私達国民が、より多くの知識と情報をもち、国全体の運営をよりよい方向に向けて行くことは、民主主義を前提とする以上必須の条件です。あらゆる独裁やそれに類似した政体は、国民を無知にし、情報を秘匿することで運営されているのです。活版印刷にはじまり、現在のネットワークの時代に至るまで、メディアを作り出した人々や、それを運営する人々は、より多くの情報をより低廉な方法で、よりたくさんの人々に伝達すべく努力してきました。 知的財産権制度(私自身は「財産」とは単純に言えないという立場ですが)も、こうした「より多くの情報をより低廉により多くの人に」という目的を基礎として始まりした。すなわち、もともと公共材である情報について、所有権類似の権利を設定することで、市場を創設しました。市場が効率的に運営されている限り、情報は、適切に取引されて最も効率的な分配が行われるというのが、知的財産権制度の基本的な発想です。情報メディアは、この情報の市場をより効率的に運営するための道具として発展してきたとも言えます。 ところが、あるゆる制度がそうなのですが、制度の基礎となる前提条件に制度は最適化されます。たとえば、現在の著作権制度はあきらかに印刷物の出版を前提条件に最適化された制度です。他のメディア、たとえば、レコードや、ビデオ等については、印刷メディアに最適化されたモデルを模倣して制度が適用されています。それは、制度の基礎となる前提条件が変動してもなかなか制度は変更できないからです。それは、市場に参加している最も影響力の大きい参加者が「既得権」を保有することに原因があります。 こうした制度の歪みは 1900 年代から既に顕著であり、おかげで現在の著作権は、複雑怪奇なものとなっています。例えていえば、さまざまな生物の器官をでたらめに縫合した、怪物のようなものです。それは、壊れつつある制度をその場凌ぎで繕ってきたからです。 その破綻を決定的にしたのが、今のネットワーク時代の情報流通だと私は考えています。コンピュータネットワークを作った人々は、この技術が「より多くの情報をより低廉により多くの人に」という目的に資することを望んでいたと思います。それゆえ、デジタル技術による情報伝達は、情報の正確性と複製の低コスト性を理由として、情報の送り手がもはやメディア産業(大量複製と情報の大量流通経路を確保することで利益を上げてきた産業。もちろん、私達個々人同士が直接情報を流通させるよりもはるかに正確で効率的であるという前提において、その存在意義がある)に頼らずとも、効率的に情報を伝達できる前提条件が生じてきつつあります。これは、今までメディア企業に従属することでしか「情報の市場」に参加できなかった私達がこれらの企業を飛越して市場に参加できることを意味しています。当然「既得権者」たちは、抵抗することが理解できるでしょう。 コンピュータやネットワークを使っている私達が、現在の著作権制度についてなにか違和感や窮屈な感じを受けるのは、知的財産権制度が目指してきた「より多くの情報をより低廉により多くの人に」という目標をこれまでとは大きく異なった前提で再構築しうる条件が整ってきつつあるのに、これをある意味では「封じこめる」ような圧力のもとに著作権が強化されつつあるからです。たとえば、おそらくは技術者の方々が大変な努力で生み出してきた DAT は、著作権制度によって失敗したと言っても良いでしょう。彼らの知的努力は報われなくてもいいのでしょうか?また、DVD も国別保護コードシステム故に同じような結果に至るのではと考えています。 これは先に述べた「既得権者」たちが現在のところ強大な影響力を持っているからです。だから法の改正が常に正義を目指して行われていると考えるのはいささか単純にすぎるといえるでしょう。 私達が、莫大な対価を支払わなければ、いろんな情報を知ることも見ることもできないというのは、知的財産権制度の目的に合致した状態ではありません。そのときの技術水準を前提にして、最も低価格で情報を入手できなければならないのです。だから、知的財産権の価格(価値ではない)が異常に高騰しているというのは、制度がなにかおかしな状態に到っていることを示すのみで、知的財産権制度の重要性が増しているということではないのです。
上の記事へのコメントへのコメント>> そして、出版業界やら放送業界の人たちは、もっと別の方向での生き残りを考>> えているかもしれないのです。そうなれば、著作権法も全く別のものになるか、 出版業界や放送業界やソフトウェア業界の中でも頭のいい企業は、現在のメディア環境を最大限に活かした著作物や複製物の取引について研究していると思います。この解を見つけられた企業が次世代の市場を制覇すると個人的には思っています。そのときには、著作権法の姿は、現在のそれとはかなり異なったものになるだろうということについては私も同意見です。 たとえば、 中山 信弘, マルチメディアと著作権, (岩波新書, 1996) 第三章においては、複製権を中心とした権利構成から、対価請求権を中心とした権利構成へ切り換える試案が示されました。これは厳密な言いかたではありませんが、物権類似の権利から債権類似の権利へと変化しているわけで、根本的な変動です。
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白田 秀彰 (Shirata Hideaki) 法政大学 社会学部 助教授 (Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences) 法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450) e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp |