An excuse for the gratitude from Mr. Yamagata on Japanese version of Lessig's CODE
CODE

勝手につけるCODE日本語版謝辞への言い訳

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3月の末に久しぶりに職場に出てみると、私のロッカーの中に分厚い書籍小包がはいってた。山形浩生さんからの贈本でした。「ああ、すこしまえから翻訳されてたCODEが出たんだな」と感謝しつつ梱包を解き、先頭のほうから少しずつ読みはじめました。

4月は大学の繁忙期。新入生への対応やら、ゼミ生の募集やらで大忙しです。ここで手を抜くと一年間面倒なことになります。4月9日になってもまだ1/4程度しか読み進めてませんでした。この日は、Glocomという研究組織での著作権研究会。この分野のスゴイ人が集まっています。鞄に入りきらなくて机の上に置いたままにしておいたCODEをみて、主宰者の林紘一郎先生が「序文を白田さんが書いたって聞きましたよ」とおっしゃいます。

「マジ?」

書いた記憶がないんで。そこでページを繰って探したらありました。449ページの「謝辞」に私のことが書いてあるっ! しかも、その謝辞をみると私が訳語の指導をしたみたいに書いてあるっ! しかも、しかも、石黒一憲先生は呼び捨てなのに、なんか知らないけど私の名前には「氏」がついてるっ! 文章全体がまるで私が他の学者さんたちにケンカを売ってるように読めるっ! ひいぃ

2月か3月頃、山形さんからCODEを読んでなにか書いてほしいと依頼されたことがあった。でも、その時は来年度のテキスト改訂で大忙しだったので、なんかウヤムヤで終わらせてしまってました(もうしわけない > 山形さん)。そしたら、いくつかの単語について「こんな訳なんですかね」っていう感じのメールが来て、それに返事書いたというのが真相。

「マズい。マズすぎる。これは危険文書だっ!!」

と思いましたね。そしてドキドキしながらCODEを読み進めていきました。

さて、私は、本のなかで大事だと思うことが書いてあったら、付箋紙を貼るかページの端を折ります。CODEを読み終わったとき、4、5ページおきにページの端が折れてました。そしてもう一度「謝辞」を読みながら「フランス革命の時も群集の先頭にいて、サッサと撃たれて死んだ奴がいるんだよなぁ」と思いました。それでいいや。という気になりました。

そこでみなさんにこの本を強くお勧めしたいです。一応、法律用語関係の訳語やら、もし改訂版出すときには全面協力させてください。> 山形さん

私とレッシグ先生の違いは、私のほうがラジカルな点かな。

レッシグ先生は、ネットワークがとても効率的に規制を掛けやすい環境に移行することを前提にして、現在の憲法的諸価値を維持する役割を「政府」に期待しつつ、一方で現在の形態の「政府」にはそうした能力がないことを指摘している。オープン・コードという思想潮流にも期待しつつも、やっぱり「政府」が憲法的価値を維持しなければならないんだとしている。そうした新しい形の「政府」を私たちが作れるだろうか。

私は、ネットワークの規制が強化される傾向にあることは認めつつ、それを乗り越える力、すなわち「古き良きハッカー精神」をまだ信じている。(もうひとついえば、人間は常に不完全でミスばかりしている生き物だという点も信じている) だから「古き良きハッカー精神」を憲法的諸価値において積極的に位置づけなければならないと考えて、「ハッカー倫理」を書いた。

一方、私は、憲法的諸価値というものも、時代に応じて変わってしまうことも容認している。私は「透明性」の信奉者だ。システムと社会のコードをすべて明らかにすること、市場の機能を完全にするためにあらゆる情報の流通を円滑にすることは、究極的に達成すべき目標だとおもっている。しかし、こうした環境はとくにプライバシーの分野で私たちに意識変革を要求することになるだろう。そう考えて「もうひとつのプライバシーの話」を書いた。

ただし、懸念がある。人間が何物かを生み出す力、すなわち創造力がこうした完全な監視とコントロールの時代に存在し得るのかという懸念だ。私は、何物かを生み出すことに人間存在の価値があると考えている。それゆえに何物かを世に送り出したという達成感は、人生の意味の最重要事項なんだろうと思っている。創造の基礎となる「なにかを知ること」をネットワークの監視能力が規制してしまうことは、一人一人の頭脳を取り締まることと同じことだ(そういえば「頭脳警察」とかいうバンドがいたなぁ)。それは、憲法的諸価値を越えた人間性に対する侵害なんだと考えている。

だから、情報の流通を円滑に流すことが必要とされる時代において「禁止と秘匿」を根幹に据えた著作権制度を維持しつづけることに疑問を感じている。情報がどんどん流れて、たくさんの人に使われて、誰もその流通を管理・監視していないシステムを作ることは、人類のさらなる発展にとって必要不可欠なんだと思っている(発展しなくてもいいんだ、という立場も一応あり)。そして、そうであっても何物かを生み出した人に なんらかの利益を還元しうる、もっといい方法があるんだろうと思っている。

レッシグ先生のCODEは、私の根拠のアヤシイ疑念や心配について、私なんかよりも説得的に、わかりやすく、そして適切な程度のラジカルさでまとめてくれている。そういう意味でとても良い本だと思うし、こうした本を時期を逸せず日本語にしてくれた山形さんにはとても感謝している。だいたい、日本語に訳してもらっても読み終えるのに20日以上かかった私が、仮に英語で読みはじめたら、何日かかったやら(途中で投げ出してますな)。

これに関連して、とてもSF的なんで恥ずかしくて、これまで書けなかったことも書いてしまおう。

人類がもっている記録と記憶の技術はどんどん進化している。凡人の考え付く程度の創作や発明は、もう誰かがやってしまったことがすぐ分かるようになる。すると人間は、「自分がやる程度の創造には意味がない」と思うようになるかもしれない。これは、上記の私の信念からすると、人間にとってとても悲しい事態だと思うんだ。だから、再発明・再発見を容認・評価する社会的合意が必要とされるんだろうとおもう。現在の「以前に誰もやったことがない」という意味でのオリジナリティを重視する知的財産権のシステムは、結果的に大多数の人間にとって疎外のシステムになってしまうんじゃないか、と心配している。

杞憂だよね。きっと。

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