1. 「在る」ということ私たちは、不在や不能を嘆きます。何かが欠けていること、何かができないこと。私たちはそれを残念に思い、それらの障害や困難を克服することを望みます。しかし、逆に私たちが万能であるとしたらどうでしょう。 私たちを取り巻く大気はあらゆる音(空気振動)を含み、私たちを取り巻く光(電磁波)もまたあらゆる波長を含んでいます。世界は万物の可能性に満ちており、様々な生命の種の可能性が想定しえます。でも、もし私の耳があらゆる周波数の空気の振動を聞き取ることができたら、私の耳にはありとあらゆる音が鳴り響き、混ざり合い雑音しか聞こえなくなるでしょう。また、私の目があらゆる電磁波を見ることができるのなら、この瞬間にも私の視界は真っ白な光の中に溶け込んでしまうでしょう。さらに、私があらゆる存在へと自由に変身できるのだとすれば、私の本質たるものは、その可能性の中に拡散してしまうでしょう。私たちが何かを認識し得るのは、私たちがある評価軸なり限界なりに沿って、世界を切り取っているからなのです。 仮に万能者を想定できるのだとすれば、万能者とは無限の可能性でありながら、世界を取り巻く「背景雑音」に過ぎないことになります。私が思うに、万能者たる神は、この宇宙を在らしめるために、あるいは無限のまどろみから自らを覚醒させるために、誰も理由を説明できない、いくつかの物理定数の「制約」を選んだのだろうと思います。── 半可通が小難しいことを書きましたが、要するにこの宇宙ですら、変更できない制約があり、その制約があるがゆえに「在る」のだということが言いたいのです。 このように、世界は「可能性に制約を設けることで切り出されたものだ」という見方に立ちますと、あらゆる出来事は既に準備されており、あらゆる答えもまた既に準備されているのだということもできます。ただ、私たちがそれらの出来事や答えを、私たちの認識可能な枠内に収まるよう切り出す条件を整えていないために、それらの出来事が存在せず、答えが存在しないように思われているだけなのではないか、ということになるでしょう。 このような世界観を前提としますと、私が私であることは、「何かができる(かもしれない)」という可能性によって成り立っているのではなく、「何かができない」「何かをしない」という制約によって画されていることになります。それらの制約には、自然的に先天的にもたらされて私を形成した部分がありますし、また、自発的に後天的に私が選択した部分もあります。すなわち、私は「私」であるために、主体的に特定の制約を選んできたということです。可能性を捨てていくこと。私はこれを覚悟であると考えています。 厳しい生活環境においては、私たちの可能性には、多くの制約があり、生きるため生き残るため、やむを得ず自分のあり方を選ばざる得なかった人が多いでしょう。これはもちろん、ある面で不幸なことではありますが、その人は実在する「自分」と直面することになったはずです。逆に、豊かでゆとりがあり、あらゆる可能性が開かれている(ようにみえる)生活環境において、人は、積極的に選択し覚悟しなければ、自分が何者であるかすら曖昧で不明確になってしまうのではないか、と思います。まして、想像や妄想の世界においては、私たちは万能者のごとき無限の「可能性」を楽しむことができるのですから、仮に想像の世界に自我のあり方を置くならば、制約によって実在するこの世界に、私たちは存在できなくなるのではないか、と考えます。 こんなことを書くのも、学生さんたちを見ていると、可能性のまどろみの中で、選択(制約)することを拒否し何者でもないまますごし、その一方で、何者でもないことに不安を覚えている人が多いように思うからです。
2 今年感謝を捧げる作品たちさて、こうした私の世界観を披露させていただいた上で、 今年一年を振り返って私が感謝を捧げたい作品について紹介させていただきたいと思 います。 紹介する作品には、Youtubeやニコニコ動画を経由して視聴したものを含みます。 そうした行為について、 いろいろと批判的な方がいらっしゃることもよく理解しておりますし、 そこに掲載されている作品の著作権であるとか著作者人格権とか、 そういうものに関していろいろと問題があることも理解しております。 しかしここでの紹介は、私が感動した諸作品について論評するにあたって必要な 「公正な引用」の範囲にあるものと考えます。私は、 私の愛した作品について感謝を捧げ紹介することを禁ずるほど、著作権法が非文化的・ 反芸術的な制度でないと信じます。
3 立花ハジメと「となりの春香さん」私は80年代の人間です。私自身が形成された思春期すなわち中学生から高校生時代は、81年から87年ですから、80年代にすっぽり包まれているわけです。ですから、私の感性はこの時期のさまざまな諸作品に方向付けられており、この基本方向は生涯変わらないものと思います。それゆえ、Youtubeやニコニコ動画においても、私が中学生から高校生時代に見聞きしていたアーティストや楽曲を見ていることが多いのです。これは、私がHMOにハマっていると公言していることからもおわかりかと思います。 もちろん、同時期によく聴いていた、ゲルニカやムーンライダーズや鈴木さえ子やEPOなども、当時は見ることのできなかったプロモーションビデオとともに発見し、懐かしく見ていたのです。ムーライダーズと鈴木さえ子については、再版されていたCDをまとめ買いしてしまいました。EPOについては、昨年三回ほどコンサートに行きました。 さて、高校時代の私が「天才にちがいない」と思っていたアーティストに立花ハジメさんがいます。楽器演奏技術が高いわけではありませんが(むしろヘタだった)、商業作品としては普通ならやらないことを平気でやって、しかもちゃんと成立させているというところに、ただならぬものを感じていました。「チキンコンソメ」という曲はいまだに頭の中で鳴り続けていますし、その曲を用いた「川崎製鉄CM」の画像については、当時あまりのカッコよさにCMの時間を待ってテレビの前に座っていたくらいです。 で、ある日、ふと彼のことを思い出して「立花ハジメ」で検索したところ、なぜだかアイマスが引っかかってます。「なんだこれは?」と思ってクリックしたのが「となりの春香さん」でした。再生してすぐに気がついたのが、使われている曲が立花ハジメさんの「BAMBI」というアルバムの曲であることです。このアルバムは、中途半端に一般ウケに寄ってしまっているように聞こえて、発売当時(91年)の私にはピンとこないアルバムでした。彼にはもっとハードに突き放したようなテクノ・ミュージックを期待していたからです。 交通事故に遭うように「となりの春香さん」を見てしまった私には、「TAMIL MUSIC」が、このMADのために準備されていたようにしか聞こえなくなってしまいました。「TAMIL MUSIC」や「となりの春香さん」がなにか特別な内容を持っているわけではありません。私が感動した、というより畏怖したのは、17年間という時を隔てて「私にとっての完成」が生じたということです。 答えは既に準備されていて、発見されることを待っていた。それが、私がこの作品で感じたことです。 ※ プロデューサとして今年私がもっとも評価しているのは、オッサンのツボをビシバシついてくる へぼP 氏です。律子さんへのあふれんばかりの愛を感じる作風に感動しております。カワイイリッチャンをありがとうございました。
4 「風立ちぬ」と「野菊の墓」今年は、「ケータイ小説」に注目が集まった年だったかと思います。ケータイで書かれてケータイで読まれる恋愛小説が、たくさんの読者を集めたと言われました。そうしたケータイ小説についてさまざまな考察や分析がされたらしいことを見聞きしております。そうしたケータイ小説の評価としては、内容が浅薄かつ荒唐無稽というような批判もあるようです。 それでは、古典的な名作恋愛小説はどうなっているのか ということで、最近集めている「名著復刻全集」(明治・大正・昭和初期の名著の初版本そのままを1970年代に復刻したもの)の中から、堀辰雄「風立ちぬ」、伊藤左千夫「野菊の墓」を持って、中央線に乗って秋の高原に出かけてみました。いずれもごく短い作品です。中学生のころに、いずれも文庫本で読んだはずの作品ですが、あらすじを除いて忘れてしまっていました。 読み終わって、思いました。「これ、今の"浅薄だ"と言われている恋愛小説と同じじゃん。」 古から、恋愛は小説の主たるテーマであり、数限りなくおびただしい恋愛が描かれてきたわけですが、それゆえに根本的な内容は普遍的で単一です。ただ、描かれた時代や場所や登場人物の心情の動きが、作品にそれぞれの味わいをもたらしているに過ぎません。もちろん、短い簡潔な表現の中に物語を描ききる、それぞれの作家の文才もまた強く感じました。 強調しておきたいことがあります。その作品から、作家が狙った味わいや 時代が評価した情趣を理解するためには、その時代の「かなづかい」「活字」「装丁」でなければいけないということです。最新の印刷機から吐き出されるビニールの感触をもつ装丁につつまれた、現代の活字と現代かなづかいに直された文庫本で これらの作品を読んだとしても、明治末年の田園を背景にした素朴かつ純粋な悲恋「野菊の墓」の野原や草の鮮烈な匂いも、昭和初期のエレガントな中・上流階級の生活を背景に、沸き立つ夏から秋を過ぎて冬の張り詰めた空気のなかで終わる悲恋「風立ちぬ」の静謐さも 伝わらないものと思います。また幸いなことに、田舎育ちの私には「野菊の墓」に描かれる農家の空気が読み取れましたし、ときどき高原に出かける私には「風立ちぬ」の背景に揺れる木漏れ日を心に描くだけのリテラシーがあったのです。 文字記号列としての物語ではなく、視覚や感触や雰囲気までも含む総合芸術としての文学について、私たちはもう少し気を配るべきではないのかと思います。事実、「風立ちぬ」は、初版500部限定で昭和13年に「2円」の価格をつけています。正確には換算できませんが、どうも現在価値では10,000円近い額のようです。そして、その本には古い洋書を思わせる凝った装丁が施されています。組版も独特で、紙面の広い余白が物語が進んでいく静かな世界を表現しているようです。 私が想像するに、昭和13年段階で「風立ちぬ」に描かれたような生活を実際にできる人たちは、都市部の中・上流階級に限定されていたと思います。ですから、もとより「風立ちぬ」は、ごく限定された教養ある裕福な人々にのみ実感をもって受け取られることを前提にして書かれたものといえましょう。現在の大衆小説が幅広い読者を狙って書かれ、たくさんの人々に売れたことをもって成功としていることとは、逆の方向をもって書かれ成立した作品。私はこうした高踏的な感性を基礎とする種類の芸術が失われつつあることを残念に思います。 さて、ケータイ小説との比較に話を戻しましょう。携帯電話によるコミュニケーションが文学の受け手の側の世界観を包含してしまっている現代においては、携帯電話を通じて読むという読書形態から物語のリアリティがかもし出されるのだ、というような評価がされていたと思います。なるほど、賛成できます。私は携帯電話を持たないので、ケータイ小説的なリアリティも共感も認識できないのでしょう。それは「良い」「悪い」の問題ではなく、作品の受け手の側に読み取る準備ができているか そうでないかの問題に過ぎないのです。オジサンである私には、「野菊の墓」と「風立ちぬ」を楽しむだけのリテラシーがありました。それらが現代においてあまり読まれなくなったのは(ゼミ生に尋ねたところ、作品の存在は知っていても、読んだことのある学生はいませんでした)、受け手の側のリテラシーが失われてきているからに過ぎません。それでも、それら恋愛小説が読みつづけられるのは、テーマが普遍的だからです。 テーマは常に存在しつづけ、それが様々な姿をまとった「作品」として立ち現れてくる。どのような姿の作品が好まれ愛されるのかは、環境に依存している。そういうことなのでしょう。 ※ 世界最初の「小説」とされるサミュエル・リチャードソンの作品『パメラ』や『クラリッサ』が、当時もっとも一般的なメディアであった「手紙」を真似た書簡体であった、ということは、ケータイ小説のメディアから生じるリアリティと類似していると思います。
5 「俗・さよなら絶望先生 最終回」オープニング中の数秒「風立ちぬ」と「野菊の墓」を読んでいて、もう一つ気がついたことがありました。いずれの作品も、筆者≒語り手が男性であり、また おそらく読み手も男性が想定されているだろうことです。それは、物語のヒロインである「民さん」や「節子さん」の描写が、具体的でないというか、典型的というか、── もう少しはっきり言えば、ヒロインに男性のもつ女性の理想像が投影されているように読めたことです。これでは、女性の側から「現実の女性を描いていない」という批判が出てもしかたがないと思います。 実際、女性の側から恋愛を描いた作品も数多く発表されています。それらは、私の印象としては、具体的であり、現実的です。たぶん男性作家のほうにロマンチストが多いでしょう。もちろん、男性と同様に女性も生物なのですから、それぞれに具体的かつ現実的な思惑や欲望があり、本質的には、男性も女性もたいして違わないのだろうと思います。しかし、それゆえに男性性や女性性は、意識的に選択しなければ存在しないのだと私は思うのです。こうした男性性や女性性を抹消し解消していこうという思想があることは承知しておりますし、それを推進しようという社会状況にあることはよく理解しておりますが。 私は、理想の女性像は男性の中にあり、理想の男性像はおそらく女性の中にあるのだろうと思っています。家父長的な社会において、女性は男性の描く「理想」を投影された現実を生きることを余儀なくされていたでしょう。すなわち、「女性らしい女性」とは男性が作ってきたものなのです。それは女性にとって不幸なことであったかもしれません。それゆえに、そうした「女性らしい女性」と「男性らしい男性」からの解放が社会の目的とされてきたのでしょう。しかし、その結果 私たちは「何」になったのでしょうか? 自然な「人間」なのでしょうか? 私には、生物学的な「人間」に先んじて、「男」と「女」が存在していたような気がしてならないのです。 私は、現在の「萌え」の中に、たくさんの漫画やアニメの中に、行き場を失った「男性の中に棲んでいる女性性」が表現されていることに気がついています。そして、私はその様子を胸が詰まるような切なさと同情で受け取っています。もはや恋愛は現実の中に存在できなくなっているのではないか、と。 ようやく、「さよなら絶望先生 (DVD)」の話をしようと思います。私にはDVDを繰り返し見る時間がありませんので、購入することには躊躇しておりまして、「絶望先生」のDVDは 久米田氏のファンである、ある学生から借りて見ました。物語としてはさておき、表現としては私はかなり「絶望先生」が好きで、とくにオープニングやエンディングといった、物語そのものとは別の要素の表現を好んでいます。ということは、私は むしろ監督である新房昭之氏のファンだというべきなのでしょう。 第二期である「俗・さよなら絶望先生」のオープニングは、大槻ケンヂ氏の『空想ルンバ』という不思議な曲が使われ、(1) 杉田玄白の「解体新書」の挿絵のように見える人体解剖図が次々に映し出されたあと、(2) アニメのキャラクターたちのダンス、さらに (3) 空中を舞う学生服姿の"絶望先生"と女袴姿の"常月まとい"が手を結びあうシーンへと続きます。 人体解剖図の部分は、第一期の「記号であるヒロインたちが欲望対象の記号として描かれる」オープニングに対するアンチとなっている、と私は読みました。生身の肉体の存在、数ミリしかない皮膚一枚の下に存在する現実を私たちに突きつけているわけです。さらにオープニング全体が、戦前のモノクロ映画のように「デチューン(わざと劣化させる)」されて表現されており、アニメの中のキャラクターたちが、「描かれた存在に過ぎない」ことを意識させているのだと読みました。このオープニングの画像は、回を重ねる毎に劣化の度合いが進み、画面にはフィルム傷の「雨」が降り、画面の中央部が映写機の熱で次第に焦げて黒化していく効果がわざわざ施されていました。 最終回の一つ前の回でのオープニングに変化が現れました。(3)のシーンが突然鮮明なカラーになりました。それはアニメ的な表現としては「現実」が描かれていることになります。しかし、次の瞬間フィルムが切れた表現がされ、やはりその「現実」は描かれたものに過ぎないことが示されます。 そして最終回のオープニングです。初めてすべてのデチューンが取り払われ、鮮明なカラー画像になりました。そして、(2)の部分が絢爛たる浮世絵の襖絵と照明で彩られ、(3)の部分もまた鮮明なカラーとなり、遥か高空から落下してくる絶望先生と常月まといの手が伸ばされて、もどかしく結ばれ、抱き合った瞬間に紅い花飾で画面が飾られました。そのとき私は不覚にも泣いてしまったのです。
俺の値段を誰が決めた?これが(2)と(3)の部分の歌詞です。秩序の外側でしか恋愛の対象と結び合えない絶望が歌われていると解釈します。こうした絶望も覚悟も、いつの時代にもあったものとはいえ、現在の社会状況、とくに若い人たちが置かれた社会状況を思うとより切実に響きます。「野菊の墓」に描かれていたような素朴な恋愛の可能性は、どこに消失してしまったのでしょう? そうした素朴な生き方が存在したことすら忘れられそうな社会にどうしてなってしまったのでしょう? 現実において恋愛の対象が絶望的に存在しないことの覚悟。その一方で、高空から落下しながら抱き合う絶望先生と常月まといを見て、私は次の瞬間について考えるのです。これが現実の状況であるなら、おそらく数秒後に二人は地面に叩きつけられ、混ざり合った一つの肉塊と化すのでしょう。しかし ── しかし、私たちもまったく同じではないでしょうか。私はおそらく30年以内に地面に激突します。君たちも70年以内に、いやもっと早く、もしかすると明日にでも地面に激突する瞬間を迎えるのだろうと思うのです。だとすれば、私も君たちも絶望先生と同じように恐ろしい速度で、「その瞬間」に向かって落下していることに違いはありません。
命短し。恋せよ、踊れよ、青少年。 そして思うのです。男子たちよ、この世界で自らが求める女性性と出会えなくても、誰かのために男性を演じつづける覚悟をしてほしいと。それは、社会的に存在する男性像の制約を受け入れる決意です。女子たちよ、この世界で必死に男性を演じつづける者のために女性を演じつづける覚悟をしてほしいと。それは、社会的に存在する女性像の制約を受け入れる決意です。もちろん、私は他の誰に対して命令する権力も権威も持ちません。ですから、これは私の個人的なお願いであり、そして私は「大学の先生」を演じつづけるのです。 皆がそれぞれ誰かのために演じることで、この現実の世界が「望ましいもの」として顕現するのではないか。と、そんなことを感じるのです。
6 最後になんとも、まとまりの無い文章ですし、なぜ「絶望先生」と そこから生じた私の考えが関連するのか説明できてないことは承知しております。とはいえ、ここに書いたことは私の心裡で実際に生じた思いなのですから、仕方がありません。 最後に、一部の人から猛烈に批判されることを承知で、「男性性(男らしさ)」について書かせてください。男性性とは、身を捨てること。自分以外のもののために生きること、逆に見れば、自分以外のもののために死ぬことだと思います。また、「生きようとする者は死に、死のうとする者は生きる」という言葉が聖書にあるらしい と私は聞いたことがありますが、出典不明です。どうもなにかの文学作品で造られた言葉かもしれません。また、この言葉は、『葉隠』にある「武士道と云ふは死ぬことと見つけたり」ともつながっているように思います。 人間の価値とは、志の高さとその志への情熱で測られるものと思います。若い男子諸君が身を捨てるに値する何物かを見つけ、漢(おとこ)となってくれますよう。 [追記] 上記の「武士道とは...」は、正確には「云ふ」が入るのだ、と教えていただきましたので訂正しておきます。典拠はこちら。また、「生きようとする者は...」についても、マルコによる福音書に典拠があると教えていただきました。原典の論旨からすると私の意図とは違っているみたいですね。「それ」さんありがとうございました。
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。mark 8:35 |
白田 秀彰 (Shirata Hideaki) 法政大学 社会学部 助教授 (Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences) 法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450) e-mail: hideaki@orion.mt.tama.hosei.ac.jp |