1 はじめにこの記事の読者の皆さんはご存知かもしれないが、私は新書を出した。『インターネットの法と慣習 --- かなり奇妙な法学入門』というやつだ。で、amazon.co.jp でその本のページを開くと、2006年8月2日の時点の「あわせて買いたい」という項目で、牧野和夫 / ひろゆき『2ちゃんねるで学ぶ著作権』という本が挙がっている。この本は、アスキーの編集の方から手渡しで贈本していただいて手許にあった。本を頂くとき「えへへ... 先生、この本と先生の本とでWin-Winの関係で行きましょう!」と編集の方がおっしゃった。「もちろん望むところだ!」と返事さしあげたわけだが、結果的に、二つの本は仲良く売上ランキング高位にならんでいるわけで、確かにWin-Winの関係だ。 で、夏休みに入って時間ができたので『2ちゃんねるで学ぶ著作権』を読んでみた。二度読んだ。最近、ろくに読みもしないで批判だけはするような人が多いことに気がついたので、自分はそうなるまいとちゃんと読んだ。まず、この本は「著作権」と銘打ってるけど、実際には、2ちゃんねるでしばしば語られる法的な疑問についてひろく取り上げている。牧野和夫先生の語りと ひろゆきさんの率直な疑問のやり取りで展開していくので、対話体に慣れているだろうネラーのみなさんにはとても読みやすいだろうと思われた。 ところが、読んでて「?」と思うようなところも散見された。著作権法に関する議論は、不確定かつ微妙なものが多く、さらに論者が依拠している理論的立場からも考え方が変わったりする。とはいえ、そんなことをゴニャゴニャ説明していたら、読者には なにがなんだかわからなくなる。そういう意味で結論を(あるていど)断定しながら進めることになる対話体の本書に取り組んだ牧野先生は漢(おとこ)だと思う。 しかし、ネラーのみなさんが牧野先生の本を読んで「ああ! そうか! 著作権法的にマズそうであってもダウンロードは合法なんだ! ヤッタア!」とか単純に思い込んだり、2ちゃんねるでよく見られるように、ささいな誤解がさらなる誤解へと進み、結果的にナニソレ(゚∀゚)?な状態に入ることもあるようだから、牧野先生とはちがった視点から、牧野先生の言葉に解説や補足をつけて行きたいと思う。
2 本文にツッこむ
[12]まず、最初の部分の「国が付与する権利ではないですからね」というのは、牧野先生の口が滑ったのだろうと思う。正確には「国に登録や申請などしなくても権利が発生すると法律に定めてありますからね」だろう。というのは、著作権を構成している様々な法的保護は、著作権法によって発生しているわけで、著作権法を作ったのは国会。国会のみが法律を作ることができると憲法に書いてある。 日本国憲法第41条 国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。というわけで、著作権は国が設定したから保護されている。 仮に日本国において著作権法がなければ、著作物を固定した媒体 (著作権法用語では「著作物の複製物」)の取り扱いについては、通常の「物」と同じように一般法である民法の規定にしたがう。 民法第206条 所有者は、法令の制限内において、自由にその所有物の使用、収益及び処分をする権利を有する。というわけで、著作権法が無ければ いくらでも複製物をコピーして増やして売り捌いて商売してしまっても構わないことになる。しかし、それではマズいわけで、この民法の一般ルールを変更しているのが著作権法だ。だから著作権の効果はあくまでも民法の特別法として国が設定したものだ。 すこし脱線させてほしい。岡本薫先生の書いた『著作権の考え方』という本には次のように書いてある。
[6] 岡本先生は、著作権(知的財産権)=人権説を採用しているが、これは誤り。「私権(人権)」という書き方も誤読を誘導しようとしているように思われる。だって私権=人権ではないもの。そんなことを言い出したら、民法にて保障されている諸権利はすべて人権ということになる。さらに、最後の行には「私権」(財産権)とも書いてあって、ここでいう「私権」なるものが何を指しているのか不明だ。 さて、まず私の渾身の代表作(これしかない...トホホ)である『コピーライトの史的展開』において、著作権の発生過程をネチネチと研究したが、知的財産権が「人権である」などと言えるような痕跡は微塵もなかった。「所有権の一種である」という根拠ならいくらかは存在していたけどね。 岡本先生が著作権=人権説の根拠としている「国際人権規約に規定がある」ということについて確認してみよう。まさか「国際人権規約に知的財産権って書いてあるから、知的財産権は人権!」なとど単純に考えているのではないと思うので、国際人権規約をみてみる。すると、国際人権規約というのは通称であって、正式には「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」(A規約)というのが正式名称であることがわかる。「文化的権利」に関する条約であることは間違いないけど、どこに人権って書いてあるのだろうか。
この規約の締約国は、赤字の部分を読んでもらえば、「固有の尊厳及び平等のかつ奪い得ない権利」すなわち基本的人権を達成して「自由な人間」をうみだすという理想を達成するために、「経済的、社会的及び文化的権利」を保障しないとマズいよね、と書いてあることがわかる。文化的権利は基本的人権を支える柱ではあるけど、基本的人権そのものではない。次に、文化的権利の具体的内容について見てみる。
経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約 第15条この規定しか該当しそうなものはない。うん、確かに「いわゆる知的財産権」に関する規定だ。でも先に掲げた原文からのつながりで読めば「基本的人権を支えるために、このA規約において文化的権利を保障することを締約国に要求する。その具体的内容の一つとして知的財産権をすべての者に対して認めなさい」と書いてあることになる。で、読者に問う。それゆえ「知的財産権=人権」? 私にはそう読めない。もし岡本先生の説が正しいとすると、私は日本語すらマトモに読めないことになる。こまったなぁ。 さらに、著作権法が民法の特別法である(『2ちゃんねるで学ぶ著作権』 p. 156参照)ことを考えれば、先に説明したように、著作権法がなければ私たちは著作物の複製物を好きなように使い放題だったものを、ベルヌ条約を根拠として国が定めた法律である著作権法によって「規制されている」と見ることができるはず。引用部分の岡本先生の説明は、その関係のとてもよい説明になっている。もちろん、私自身も著作権法が「私権」として取り扱われていることを認める。とはいえ、著作権法の発達史において明らかにそれが「規制」から始まったことを無視して、「規制」でないと断言するのはフェアじゃない。
[23]上記の説明は、典型的な大陸法型の知的財産権に関する説明だ。そういう意味では正しい。しかも、いまやあまり使わなくなりつつある「無体財産権」という用語を使っているところからして、牧野先生は本当の意味で法律家だと思う。ただ、牧野先生の説明だと、「知的財産権」がマスコミ等で通用する俗用であって、「無体財産権」が法律用語のように読める。「無体財産権」がほぼ法律分野でしか使われないことは事実だし、そのような講義名しか存在しなかった時期もある。でも、「知的所有権」や「知的財産権」という用語も、現在では、立派に法律分野で用いられている。 あと、余談。私の知る限り、intellectual propertyという語をタイトル含む本が、最初に出版されたのは19世紀のアメリカのこと。1878年のことだ。その頃以前には、創作物に対する所有権類似の権利をさす言葉としては、literary property という用語しか使われなかった。しかも literary property という言い方はイギリスではあまり用いられず、専らアメリカで用いられた。というのは、このliterary propertyという言い方は、フランス語の propriété littéraire という言葉の訳語が起源だから。で、このpropriété littéraire という言葉は、フランス革命の頃から使われだしたわけで、著作権を所有権類似の権利として把握する考え方の起源を示している。一方、copyrightという用語の起源はそれよりも少なくとも100年以上は早い。このあたりのことに関心のあるひとは、私の『コピーライトの史的展開』を読んでみてね。 ところが、この無体財産権とか、知的所有権といった用語は、私の立場からすると、とても誤解を誘導するような用語なのだ。 牧野先生の立場を図で示すと、次のようになる。
この図は、知的財産権を説明するときによく使われる図だ。この図では、ピンクの楕円で示されるグループのほかに、別グループが存在することになる。それは「一般の財産権」のグループで、一般の財産権のグループの中には、さらに民法に規定されている様々な権利が含まれている。で、一般の財産権の中には具体的な物(有体物)を支配する権利もあるのだけど、人の行為(役務)を支配する権利もある。人の行為は具体的な物ではないので、見方によっては無体物と言うこともできる。すると、今で言うところの知的財産権を指していた「無体財産権」という言い方は、どうもよろしくない、ということになる。そこで、財産権を単に有体と無体で区別するのではなく、「人間の精神活動から生じる利益に対する財産」という枠を一般的な財産権から分離させたものが、ピンクの楕円の中身ということになる。 で、大陸法とりわけドイツ法の体系で考えれば、「一般の財産権」と「人間の精神活動から生じる利益に対する財産権」には、それぞれ対照的な性質が存在するはずであり、かつ両者を統合する原則が存在することになる。さらに、「人間の精神活動から生じる利益に対する財産権」に含まれる諸権利には、共通した性質が備わっていることになる。こうした「類と差」に注目した分類規則によって、膨大な法概念を整理するのがドイツ流の法学の進め方。この方法はシステマチックで、講義するにも理解するにもわかりやすい。だから、大学の講義では一般的に「無体財産権法」とか「知的財産権法」という枠で解説される。でも、同じ枠で解説されているからといって、それらのグループに含まれる法が十把一絡げに取り扱われるのはマズい。というのは、すくなくとも知的財産権にかんしていえば、それらのグループに含まれている法は、それぞれ異なった起源と目的をもっているからだ。 私が講義で使っている図を示すと、次のようになる。
それぞれの法の起源と歴史と目的を踏まえて考えると、いわゆる知的財産権は三つのグループに分けられる。図で長方形が重なっている部分は、本当は半透明で、それぞれの目的において融合している部分があることを示している。私の見方は、ぞれぞれの法には、それぞれの達成すべき目的が存在しており、それぞれについて社会の状況に合わせて内容の調整をしなければならないというもの。たとえば著作権法と特許法が一緒にされているのは、学問上の都合であって、それらを同じ性質のものとして理解しなければならないわけではない、と考える。 そういう風に言える根拠は、歴史研究の結果。くどいようだけど『コピーライトの史的展開』を読んでいただくか、あるいはより直接的に、このあたりの「知的所有」とか「知的財産」といった概念がもつ問題点を抉ったものとして、水谷雅彦編 『岩波 応用倫理学講義 (3) 情報』 に収められている私の論文『知的所有について』 p.85 を読んでくださいませませ。ほんとうは、オンラインでばら撒きたい文章なんだけど、本になってしまったので公開できません。ごめんね。 「知的所有権」とか「知的財産権」とかという名前に引っ張られて思考停止に陥る人が多すぎる。またドイツ流の分類方法に誘導されて、あたかもその分類方法に合わない性質や内容を無視したり排除しようとしたりする人が多すぎる。そういう意味で、学問上の都合によって構成されたグルーピングを私は批判したい。 いい例えではないかもしれないけど、こういうことだ。小学生の息子に「お父さん、お魚ってどういうもの?」と訊ねられて、「つるんとして平べったい体にヒレがあって水の中を泳ぐ生き物のことだよ」と答えるのは、小学生に対する答えとしては、致命的に悪いものではないかもしれない。社会通念的にもそれほど異常な答え方ではないかもしれない。でも、ある程度知恵がついた息子に対しては、魚型の水棲生物のなかにはサメ類や哺乳類も含まれることを説明しなければマズいだろう。そして、同じような形をしている魚類とサメ類と哺乳類がどのように異なっているのかは、生物進化の系統図を見せ、骨格や内蔵を見せ、説明し理解させなければならないだろう。 もし、イルカが病気になったとき、魚とおなじ治療法を施したらどのようなことになるだろうか。「サメが子供を出産するなんてことは、魚である以上ありえないのだ! あってはならぬのだ!」 なんて叫ぶ専門家がいたらどうだろうか。ほとんど狂気じみたナンセンスだが、法や制度について、それと同じようなことを主張する人はけっこう多い。法や制度は概念だから操作しやすいからね。でも、法や制度にも系統図や進化図を描くことはできる。それを見れば、一見おなじ形をした法や制度を区別することは可能だ。だから、私は法の歴史について学ぶことは必要不可欠だと考えている。 で、そういう作業を省略してしまうと、下記のようなことを、ついポロッと言ってしまったりする。
[25]この一点で『ご冗談でしょう、牧野先生』というタイトルが浮かんだ。まず、人格権については、『コピーライトの史的展開』で引用した下記の文章をよくよく読んでいただきたい。
[313]もともと、人格権は著作権法の枠組みのなかには無かった。それでも著作権制度自体は、遅く見積もっても18世紀初頭から存在しているわけで、人格権は、かなり後から「浪漫主義と結び付いた個人主義哲学から発生した」のだ。で、著作権と特許制度では、特許の方が起源が古い。というか、著作権は特許制度の一種として始まったというのが真相。 だから、牧野先生が示唆するようにもともと特許にも人格権を認める根拠や余地があったにもかかわらず、産業上の理由で制限されているわけではない。牧野先生のような社会的影響力のある人が、そういうことを書くと、本気にして「特許法にも人格権規定を入れろ!」と言い出す人が現れる可能性が高い。とくに「知的財産権は人権だ!」という立場の人なら当然、特許にも人格権保護を及ぼすことを主張しなければならない。その結果、どんな酷いことが起きるか想像するだけでもゾッとする。 まして、根性やら魂やらそういった「浪花節的要素」を考慮して権利付与するなんて言い出すと、下記のようなことを、ついポロッと言ってしまったりする。
[43]もちろん、ここでの牧野先生の説明は正しい。でも「汗の対価」という言葉を(不勉強なことに)はじめて見たので、「なんだろう?」と思った。括弧書きしてあるのだから専門用語なのかもしれない。しかも、ひろゆきさんは、それをサラッとスルーしながら「翼システム事件」と受けている。「翼システム事件ってなんだったっけ...?」 マジで自分の知識のなさに肝が冷える心地がした。 そこで、さっそく「汗の対価」をGoogleってみる。あれ? もちろんたくさん検索に引っかかるけど法律用語ではなさそうだ。そこで、翼システム事件判決文中でキーワードとして使われたのかもしれない。そこで、またGoogle。研究者なんだからちゃんとした判例データベースを使えよ、と批判されそうだが夏の休暇中に書いているエッセーなんで勘弁して。どうも「H13. 5.25 東京地裁 平成08(ワ)10047等 著作権民事訴訟事件」がその事件らしい。あ、原文らしいものを発見。 なんだ、知り合いの宮下圭之弁護士が原告の担当者だったのか。で、原文においても「汗の対価」という言葉は使われていないようだ。ということは、知的財産権についてある程度勉強している人なら、たいていの人は聞いたことのある「額に汗」の法理のことを指しているのかもしれない。 「額に汗 (sweat of the brow)」法理は、アメリカ起源。もともとはアルファベット配列の電話帳のように、事実の集合体であり、かつ機械的に(誰が作っても大体同じになるだろうようなもの)編集されているようなデータの集合体に対して、著作物性を認めるか否かの判断のときに唱えられた理論だ。もととなった事件として著名なものは、 Leon v. Pacific Tel. & Tel. Co., 91 F. 2d 484. (9th Cir. 1937)だ...とアメリカ著作権法のテキストに書いてある。戦前の事件だね。 アメリカは判例法国なので、法律に定めた「著作物」の定義に入るか否かギリギリの対象をどのように把握するか、裁判官が判断することができる。で、早くも1937年から、たとえアルファベット配列の電話帳のような事実の集合物であっても、他人がコツコツと額に汗して作成したデータベースをコピーして「ただ乗り」して使うような行為は、著作権法で禁じられている複製に該当するものだとしてきた。 しかも、この「額に汗」の法理では、Aさんが作成したデータベースに依拠して、ものすごく工夫された創作性のある新たなデータベースを作ったBさんもまた違法な複製をしたことになる。逆に、Aさんが作成したデータベースと競合するようなデータベースを、Bさんが、一から自分の力で作り出した場合には侵害とならないとする。すなわち、あるデータ群を収集するという投資と努力をした人に、そのデータを「ただ乗り」されないような保護を与えるものだ。もともと、英米法系のcopyrightが産業法制だったことがわかっていれば、日本では不正競争法上の問題とされそうなテーマが著作権法の枠内で取り扱われることに納得がいくはず。 一方、日本の法制では、そのような考え方はありえない。著作権法に著作物の定義が定められており、著作物ではない「単なる事実」の創作性のない「単なる集合」であるデータには、理論的に著作権が発生しない。「額に汗」の理論は、日本ではまったく通用する余地はない。それゆえ、著作権法を改正し、 著作権法 第12条の2データベースの著作物というものを新たに著作権法のなかに組み入れたわけだ。だから、現在においては、創作性のあるデータベースは著作権法によって保護される。もちろん、創作性のないデータベースは保護の対象にならない。あと、欧州諸国では、データベースに対して特殊な権利付与の仕組みを作り出している。その件についてはこちらでも参照しておいてくださいませ。 さて、それに付け加えて、現在のアメリカで「額に汗」の法理がどうなっているのかといえば、実はもはや有効ではなくなっている。アメリカがベルヌ条約に加盟した1989年以降は、産業法制としてのcopyrightよりも、大陸法のauthor's right的な考え方をとることになる。そうしたなかで、著作権発生の最低用件としての創作性(originality)の内容が再検討されるようになる。そして、どこからどう見ても創作性のない単なる事実データの集合体としてのデータベースについて、著作物性を否定する判決が出された。 Feist Publications, Inc. v. Rural Telephone Service Co., Inc, 499 U.S. 340 (1991)という合衆国連邦最高裁判決だ。解説文はこちら。 Feist事件判決での理由付けでは、以前の下級審判決が1909年アメリカ著作権法を誤って解釈してきたと批判し、もともとの著作権の原理を取り戻したように書いてある。たしかに、ある作品を著作物とする根拠となる創作性という概念は、きわめて微妙なものだ。Leon事件の法廷と、Feist事件の法廷は、同じ程度にグレイな対象を、暗い灯りで見るか、明るい灯りで見るかによって、それぞれ黒あるいは白と判断した。いずれにせよ、合衆国連邦最高裁が明確に「額に汗」の法理を否定したのだから、この法理はすでに歴史的遺物となったと言ってよいだろう。 そこで、ここでいう「汗の対価」法理 (というものがあるとすれば) は、さきの Leon事件とまったく同じ「事実データの盗用」という場面において、著作権法の枠ではなく、さらには不正競争法の枠でもなく、民法の不法行為という、法学者なら「えらく広い枠で引っ掛けたなぁ」と思うほど一般的な規定で、それを損害賠償の理由となる違法行為とする考え方になる。 というわけで、読者の皆さんには、「汗の対価」法理と、「額に汗」法理を勘違いして混同しないようにしていただきたいわけです。 さて、次。
[46]万国著作権条約... ずーっと前に読んで以来、ぜんぜん見たことないよ。改正されている可能性があるな。オンラインだと、これとか、これが当てになりそうだ。
万国著作権条約 第2条なるほど。確かに、アップロードをここでいう「発行」としてみれば、締約国の国民の著作物であるか、および締約国でアップロードされた著作物は、締約国において自国民と同一の保護が与えられることになる。逆にいえば、締約国でない国民の作品が、かつ締約国でない国で最初に発行された場合に限り保護されないことになる。 次は、商標か...
[70]自分のカバンに私的に何を描いても勝手だと思うが、それを外に持ち出してはダメだったっけ...?
商標法第37条単純に所持する行為を「侵害とみなす行為」とする条文は、これだけだな。他の禁止行為は「譲渡若しくは引渡しのため」とか条件がついているわけだが、この条文だけは、商標がついている物を所持しただけでアウトにしている。とはいえ、「登録商標又はこれに類似する商標の使用をするため」という条件がついている。高校生あたりが自分のカバンにミッキーマウスの絵を描いて持ち歩いて、商標権侵害でタイーホされるという話を聞いたことが無いので、ここでは「使用」の概念が問題になるのだろう。
商標法第2条うーん、カバンは確かに商品だったわけだけど、ここでいう「商品」というのは「商業取引目的の品」という意味ではないのだろうか。商業目的のない個人が、パッと見てディズニー社のライセンスの下にあるとは思えないような、素人味たっぷりのイラストをカバンに描いて外に持ち出しても、商標法違反になるとは思えない。とはいえ、法律実務に携わっていない私が、「思えない」と思っても説得力ゼロなわけで、やっぱり牧野先生の解釈は正しいのだろうと思う。 ただ、自己使用目的でカバンから自作し、そこに自分でミッキーマウスのイラストを描いた場合、少なくとも商標法に違反することにはならないはず。カバンから自作するなんて、えらく根性のいる作業になるとおもうけど。 ...と考えてたら、商標法に関する記事を茶会員から指摘してもらった。ありがとう えのもと君! 私がファンである田村義之先生の「商標法概説」に以下のように説明されている。
[145]なるほど、そりゃそうだ。すると、牧野先生の「外に持ち出してはならない」というのは、そのカバンを「誰かに売る目的で」という前提において正しいことになる。
著作権法第30条...と考えてたら、著作権法第30条の私的使用についても制限があることを茶会員から指摘してもらった。ありがとう平田君! そこには「家庭内その他これに準ずる限られた範囲内」という規定がある。うーん、こちらから引っ掛けることもできるかもな。ある人の日常生活の範囲というのは、この「限られた範囲内」に該当するのか、しないのか。難しいね。
[91]ディープリンクが同一性保持権の侵害? まあ、そう言えなくもないけど... 牧野先生も「そういう考え方もできる」とぼかしてある。とはいえ、「ディープリンクは禁止だ! 同一性保持権の侵害だ!」と言い出す人がいるかもしれないので、ちゃんと説明しておかないと。 まず、一般的に言って、「リンク禁止!」とか「無断リンク禁止!」というのはナンセンス。リンクはWebというシステムの根本的機能なのだから、リンクされたくなければネット上で公開なんかしなければいい。まして、リンクを禁止するような法律はどこにもない。道徳的にあるいはエチケットとして、上記のようなことを言う人はいるけど、そんなにイヤならWebなんて使うんじゃねぇと力強く言いたい。本を出版しておいて「書評をつけたり、言及すること禁止」というようなものだ。 ここで牧野先生は「トップページから順に見ることを期待して作られていた場合」と限定しているが、たいていの小説や映画は最初から順番に読むことを期待して作られているはず。でも、ミステリの最終ページだけ読んだり、映画DVDを飛ばし見したりすることを同一性保持権侵害というようなことは「常識的に考えておかしい」。ならば、Webサイトを好きな順番で見ても、一部分を抽出して見てもかまわないはず。そんなことを言い出したら、私たち一般のWebユーザーのほとんどが著作権法違反していることになる。著作権法というような特殊領域の法よりも、私たちが自由に情報にアクセスするという精神的自由を基本として考えるのが普通のはずだ。 リンクが禁止されうる可能性のある事案は、(1)商業目的のサイトにおいて、フレームなどを使って、他人のコンテンツをあたかも自分のコンテンツのように表示して利益を得ている場合や、(2)特殊な操作をしないと見ることができないように設定されている商業目的のコンテンツを、そうした操作をしなくても見えるような形でリンクする場合だろう。これらの問題は、不正競争防止法や不正アクセス禁止法の領域で考えるべき問題だ。それでも理由付けできないのなら、先ほどの「汗の対価」法理のように「著作権法では禁止されていないが、行為の全体からして不法行為に該当する」とするほうがスジがいいと思う。ここでムリヤリ同一性保持権なんて持ち出して、ただでさえ混乱している著作権法の解釈をかき回すのはいかがなものか。
[117]これは、牧野先生の口が滑ったんだろうと思う。あるいは言い方がマズかったか。プライバシーの権利なるものが、人格権の一部として主張されている という言い方が普通。人格権として挙げられる権利は、広く人間性の各領域に展開している。一方、プライバシーは個人の私的生活・自己決定権に関する権利として説明されており、その根拠として人格権が引き合いに出される。それえ、プライバシーの権利の範囲が人格権より広いことはありえない。
[127] [映画のネタバレはご法度です。]映画にしても、小説にしても、どんな作品にしても、まだ見てない読んでない人にネタバレするというのは、エチケットとしてよくないと私も思う。その点については賛成だ。とはいえ、これを翻案権だとか公表権に絡めてしまうのは、いかがなものか。
著作権法 第18条第18条に規定されている公表権は、「まだ公表されていないもの」にのみ該当する。上映されている映画や書店で販売されている小説については、当然のことながらすでに公表されているので、公表権を根拠にネタバレを禁止することはできない。少人数向けの試写会や、著者が私的に開催した刊行前の読書会などで知ったストーリーをブログなどで公開することは確かに公表権の侵害に該当するかもしれないけど。 次に第27条に規定されている翻案権。確かにこれはある表現形態の著作物の本質的な要素(内部形式)を維持したまま別の表現形態に置き換える権利を、著作権者に専有させるものだ。しかし、ここで問題になるのは、「著作物の本質的な要素」なるもの。たとえば小説であれば、その作品全体において、それを独特の表現として構成しているストーリーということになる。 ところが、そのストーリーを次第に単純化・抽象化していくと、ある段階でそれは単なるアイデアになり、著作権法の保護の対象とならなくなる。そういう意味でいけば、「詳細にわたると翻案権...の侵害になる可能性」はある。けれども、単なるネタバレが直ちに翻案権の侵害であると一般的に言うことはできない。たとえば、ある小説や映画を評論するなかで、あらすじを紹介することは、そのあらすじが評論のために必要であり、評論本体との比較において従属する位置づけであれば、引用に該当する。
著作権法 第32条まあ、ネタバレが「公正な慣行」に合致しないと言うことはできる。というわけで、「ネタバレ禁止」がネットの慣習として定着しているかぎり、ネタバレは引用に該当しないので、すると....そうねえ、やっぱり著作権法にムリヤリ引っ掛けるとなるとやっぱり翻案権侵害しかないのかな。こんな風に、ネット独自の慣習を考えることも重要なんだよ。『インターネットの法と慣習』をよろしくねぇ。
[131]私はコピーレフトの考え方に共鳴する珍しい学者であるわけなんだが、コピーレフトを「著作公権」と呼ぶのをはじめてみた。そこで「著作公権」という言葉をGoogleってみると、2006年8月5日段階でトップに来る記事で、牧野先生が批判されている。やっぱりねえ。このあたりのことはちゃんと調べて書かないと、古参のプログラマたちの神経を逆なでする。 もうひとつ「著作公権」という言葉を使っている文献は... あ、これも牧野先生の書いたものだ。ということは、「著作公権」という言葉は、牧野先生の造語ということで、ファイナルアンサーのようだ。よく知られた一般的な言葉の説明に独自の造語を当てるのはあまりよくないと私は思う。なんでもWikipediaに頼るのは良くないと思うけど、すくなくともオンラインでよく知られた用語の解説はかなり正確かつ妥当だと私は評価している。ここでは、Wikipediaの「コピーレフト」の説明を読んだほうがはるかに適切に理解できるだろう。 あと、行政法を専門にしている茶会員からこんなコメントもついた。 あと、「著作公権」の語についてですが、公権というと、行政と私人との間の公法関係における権利、というドイツの議論を連想してしまい、私もこの訳語には違和感を感じます。そもそも権利じゃなくて使用許可の話であるわけですが。なるほどねぇ。 次が... さあキタ! 法律家が力強く「ダウンロードすること自体は違法ではない」と断言してくれている部分だ。この部分を高く評価している人たちも多いものと思う。
[130]私は、オンラインで著作権者に無断でアップロードされているコンテンツやファイルをダウンロードすることは、ダウンロードした者による複製権の侵害に該当するものと思いこんでいた。ただ、ファイルをダウンロードしている個々の者を特定した上で摘発したり、その違法性の認識を確定したりすることがとても困難であること、あまりにもダウンロードしている者が多すぎて訴訟を提起することが現実的でないことが、ダウンロードしている者が摘発されない理由だと思っていた。 ところが茶会員からの情報では、「ダウンロード合法論はあちこちで語られている」という。確かに私も聞いたこともある。すると、アップロードする権利である再送信可能化権の新設のときに、「ダウンロードはお咎めなし」との公式見解が出たのかもしれない。 そこで調べてみた。 (「トリビアの泉」のナレーション風に) すると、なんと経済産業省から出ている、「電子商取引等に関する準則」の改訂・公表について」という文献の140ページにはっきりと次のように書いてある。 【論点】そうか。文化庁の見解ではないけど、経済産業省がこういうものを書くときに、文化庁にお伺いを立てていないはずがないので、ダウンロード合法は、日本国政府の公式見解だと考えてかまわないだろう。私が誤っていた。正直スマンかった。 しかし、ちょっと気になる。それは「私的複製に相当する限り」という条件がついているところだ。いや、別にダウンロード合法論に水を差そうというのではないよ。いちおう、確認までということで、該当する条文をみてみる。
著作権法 第30条個人的にダウンロードして自宅で楽しむ限りは、著作権侵害にならないということなわけだが、赤字の部分に注目してもらいたい。ここで書かれていることは、要するに、コピーガードがかけられていた著作物の複製物のコピーガードが破られていることを知りながら複製する場合は、私的複製にならない、ということだ。この読み方は間違ってないよな... で、私の記憶に間違いがなければ、市販のDVDには立派にコピーガードがかかっていると思うのだが。すると、アップロードされている物が市販DVDの中身であることがわかっていれば、それは私的複製には該当しないことになる。そうであるならば、ダウンロードもまた複製権の侵害であるから違法だと考えられそうだ。 しかしながら、引用部分で編集部の人が「市販のDVDもありますが.....」と念を押しているにもかかわらず、牧野先生は「ファイル共有ソフトで自分のパソコンにダウンロードする行為自体は罪に問われません」と断言しているわけで、なにか他の根拠があるのかもしれない。うーん、なんだろう。 そこで茶会員で「どのように考えれば合法論が成立するのか」と議論してみたのだが、こういう結果になった。すなわち、ネットでダウンロード可能な状態になっているファイルについて、ダウンロードする者は、それが合法にアップロードされているのか、違法にアップロードされているのかを知るすべはない。著作権者の許可のもとにアップロードされている可能性があるからだ。そういうアップロードの違法・合法の確認をダウンロードする人に要求することは合理的ではないだろう。それゆえ、ダウンロードする者が「それがコピーガードを破ってアップロードされたものだとは夢にも思わなかった!」限り、私的複製に該当するので、ダウンロードが合法になるのだろう。 その代わり、アップロードした者を再送信可能化権侵害で摘発、処罰することにしたのだろう。アップロードする者は、ダウンロードする者に比べれば人数が少ないし、特定しやすいしね。
さて、上記のダウンロードに関連して、次のような記述が気になる。
[153]先のダウンロード合法論との兼ね合いで考えると、複製しようとする者が、著作物の複製物のオリジナル (変な言い方だけど簡単にいえば、市販されているDVDとかCDとか) の所有権あるいは占有を合法に取得しているか、あるいはライセンスを受けているかとは無関係に、「個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内において使用することを目的とするときは」複製できることになる。実際に、レンタルCDでは、私的使用を目的としての複製がひろく行われていることはよく知られている。レンタルCDでは、単に占有が移転するだけで、CDそのものの所有権はレンタル店に依然としてあるにもかかわらず、借りた上での複製は私的複製だといわれている。 すると、ひろゆきさんがいう「いったん所有権あるいは占有を取得して私的使用目的で複製して返品」という作戦は、ある程度スジが通った考え方のようにも見える。まあ、その行為の目的とかその効果から考えれば、そうすることが法に適ったものであると考えることは無理だと思うけど。 ところが、牧野先生は、「私的複製する権限もない」ので使えないとおっしゃっている。どういうことだろうか。私的複製に権限の問題って関係あったっけ?先に引用した著作権法30条では、私的複製をする者の条件として「その使用する者」が条件となっている 。本人が使うのであれば私的複製する権限があることになる。もちろん、ここで問題となるようなコンテンツの場合、使用許諾条件(ライセンス) があるわけで、その中でオリジナルを保有しなくなった後にオリジナルのコピーを残しておくことは認めないだろう。でも、それは私的複製の問題とは関係がないのではないだろうか。 ただし、茶会員から次の指摘があった。 プログラムの著作物については、ということだ。なるほど。すると ひろゆきさんがプログラムの著作物に該当するゲームを例として掲げている限り、ゲームを収めたディスクを返品して所有権を失った後には、私的使用目的で複製したとしても、その複製を保持しつづけることはできないという解釈は正しいことになる。ただ その根拠が、私的複製の権限の有無ということではなく、プログラムの著作物に関してバックアップを認める規定に違反するからだ、と理由付けすべきだったことになりそうだ。著作権法 第47条の2と規定しているので、オリジナルの複製物に対する所有権がなくなった後はその複製物を保存することもできません。これが明示規定であるということは、プログラム以外の著作物について所有権は不要である、というのが自然な反対解釈になるでしょう。
3 おわりにというわけで、『2ちゃんねるで学ぶ著作権』を読んでいて「?」と思った点について確認をしてきた。ああ疲れた。ボランティアでする作業にしてはえらく長くなってしまった。原稿用紙換算で60枚程度か。最初の計画ではサラッと済ませるつもりだったのに... 5日もかかったよ。 でも、論者の背景知識や立場の違いがわからない一般読者の皆さんが、ちょっとした言葉のアヤにひっかかって誤解をしないように補足することは、『2ちゃんねるで学ぶ著作権』がベストセラーになればなるほど 大事なことなんだろうと思ってがんばった。ここまで読んでもらって、こんなことを言うのもなんだけど、上記の私や茶会のコメントもまた確定的な見解ではない。ただ、こういう風にも考えられるよ、という程度で把握してもらいたい。 ガッチリと作られているハズの法律に依拠しても、ここまでいろんな読み方・理解の仕方ができることを一般読者の皆さんに理解してもらいたかった。法律や法律家は、ボタンを押せば答えが出てくる機械ではない。私たち自身がちゃんと考えながら法律を運用しなければならないんだ、ということを読者に訴えたい。
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