もう一つの著作権の話
もう一つの著作権の話 / 白田 秀彰 著

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1 はじめに

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私は、まだ中学生または高校生である皆さんのために著作権の仕組みを解説して、 皆さんの自主的な意思のもとに著作権を尊重してもらえるように、 と考えてこの文章を書くことにしました。

皆さんにむけて書かれた著作権の話は、すでにいろいろとあるようです。しかし、 そうした話の大部分は「著作権法を守りましょう」「書籍やコンパクトディスク(CD) やビデオを勝手にコピーすると法律で罰せられます」 ということを皆さんに訴えるだけに止まっているようです。 既にしっかりとした判断力と自分の考えを持っている皆さんにとって、ただ 「法律を守りましょう」といわれるだけでは、 納得がいかない部分もあるのではないかと私は考えます。

そこで、この『もうひとつの著作権の話』では、 「なぜ私たちが著作権を尊重しなければならないのか」 という根本的な理由についていっさい手を抜かずに、 でも難しい用語や概念を使わずに説明することを目標としています。もし、 この文章を読むことで皆さんの心の中に著作権の考え方の基礎が作られれば、 一つ一つの自分の行動について自分で判断することができるようになるでしょう。

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2 こまった著作権!

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さて、皆さんはこれまでに一度くらいは「著作権」 という言葉を聞いたことがあると思います。読書を楽しむ人であれば、 書物の奥付けに、音楽を楽しむ人であれば、CD やMDのパッケージに、 コンピュータを使う人であれば、ソフトウェアの使用許諾書に「著作権」 という言葉が書かれています。でも、そうした皆さんのほとんどは「著作権」 について書かれた法律である「著作権法」を読んだこともないと思います。 そして要は「無断複製・無断転載・無断コピー」をしなければよいのだろう、 程度に理解しているものと思います。そして、皆さんのなかには 「そんなめんどくさいことをいちいち守っていられないよ」と考えて、 近所のコンビニエンス・ストアで本のコピーを取ったり、 お気に入りの曲をコピーしたMDを友達にプレゼントしていたりする人もいるのではな いでしょうか。

最近は情報化社会という時代に入ったとよく言われます。 この情報化社会という言葉が何を指しているのかについては実はまだはっきりとした 定義があるわけではありません [1]。 しかし、ここでは、おおよそ次のようにまとめておきましょう。

まず、情報化社会とは、私たちの欲望の対象が具体的な「物」に加えて、 形を持たない「情報」に広がった時代だということができます。皆さんは、 流行の服やバイクや化粧品が欲しいだろうと思います。その一方で、 ゲーム機やステレオやビデオなども欲しいでしょう。服やバイクや化粧品は「物」 です。ではゲーム機やステレオやビデオはどうでしょうか。「それも物でしょ?」 と考えるのが普通だと思います。

しかしながら、たとえばゲーム機の場合、 ゲームの機械だけを買ってきても意味がありませんね。 ゲーム機で再生するためのゲームを収めたCD-ROMが必要です。 ステレオを買ってきたときも同じように CDが必要ですね。 つまりゲーム機やステレオやビデオがなぜ欲しいかと考えるとき、 それらの機械そのものが欲しいのではなく、 私たちはその機械の上で利用される情報が欲しいわけです。こうした「物」 とはちがってそれ自体では形を持たない「情報」に対して私たちが欲望を抱き、 積極的に利用する時代を情報化社会ということができると思います。

次に情報化時代とは、そうした「情報」 の取り使い方が大きく進歩した時代ということができます。私たちが「情報」 に対して欲望を持つようになったのは最近のことではありません。 以前から存在する本やレコードや映画も情報を中心とした商品でした。しかし、 そうした以前から存在する情報商品は、 その情報を収めた紙の束やビニールの板やプラスチックフィルムと密接に結合してい て、そうした「物」と「情報」を分離して取り扱うことはほとんどできませんでした。 例えば、コピー機が無い時代には本を複写しようとすると、 たいていの場合は手で書き写すしかありませんでした。 本からその書いてある内容である情報を分離するためには大変な手間がかかったわけ です。

ところが、情報化時代においては、コピー機やMDやビデオデッキがあります。 それらの情報機器を用いれば、私たちは本からその内容だけを別の紙に移すことや、 音楽の情報だけをCDからMDに移すことが容易にできるわけです。もはや「物」 に収められた情報は自由に分離して移動させることができるようになりました。 さらにコンピュータを使いますと、そうして情報を取り出すだけでなく、 情報をいろいろと変形したり加工したりして、全く別の種類の「物」 に移すこともできます。たとえば、 スキャナを使いますと雑誌の内容からお気に入りのアイドルの画像だけを取り出すこ とができ、その画像に「暑中お見舞い申し上げます」とコンピュータで書き込み、 葉書に印刷したりできるということです。

さて、 明治時代以来の私たちの国でこうした情報の取り扱いについて定めた法律として著作 権法や特許法のようないくつかの法律があります。情報化時代に至って、 これらの法律がより注意すべきものになっていることは、 すぐに納得いくことだと思います。ところが、 そうした法律は情報化時代のような時代が来るとは全然考えもしない時代につくられ ているのです。著作権法では、 権利を持っている人に無断で作品のコピーを作ることを禁止しています。 そうした権利は最初に作品が作られてから50年以上保護されることになっています。

情報化時代以前の時代では、 先にも述べたように情報を物から分離して取り扱うことは非常に大変で、 普通の家庭で作品のコピーを作ることは実際にはほとんど不可能でした。 カセットレコーダーもないときに、 レコードのコピーを作ることは考えられもしませんね。だから、 ある作品をもう一つ欲しいときには、 それが本であればもう一冊買ってくることが当たり前だったわけです。 そんな状態でしたから、情報化時代以前の時代の著作権法は、 そうしたコピーを作ることのできる機械や設備をもっていた、 ごく一部の業者を禁止や処罰の対象としていたのです。現在の著作権法も、 家庭内でごく少数作成されるコピーについては違法でない、としています。 これはこうした時代の名残です [2]

ところが情報化時代になりますと、 普通の家庭の周辺にカセットデッキやビデオレコーダ、コピー機、 コンピュータなどがごく普通に存在するようになりました。 こうした便利な情報機器は、私たちが情報を積極的に楽しみ、いろいろな知識を得、 そうしてそれを手軽に扱うことを可能にしました。ところが、 せっかく新しい技術が情報を自由に扱うことを可能にしたのに、 大変な問題が生じてきたのです。

あまりにそれらの機器の性能が向上したために、 書店やCD店で売られている作品とほとんど同じ品質のものを家庭で作成することがで きるようになってきました。このため、書籍やCDやビデオを作製し、 販売している作家さんや業者さんたちは、商品が二つ、三つと売れるはずのときに、 コピーが作られてしまっているので、 経済的な損失を受けていると考えるようになりました。そこで、 これまで私たちのような普通の人々に関わってくることがほとんど無かった著作権法 が社会の関心事となり、「著作権法を守れぇ」 という叫びが私たちの耳にも頻繁に届くようになってきたのです。

これは情報化社会の矛盾の一つです。情報機器をいろいろと開発し、 それを苦労しながら安価で使いやすいものに改良してきた技術者の人たちは、 それらの機器が私たちの生活を便利にして、 情報の取り扱いを容易にすることを目指してきました。そして情報化社会は、 こうした技術と努力の上に成立しているのです。 私たちは実際にそうした情報技術の進歩の恩恵を受けていますし、 そうした情報技術は、私たちの知識や文化を大きく広げてきました。

その一方で、著作権の規定があるばかりに、 そうした情報技術の進歩の成果が台無しになっている場面も見られるようになってい ます。せっかくコピー機が近所のコンビニエンス・ストアにあるのに、 参考書の一部をコピーして友達に上げることもできませんし、 友達を自分のお気に入りのアーティストのファンに引き入れるために、 ヒット曲をMDにコピーしてあげることもできません。 著作権法の保護がなくなる50年後まで待っていたら、私たちはおじいさん・ おばあさんになってしまいます [3]。 このように「できること」はどんどん広がっているのに、 それらのできることのたいていは「してはいけないこと」になっているのです。

著作権法を以前のように安定したものにするためには、 便利な情報機器を家庭から追放してしまう、という方法も効果的です。しかし、 そうした後ろ向きの対策では、私たちが幸せになれないだけでなく、 作品を作り販売している人たちも幸せになれません。 そうした商売をしている人たちもまた、 新しい情報機器のおかげで新しい表現方法を使えるようになったり、 新しい商品を開発することができるわけで、 やはり情報機器の進歩の恩恵を受けているからです。では、情報機器の進歩で 「できること」がいろいろとあるのに、その「できること」を我慢すべきでしょうか。 これもまた、 そうした情報機器を進歩させるために努力している技術者の人々の知的努力をないが しろにすることになります。では、著作権法を変えてしまえばよいのでしょうか。 いろんな学者や研究者がこの問題に取り組んでいます。いろんな説があります。 なかには「著作権法などなくしてしまえ」という意見まであるようです。

そこで次に、 そもそもなぜ著作権が存在しているのかについて考えてみることにしましょう。 この点が明らかになれば、情報化時代において著作権がどうあるべきで、 私たちがどのような態度を取らなければならないのかが明らかになるでしょう。 そして、 その理由についてしっかりと理解した皆さんは自らの判断力と良心に従って著作権に 対処していくことができると思います。

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3 なぜ著作権?

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著作権が存在しなければならない理由として「もし著作権がなければ、 既に出版されている作品については、無料でいくらでもコピーができるので、 作品を利用する側は得をするだろう」「しかし、著作権がなければ、 作品を作る人たちへの報酬を集めることができなくなるので新しい作品が作られなく なる」だから「この不都合を避けるために著作権法が存在するのだ」 としばしば説明されます。

このように著作権によって作られた権利と、 この権利を源泉として生み出される経済的利益を理由として、 著作権の存在理由を説明する考え方を「誘因理論」と呼びます。 誘因理論が成立するために必要な創作者への報酬を集めるためには、 人々からお金を取りたてなければなりません。 どういう理由で創作者が私たちからお金を取りたてることができるのかを考えるとき に、大きく分けて二つの考え方があります。

一つは、著作権というものは、法律学的または経済学的理由付けよりも先んじて、 自然の権利として存在しているのだという考え方です。それは、 あなたがあなた自身の頭脳を使って、しかも苦労して作品を生み出したのだから、 その作品があなたのものであることは、法律的・ 経済的理由付けを必要としない当然であるとするものです。 だから他人がそうした作品を勝手に使用することは、 基本的に不正なことということになります。こうした考え方を「自然権理論」 と呼びます。

この考え方では、 作品に対して創作者が当然に持つ権利は所有権に似たものであるとします。 この結果として、ある作品を「物」 と同じように扱えるようにできる権利を想定します。形をもった「物」については、 ある人が「物」を使っていると、当然に他人が同時にその「物」 を使うことを排除してしまうことになります。 あなたが使っている鉛筆を同時に私が使うことはできませんね。

この他人の使用を排除する状態のことを「占有」と呼びます。形を持たず、 また何人もが同時に使用することができる「作品」 についてもこの占有状態を作り出さなくては作品を「物」 と同じように扱うことはできません。そこで、 創作者がある作品の使用や複製について一つ一つ許可したり許可しなかったりする権 利、すなわち「排他的独占権」を持つことが認められるわけです。ここでは、この 「排他的独占権」を「自然権的排他的独占権」と呼ぶことにします。

この権利は文字どおり、 権利を持っている人がその他の世界中の人々に対して作品を一人占めして、 ある作品を利用するにあたって対価を取りたてたり、 ある作品の利用を禁じたりすることができるという権利で、 たいへん強い力を発揮する権利です。例えば、あなたが何かの理由で「あかとんぼ」 という童謡を歌うことの排他的独占権を獲得したとしましょう。そうするとあなたは 「あかとんぼ」を歌う人から対価を徴収することができます。また、 対価を支払わない人が「あかとんぼ」を歌うことを禁止することができます。 こうして結果的にあなたは「あかとんぼ」 という曲の排他的独占権から経済的利益を得ることができるのです。

逆に、著作権というものは、過去においては学問や芸術の振興、 現在はそれに加えて産業秩序の維持を目的として政策のために作られた人工的な権利 にすぎないという考え方があります。これを「規制理論」と呼びます。 こちらの考え方は、著作権といわれている権利には二つの要素があると考えます。 すなわち、創作者がある作品を生み出した事実から当然に発生する「創作者の権利」 とこの「創作者の権利」に加えて法律の効力で作られた「排他的独占権」 が組み合わさっていると考えるのです。

「創作者の権利」として分類できる権利は「自然権理論」 と同じ考え方に基づいて発生するものとされています。 これはある作品を生み出した創作者が、 その創作の事実と結びついて獲得する権利です。 それらは著作権法に記された次のような権利として説明することができます。 作品の作者が誰であるかという事実を主張する権利、 自らの作品を誰かに勝手に作りかえられてしまわない権利、自らの作品を公表するか、 それとも公表しないままにしてしまうかを決定する権利です [4]

一方、法律の効力で作られた排他的独占権は、全く人工的な権利であるので、 法律の条文に依拠してどのようにでも設定できるということになります。ここで、 先の「自然権的排他的独占権」と効果は同一でも、まったく政策的・ 人工的に設定された排他的独占権を「政策的排他的独占権」と呼ぶことにします。

さて、先に排他的独占権は非常に強力な権利だと書きました。 この権利が創作者が受けるべき正当な報酬を徴収するかぎりで使われるならばよいの ですが、もしその権利を握っている人が悪意を持っていたら大変なことになります。 たとえば「あかとんぼ」の歌の権利を持っているあなたが 「この曲の権利で大もうけしたいな」と考えたならば、 「一曲歌う毎に100万円の対価を取る」と決めてしまうこともできます。 さすがにこれほど露骨であれば「権利の濫用である」と裁判所が判断して、 この権利主張を制限してしまうでしょうが [5]、 理屈としてはそういうこともできうるわけです。また、 あなたが自分に都合のわるい論文や新聞記事の排他的独占権を買い取ったとしましょ う。そうすれば、あなたは著作権の効果として、 そうした論文や新聞記事が世に出ることを禁じてしまうこともできます。

排他的独占権の保護を考えるとき、どこまでもその範囲を広げていけば、 私たちが情報機器を使って見たり聴いたりする情報のほとんどが誰かの財産というこ とになってしまい、 私たちは何かを見たり聴いたりするたびにお金を払わなければならなくなります。 逆に、その範囲を小さく小さくしてしまえば、 創作者が手に入れることができる経済的利益がどんどん少なくなっていきます。 そうすると、 作品をわざわざ作成して世に送り出そうと考える人が減っていくことが考えられます から、 結果的に私たちは十分な数の作品を楽しむことができなくなることが考えられます。 排他的独占権はその強力な効果ゆえに危険な権利ですから、 その権利をどの範囲にまで認めて、 どの範囲からは認めないのかを決めることが重要になります。 強い薬ほどその適量の判断が大切になるのと同じことです。

ところで、法律に限らずあらゆることについて言えることなのですが、 境界なり限界なりを定めようとするときに、 その境界にある物事をどのように取り扱うかが必ず問題となります。 白から黒まで少しずつ明るさを変えていくとき、 どこから黒になったと考えるべきでしょうか。 その中間の灰色をどちらかに分類しなければならないときには、 どちらに含めるべきでしょうか。 これによってある明るさの灰色が白か黒かの領域のいずれに含まれるかが大きく左右 されます。例えばまったくの黒でなければ黒の仲間に含めないと考えるとすると、 灰色は全て白の仲間に含めることになります。

同様に排他的独占権について考えてみましょう。 権利をどんどん広く強くしていきますと、 権利を持っている人は幸せになるかもしれませんが、 その作品の利用者たちは費用がたくさんかかったり、 いろいろな不便な制限を守らなくてはならなくなります。 逆に権利をどんどん弱くしてきますと、 権利を持っている人たちは必要な利益を得ることができなくなってしまいますが、 作品を楽しむ私たちは自由に作品を利用することができるようになります。

「自然権理論」では、作品は創作した人の所有物と同じであると考えていますから、 本来創作者は自分の作品について無限の権利を持っていると考えます。 それが制限されるような理由があるとするならば、それは他の人々の利便を図ったり、 理不尽で面倒な手続を避けるために権利を行使しないままに止めているか、あるいは、 公共的な利益のために法律によってその権利が制限されていると考えることになりま す。だから、 創作者と私たちの利益のいずれを優先させるか判断に困ったときには創作者の利益を 優先させて考えることになります。一方、「規制理論」では、 排他的独占権については法律で自由に設定できるものと考えていますから、 先に見たようにいずれの利益を優先させるか判断に困ったとき、 どちらを優先させるかさえも政策的に判断することになります。

自然権理論の考え方を採用するならば、 これ以上深く基準を追及する必要はありません。 判断に困ったときには常に権利を侵害しないような態度を取っていればよいのです。 著作権法の規定は複雑で、どのようなときに、 どのような方法で著作物を利用すれば法に反しないで済むのか判断することは、 法律の素人の皆さんにはかなり困難だと思います。 実はそうした判断は法律の専門家にさえ難しいことが多いのです。そうすると、 皆さんは「とにかく法律に反しそうなことはしない」という態度を取れば安心ですね。 皆さんが学校などで読むように薦められている「著作権の本」 は基本的にこのような考え方に従って書かれています。 だから皆さんは通常この態度をとるべきでしょう。 この考え方に従っていて失敗することはないと断言できます。

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4 あなたのための著作権

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でも、もう少し考えを進めてみましょう。だからこそ、この小冊子は 『もうひとつの著作権の話』と題されているのです。

「こまった著作権!」の部分でも書きましたように、 実際には教科書で教えてくれるような安全な態度を取ってばかりもいられない現実が あります。皆さんの周りには便利な情報機器があって、 皆さんがそれらを活用するのを待っています。また、 そのこと自体を悪いことだと決め付けることもできません。 友達にCDからコピーしてもらったMDを聴くのが悪いことだろうことはすぐに納得がい っても、レポートを書くために雑誌や新聞の記事をコピーして貼り付けたり、 面白いテレビ番組をビデオで録画して友達にダビングしてあげたり、 軽音楽クラブの発表コンサートでヒット曲を演奏するためにも権利を持っている人の 許可が必要だと言われれば「ちょっと待ってくれよ!」と言いたくなるでしょう。

最近の興味深い例でいえば、インターネットが挙げられます。 皆さんもご存知とは思いますが、Webブラウザというものがあります。 これは著作物だといわれているWebページをインターネットを経由して皆さんのパソ コンの画面に表示するソフトウェアです。実はこのブラウザは、 インターネットを経由して、 著作物であるWebページのコピーを皆さんのコンピュータに持ってきて表示するもの なのです。日本国の著作権法では、著作物の無断複製は禁じられています。 そして Webページを構成している情報はいずれも著作権法で保護されていますし、 また、いくつかのページには「無断複製を禁止します」 とはっきり書いてあります [6]。もし、 皆さんが「自然権論」をそのまま受け入れるならば、 インターネットを使うべきでないということになります。

なぜなら、Webページをブラウザで見ること、 すなわち自分のコンピュータにコピーすることが著作権法で禁止されている複製に該 当するかどうか、法律にははっきりと書いていないからです。 法律の専門家もはっきりとしたことは言えません。 ただブラウザを使っているたいていの人が「大丈夫だろう」と考えて使っていて、 また Webページを作成した人が自分のページを見た人を著作権侵害で訴えたりしてな いという事実があるに過ぎません。

こうした著作権法の灰色の領域は広く、 また新しい種類の情報機器については常に灰色領域が付きまとっています。 レコードがこの世に現れたとき、写真がこの世に現れたとき、 映画がこの世に現れたとき、 いずれもそうした新しい技術が著作権法に違反したものでないのか、 それらの技術が可能にする著作物の利用法が正当なものなのかが激しい論争を呼びま した。もし、世界中の人々が「自然権理論」の考え方一本でまとまっていたら、 それらの技術が普及することはなかったと言ってよいでしょう。灰色である以上は、 それらの技術を使うべきではないのですから。そこで、 もし私たちが新しい技術を享受して活用することが望ましいことならば、 自由に表現したり議論したりすることが望ましいならば、 もう一歩踏み込んだ基準を探して、著作権法の違法・ 合法について考える必要があるといえるでしょう。

そこで、一度この章のはじめに紹介した「誘因理論」 自体から検討し直してみましょう。「もし著作権がなければ、 既に出版されている作品については、無料でいくらでもコピーができるので、 作品を利用する側は得をするだろう」というのは正しいでしょう。 既にある作品を自由に使えるということは単に経済的な利益のみならず、 私たちが学習したり新しい作品を作る時の基礎に、 過去の作品を活用できることを意味していますから、私たちの得になります。

では、「しかし、著作権がなければ、 作品を作る人たちへの報酬を集めることができなくなるので新しい作品が作られなく なる」という部分はどうでしょう。実は多数の研究者が指摘していることなのですが、 著作権制度が存在するはるか以前から創作活動は立派に行われてきたし (実際には著作権制度がなかった時代の作品のほうが優れている場合も多いのです) [7]、 創作者たちがたくさんの報酬を受けたから、 次の作品に一層励んで取り組むということも確かな推論ではありません。 たくさんの報酬を受けた小説家が、 引退してしまって作品をまったく書かなくなる可能性も十分にあるからです。

付け加えるならば、創作物が排他的独占権を得たことで獲得できる利益というのは、 その作品が私たちの興味を引く強さに依存していて、 その作品を作るのに費やされたお金とは全く関係がありません。 たとえ30億円を使って映画を作ったとしても、 つまらなければ3万円だって取り戻すことはできません。 その映画の経済的価値は30億円ではなく皆さんがそれに支払おうと考えた費用の合計 なのです。誰も見たくない映画なら0円ということになりますね。一方、 そうした人気のなかった映画の価値が乏しいものと判断することもできません。 たとえたくさんの人を映画館に集めることができなかった映画でも、 高い文化的価値や歴史的価値を備えたものもあります。すなわち、 内容のもつ文化的価値と経済的価値もまた直接関係があるわけではないのです。

このように考えますと、私たちが作品にお金を支払っているから、 作品が生み出されるのである、と単純に言うことはできないことになります。確かに、 お金は創作活動をしている人たちの生活を支えるのに必須ですが、 これのみが理由となっているのでは、著作権制度の本質を見失う結果となります。

では、さらに進んで著作権制度の本質的な主体としての「創作者」 について考えてみましょう。 創作者というと小説家やマンガ家やミュージシャンという特殊な職業に就いている人 たちとイメージしがちですが、そうした人たちは、 はじめからそうした職業に就いていたわけではありません。 皆さんと同じように小説を読み、アニメを観、流行歌をカラオケで歌ったり、 学園祭で演奏していたりしていた皆さんの先輩なのです。著作権法では、 あらゆる種類の表現は著作物でありうると規定していますから、 皆さんが書いたノートや、イラストや、日記にも著作権があるのです。だから 「創作者」という特殊な人がいるのではなく、 利用者である皆さんの中でたまたま作品を他人に見せたり聞かせたりすることで報酬 を得るだけの技能や才能を備えた人が「創作者」だということができるでしょう。

そうした「創作者」たちもまた、自分たちの先輩である「創作者」の作品を見たり、 読んだり、聴いたり、場合によっては、 借用したりして創作活動を行ってきたわけです。こうした「創作者」 が全員そろって著作権法の条文に一度も違反したことがないということはできないで しょう。学習がそうであるように、 創作活動も過去の作品を基礎としているからです [8]。実際に著作権法は、 いくらかの目的について著作権に由来する排他的独占権が及ばないと規定しています。 これは、創作活動を奨励するためには、 排他的独占権が場合によっては害となりうることを端的に示しています。

だから、あまりに著作権法が広く厳しいものになることは、 利用者にとって不便で迷惑であるだけでなく、 実は創作者本人にとっても不便で迷惑であるということができます。 著作権侵害の基準として先に挙げた「自然権理論」の考え方は、 創作者の利益を第一に考える態度でしたから、 ここで説明したように創作者の利益と利用者の利益が実はつながっていると考える場 合には、基準とならなくなってしまいます。 そこで私たちは別の基準を探す必要があるわけです。

そこで著作権の仕組みがどのような歴史を経て誕生してきたかを見てみましょう。 とても長く込み入った歴史なので [9]、 ここではその概略だけ説明しますと、 私たちの情報伝達の方法を革新した15 世紀の活版印刷術が現れるまで、 先に説明した「著作者の権利」について考えられたことはあっても、 著作権を理由とする「排他的独占権」は存在していなかったと考えられています。 このころまでの排他的権利は、特許とまったく同じように国王の持つ特権、 すなわち国王大権を根拠とした純然たる「独占権」に他なりませんでした。 「著作者の権利」と「独占権」 は本来別々の目的のために別々の権利として存在していたということです。 このころ印刷物に与えられていた独占権は何を目的にしていたのかといいますと、 出版業という産業自体を保護するためでした。

印刷術が始められた頃、印刷される作品は既に存在していた名作でした。だから、 独占権を与えて創作を奨励する必要は全くなかったのです。一方、 まだ生まれたばかりの印刷業はいろいろな問題に直面していました。 今でもそうなのですが、出版という仕事は大がかりな機械設備を必要とします。また、 印刷が始まってしまえば、印刷物一つ一つの価格は非常に安くできるのですが、 その印刷を始めるまでの準備に大変な費用がかかっていたのです [10]

さて、ある出版業者が聖書を出版することにしたと仮定しましょう。 その聖書を買ってくれそうな人の数をまず考えます。そうですね、 当時の常識ではだいたい3,000部くらいでしょうか。 聖書を印刷するための準備にかかる設備の費用や原版の費用は、1部印刷するのも、 10,000部印刷するのもほとんど変わりありません。だから、 出版業者とすればたくさん印刷して、その本が全部売れるならば、 それだけ1冊あたりの価格を安くすることができます。 だから3,000部売れそうだと考えた時点で、1冊あたりの費用が決まりますから、 本の価格を決めることができます。そして、 出版業者の思惑通り 3,000部売れれば経営的には成功することになります。

そこで別の印刷業者がたまたま同じ時期にやはり聖書を印刷しようと考えていたとし たらどういうことになるでしょうか。 二人の印刷業者が互いに知らずに聖書を同時に出版してしまったら、そして、 そのいずれもが3,000部売れると考えていたとしたらどうなるでしょう。 買ってくれそうな人が3,000人しかいないところで、 6,000部の聖書が売られることになります。そうすると、3,000部は売れ残るか、 もとの値段よりも値下げして、 よりたくさんの人に買ってもらわなければならなくなります。そうすると、 3,000部売れることを基礎にして計画されていた経営は、 その出版事業の費用を回収することができなくなってしまい破綻します。

今のように、 たくさんの種類の本を出版することができる大きな出版業者がいる時代ならば、 一つ一つの本の経営の失敗や予想外の成功を平均化することで経営を安定させること ができます。しかし、ここで考えているような昔の小さな印刷業者なら、 あっという間に倒産してしまうことになります。もし、 なんの手当てもせずに放っておけば、印刷業自体が成立しなくなってしまうのです。 そうするとせっかく生み出された、 私たちの知識や文化を大きく発展させる可能性のあるメディアが死んでしまうことに なります。私たちはまた以前のように口伝えで物語りを伝えていくか、 手で本を書き写さなければならなくなります。 これは学問や文化の発展にとって大変大きな損失です。

なぜ印刷業などのメディア企業がなくなると私たちにとって損失になるかについて説 明しておきましょう。メディア企業はいずれも設備産業です。 そうした設備産業については「規模の経済」という原理が働きます。 たとえば本を印刷して製本するという作業をそれぞれの読者がする場合を考えてみま しょう。この読者が3,000人いると仮定して、そのうちの1人が印刷・ 製本するのに費やした費用を平均1万円と仮定します。 すると 3,000人の読者全体では、3,000万円の費用がかかることになります。 この例にしたがって説明すれば、企業というものは、大規模な工場を用いることで、 3,000 人が総額 3,000万円の費用で作り出すはずの物よりも優れた物をはるかに安く 生産し、 そうして安く生産した物に利益を乗せて3,000人の需要を満たすことで成立していま す。大規模で高度な機械を用いれば、500万円ほどで3,000冊の本を生産でき、 それに 1,000万円の利益を乗せて販売しても、 一冊あたりの価格は5,000円ほどになります。そうすると、 企業は1,000万円を儲けることができ、また読者も一人当たり 5,000円、 読者全体としては1,500万円得をするわけです。 このようにメディア企業が存在することで企業を経営する人も私たち自身も利益を得 ているわけです。

また企業には「事務にかかる手間を減少する」という機能があります。 ある作品の創作者は、ほとんどの場合一人から数人です。 なかには百科事典のように数百人が取り組んで製作する種類の創作物もあるようです が、そうした場合も根本的には一人一人の創作者が仕事をしているわけです。さて、 ある作品の創作者が 1人であると仮定します。一方、 その作品の利用者は非常にたくさんいるとします。やはり3,000人と仮定しましょう。 もし、3,000人の人全てが著作権を尊重して、 一人一人創作者に使用許諾を求めてきたらどうなるでしょう。 創作者は使用許可を出すための事務作業に追われてしまい、 十分な創作活動ができなくなってしまいます。もし、 ここにメディア企業が存在すれば、どうなるでしょうか。 資本力をもったメディア企業は創作者から、 作品の複製物を3,000部つくって販売する権利を一括して購入することができます。 こうすると、創作者は面倒な権利処理を一回するだけで済むことになります。また、 まとまったお金を手に入れることができます。一方、 メディア企業は創作者への支払金額を、 それぞれの商品に必要な原材料費の一つとして処理することができるのです。 こうして、 社会全体の手間を省き効率よく処理するためにもメディア企業が役に立っているので す [11]

さて、このように必要なメディア企業を維持するために「独占権」 が大きく役に立つのです。 たとえば国王大権で聖書の印刷をある印刷業者だけができるものと決めます。すると、 ある作品を複数の事業者が同時に出版してしまうことによって生じる損失を避けるこ とができます。なぜなら、 自分以外の業者がその作品を出版しないことが法律で決められているならば、 着実な出版事業計画を立てることができますし、 もし誰かがこの計画を乱すような行為をするならば、 国王の権威をもって法によって排除してもらえることが保証されているからです。 このように、排他的独占権は、出版事業のような、 情報を整理統合して一つの商品として構成し販売する種類の事業には、 不可欠の権利であるということができます。 著作権の効果として与えられるといわれている「排他的独占権」 は実際にはこうした事情を背景にこの世に現れてきたのです。

一般に「独占権」というものは悪いものだといわれてます。 ある人が何かの商品を独占することが法で認められると、 その人は思うままに商品の価格を高くすることができます。 売り手の決める値段で商品を買わないわけにはいかないからです [12]。こうなると、 独占が与えられると商品の品質はどんどん悪くなり、 値段はどんどん上がっていくことになります。しかし、著作権でいう「排他的独占権」 は、もしそれが無ければ出版業、音楽産業、 映像産業などのさまざまなメディア企業が成立し得なくなりますから、 社会の情報の生産のみならず伝達もまた大きく阻害され、 私たち社会全体の利益が大きくそがれてしまうことになります。だから、 メディア産業の「独占権」は「独占権」 から生じる害よりも大きな利益を生み出している限り、 必要でありまた正当なものであるということができるでしょう。

ここで著作権に関してもう一つの考え方があることが示されました。基本的には 「規制理論」と同じように「著作者の権利」と「排他的独占権」 を分けて考えるのですが、排他的独占権が認められる理由として、「誘因理論」 に依拠するのではなく、 社会の情報伝達の装置としてのメディア企業を維持することに根拠を置く考え方です。 すると、新たな基準が見つかりました。すなわち、 著作権を根拠とする排他的独占権をどこまで認めるべきかという問題は、 その排他的独占権が維持している産業から生み出される社会的利益とその独占権が生 み出している社会的害悪を比較検討することで解決することができることになります。

さて、 現在の著作権制度が支持している排他的独占権は私たちの利益になっているでしょう か。私たちは安く合理的な値段で本やCDやビデオを買ったり、 映画を見たりすることができているでしょうか。 現在の本やCDやビデオの値段でも安すぎると主張している人たちもいます。しかし、 現在のそれらの商品の価格は、 残念ながら独占によって売り手の自由に設定されている価格ですから、 妥当な価格であるかどうかははっきりとしません。妥当な価格は、 市場で商品が自由競争するときにはじめてはっきりするからです [13]

情報化時代に生きる私たちが直面している問題に戻って考えてみましょう。今、 著作権についていろいろな論議が沸き起こっている理由は、 コピー機や MDやビデオデッキやコンピュータ等の高度な情報機器が私たちの家庭に 入ってきたことあると述べました。 私たちはそれらの情報機器のおかげで新しい方法で情報を取得したり、 利用したりできるようになりました。このような情報機器を用いて、 先ほどの例であげられた本の印刷・製本を私たちがそれぞれ行ったとしても、 1,000円しかかからなくなったとしたらどうでしょう。また、高度なコンピュータ・ ネットワークの仕組みを利用して、 私たちが創作者本人の邪魔をせずに作品の使用料を直接に払うことができるようにな ったとしたらどうでしょう。もしかすると、 私たちはネットワークを通じて創作者本人と直接に語り合ったり、 自分が感じた感動や創作者への感謝の気持ちをいろいろなかたちの支援で表すことが できるかもしれません。お金という冷たいメッセージだけではなく、 私たちの温もりのある行動で感謝を表すことだってできるのです。

こういう状況が現れてきたとき、企業はより一層の努力をして、 個人がそうするよりももっと安い価格で商品を供給しなければなりません。もし、 個人がそれぞれ行う作業よりも高い価格でしか供給できないのなら、 その企業が存在すべき理由はありません。そしてもし、その企業が「排他的独占権」 を購入したことを理由として、より安く複製できる私たちの能力を奪ってしまい、 かつ、自分に都合のよい値段を付けたとしたらどうでしょう。その「排他的独占権」 はまさに「悪しき独占」 を支えるものとして社会の害悪に他ならなくなってしまうのです。

今のところ、私たちが高度な情報機器を購入するためには、 かなりの出費を必要としますし、私たちがそれぞれに印刷・製本を行う場合には、 どのようにして作品を生み出した創作者に対価を支払うのか、 という問題が解決されません。 さらに言えば私たちが高度な情報機器を購入することができる環境は、 またメディア企業についてもそうした高度な情報技術をより大規模に応用することが できるのですから、そうした個人と企業との関係で見るとき、 生産にかかる費用が個人について有利に働く場面はほとんどないといって良いでしょ う。

だから、皆さんが「コピーすればタダだ」と思ってやっているコピーは、 たいていの場合は、社会全体としてみれば無駄が多く不効率なものなのです。本来、 企業が安く合理的にできることを、 わざわざより多くの費用をかけて行っているわけですから。したがって、 社会全体の効率という観点から見たときに、 著作権法の決まりを守ることは私たちの利益に適うことだということができます。 しかし、だからといって、「排他的独占権」 をもっているメディア企業が漫然としていて良いわけではありません。 メディア企業は、社会の情報伝達を効率化する目的のために最大限の努力をし、 常にもっとも安い価格で私たちに情報を伝達しつづける使命を負っているのです。

しかしながら、次のような場合においては、 私たちが直接に創作者と連絡を取り合いながら作品を広めていくという方法が、 企業を仲介した情報伝達よりも既に効率的になっています。それは、 商業的な出版が成立しないほど少ない利用者しか想定できない作品の場合です。 具体的には同人誌やインディーズ・レーベルの CDや専門的な学術出版です。 これらの作品は、発行部数が非常に少ないので、 メディア企業の大きな生産設備を動かすと、 かえってたくさんの費用がかかってしまい採算が取れません。だから、 メディア企業が基本的に利潤を目的としている限り、 こうした作品は出版されることはありません。それゆえ、こうした種類の作品は、 いままで手作りに近い形で生産され、ごく少数の人々のみに流通していたのです。 しかし、 こうした作品が決して価値が乏しいわけではないことは既に指摘したとおりです。 ごく少数の人の関心しか引かなかったとしても、 その少数の人たちには重要な作品であるかもしれないからです。また、 こうした小さな作品たちは、 これから世に出る才能ある人々の最初の舞台として重要な役割を果たしているのです。

これまで地理的制約や経済的制約のためにごく狭い範囲にしか流通しなかった作品が、 新しい情報環境、とりわけコンピュータ・ ネットワークを経由して新しい読者に届くようになりつつあります。このことは、 文化をおし広げていくだけでなく、 文化それ自体を新しい局面に引き上げる可能性をもった現象です。 私たちはネットワークという見えない世界にあって私たちの作品を待ち続けている、 巨大な印刷機を手に入れつつあるのです。

この巨大な印刷機が私たちの文化的な向上や幸福に役立つかどうかについて、 疑問を感じている人たちがいます。しかし、 500年ほど昔にグーテンベルクが印刷機を作り出したときにも、 この道具が国王の権威や統一された宗教をバラバラにしてしまう害悪になると考えた 人たちはたくさんいました [14]。 「真実はみずから立つ、虚偽のみが支えを必要とする」という言葉があります。 知識が広く遠く届くことは真実にとっては助けになりこそすれ、 邪魔になることはないのです。

著作権が、学問や芸術を振興するという目的を掲げている限り、 こうした種類の小さな作品や出版物を振興することはその目的に適うことです。 だから、著作権を解釈したり運用したりするにあたって、 こうした小さな作品を作っている人々に過剰な負担をかけるようにすべきではありま せん。排他的独占権を厳格に適用して、 若い才能の芽や隠れた天才に足枷をかけてしまうことは、結果的には、 優れた作品が生み出す経済的利益の一部を受け取ることで成り立っているメディア企 業の自らの首を絞めていくことなります。文化や芸術は、 かつての天才の作品を骨董品のように崇め奉るだけでは腐ってしまいます。それは、 常に新しい価値を求めて変化を続けるダイナミックな運動なのです。 新しい才能が自由に表現を広げていくことこそが文化に熱い血を流しつづけるのです [15]

こうした表現に自由をもたらすことで学問や文化を広げていく態度は、 民主主義という自由な議論を基礎に成り立つ国の制度を採っている私たちの強く支持 する所なのです。日本国憲法第21条は「集会、結社及び言論、 出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」「検閲は、これをしてはならない」 「通信の秘密は、これを侵してはならない」 と規定しています [16]。 憲法は国の根本的な法規として第一の地位を占めています。著作権法の規定が、 もし仮に憲法の規定と調和しない場面があるとするならば、 まず憲法が規定した価値を優先し、 これを侵害しない範囲で著作権法を解釈運用しなければならないことになります。

これが、著作権法第1条に記された「この法律は、著作物並びに実演、レコード、 放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、 これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、 もつて文化の発展に寄与することを目的とする」という条文の趣旨なのです。 すなわち、「公正な利用」と「権利の保護」を両立させつつ「文化を発展させる」 ためには、ただ、 便利だからとって勝手に自分の好きなように他人の作品を利用することは許されませ んが、 かといって著作権法を盾に私たちの表現活動の自由や可能性を縛ってしまうこともま た著作権法の趣旨に反することなのです。

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5 おわりに

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これを読んでいる皆さんは、「あれれ、話が随分遠い所をまわって、 また最初に戻ってきたぞ」という印象を持たれたと思います。「結局、 僕たちは著作権についてどのような態度を取ればいいのか、 はっきりと教えてないじゃないか」と憤慨している人もいるでしょう。 「他の教科書では『とにかく著作権法を守れ』ってはっきり教えてくれたのに」 と困惑する皆さんの声が聞こえてきそうです。

そこで、私は言い訳をしましょう。 文化や学問が一つのところにとどまっていられないように、 法や権利もまた一つのところにとどまっていることはできません。 全ての物や出来事が移り変わっていくように、 正義もまた時と場合に応じて違った姿を見せるのです。それゆえ、 「とにかく著作権法を守れ」という教えは、 ある時ある場所において真実であるかもしれませんが、 皆さんがこれからの人生において経験するだろう、 様々な場面に常にあてはまると考えるのでは、あまりにも単純に過ぎる考え方です。 だから、私は皆さんに「なぜ著作権法を守らなければならないのか」 をいっさいの手抜きをしないで説明してきました。そしてできるだけ 「どこまで著作権法で守られるべきなのか」について説明してきたつもりです。 たとえ最初と同じところに戻ってきても、この小冊子を読んだ皆さんは、 ずいぶん遠く困難な旅を終えてきたわけです。皆さんは、それだけの知識を備えて、 新しい見方で自分の立っているところを見据えることができるものと確信しています。 このように皆さん自身で考え、皆さんの意思で著作権を尊重していくことによって、 はじめて著作権法は「生きた法」になるのです。

とはいえ、最後に簡単に整理しておくことにします。 商品として販売されている著作物を買わずに済ますためにするような種類のコピーは、 結果的に皆さん自身の利益を損なうことになります。だからすべきではありません。 その理由については既に説明しましたね。 何かの理由で作品の部分的なコピーが必要になる場合があるでしょう。 そのコピーが皆さん自身の学習や研究や表現のために必要であるならば、また、 その必要な部分だけを簡単に買うことできないのなら、 それは容認されるべきと私は考えます。 とくに若い皆さんには積極的に創作活動に挑戦してもらいたいと思っています。 皆さん自身が積極的に創作活動に従事することで、 創作者の天才や苦労を実感できるでしょう。そうした創作者の立場にたった皆さんは、 どのような種類の作品の使用法が創作者をがっかりさせたり傷つけたりするか、 また逆に、励ましたり喜ばせたりするのか自分で判断できるようになるはずです。 そうすれば、皆さんはもう六法全書などめくらなくても「著作者の権利」 を十分に尊重できるはずなのです [17]

Note

[1]
未来学者A.トフラーは、 著書『第三の波』のなかで、文明史的な時代区分を行っています。 農業段階が第一の波、産業革命以後の工業段階が第二の波、そして、 現在始まりつつあるのが第三の波であると位置づけています。

第三の波の社会においては、人間の欲求が多様化します。このような社会の中では 「情報」が行動を決定する大きな要素となるわけです。従来「物」の生産・分配・ 消費などが人々の生活を動かす主要な要因であったのに対して、 それを基盤としつつも、無形の情報の収集・伝達・ 享受などが社会の重要な要素となった社会が情報化社会であると説明されています。

[2]
[第30条] 著作権の目的となつている著作物(以下この款において単に「著作物」という。)は、 個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内において使用すること(以下 「私的使用」という。)を目的とする場合には、 公衆の使用に供することを目的として設置されている自動複製機器 (複製の機能を有し、 これに関する装置の全部又は主要な部分が自動化されている機器をいう。) を用いて複製するときを除き、その使用する者が複製することができる。
[3]
[第51条] 著作権の存続期間は、著作物の創作の時に始まる。2 著作権は、 この節に別段の定めがある場合を除き、著作者の死後(共同著作物にあつては、 最終に死亡した著作者の死後。次条第一項において同じ。) 五十年を経過するまでの間、存続する。
[4]
[第18条] 著作者は、 その著作物でまだ公表されていないもの (その同意を得ないで公表された著作物を含む。次項において同じ。) を公衆に提供し、又は提示する権利を有する。 当該著作物を原著作物とする二次的著作物についても、同様とする。(後略)

[第19条] 著作者は、その著作物の原作品に、 又はその著作物の公衆への提供若しくは提示に際し、 その実名若しくは変名を著作者名として表示し、 又は著作者名を表示しないこととする権利を有する。 その著作物を原著作物とする二次的著作物の公衆への提供又は提示に際しての原著作 物の著作者名の表示についても、同様とする。(後略)

[第20条] 著作者は、 その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、 その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする。

[5]
[民法 第1条] 私権ハ公共ノ福祉ニ遵フ 権利ノ行使及ヒ義務ノ履行ハ信義ニ従ヒ誠実ニ之ヲ為スコ トヲ要ス 権利ノ濫用ハ之ヲ許サス
[6]
[第21条] 著作者は、 その著作物を複製する権利を専有する。

[第10条] この法律にいう著作物を例示すると、おおむね次のとおりである。一 小説、脚本、 論文、 講演その他の言語の著作物二音楽の著作物三 舞踊又は無言劇の著作物四 絵画、 版画、 彫刻その他の美術の著作物五 建築の著作物六 地図又は学術的な性質を有する図面、 図表、 模型その他の図形の著作物七 映画の著作物八写真の著作物九 プログラムの著作物 2 事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道は、 前項第一号に掲げる著作物に該当しない。 3 第一項第九号に掲げる著作物に対するこの法律による保護は、 その著作物を作成するために用いるプログラム言語、規約及び解法に及ばない。 (後略)

[7]
著作権からあがる収益によって作家が生活できるようになったのは、 著作権制度が早くから発達した欧州でも19世紀に入ってからです。その理由も、 排他的独占権のおかげではなく、 印刷技術の発達でたくさんの普通の人々が読書を楽しむようになったからです。もし、 作家が自分の作品について、頑なに「見せない」「読ませない」 という態度を取っていたら、 たくさんの人が読書に親しむようにならなかったはずです。 作家が得られる収益の基礎は、 出版業と職業作家を支えるだけの多くの読者の存在にあります。 権利による独占のみでは作家の生活を支えられないのです。
[8]
「学ぶ」 という言葉の語源は「真似をする」という意味の「まねぶ」という言葉です。 あらゆる芸術は、特に古典作品ほど、すでに存在している優れた作品を真似て、 そこに新しい表現や個性を盛り込むことを重視しています。 作家の個性や感性を特に重視する態度は20世紀に入って現れた新しい現象です。 ある作品の何パーセントまでが本当にその作家のものなのかを考えてみることも大事 です。
[9]
著作権制度の発生と発展について詳細に知りたい人は、 私が書いた 「コピーライトの史的展開」 (信山社, 1998)を読んでみて下さい。 また、インターネットを使うことができる人は、 この欄外のアドレスにアクセスしてみてください。関連する記事があります。 http://133.25.179.139/hideaki/copyrigh.htm
[10]
今では少なくなりましたが、印刷のためには大きくて重い鉛の原版、 すなわちステレオタイプを作成しなければなりませんでした。これは、 金属の固まりなので高価なうえに、一ページについて一つずつ作成されましたので、 保管に困り、扱いにくいものでした。 こうしたステレオタイプの作成費用や保管費用が印刷に先立って必要だったのです。
[11]
例えば、 織物を作るとき、羊から羊毛を刈り取る人、それを糸に紡ぐ人、それを織る人、 またそれを染める人などが関与することになります。こうした人たちは、 それぞれに独立して仕事をして、それらの製品を市場で売買してもよいのです。 しかし、市場での売買では、いちいち交渉したり、品質を確かめたりといった、 取引に関わる手間がかかります。これを取引費用と呼びます。もし、 企業が羊の放牧から、織物の染色まで一手に行ったらどうでしょう。 市場でされていたような取引に伴う手間はいらなくなります。もちろん、 企業を維持するためには、また別の費用がかかるわけです。 そこで取引費用と企業経営の経費を比較して、 企業を経営したほうが有利な場合にのみ企業は設立されることになります。
[12]
商品の価格は、 その商品を売ろうとする人と、買おうとする人の間の関係で決定されます。すなわち、 商品を売ろうとする人が多ければ、売ろうとする人の間で競争が始まりますから、 売り手側の努力で商品の品質はよいものになり、また、値段も下がることになります。 逆に商品について独占権が与えられていれば、買い手は、 決められた売り手から商品を買うほかありません。すると、売り手は、 競争する必要がないので、 品質を向上させる努力や値段を下げる努力をしなくなります。
[13]
例えば、 本やCDには再販価格制度というものがあります。これは、 決められた定価でしか販売してはならないという一種の独占価格です。 この再販価格が必要な理由としてはいろいろとあるようですが、すくなくとも、 私たちは、この制度のおかげで、 ある商品についての妥当な価格を知ることができなくなっています。 CDについて再販価格制度のない外国では、 同じCDが日本の半額ほどで売られているのはよく知られた事実です。
[14]
印刷機は、 この世に現れてすぐに、国王や教会といった、 その時代の権力の支配下に置かれました。 彼らの許可を受けた人しか印刷機を使ってはならない、とされたのです。しかし、 そうした権力の支配を逃れた小さな秘密の印刷機から真実が溢れ出し、 国王や教会の腐敗や不正を暴き出しました。そうして市民革命が生じたのです。 メディアをくだらないことに使う人もいるでしょう。しかし、 たとえそこから害悪が流れ出すにしても、 私たちの自由な言論が表明される場所がまったく無いよりは、はるかにましなのです。
[15]
芸術家は、 芸術において自由であるのと同時に生活においても自由を求める人たちです。 そうした人たちは、 自分の発想を束縛したり妨げたりするような制限のあるところでは実力を発揮できま せん。ロックやダンス ミュージックの好きな皆さんなら、 すぐに納得してもらえると思います。
[16]
[憲法第21条] 集会、 結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、 これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
[17]
[第32条] 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、 その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、 研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。 (後略)

[第35条] 学校その他の教育機関 (営利を目的として設置されているものを除く。)において教育を担任する者は、 その授業の過程における使用に供することを目的とする場合には、 必要と認められる限度において、公表された著作物を複製することができる。(後略)

[第38条] 公表された著作物は、営利を目的とせず、かつ、 聴衆又は観衆から料金(いずれの名義をもつてするかを問わず、 著作物の提供又は提示につき受ける対価をいう。以下この条において同じ。) を受けない場合には、公に上演し、演奏し、口述し、又は上映することができる。 (後略)

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to Hideaki's Home 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 助教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp