* 単純所持宣言 / その他、 性規制について *

白田 秀彰

注意

この文章を読むにあたっては、 あわせて「猥褻に関するコメント」 (1996) と 「違法有害表現に関する覚書」(2008) を参照するようお願いする。

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1 宣言

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漏れ聞くところでは、現在政府内部では、18歳未満の人物の裸体表現や性表現(以下、 「児童ポルノ」)の単純所持を違法化しようという運動があるのだそうだ。

そこで私は、2001年まで完全に合法であり 一般書店で市販されていた 「18歳未満の人物の裸の写真が扇情的な様相で掲載されている写真集」 を現在一冊保有していることを宣言する。そして、法執行関係者に対しては、 児童ポルノの単純所持が違法化された暁には (ほんとうに午前4時とかに来るのは勘弁してほしい。逃げたりはしないから)、 他の誰を摘発するよりも先に、拙宅に来るように呼びかけたいと思う。 法執行関係者が拙宅の住所を知りたければ、氏名職名を明らかにした上で、 shirata1992@mercury.ne.jp 宛にメールをくだされば返答する。

2001年まで何の問題がなかった本を、そのまま保持しているだけで、 いつの間にかその本が違法品となり、なんら違法なところのなかった所有者が、 いつの間にか容疑者になるカフカの『変身』的不条理について、 立法者や法執行関係者と議論してみたいと私は思っている。

ある朝、白田秀彰が不安な夢からふと覚めてみると、 人々の意識のなかで自分に対するレッテルが、「大学准教授」 からとてつもなく邪悪な「ペドフィル(小児性愛者)」 に変わってしまっているのに気がついた。

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2 本に関する説明

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件の本は、 荒木経惟氏による写真に、 田辺聖子氏の「賛」が加えられた写真集であり、私の手許にあるものは、 2001年2月10日に平凡社から第三刷として刊行されている。 裏表紙に記された荒木氏の経歴をみると、 彼自身が確信的に性器を表現対象としてきた様子が、 一般に猥褻とされる単語を使いながら示されている。私は、 荒木氏の表現の狙いやその社会性や芸術性について理解しないわけではないが、 個人的には彼の写真をそれほど好きではない。 私はこの本を、一連の問題の当事者となるために古書店で入手した。

その写真集に掲載されている人物には、私の見るところ10歳未満の児童がおり、 その性器付近が鮮明に描写されている。さらに、荒木氏の描写や表現を見るかぎり、 全体としてその写真集は、読者の性欲を掻き立てることを、 あるていど意図していることは明らかだ。したがって この写真集は、 いかなる文言によって「児童ポルノ」の定義を精密に組み立てたところで、 避けようがなく「児童ポルノ」に該当するだろう。

法学者である私が言うのだから間違いがない。私は「児童ポルノ」 の定義に適合するだろう表現を単純所持している。それゆえ、法執行関係者は、 それが違法化されたら真っ先に拙宅にきたまえ。待っている。余談だが、 その10歳未満と見られる児童の裸体写真を見たとき、 もう40歳になる私の意識に浮かんだ言葉は「親の顔が見たい」というものだった。 もし、児童の裸体写真撮影が児童に対する虐待に該当するのであれば、 その虐待を行った者を処罰することが法による禁止の様式として自然であり、 本質的な児童保護になるのではないか。

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3 性表現に対する見解

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ここで確認しておくが、私は暴力表現について、 現在よりもはるかに厳格に規制すべきだと考えている。 また性的暴力というものがあることも承知しており、当然、 暴力は厳しく批判され処罰されるべきだと考えている。 暴力には常に被害者が存在するからだ。

私がここで問題にしているのは、暴力要素のない裸体表現あるいは性表現だ。 猥褻表現を頒布・販売・公然陳列等で社会に流布させることは、 すでに刑法で禁じられている(刑法第175条)。 また、18歳未満の人物に関する裸体表現あるいは性表現については、 単なる提供もまた禁じられている(児ポ法第7条)。 「猥褻」という言葉の本来的な意味が 「きわめて嫌なもの」であることを考えれば、 我らの自然の身体を「猥褻」とする理由が私にはわからない。ただ、 社会一般の通念として裸体や性器が「猥褻」と受け取られている事実に、私は従う。 ここで裸体表現の単純所持が違法化されれば、 裸体表現が手元にあるというだけで捜査や摘発の対象となる。裸体は、 それほどまでに反社会的存在なのだろうか。 反社会的なのは、裸体に強い性的な興味をもつ「精神」だという人もあるだろう。 しかし、異性の身体に強い興味を持つことは、生物として自然なことだろう。 また、刑事法の原則は、 人の内心のあり方そのものを取り締まりの対象としてはならないとする。

Cogitationis poenam nemo meretur.
何人も、 考えるだけでは、罰せられることはない。

また当然、そうした「表現」を違法化するにあたっては、「言論表現の自由」 の原則に鑑み、憲法学用語でいうところの 厳格審査基準に適合した立法になっているはずだ。しかし、 私は、暴力表現に当たらない単なる人間の裸体に関する表現を、 刑事罰をもって禁ずる「やむにやまれぬ政府の利益」がいまだにわからない。 私の衣服の下には猥褻物が潜み、貴方の衣服の下にも猥褻物がある。 この世界には刑事罰をもって禁じられる違法物が蔓延している。我々は、 猥褻とされる行為をしなければ子供を持つことができない。私は、 潜在的違法物が社会に遍在し、 潜在的違法行為が生物学的自然として家庭で日々行われている現実を法律で矯正する よりも、 我々が生物であるという天賦自然な前提を法律が受け入れるべきであると信じる。

法律によってある「物」が違法化された途端に、 その所持が禁じられるという事例は多い。しかし、今件は「物」ではなく「表現」だ。 いや、「物」 ですら自宅で平穏かつ単純に所持しているだけでは処罰されないことが多い。 というのは、自宅や家庭が我らにとって「城」あり、 たとえ王であっても法に適った令状がなければ、 家庭内に干渉することができないことは、 古代ローマ時代から認められてきた大原則だからだ。

Debet sua cuique domus esse perfugium tutissimum.
各人の家は、安全な避難所であるべきである。

天賦自然な人間の本性に反した守り難い法律を作り、 その法律が守られないことをもって悪徳となし、 我らの自由な民主政体を支える根幹である、 言論表現の自由を制約する理由とすることに、 また住居不可侵の原則を制約する理由とすることに、私は抵抗を感じる。

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4 立法の動機に関する疑問

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私は民主主義者であるので、立法というものは、 国民の合意に基づいて正当性をもつものと確信している。したがって、国民の大方が 「18歳未満の人物の裸の写真やその他の性的表現を見ることが、 またそうした写真類を単純所持することが、 刑法によって処罰を与える必要があるほどの反社会的行為である」 と考えているのであれば、それに従うべきだと私は考える。

しかしながら、私がこの40年間の人生を振り返ってみて、 そのような国民の合意があるようにはとても思えない。 日本のアイドル全盛期の代表者である 山口百恵、桜田淳子、森昌子の三氏は、 「花の中三トリオ」と呼ばれていた。その当時、 中学三年生の少女であった山口百恵さんに『ひと夏の経験』 を歌わせて絶賛していた我々の社会はなんだったのだろうか。現在に至っては、 10歳前後の少女が体のさまざまな部分を露出した衣装でテレビ番組で歌い踊り、 15歳前後の少女のきわどい水着写真が、 同年代の青少年向けの雑誌の表紙を飾っている。 おびただしく多数の性関連表現が売買されており、その市場の規模から推測するに、 きわめて多くの人々がこうした市場に関与していること、 関与してきたことは否定できまい。立法者や法執行者は「汚れていない手」 で法律を作り執行すると誓えるか? 難しい表現を簡単に言えば、「みんな好きなんじゃないか」ということだ。 しかも私は、それを自然で正常なことだと思っている。

さらに、我が国の風俗史を遡れば、 性や裸体に関して自然でおおらかな我が国の風俗があきらかになる。 老若男女混浴でなかよく風呂を楽しみ、夏には若い女性も庭先で行水し、 子供たちが裸同然で走り回っていた江戸時代。いや田舎であれば、 そうした風俗は戦後まで残っていた。その時代の我々の性道徳は、現在よりも劣悪で、 現在よりも多く児童への性的虐待が行われていたのだろうか。その当時の人々は、 性的な頽廃の中で地獄への路を歩んでいたのだろうか。その当時の風紀は紊乱し、 社会は道徳的混乱にあえいでいたのだろうか。

童謡『あかとんぼ』の歌詞では、「十五でねえやは嫁に行き」と歌われている。 大正時代の児童の発育速度と、現在の児童の発育速度を考えたとき、 より早く性的な成熟を迎える現代において、なぜより遅く18歳まで「児童」 として扱わなければならないのか、合理的な理由が私にはわからない。

ちなみに、性的な規範について厳格であることが知られる、 カソリックの教会法 Codex Iuris Canonici の 第1083条 (Can. 1083 (1)) では、 「男子は満16歳、女子は満14歳に達しなければ有効な婚姻を締結することができない」 とされている。ただし、各国毎の成人要件に応じて、その年齢を引き上げることは、 認められている(Can. 1083 (2))。そして、教会法における「完全な婚姻」とは、 司祭の立会いのもとでの婚姻の意思表明と、 結婚後の交接すなわち性行為の完了であるとされる。すなわち、 性的に厳格なカソリックにおいても、16歳からの性交を問題ないものと考えている。 18歳までを児童とし、性行為を厳禁する規範が、 いったいどのような根拠から一般化したのか。読者の誰かご存知の方は、 教えていただきたい。

今般の「児童ポルノ単純所持問題」に限らず、国会議員の一部には、 性関連の表現を可能であればすべて取り締まりたいという欲望があるようだ。それは、 その人の倫理観や正義感、あるいは宗教的信念、もしかすると利権、 さらには検閲体制整備への狙い、等などが理由となっているのだろう。しかし、 国会議員が公務として行動するとき、国民の代表として行動すべきだと私は考える。 もし彼らが、 国民的な支持を欠いた個人的な趣味や信念を国政に反映させようとしているのであれ ば、公私混同だと言っておきたい。ましてや、自らの経済的利益や、 憲法によって禁じられている検閲を目的としているのだとしたら、言語道断だ。

さらに加えて、もし次のような動機から今般の表現規制が行われているのであれば、 それは反国民的行為であるとも言える。それは、「外国から見てみっともないから」 「外国の基準から見て恥ずかしいから」というような理由だ。それは、 自国民の意思を、どこか外国(西洋先進国?) 国民の意思に従属させることを当然とする考え方だ。我々国民が、 我々自身の一般意思の表明としての法律に服することは、 それは憲法が予定したことであるから当然である。しかし、我々国民が、 我々の一般的な規範観や感情とは一致しない、 どこか外国国民の倫理や規範に従属すべきという発想は、 国民の信託のもとに活動すべき国会議員の発想としては、背任的なものではないか。 どこか外国国民の意思が法律となり、その法律によって、 多くの国民が逮捕され処罰されるという状況は、まるで属国の悲哀そのものだ。

我々の法律は、我々国民の一般意思の表明であるべきで、その一般意思の表明が、 仮にどこか外国の規範と抵触するのであれば、 その調和調停に努力するのが国政を預かる者の職務であると私は考える。 そのときには、彼らは堂々と自国文化や伝統や歴史について説明し、 その外国国民の理解を求めるよう努力することが義務なのではないかと私は思う。 このように、国政を預かる者が 我々の安全や幸福を、 そして伝統や文化を維持するよう努力するからこそ、 我々は為政者に感謝し彼らを尊敬するのだと私は思う。自分の個人的欲望や、 外国に対する自身の体面のために、 おおかたの国民を犯罪者とするような為政者にどうして我々が敬意を抱けよう。

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5 青少年の健全育成について

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性関連表現の規制を正当化する理由として、しばしば「青少年の健全育成」 という言葉が用いられる。私の認識では「健全な青少年、 すなわち健康でその身体精神機能を全うしている青少年は、 性的な事柄に対して強い関心をもつ(が理性で制御している)」 ものだと思うのだが、私はオカシイのだろうか。

理性による制御が青少年の身体の健康と社会秩序との均衡を支える鍵であるなら、 彼らから性に関する情報を隠蔽遮断したり、 彼らの身体から生じる欲求を否定抑圧したり、 そうした欲求が存在しないものとする不可思議な前提を強制するよりも、 そうした欲求の存在を全面的に承認した上で、 「相手」の存在を前提とする性行為において、 また社会的行為のひとつとしての性行為において、 相手の立場を尊重し、社会全体における位置付けと責任を理解できる よう青少年を教育することが必要なはずだ。

天賦自然の我らの身体は、 おおよそ12歳から15歳ほどの間に性的成熟を迎えるようにできている。 身体が性的成熟を迎えるとともに、 内分泌腺の影響のもとに我々は性に感心を持つようになる。このように考えれば、 6歳から12歳までを小学校教育とし、13歳から15歳までを中学校教育とし、 これをもって義務教育の終了とした先人の制度設計の合理性を称えたい。 民法においては、男子18歳、女子16歳をもって婚姻可能とする。これもまた、 合理性をもった年齢設定だと考える。

加えて、筆者は文科系なので詳しくは知らないが、何かの文献で、 人間の女性の初産年齢として理想的な年齢は、16歳であると読んだ。 性的に十分成熟し、体力的にも身体組識の柔軟性においても出産に適しており、 出産における母体の危険がもっとも小さいらしい。 合理的に母体と新生児の安全と健康を重視する立場をとれば、 とくに理由が無いのであれば、 16歳から出産可能な社会環境を整備することが望ましいのではないだろうか。 事実、民法の規定は、この提案に整合している。

現在の我々の社会は、出生率の低下を問題視している。 また出産時の母体および新生児への危険が高いとされる高齢出産が増加しているという。さらに不妊に悩む夫婦が増えているという。 生物学的にみて出産にもっとも適した年代において厳しく性から隔離し、 生殖出産にかかわる危険が高まる年齢まで出産を延期させ、 さらに、不妊であることが判明する時期が遅くなるために、 その治療が困難となるような 社会状況や制度を積極的に推進する合理的な理由は何なのだろうか。 こんな制度作りをしておきながら、 出生率の低下を騒ぎ立てることを私は滑稽だと思うのだが、 私は間違っているだろうか。

先に述べたように12歳に至れば、性に関する関心や欲望が高まることは、 自然なことである。そして、生物としての人間の三大欲求とは、食欲、睡眠欲、 性欲であるという。性に目覚めてから短くておよそ6年、 場合によってはそれ以上の期間の禁欲を 法律や制度で強制することは、 青少年の「人としての基本権」の侵害に該当しないのか、という疑問を私は持つ。 仮に成人である場合、食欲、睡眠欲、性欲を国家権力をもって制約される場面は、 禁錮刑か懲役刑に限られる。一方、青少年に対して、 長期間の禁欲を強制する社会状況が存在することの合理的な理由はなんだろうか。 人権というよりも人としての自然なあり方を禁ずるだけの、 政府の利益は何なのだろうか。

人間の根幹を成す基礎的欲求を長期間禁じられることによる、 青少年の身体や精神への悪影響等はないのだろうか。 かなり乱暴な意見であることを承知で言えば、 いわゆる性的倒錯とされるさまざまな様相の性のあり方は、 こうした反自然的な社会制度によって助長されている面はないのだろうか。

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6 絵画による性表現への規制について

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先日のことだ。学術書の品揃えが豊富で私が大学時代から通っている、 市内でも大きな書店に行ってみたところ、歴史関係書の棚に「春画」 を掲載した美術雑誌があった。中身を眺めてみたところ、 極めて鮮明に描写された男性器や女性器の様子が掲載されていた。 実際にこのような春画は、 明治以降の日本政府が外国の視線から隠してしまいたい国辱的なものとされ、 戦後しばらくまで厳しく摘発されていたと思うが、 いつ頃からこのような鮮明な図版の販売が合法になったのだろうか。

もちろん、それら春画には、 浮世絵の様式に従って現実とはかけ離れたデフォルメが加えられており、 現在の私達の視覚様式においては、いわゆる「実用目的」を達せられないものと思う。 しかし、約150年ほど前までは、確かにそれらの春画は、 実用目的で売買されていたのだ。

このような観点から見るとき、現在のエロマンガ規制についても、 私は不思議な不統一感を感じる。現在批判され指弾されているエロマンガは、 現在のアニメ・マンガ的様式に従って、 現実とはかけ離れたデフォルメが加えられた人物の性行為を描いている。 現実を忠実に描写する写真的リアリズムから見た場合、 春画とエロマンガはいずれもリアリズム表現からは遠い。にもかかわらず、 春画は堂々と歴史的美術品として販売され、 一方エロマンガには規制を及ぼすべしとの主張が見られる。 内容面におけるその違いは、 表現様式が過去のものか現在のものかという違いしかない。いずれの絵画様式に、 性的興奮を掻き立てられるのかという問題は、 受け手の内心の問題なのではないだろうか。この社会的な扱いの差について、 誰か説明を加えていただけるとありがたい。

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Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 助教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
e-mail: hideaki@orion.mt.tama.hosei.ac.jp