法と法則

* 法と法則 *

白田 秀彰

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私たちは法律をどのようなものとして把握しているでしょうか。普通の人の感覚では「偉い人が決めた決め事であって、われわれ下々のもの達はそれに従わざる得ないもの」というものだと思います。法律に対するこうした見方は日常的な感覚としては、ごく自然なものだと思います。というのは、私たちは立法、司法、行政について直接的に関与することはできないことになっているからです。それでいて、私たちは法に従って生活しているわけですから、もしかすると一番倫理的に立派なのは、私たち下々の者なのかもしれませんね。

上記の法に対する感覚が世界共通のものであるのかどうか、については問題があります。が、ここでは日本に限って話をしますと、日本においては「法」はいつも「既製品 (ready-made)」として外国からやってきていました。大宝律令もそうですし、江戸時代まで「法」という言葉の主たる語義となっていた仏教の教えもそうです。(明治時代に「法哲学」という講座を大学につくるときに、「それでは、あまりにも抹香臭い」という意見が出たそうです。すなわち、そのころまで「法」といえば仏教の教えが第一の語義だったことを示しています) 私たちが現在依拠している法律も、明治時代に欧州から輸入してきたものです。だから、形式的にはそうでなかったとしても、実質的には、私たち日本人にとって「法」とは私たちの代表の意見が反映したものでも、私たちの社会契約から成立したものでもなく、常に「だれかよその偉い人」が作り出したものだったわけです。そしてそうした「法」が日本化したあとも、その偉い人が外国人や神様から日本人の偉い人に置き換わっただけだったわけです。

だから、日本人の遵法意識がどうとかいわれましても、心の底から納得しているわけではない体系に諾々として従えというのも、理不尽な話なのかもしれません。

さて、またイギリスの話など持ち出して恐縮ですが、私の知的基礎はここにしかありませんから、ご容赦ください。英語において法律を意味する「law」と科学法則を意味する「law」は同じ言葉です。私はそこに「法」というもののあり方を示す一つの方向性があるのではないかと考えます。

すなわち、科学の法則は、私たちの都合や希望とは全くお構いなしにそこに「在る」仕組みなわけです。私たちが科学の法則に反する努力をすること、たとえば水を高いところに汲みあげることなどできるわけですが、いずれ水は低いところに流れていってしまうわけです。もちろん、科学の法則の一つであるサイホンの原理など使いますと、谷をまたいで大きな高低差のある土地に水を送ることができるわけで、まさに「法則」を知ることは「そうあるべき」目的を極めて安定に、そして確実に達成するための必要な条件であるわけです。

さて、法律はどうでしょうか。法律のなかには私たちの都合や希望で作られているものがたくさんあります。だから「法律で決めさえすれば、何だって可能だ」と考えている人達もいるようです。実際かつてのイギリスの議会は「黒い犬を白いとしてしまうこともできる」とまでいわれていました。しかし、神ならぬ人間が自分の都合で作ったようなルールがいつまでも矛盾なく動作するはずはありません。

イギリスでは、議会が作る法律を「statute」、裁判所が長い歴史のなかで作り上げてきた判例法を「law」と呼んで区別しています。すなわち、本当の意味での「law」は、人間がこれまでやってきた数多くの失敗をどのように矯正してきたのか、という長い長い歴史の観察に基づいているわけです。すなわち、科学の法則と同じように、社会の法則、人間の法則という意味が込められているのです。

もし、私たちが謙虚に私たちの失敗、社会の失敗を反省しながらそこに法則を見つけるなら、そしてそうした社会の法則を基礎にした法律を作るならば、それはあたかも水が低いところに流れることを前提として、堤防を作るように、火が熱を発するのを前提として、竈をつくるように、当然生ずるだろう災厄に効果的に対処できるはずです。

だから、法律を学ぶ人は、法律について学ぶ基礎として、社会や、歴史や、経済や、人間の心理について知らなければならないことになります。そして、そうした知識の体系的集大成として法律を学び解釈しなければならないことになります。実際、アメリカの law school は、4年制の大学を卒業した後に入学する大学院として位置づけされています。日本においてはどうでしょうか。法律を学ぶこと自体が目的になったりしていないでしょうか。

さて、法律を専門として仕事にしている人たち、すくなくとも学者が、誰かの都合や希望に添うように「法律」をつくる職人であっては、あまりも寂しい限りです。過去を学び、未来を見据えて、社会の法則性(law)を探し出し、時代の大きな流れのなかで私たちの幸福を増大するような手当てを考えなければならないのだと思います。もし、私たちが時代の流れに逆行するような法律を作ってしまえば、激流に逆らって泳ぐ人のように徒らに力を使い、いずれ私たちは流れに呑まれてしまうでしょう。私たちは、時代の流れを読み、風向きを知ることで、はじめて目的地に向かう航路を正しく選ぶことができるのです。この科学的に見つけられた合理的な航路が、すなわち「法律」であるべきだと思うわけです

「法律」がこのように作られているならば、なぜこの法律が存在するのか、なぜ必要なのかを立法者は、きちんと説明できるはずですし、私たち下々にも納得できるものになるはずです。そうすれば、たとえ私たちが直接法律を作るわけではなくても、それに従わなければならないという理由がはっきりすることになるわけです。それがあたかも自然法則のように「自然」で「合理的」なわけですから。

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Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 助教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
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