝顔のファンファーレとラジオ体操の行進曲で集められた少年達は、 公民館の水の臭いのする土の上でつきることのない冒険の計画を練る。 夏の朝方には水の匂いが流れている。 僕たちは自転車にまたがり海や川やプールなど水のあるところへ群がった。 朝方の水は緑色のゼリーの中に体を浸していくように感じられた。 深く水が澄んだところでは泡の詰まった厚いガラス板のような川底がみえた。 そしてゆらゆらとした自分の頼りなく白い足がぶら下がっていた。それは水が「死」 とどこかでつながっていることを暗示しているようだった。

泳ぎ疲れれば河原で体を灼いた。乾いた石の匂いの強い河原に寝そべり、 夏の日差しに疲れてしまった葦がからからと風に鳴る音を聴いた。 時として僕たちはそのまま眠り込んだりもした。 気がつくと午後の少し淋しい日差しがずうっと向こうの対岸を照らして、 自分達は山の影の中に取り残されていたりするのだ。

どこにもいかない午後もあった。部屋の板の間に寝そべり、 梅酒を氷で薄めながら飲んだりもした。夏の午後には、 時間が停止しているような錯覚が現れる。 強い日差しに固まった庭の土はひょろひょろとした雑草を残し、 かすかな陽炎をたちのぼらせる。

夕暮れにはまた水の匂いがやってきた。夕立のない日は、父が庭に水を撒いた。 土ぼこりの強い匂いが立ちのぼり、むっとする草いきれがおこる。 そして西の空を雄大な夕焼けが染め、暗闇が紫色を溶かしながらやってくる頃には、 水を撒いた庭はしんしんと神秘的な水の流れを空気の中に漂わせる。 夕暮れの町にはどこかで水が流れる音がしていた。

夏には不思議な女の子達が僕達の周りに現れた。 抽象的な彼女達は陽炎の山道ですれ違ったり、町外れの波止場の先端に立っていたり、 堤防の上から僕たちの泳ぎをながめていたりする。彼女達は、 深い蝉の林の木漏れ日のような微笑みをたたえている。 どこからともなく繰り返しわき起こってくる林の中の漣に、 風とともに大きく揺れる木漏れ日。僕たちは神社の境内で夏の昼間の闇をかいまみる。

僕の夏はいつも水の気配と一緒だった。夏は乾いた表層の地下に、 脈々と冷たい水脈をたたえていたような気がする。今、 僕は乾ききったこの街で水なしでビスケットを飲みこむような仕事を続けてる。 エアコンは冷えきった風を送ってくれるけど、 それは低くうなる騒音のように足の裏を底冷えさせる。少年の夏休みは失われた。 あの夏休みはどこへ行ってしまったのだろう。 僕に残された夏なんてあと五十回もないというのに。

ある日の午後、僕は何気なく見ていた駅の旅行案内のパンフレットに、 どこかへ行ってしまった夏の行方を見つけた。 沖縄の海沿いの林を写した何でもない風景写真の中に、 ざわめくような深い真昼の闇と低く響く水脈の音が聞こえた。 僕は失われた夏休みを取り戻しに沖縄にいく。 波にさられわてどこかへ行ってしまった水中眼鏡やゴム草履を取り戻し、 なつかしい海に駆け戻って行くのだ。

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2 夏の水脈

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そして僕は那覇空港に降り立った。 油の臭いの漂う空港の周辺はジェットエンジンの粘りつく熱が充満していた。 僕は少し立ち止まって、日差しを白く塗り固めたような周囲をながめた。 風景のコントラストが強いので、 ごった返す人々の雑踏は一瞬音を消したかのようだった。

不案内なので予約してある宿までタクシーを使うしかなかった。 タクシーは派手な赤と黄色のツートーンカラーで、 運転席側の窓には白い小さなレースのカーテンが降りていた。 僕が行き先のホテルを告げると運転手は愛想よく車を出した。 僕の荷物が小さなディパック一つなので、彼は、僕が沖縄出身だと勘違いしたらしい。 「どこにいく」と運転手は琉球語で聞いてきた。

「座間味にいきます。」 彼の口調はテレビのアナウンサーのそれへと少しだけ変わった。

「座間味、離島か。うん、海にいくなら離島がいい。 最近は本島付近の海岸は汚れてきた。おまけに偽物の海岸ばかりだ。」 というようなことを言った。彼は、一人語りともつかず語る。 沖縄も観光開発ですっかり海が汚れてしまい、 さらに白い砂浜の人工海岸を作るために、 沖合いの小島からどんどん砂が運ばれてきて、本来の珊瑚礁が埋められているという。 僕は、彼の琉球語に少し感化されながら「たいへん良くないことですね」といった。

沖縄の市街地は東京とたいして違いなかった。 恐ろしく激しい光のコントラストのせいで、 垂直の建物の線よりもむしろ斜めに建物を切り裂く影の方に存在感があった。 十五階建てのビルの先端は深い藍色の空に突き刺さり、白く激しい光を放射していた。 国道に沿って走るタクシーの窓から見える白い港は空虚な感じで、 ふるさとの捨てられた港を思い出させた。午後の少し淋しく乾いた日差のもとでは、 コンクリートの建造物は皆このような空虚感を漂わせてしまう。 とくにこれが海岸のテトラポットならなおさらだ。

橋を二つ越えるとタクシーはホテルにつけた。 僕が代金を払おうとすると小銭が四十円ほど不足していた。 このことを運転手に告げながら一万円札を出すと運転手は四十円負けてくれた。 そして「気をつけていい旅をね」と琉球語で言った。僕も「ありがとう」 と琉球口調でいった。

ホテルはむしろ旅館の体だった。米兵向けに英語で書かれた看板や「国際ホテル・ 運輸大臣指定」という標識が、かろうじてホテルという存在を主張していた。 午後の逆光の中で暗闇のように口を明けているホテルに入ると、 フロントの白いシャツを着た疲れた老人が、 疲れた手際と口調で疲れたキーを手渡してくれた。僕は疲れた階段を上り、 疲れたドアをあけた。

そこはあまりにも明るすぎる午後の町に反射する、 白いぼんやりとした光に包まれた部屋だった。窓は既にあいており、 ドアをあけるのと同時に海風が吹きこみ、木綿の白いカーテンが歓迎の踊りを舞った。 窓の上半分は海と空だった。ホテルのからからに乾いたシーツの上に寝そべって、 僕はカーテンの反射光に揺れる天井を見ていた。 それはなんとなく中学校の美術室を思い出させた。

中学校の美術室は学校の最上階の一番はずれにあって、 そのすぐ前に白いタイル張りの流し場があった。僕はどういう縁のめぐり合わせか、 ここの掃除を二年間、それも夏だけ仰せつかった。掃除は至って楽だった。 絵の具のこびり付いた白いタイルの流し場は、 ダリが描いたギリシャ神殿風に非現実な空間だった。僕はここに水をまき散らし、 ブラシで絵の具をこすり落とし、なにもかも真っ白な空虚に戻していくのだ。 そして入り口から入ってくる反射光でぼんやりと明るいタイルの部屋を、 駆け抜けていく涼しい風に深呼吸する。かすかにカルキの匂いがよみがえる。

僕は、短い白日夢から覚めると外へ出ることにした。鍵を預けるときに、 フロントの疲れたホテルの主は疲れたバスの案内図をくれた。 僕は見知らぬ土地ではバスに乗らないので、 ホテルを出ていちばん最初にあったゴミ捨てに捨てた。ふと振り返ると、 圧倒的な日差しに覆われて、小さなホテルは消えてなくなりそうに見えた。

手帳に挟んでおいた観光案内図を頼りに「国際通り」に出てみた。 既に午後は深くなり、通りは深い日陰の中に沈んでいた。派手な色をしたみやげ物や、 町並みにふさわしくないファッションをした観光客が物憂げに歩き回っている。 いくつかのみやげ物店を覗いてみるが買う気がおきない。 薄っぺらなロックが流れる店の奥から「何か買っていきなよ」 と琉球言葉の痩せたオバちゃんがいったが、僕は少し目を伏せただけだった。

歩きまわってもたいした店がないので路地裏にはいる。 少し行くと山を削って作った公園があった。公園に上がる短い階段の脇には、 石碑が立った洞窟が寝ぼけた猫のようにうずくまっていた。 早くも夕暮れの気配の近寄ってくる空に、 その公園は忘れ去られた黄金境をおもわせた。「コロンビア」 と書かれた缶コーヒーを自動販売機で買うと、僕は公園のベンチに腰をおろした。 分厚い葉をつけた熱帯の木がベンチをおおっている。

ランニングシャツ姿の子どもが数人、 何か分からない言葉を激しくいい散らしながら公園の右手の方の小山で駆け回ってい る。僕はこの風景を以前にみたことがある。 まるで昔読んだ本の間から幼い頃の写真を見つけたときのように、 古い記憶が組み上がっていく。

僕の生まれ育った町は振興の住宅地で僕の成長と同時に開発が進んだ。 だから僕の少年の頃の風景は、 全てブルドーザーとショベルカーの土建屋帝国の侵略によって完全に破壊された。 いつの頃かは覚えていないが、 一時期 僕の家の裏手の山の一部がブルドーザーによって切り開かれ、 黄金色の地肌をさらすことになった。僕たちはそこで日が落ちるまで遊んだ。 置き去りにされたブルドーザーの上に勝利者のように登り、 ゆっくりと登ってくる月を海の上にみたものだ。 幼い僕たちは土建屋帝国の陰謀とは知らずにブルドーザーが大好きで、 彼らの働きによって開発される様々な工事現場を、 自分達の領域であるかのように思っていた。 少年達はいつでも大人が壊すものが大好きなのだ。

僕は、削られた公園の山肌が、夕焼けに燃え上がり、 深い群青の空に付き刺さる様子を眺めていた。いつしか、山肌は紫色に変わり、 空には遠い爆音を残して米軍の戦闘機が二筋の飛行機雲を引いていた。 僕は静まった公園を後にした。すっかり紫色の闇に落ちた路地には、 どこかで水が流れる音がしていた。 夕暮れに目覚めた公園の脇の洞窟から響いてくるみたいに僕には思えた。

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3 光の国

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まだ暗いうちから僕はベッドをぬけて、風の匂いがするホテルの屋上へ出た。 曙は東の空を明るく染めはじめる。 屋上から見る沖縄の街は少し薄汚れたコンクリートの塊だった。それでも朝の空気と、 薔薇色の夜明けの光のもとでは珊瑚礁の残骸のようにも見えた。 今日もいい天気だろう。僕は朝食をとりに一階に降りていった。疲れたホテルの主は、 今朝はどうした訳かはつらつとしていた。 まるで僕がこのホテルからでて行くことを喜んでいるようだ。そういえば、 一階の食堂には僕の分の朝食しか用意されていなかった。 昨夜このホテルにチェックインしていたのは僕一人だったのだろうか。 僕は旅行者としては驚くほど少ない荷物を肩にかけて歩いて港を目指した。 空っぽのゴミ捨て場に気が付いてふと振り返ると、 乾いた珊瑚礁のような街並みにホテルは紛れてしまっていた。

港はまだ連絡船の出航時間には早く人影は疎らだった。 低い朝の太陽は長い影を港の船着き場に落としていて、 まるでキリコの絵のようだった。船は白い中型のフェリーで、 幾重にも塗り固められたペンキのせいか、 ヌルヌルとした手触りがしそうなほど光沢を放っている。 僕は直方体のコンクリートの塊のような船の待合い室に入って新聞を買った。 新聞は沖縄の地元のもので、甲子園への県内代表の記事がトップだった。 じんわりと伝わってくる熱さの中で、蝿が一匹さまよっていた。

恐ろしく退屈な時間を過ごして、船はエンジンを掛けた。 いつのまにか太陽は天頂に上り、影はすっかり短くなっていて、 日陰の待合い室から出る僕はポケットからサングラスをとり出さなくてはならなかっ た。金属製のタラップは人々と荷物の重さでギシギシと鳴いた。 人々は甲板に上がると蟻のように散らばっていく。 船室に入ったのは観光客たちのようだ。地元の人はみな後甲板のベンチに場所を得た。 僕は波のかからないことろに荷物をおいて、船首にいちばん近い甲板に座り込んだ。 そして船はゆっくりと岸壁を離れた。ゴンゴンゴンと船体を叩くようなエンジン音が、 腹の底を揺さぶる。

太陽に向かっていく船からは空は少し白っぽく見える。 そして海はぎらぎらと輝く太い流れを作り出す。船首で砕ける波は深い紺碧で、 金属の粉をまき散らしたような泡が信じられない量で渦をまいて流れる。 空も海も快適に紺色になった。これまでの船旅の記憶を疑うほど深く、 船は濃紺の距離をおいて遠く白い海底から浮いていた。 船影がちらちらと海底の岩と砂の間を走ると、 驚いた一群の魚影が一斉に向きを変える。 僕の座っているデッキにはときどき飛沫がかかる。 飛沫が船体にぶつかって爽やかな霧になると小さな虹が船首を飾り、 軽く甘い潮の香りがする。

いつのまにか僕と反対側の舷側に、風に向かって髪をなびかせて、 ぐっとふんばって波を被っている男がいた。僕はこの男が獅子座だと直感した。 夏の男だと思った。その男は派手に波を被った瞬間、 こっちをみて少し照れたように笑った。僕も笑い返した。 そのとき今度は僕の方に飛沫がかかった。

男は宮下といった。都庁の職員でダイビングをしにきたという。 僕はよく知らなかったが、座間味という島はダイビングのメッカで、 島の観光客のほとんどがダイバーだという。彼は「何をしに座間味に行くのだ」 ときいた。僕は「夏を探しに」とだけしか言えなかった。 宮下はなんだかよく分からない顔をしていた。

太陽はまっすぐ南中点にむかって進んでいる。 船の上は熱帯のコントラストが支配する場所になった。 船の影が海におちると海は濃紺になり、 少し浅い海域では輝くエメラルドグリーンになった。 島が近づいてくると海域はだんだん浅くなり、海底の風景は複雑になっていく。 海上からのびる光のベールが海中で緩やかに漂っているのが見える。 海の上も小さな島がたくさん現れてきて、風景が複雑になってくる。 それぞれの島の影が、夏の光を浴びて複雑な交叉を作っている。

船は白い海底の砂を盛大に巻き上げて、 澄んだ緑色の海をクリームソーダ色に変えながら港に着岸した。宮下は、 いつのまにかダイバー用の大きなバッグを引きずって甲板に上がってきた。彼は、 僕の小さなザックをみて「こんなに少なくても旅はできるんだな」と呟いて、 自分の宿を告げた。僕の宿とは違っていたが、 この島では人の住んでいる地域は狭くて、いずれにしても目と鼻の先なのだ。

船着き場の上は歓迎の人々と、この船で島を出て行く観光客でごった返していた。 白い光のもとでカラフルな原色の波がうごめいているようだ。 僕はその中をかき分けて自分の宿に向かって歩き出した。 後ろから錆びた白い軽トラックが僕を追い抜いていった。 荷台に腰かけた数人のダイバーに混じって、 塩を噴いたポロシャツをきた宮下が手で挨拶した。 僕の宿は港から三十秒ほどのところにあり、宮下の宿はその斜め向かいだった。

(つづく)

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白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 助教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp