* 著作権の情報流通技術決定論 仮説 *

白田 秀彰

[愚痴] どうも、この論文はお蔵入りになりそうです。一つ一つ、文献の該当個所を挙げるような地道な作業に費やす時間が取れないため、内容的には問題なくても公開できないのか悩みです。

↑と書きましたが、せっかくやった仕事ですし、学生さんの何らかの参考になるかと思いまして、「脚注ほとんどなし」状態で公開することにしました。もちろん、まともな論文ではありませんから、学術論文への引用はお避け下さい。 むしろ大学院あたりの学生さんが、この論文の内容を引き継いで検証してくれることを希望します。(2002年3月14日)


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1 定立1: 情報政策としての著作権制度

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1-1. 民主主義政体および自由主義経済体制を前提とする限り、 情報に関して採られるべき政策は「より多様な情報内容を、より多くの人に、 より早く、より低廉に伝達すること (以下、「情報の自由」)」である。 この政策が実現される方向に設定されていない制度は、 何らかの目的によって修正されている(以下、「情報の自由への制約」)。 著作権制度を情報政策の一種と見ることによって、著作権法を分析し、 どういった社会集団のいかなる目的にそって著作権制度が設定されているのかを抽出 することができる。

1-2. これまでの著作権制度は、広義の情報伝達産業のうち「パッケージ型」 産業に分類しうる産業(以下、「媒体企業」)を維持する目的で設定される独占であり、 独占から生じる生産者剰余を産業従事者間で分配するルールも規定している。 これは著作権制度発祥時の技術段階を前提としてもっとも効率化された情報分配機構 を保護するものであった。また著作権制度は、独占禁止的要素も含み、 独占の程度を公共目的との間で均衡させようとしている。 この均衡は政策によって決定される。

1.1 定立1の論証

1.1.1 情報の自由
民主主義政体 民主主義政体はひろく国民が政治に参与することで正当性と権威を維持している。 国民が国政に関する情報のみならず、 あらゆる判断の助けとなる情報を容易に入手できることが民主主義政体の前提条件で ある。

アメリカ合衆国憲法修正第一条(言論の自由)が、 情報流通において目的としている根本的価値は「意見の多様性」であり、司法権力は、 情報の内容に関する価値判断を行なわないことを基本としている。 また情報通信や放送の規制においても、規制原理に組み込まれている「公共目的」 の内容である公平原則、集中排除、ユニバーサルサービスも「情報の自由」 の目的に沿ったものである。歴史的には、 封建主義から近代民主社会へと移行した市民革命の基礎が、 出版による知識の普及活動である啓蒙主義によって促進されたことは否定できない。 また、ソビエト政権崩壊や東欧諸国の民主化の流れが、衛星放送、 ファクシミリなどに代表されるような国家統制の網をかいくぐる情報媒体によって促 進されたことも記憶に新しい。

自由主義経済 自由主義経済は市場の機能を媒介として資源の最適配分を行なうものである。 市場が理想的に機能する限り、 もっとも効率的な資源配分が達成されるということはすでに古くから理論的に説明さ れてきた。しかし現実の市場は理想通りに機能せず、 たとえばマクロ経済的には好況と不況、 バブル景気と恐慌というような循環的変動と非効率が生じていた。

市場が理想的に機能しない理由の一つとして「情報の非対称性」が挙げられる。 この情報の非対称性を完全に零にすることは不可能だが、「情報の自由」 の目的を実現することができれば、市場参加者は期待収益と危険を合理的に予測・ 判断することができ、市場の効率性と安定性は向上する。 近年の情報技術および商品流通技術の発達にともない、 取引過程において全体的な取引費用の低減が生じているのと同時に、 消費者個々人が市場に関する情報を効率よく安価に入手できるようになり、 かつ消費者個々人の需要に関する情報が容易に流通するようになり、 古典的完全競争市場の成立条件がようやく整いつつある、 という見解が見られるようになっている。

1.1.2 情報の自由の制約
規範的理由による制約 「情報の自由」に対する規範的制約は、基本的には社会的主導勢力 (社会の多数者あるいは教会・国王等の権力者)が「望ましい」 とする考え方に反する種類の情報の流通の遮断である。現代においては、 「名誉毀損的表現」、「猥褻的表現」および「危険情報」 に該当するものが規範的制約の目的となっており、 情報通信や放送における公共目的による制約の理由となっている。

また、古くは教会や国王に反する言論の抑圧のため検閲制度が広く用いられた。 著作権制度も一時期検閲制度の道具として使用された事例が見られる。 それらの事例における著作権法を分析すれば、教会や国王の社会統制・ 秩序維持の目的に奉仕するように制度が設定されていたことがよくうかがわれる。 現在においては、著作権制度は統制目的の情報遮断機構としては使われていない。 とはいえ、 自己に不都合な情報が社会に広まることを防止するために著作権を援用する事例は見 られないわけではない。

経済的理由による制約 知的財産権制度は、「情報の自由」に対する経済的制約の中心となっている。 情報内容が比較的簡単なものである場合、情報は公共財的な性質を持つようになる。 複製が容易であるためにフリーライダーを排除することができないからである。 すると、作成に比較的大きな投資が必要な情報内容は、 投資を回収できなくなるため過少生産に陥り、市場に必要な情報が供給されなくなる。 したがって、知的財産権制度は、情報内容を生産した人物にその情報内容利用 (とくに複製)に関する排他的独占権を与えることで、 投資回収を可能にするものと説明された。

この投資保護による誘因論は、 従来 特許および著作権のいずれにも適用されるモデルとされてきた。 しかし詳細な歴史研究から、 著作権制度は特許と異なったモデルがあることが示された。すなわち、 著作権法が問題とするような創作物は、比較的に長いメッセージであり、 費用零での複製は現実的でない場合が多い。 また著作権が保護する領域は伝統的には文化的領域であるため、 創作活動は産業的な投資・収益計算によるというよりも、 個人的な資質や動機によって開始されることがほとんどであり、 従来言われていたような誘因論では説明できない。 そこで著作権にもとづく独占権である複製権の根拠を探ると、 創作者と利用者の間を繋ぐ媒体企業の保護にあることが明らかになる。

1.2 パッケージ型産業保護

情報伝達を「フロー型」と「パッケージ型」に分類した場合、フロー型とは、 物理的な媒体に固定しない状態で情報を伝達するものであり、古くは口伝、実演、 上演 (以下、「実演」とまとめる)を中心とした。現在ではこれに加えて同時的通信、 同時的放送も含まれうる。著作権法は本来、 フロー型の情報伝達を行なう産業を直接的に保護するものではなかった。 英米法系著作権法では近年まで媒体への固定が保護の要件とされていた。また、 裁判所に提出できる証拠が「書類」の形態を取らざるえない時代においては、 紙媒体に記述できる範囲においてのみ法的検討の対象とされたわけであるから、 他の法域においても実質的に媒体に固定可能なもののみが保護されていたということ ができる。

一方、パッケージ型は、 情報を固定した物体を市場取引することで情報を伝達するものであり、古くは文字、 絵画を中心とした。情報技術の発達により、 現在では従来フロー型であった情報伝達方法にも、 なんらかの形態での媒体への固定がされるようになった。 このためパッケージ型情報流通を保護するものであった著作権法は、 フロー型情報流通にも適用されるようになってきている。

フロー型は情報内容を媒体へ固定しない。このため、 実演された情報内容がそのまま観衆に伝達される。それゆえ、 情報内容の作成費用および上演によって得られる利益を直接創作者また実演者に還元 させれば、創作者や実演者はつづく活動の費用にそれらの利益を充当することができ、 創作活動を継続することができる。また、 フロー型は情報内容を媒体へ固定しないために伝達は同時的になされる必要があり、 このため情報内容の伝達範囲を制御することが比較的たやすかった。たとえば、 外部に内部の様子や音声が漏れないような建築物等の中のみで実演することで、 対価回収の方法をその建築物の内部に入る権利の購入という商品売買の形態で処理す る事ができた。

すなわち、フロー型においてはパッケージ化が行われないため、 このパッケージ化の費用を回収するための制度を新たに設定する必要はなかったわけ である。15世紀の活版印刷術の登場まで、 制度としての著作権が考慮されてこなかった理由はこれである。

パッケージ型においてはすでに創作された情報内容を媒体に固定し、 これを物理的実体を持った商品として通常の財と同様に市場取引する。 情報内容が物理的実体としての商品と異なっている点は、 それが比較的少ない費用で複製可能であるという点にある。 すなわち情報内容それ自体の創作、 またその情報内容を大量複製するための準備に多額の費用がかかる一方で、 複製それ自体には追加的費用が少なくて済む。このため、 いったん情報内容が商品として市場に投入されると、 直ちにその商品の複製物を販売する競争業者が現れ、 結果として商品の価格は複製物を製作する限界費用に近い水準にまで低下し、 生産者剰余は少ないものになる。この場合、創作活動や準備作業に投資した事業者は、 初期投資分の費用を回収することができなくなり事業に失敗する。

このパッケージ型伝達における市場の失敗を回避する制度が著作権制度の根幹となっ ている複製権の起源である。すなわち、 最初に情報内容をパッケージ化して市場に投入した事業者に市場における独占権を付 与することで、生産者剰余を十分に確保し、事業の継続を可能にするわけである。 このとき生産者剰余が創作者へ還元され、 創作活動それ自体をも促進する効果をもつのは、副次的なものである。事実、 初期の著作権制度においてはパッケージ型事業である出版事業者に権利が付与され、 著作者本人にはなんらの保護もなされていなかった。ある意味では、 生産者剰余を創作者に分配しなくても良い、 とすることで幼稚産業である出版業を振興していたとみることもできる。 この複製権から上がる収益を著作者にも還元すべきという判断は、業界秩序が整い、 出版業が安定産業化した19世紀に入ってようやく認められるようになったのである。

現在の著作権理論では、 媒体産業保護のための複製権とその副次的効果である著作者への利益還元の位置付け 逆転し、 著作者が保有する人格的利益を含んだ著作権の支分権としての複製権であると理解さ れている。

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2 定立2: 社会的諸勢力の合力としての著作権制度

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2-1. ある文化圏における著作権概念は、その成立時の文化的・政治的・ 経済的要素によって基本的性格を決定される。 したがってある文化圏における著作権の基本的性格を知るためには、 成立時の歴史社会学的研究を欠くことはできない。

2-2. 著作権は自然的権利ではなく、 政策に基づき法律によって付与される人工的権利である。従って、著作権の内容は、 時々の政策決定権者にもっとも強い影響力を行使できる主体の利益に誘導される。 時々に、どのような主体が政策決定権者にもっとも強い影響力を行使できるかは、 文化的・政治的・経済的要素によって決定される。

2-3. 著作権概念は、法律や判例の変化にともない修正を受ける。 また逆に社会一般の著作権概念の変遷の方向性や程度は、 法律や判例の改正内容に反映される。したがって法律の改廃の変遷を追うことで、 著作権概念の変遷を追跡することができる。すなわち、 著作権概念の変化の方向を予測できれば、 同時に著作権制度の変化の方向も予測することができる。

2.1 定立2の論証

先に検討したように、媒体企業が収益を確保するためには、 必然的に何らかの形態での独占が必要である。実は、 著作権を巡る神学論争とも言えるような「原理」を巡る論争は、 この独占をどのような理由で正当化するかという争点に帰着するものである。 その正当化には時代や地域に応じてさまざまな理由付けや形態が存在した。

古典時代 著作権制度の歴史について書かれた文献を参照すれば、 著作権の主張を示すと思われるもっとも古い時代の記録としてはギリシャ・ ローマ時代にまで溯るようだが、それは制度的なものではなく、 また権利の正当性の主張についても、「自ら産み出したものは自らの手に」 という自然的発想を基礎にしていた。

中世イタリア 続いて中世イタリアでやはり著作権の主張を示すと思われる記録があるが、 それは共同体に対して有益なものを産み出した者へ、共同体が与える「特権的報酬」 として把握されていた。すなわち後の法学者が主張したように 「あたかも公共に対して富を与えたものに対して、 その富に対する共同体からの購入金として与えられるものである」。 したがってその権利は、都市市民的特権であるといえる。

近世初期イギリス イギリスにおいての最初の著作権的形態は、 16世紀半ばの国王大権による勅許であった。 17世紀はじめに国王大権の濫用が批判されるようになると、 当時の媒体企業である出版業者の職能組合に対して伝統的な既得権を容認する形で包 括的な独占権が付与された。組合では、 ある創作物を最初に出版したものに対して独占権を与えるという原則を確立し、 これが現在の著作権制度の基礎となっている。ところが、 17世紀半ばに職能組合が保有する既得権が批判されるようになると、 ようやく創作者本人が保持する自然的権利 (すなわちもっとも原初的な形態の権利主張)が、 金銭的取引によって出版業者に譲渡されているのだとする主張が現われる。 通常の歴史解説書では、 この時点において近代的著作権制度の基礎が確立したものとされる。

近世中期フランス 革命前のフランスにおいても、演劇(含む音楽)や出版を統括する職能団体が存在し、 これに対して王権に基づく独占権が付与されていた。 これは近世初期イギリスにおける状態と同様である。そしてまた、 その当時から創作者本人にやその遺族による自然権的権利の主張が行なわれていたこ ともイギリスにおける状態と同様である。

ところが、 ちょうどイギリスで創作者の自然権と産業政策としての独占権が理論的に結合した時 期にフランス革命が生じたことがフランスの著作権概念を決定した。 フランス革命は啓蒙思想を基礎とし、 法的には天賦人権説に基づく王権および職能組合の特権の否定と自然権の確認が行わ れた。このため、 フランスでは著作権はまさに創作者の頭脳から生じた果実への当然の権利として把握 されることが基本となった。すなわち、 長い歴史において妥協の産物として生じてきたイギリス型理論が、 より純粋化されたわけである。

このためフランスではとくに著名な創作者の「天才」を巡る人格的・ 経済的諸権利拡充の歴史が著作権史の中心となる傾向がある。 とくにフランスにおける判例蓄積期が出版産業の成熟期すなわち「文豪の時代」 と一致したため、とくに「天才」の強調、人格的利益中心主義が強化された。

近世中期アメリカ アメリカはイギリスの法制度を継受したため、 伝統的なイギリス型の著作権概念が移植されることになった。 ところがこの移植の過程において宗主国イギリスからの独立革命を遂行したため、 フランス革命時と同様の著作権概念の純粋化が生じた。 詳細についてはすでに別稿で検討したので、ここでは割愛する。

アメリカ型著作権概念をここでまとめておくと、 それはフランス型の自然権的発想を基礎とするものの、 イギリス型の制度を採用しておりある意味で分裂が存在することである。 そのもっとも顕著な部分は、著作者人格権を長い間認めてこなかったことにみられる。 また、 19世紀中アメリカは欧州の著作物を大量に海賊出版してきたことでも知られており、 アメリカの教育・文化水準増大のために欧州の遺産に「ただのり」 したとされてもやむを得ない歴史を抱えていることも忘れてはならない。しかし、 それは後進国が先進国に追いつくためには合理的な戦略であったということができる。

近世後期ドイツ ドイツは19世紀に至るまで小国分立の状態にあり、 統一した著作権制度の成立は19世紀末を待たなければならなかった。

ドイツにおける著作権の概念の嚆矢とされるピュッターの「翻刻論」 における考え方は、 出版業者の複製権独占を擁護するために創作者の自然権の譲渡を基礎に据えた理論を 展開しており、同時期のイギリス型理論と同じものである。

ところが19世紀はじめにはカントからヘーゲルへいたる自我を中心とするドイツ観念 論に影響され、しだいに人格を中心とした著作権観念をもつにいたる。 とくにドイツ圏最初の近代的著作権法である1837年プロイセン著作権法が制定された 時期が、ドイツ・ ロマン主義全盛期からやや下った時期であったことがドイツにおける著作権概念を決 定したといえるだろう。

近世後期日本 日本においては、江戸時代にやはり出版・書籍流通に携わっていた職能組合において、 出版・流通に関する取り決めがなされていたらしい。 とはいえそれが権利として把握されていたかどうかは、 権利概念が明治期の輸入概念であることを考え合わせると疑問があるところである。

しかしながら、著作権法制度という点でみれば、 ドイツ型理論を継受した民法を基本に、 すでに存在していたベルヌ条約加盟を目標とした旧著作権法制定が、 我が国の著作権概念を決定的に規定した。

ここで重要なことは、 わが国には著作権法の基礎となるべき社会的条件が成熟しない段階で、すでに 「あるもの」としての著作権制度を継受したことである。 したがって著作権法がどのような哲学や理念を背景にして存在しているのか、 根本的に検討されたことがなかった。著作権概念や理論を解説する書籍は、 ほとんどドイツ型理論の紹介に終わっている。

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3 出版業の盛衰と文豪の時代および著作権概念の関連につい て

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3.1 技術的要素の整備

印刷機については、 グーテンベルクの発明後350年にわたってほとんど改良されなかった。 19世紀の初めにイギリスのスタンホープ (Charles Stanhope 1753‐1816) が総鉄製の印刷機を開発した。スタンホープ印刷機は、 錘とレバーとねじ棒を組み合わせた新しい加圧機構を採用しており、 わずかの力によって大きな圧力を加えらるように工夫されていた。 同印刷機はイギリスにおいて広く利用され、 タイムズ社などでも日刊の新聞の印刷に使用していた。このころの印刷速度は、 1時間あたり200-300枚であった。同じころ、1813年にはアメリカではクライマー (George Clymer)がやはりレバー式の印刷機コロンビアン印刷機を開発している。 コロンビアン印刷機は、簡便さで試し刷り用印刷機として広く長く利用された。

1811年には、ドイツ人ケーニヒ (Friedrich Keenig 1774‐1833)とバウアー (Andreas Friedrich Bauer 1783‐1860)は、平らな版盤を往復させ加圧して印刷する方法を発明した。この平台印刷機の印刷速度は、1時間あたりおおよそ500枚であった。つづいてタイムズ社の依頼をうけたケーニヒとバウアーによって平台印刷機の改良がすすみ、1814年には1時間あたり1100枚、さらには両面印刷で1時間あたり750枚へと速度が向上した。1827年にはケーニヒらの印刷機は、1時間あたり4000枚から5000枚の印刷速度にまで達した。 さらに高速を目指すには版盤も円筒状にした輪転方式の印刷機が必要だった。アメリカのロバートとリチャード・ホー父子(Robert Hoe, Richart Hoe)の一連の輪転機(1832-1846)の開発によって、1850年ころには1時間2万枚の印刷速度に達していた。さらにアメリカのブロック(William Bullock)や、フランスのマリノニ社は、連続したロール紙に印刷する方法を実用化し、更なる印刷速度の向上に貢献した。こうして1860年ころには1時間あたり両面印刷で1万5000枚の速度に達し、大量高速印刷技術は技術的な完成をみる。 1840年ころから欧州・アメリカのいずれでも見られる廉価版登場と、 書籍の大衆化の背景にはこの大量高速印刷技術が不可欠の要因として存在しているの である。

3.2 箕輪成男氏による研究の整理

各国ごとの出版点数の増大の様子と、 文化的発展に関して実証的な研究をおこなった論文として、箕輪成男氏の 「出版における近代への離陸」がある。ここではこの論文に基づいて、イギリス、 ドイツ、フランス、アメリカそして日本の出版業がいつ興隆し、 産業として確立したのかを考察し、 その興隆が著作権に与えた影響について検討したい。

まず箕輪論文に掲げられている「5ヶ国出版点数の推移」のグラフを掲げる。

5ヶ国出版点数の推移

箕輪論文では、 各国それぞれにある時期において出版点数の飛躍的な増大があることを指摘し、 これを「離陸」と表現している。このグラフについて箕輪氏は

ここに四つの国が同じペースの離陸上昇を(日本はより急上昇だが)、 しかし同時にでなく違った時期に行なっていることを見事に示しているのである。... 恐らくこれが、各国における出版の近代的発展の時期を示すものと思われる...。

と整理し、各国の離陸期を1780年ドイツ、1825年イギリス、1850年アメリカ、 1780年日本としている。 フランスについては資料からは離陸期を判断することはできないが、 仮にフランス革命が生じなければ1800年前後かと思われる。 しかし実際にはフランス革命につづく19世紀前半の国内の混乱によりその離陸期は遅 れ、19世紀中葉以降となっているものと思われる。

また箕輪論文では、 イギリスとアメリカの出版点数の増大と国民所得の増大との相関について検討し、 次のように結論している。

出版点数と国民所得がともに持続的に増加するという関係をもちはじめたのは、 出版がその社会の社会的・ 経済的変動と有機的関連を機能的に確立したことにほかならない。 そしてまた、これ以前の段階では出版はそうした社会的・ 経済的変動と遊離して存在し得たし、存在したということである。 (強調は筆者による)
その一方で箕輪論文は、ドイツと日本においては、 出版点数の増大が経済的離陸に先行している事実を指摘し、 この問題に関する検討に入る。ここで結論だけ示すならば、 富国強兵政策に連関した教育振興政策が背景にあることが指摘されている。

また同論文には、科学史上の業績出版数を検討し、 科学中心移動説を立証しようとした湯浅光朝教授による研究が紹介されている。 孫引きになるが、ここでその内容を端的に示す図を掲げる。

科学史上の業績出版数

すなわち、1500年以後の科学の中心地は、16世紀後半のイタリア、 17世紀後半から18世紀前半のイギリス、18世紀後半から19世紀初頭のフランス、 19世紀から20世紀前半のドイツ、 そして戦後のアメリカと移動していることが示されている。 本論の検討の対象となる19世紀、 すなわち著作権概念の汎欧州的な転換が生じた時期は、ドイツの学問・ 芸術が全盛期を迎えていた時期にあたることがわかるのである。

3.3 著作権に関する認識の転換期と出版業離陸の関連につ いての考察

さて、すでに述べたように著作権を基礎付ける認識は、 19世紀に特権由来の排他的独占権から著作者が原初的に保持する自然権へと変化した。 この転換の時期とその背景について検討する。

イギリス イギリスでは、1710年4月5日近代的著作権法の嚆矢とされる通称 「アン条例 (Statute of Anne)」が制定される。 1710年4月10日までに出版されていたすべての書籍について、 その著作者あるいは権利を譲渡された者に1731年まで独占出版権を与え、 また4月10日以降刊行された書籍について、 著作者あるいはその権利を譲渡された者に対して14年間の独占出版権を与えるとする ものであった。しかし、法律の内容および立法経緯を検討した結果、アン条例は、 著作者のための法というよりも独占禁止法的性格を持ったものであると整理する。

出版産業の興隆の基礎となる識字率については、 イギリスでは18世紀をつうじて向上したものの、 その波及はもっぱら中産階級に止まっていた。イギリスにおける一般教育は、 読書熱に引きずられるように1730-50年頃から普及を開始し、 1760年代におけるイギリスの平均的な教育・ 知識水準はフランスのそれよりも高かった とされているが、これはイギリスの中産階級層の厚さを指しているものと考える。 対してフランスでは、第一、第二身分と第三身分の間の経済的・ 文化的格差が大きかったことが知られている。

イギリス型著作権概念が完成するのが1774年のドナルドソン事件貴族院判決であるが、 その当時、 著作権法を永久の財産権として確定しようと努力していた出版業者たちに対して、 一般の認識は否定的なものであったことが報告されている。例えば、 当時イギリス文壇でもっとも強い影響力をもっていたジョンソン博士は 「読者の権利も尊重されねばならない」と述べたという。

ドナルドソン事件貴族院判決によって永久の著作権保護という観念が裁判所に否定さ れたのち、古典の安価な復刻版や再版ブームが生じた。 このことにより読者層の底辺が劇的に拡大する。この傾向は1780年代を通じてすすみ、 1820年代には文筆業はもっとも将来性のある職業と考えられるようになっていた。 すなわち、19世紀前半は廉価版や定期刊行物による読者層の掘り起こし期であり、 後半は小説や物語文学による読者層の教養や趣味の引き上げ期であると整理すること ができる。

1830年代に入ってくると、著作権法概念に転換が生じる。 それまでの著作権法改正運動の中心となっていたのが産業資本家たる出版者たちであ ったのに対し、社会に対する作家の地位向上を反映して、 作家自身が自らの権利主張を開始したのである。 その顕著な例として上級弁護士タルフォード(Thomas Noon Talfourd) の著作権法改正運動が挙げられる。彼は、弁護士であるとともに「イオン」 という悲劇の著作者でもあった。彼は、1837年庶民院に「印刷物、音楽的創作、演劇、 彫刻に関する著作権法」を提案した。

彼の提案は、アン女王の法律を根本的に変え、単に出版印刷物だけでなく、文学的・ 学術的・芸術的作品のすべてについて著作権を認めようとしたことと、 著作権の存続期間を著作者の死後60年を定めたこと、 国際的著作権保護の問題が含まれていた。すなわちここにおいて、出版業を統制する 「産業法規」的発想が、創作者の権利を基礎とする「知的財産権」 的発想に転換しているのである。

しかし、タルフォード案に対しては、 出版者の一部から著作者死後60年も経たなければ自由出版ができないのでは不都合で あるという非難が起こり、サー・ロバート・ピールの反対によって葬られた。 このころ(1838年)、ワーズワースは 「知性と精神から生まれる作品にわずかの期間の保護さえ渋る」 風潮を嘆いたといわれている。

翌年タルフォードは再び出版者トーマス・テグとともにアン女王法律の改正を提案し、 今度は庶民院の第二読会まで通ったが、そこで審議未了に追い込まれてしまった。 第三番目の試みとして、彼は翌年にはワーズワース、スコット、カーライル、 ディケンス、トーマス・フッド、ロバート・ブラウニング等、 当時影響力の大きかった作家達の請願書を集め、 これを議会に提示することでようやく1842年著作権法改正にいたるのである [1]

すなわちイギリスにおける著作権概念の転換は1840年前後ということができる。

アメリカ アメリカでは、1790年5月30日に連邦著作権法制定された。内容は、 著作者またはその権利を譲渡されたものは、 著作権局への登記の日から14年間の排他的な出版権を獲得するというものだった。 この法律について内容および立法経緯を検討した結果、 新国家にとって必要な教育的あるいは技術的な書籍の執筆と流通を奨励することを目 的にしているといえる。

19世紀初頭の段階では、新国家アメリカは技術的にも学問的にもおくれた状態にあり、 欧州文化の影響をつよく受けていた。とくに1830年前後のアメリカは、 当時盛んだったドイツ文学の影響下に入り、アメリカ文学もロマン主義時代に入った。 このころアメリカの法律学にもようやく独自の体系化の端緒がひらかれる。すなわち、 1826から30年にかけてアメリカ法を体系的に記述したケントの「アメリカ法釈義」 が4巻本として刊行された。この「アメリカ法釈義」では、 いわゆる自然権論を中心に据えた著作権概念が示されている。「アメリカ法釈義」 がこのころのアメリカの法学生たちに教科書として人気を得ていたことが、 後のアメリカの著作権法概念に影響を及ぼすことになる。

また具体的な著作権法改正運動としては、 1790年著作権法につよい影響を及ぼしたノア・ ウェブスターによる著作権改正への積極的なロビー活動が、 1831年からさらなる保護の強化にむけて進められるようになった。 これが1832年著作権法改正へと繋がるのであるが、 この段階においてもアメリカの著作権概念は、産業法としての性格を維持していた。

アメリカでは、いつ頃著作権概念が転換したのだろうか。 1830年代から学説のレベルで欧州型著作権理論が提唱され始め、1878年にはじめて 「知的財産権 (intellectual property)」 という言葉をタイトルに含んだ書籍が出版されたことが確認されている [2]。 この時期に著作権が印刷出版業のための権利ではなく、 人間の知性に基礎を置く財産権であるという考え方が一般化したといえるかもしれな い。

しかしながら判例の転換は一般の認識に遅れた。 ようやく20世紀初頭に最高裁判所裁判官オリヴァー W. ホームズ Jr. による一連の判例により、 判例法上もアメリカ著作権の概念は著作者の知的労働を中心とするものに転換するこ とになった [3]

フランス フランスにおける著作権保護制度の最初のものとして、 旧体制下における1777年8月30日デクレによる保護が挙げられる。その内容は、 著作者がその著作者とその終身相続人のために、 著作物を出版し販売する特権許可証を要求する原則、さらには、 出版者に特権許可証が認められた場合であっても、 この譲渡は著作者の生存期間を超えることはできないとする原則である。 このデクレは、作品と著作者の関係をつよく承認している点で、 当時のイギリス型著作権概念よりも、 より著作者本人の利益に留意した内容だったと評価できるだろう。

フランス革命直後の革命政府によるデクレでの保護については、 1791年1月19日デクレ、 1793年8月30日デクレが著作者の権利を保護するものとされている。 このデクレの内容は、著作者の保護を中心に据えているというよりも、 著作者の自然的権利を中心に据えることで、 旧体制が容認してきた印刷出版上演に関する各種特権を否定排除することを主たる目 的にしていると評価することができる。

フランスは、その後19世紀の半ばまで帝政、 王政と共和制が交代する政治的不安定期にあり、 著作権法の発展はもっぱら判例の積み重ねによって進むことになる。とはいえ、 フランスでは、1825年、36年、 41年に立法委員会を設置して1791年法1793年法の改正を検討している。 その詳細については、宮澤氏の著書「著作権の誕生」にゆずるが、1825年ラ・ ロフシュフコー委員会、1836年セギュール伯爵委員会、1839年サンバルディ委員会、 1839年シメオン子爵委員会の段階では、フランスにおいても著作権を印刷・出版・ 演劇の業法として把握している。とくにシメオン子爵委員会での議論は、 産業資本家側の意見が反映されている。

フランスにおける著作権概念の転換点となるのが1841年ビルマン委員会での議論であ る。文部大臣ビルマンは、フランス文学の権威者で、 文芸家協会が創設されたときの初代会長であった。 法案の報告者は上院議員のラマルチーヌであった。ラマルチーヌは「瞑想詩集」 (1820)によって知られる代表的なロマン派の詩人である。すなわち、 1836年の新聞連載小説のブームを皮切りに出版活況が始まったことをうけて、 1841年までには、作家が大臣や上院議員の職を占めるほどに、 著作者の社会的地位が大幅に向上しているのである。また1837年には、 当時の人気作家バルザック主導のもと文芸家協会の設立が準備され1838年4月設立さ れるなど、 著作権に関連して活動を行なう団体が準備されていたことも見逃すことはできない。

ビルマン委員会による1841年報告では、 以前の委員会と異なり文芸家の天才保護を全面に押し出した答申がなされた。 この報告書の内容は、直接フランス著作権法改正に結びつかなかったものの、 この時点においてフランスにおける著作権概念が転換したということができるだろう。

フランスにおけるロマン主義の展開は、イギリスやドイツにやや遅れ、 スタール夫人のドイツ文学理論の紹介である「ドイツ論」から始まり、 ゲーテやバイロンの作品の翻訳を通じて展開した。 そして1820年代から1830年代にかけてユゴーとサント・ ブーブを中心にロマン派が形成され,ロマン主義運動が展開された。 詩の分野では先に報告書を提出したラマルチーヌ、社会小説の分野ではスタンダール、 バルザック、サンド、そしてドイツ文学の影響を受けた幻想文学では、ノディエ、 ネルバル、ゴーティエが代表的作家とされるが、なかでもヴィクトル・ユゴーは、 そのいずれの分野においても傑出した才能を示し、フランス・ ロマン主義を体現する作家とみなされている。

1878年には、パリで万国博覧会が開催された機会に、フランス政府が提唱して、 各国の学者、美術家、文学者、出版社の団体の代表者の会議が開催された。 「国際文芸協会」が創設され、ユゴーが名誉会長に選出された。この会議席上で、 著作権に関する他国間条約を起草する外公会議を招集することをフランス政府に要請 する決議が採択された。これが1886年のベルヌ条約につながることになる。

ドイツ 1806年の神聖ローマ帝国崩壊以前から小国分立状態あったドイツでは、 著作権概念に関する発展史を直線的に描くことは難しい。法学者ピュッターの 「翻刻論」とカントの「偽版の不法性について」 と題された論文の内容に沿って展開したとされる一般的な説明では十分でないだろう。

とはいえ、ここで簡単に整理するならば、 ピュッターの所見は主として出版者の利益を擁護するものであり、その具体的内容は、 当時(1780年前後)のイギリスの著作権概念と異なるものではない。一方、カントの 「偽版の不法性について」で主張されている内容は、 作品の創造主であるところの著作者を中心に展開しており、この点から見れば、 ドイツ型著作権概念が創作者を中心とするものにするはじまりは、 1790年ころといえるかもしれない。

社会の一般的認識として創作者中心主義が主流となったのは、いつだろうか。

神聖ローマ帝国の崩壊(1806)を受けて成立したドイツ連邦は、 ますます諸邦の自律性がたかまり、連邦としては内部の関税障壁や交通制限、 通貨と度量衡の未統一など経済的分裂も加わり, 産業の発展や諸外国との通商に不利であった。この分裂は1818年以降、 プロイセン主導の関税同盟の形成と拡大によって克服されることとなった。 この東ドイツ関税同盟は、1834年からドイツ関税同盟として拡大し、1871年のドイツ (第二)帝国成立にむすびつく。 すなわち19世紀をつうじてドイツは大規模な改革と展開を示したのである。

ドイツ出版業は、16世紀からライプツィヒを書籍流通の要として栄えてきたが、 30年戦争(1618-48)によって文化的基盤を破壊され、17世紀を通じて低調であった。 18世紀からのドイツ文学は、 主としてフランスやイギリスにおける啓蒙主義の文化的影響をうけながら展開し、 ゲーテの登場すなわち「若きウェルテルの悩み」(1774) の発表をもってドイツ文学のロマン主義時代への移行が開始される。ドイツ・ ロマン主義は、 啓蒙主義に対抗して個人の感性と直観を重視する反体制的な文学運動シュトゥルム・ ウント・ドラング(疾風怒濤)として1770年代に開始され、 そのほぼ20年後にシュレーゲル兄弟、ティーク、 シュライエルマハーらによってロマン主義文学はドイツ国民文学として理論化された。 すなわち、フランス古典主義に対抗するものとしてのロマン主義を明確に定義づけ, 古代古典文学の再評価とドイツに固有の国民文学の創造を主張したのである。

このころ関税同盟の形成にも刺激され、出版社、小売店、 取次店を統合した同業組合組織「ドイツ書籍商・取引組合」 が1825年にライプツィヒに創立され、 ドイツの出版文化の欧州における地位回復のきっかけとなる [4]。 ドイツ出版業が往年優越的地位を回復するのは1870年代になってからのことであった。

この出版業の展開にあわせて、 1837年にはプロイセンにおいてドイツ連邦最初の著作権法と見られるものが制定され る。つづいて、ドイツ帝国成立時に1871年ライヒ著作権法が制定され、1901年の 「文学的および音楽的著作物の著作権に関する法律」へと結実する。 ロマン主義の終期がおおよそ1840年代とされていることから、 ドイツにおける著作者中心の著作権概念はその成立時期からロマン主義の強い影響下 にあったということができる。このため個人主義、 天才の超越性を強調するロマン主義の要素は、 著作権概念を完全に個人中心のものとすることになった。

加えて、ドイツ統一のころの法理論においては、自我(人格) を中心とした理論が主流を占めており、 同時期に誕生した著作権法もやはり人格権を中心に据えて、 そこからすべての支分的権利が派生する構成を採っていた。 すなわちフランス型の人格中心主義的な著作権概念が、 個人の人格を中心とする哲学と法理論に結合し、 より堅固な理論構成をとったわけである。 これによってドイツ型の著作権概念が完成する。

日本 明治維新後には、福沢諭吉が英米型著作権(コピーライト)を「版権」 の語を用いて主張をしたことがよく知られている。 また明治政府は言論思想統制法と一体にして著作権制度と同じような効果を発揮する 制度を設けていた。 しかしながら日本の著作権概念を決定付けたのは法律制定そのものである。

日本の法制はドイツ法を継受しており、ドイツ法理論の強い影響下にあった。加えて、 著作権法に先行する版権条例が制定されたのが1887年、 旧著作権法が制定されたのが1899年であることが日本の著作権理論に絶大な影響を与 えた。この当時、 著作権なる概念にはじめて触れた法学生たちが依拠しただろうドイツ著作権法の最新 学説が、現在でも日本著作権法理論の基礎とされているコーラー(von Josef Kohler) の「無体財産権説」であり、ギールケ(Otto von Gierke)の「人格権中心主義」 である。

コーラーの「無体財産権説」は、著作権、特許、商標権などの現在「知的財産権」 とよばれている諸権利をローマ法の体系に当てはめたものである。 この学説においては、ピラミッド型に演繹される法体系に適合する形で、著作権、 特許、商標権には所有権と類似した共通の法理が作用していることを説明している。 しかし、 これは法律学を概念の体系として構築しようとした19世紀に流行した概念法学の一支 流をなすものであって、ドイツ観念論哲学を是としないがきり、 その体系自体として真正性を証明するものではない。また、ギールケの 「人格権中心主義」は、 すべての法の源泉を人格に求める彼独自の法理論体系において説明されているもので あって、 創作物があくまでも個人の頭脳から生じるゆえに自然的に承認されるべき地位につい て語る限りで是とされうるものである。

日本の著作権理論は、ロマン主義の影響で著作権概念が創作者中心に転換した後に、 もっとも創作と人格との結合を強調したドイツ理論をそのまま継受したところに特徴 がある。それゆえ、日本で主流たる著作権理論の欠点は、 まさに著作権をそのまま所有権と同一の法理で処理しようとするために排他的独占権 を絶対視したり、また人格との結合を強調するために、 運用面での硬直を招くという部分に現われることになっているのである。すなわち、 日本の著作権法の硬直性は、 著作権法を継受した時代にたまたま存在した歴史的事情を無批判に維持しているため に生じているのである。

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4 まとめ

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4.1 著作者の保護と排他的独占権

仮に著作権制度が創作者本人の自然的権利を保護し利益を最大化するものであるなら、 自分の作品の流通を阻害する独占制度が必然的に採用されることはない。 創作者本人は、自己の人格的利益を維持する限りにおいて、 自己の創作した情報内容の流通可能性を最大化させながら、 消費者剰余の幾許かを確実に回収する方法を採用するものと考えられる。したがって、 流通可能性を低下させる複製権による複製の禁止という排他的手法は、 創作者を中心とした制度に必然的なものではない。

媒体企業による情報流通がもっとも効率的である社会的・ 経済的条件の存在を前提として、 その機構を利用しながら創作者の利益を確保する限りにおいて、 現在の複製禁止を中心とした著作権制度は正当化されるのである。すなわち、 ここで検討している媒体企業維持のための複製権中心の著作権制度と、 古代に溯ることができる著作者の自然的権利の結合は、 歴史的なものであり必然的なものではないのである。

しかしながら、この近世初期の段階において 「創作者がその創作行為に由来して創作物に対する所有権類似の自然的権利を保持し ており、この権利が金銭的な取引により媒体企業に譲渡され、 それゆえに媒体企業は創作物の利用すなわち商品として複製し販売する権利を独占す ることができるのである」という理論が確立した。 そしてそれは当時の情報流通環境を前提とする限り、 効率的で合理性のある制度であったことは間違いない。

4.2 現状認識と今後の課題

19世紀の天才による個人的な創作活動の時代は、 2回の世界大戦を経て集団的組織的創作活動の時代へ移行した。すなわち、 著作権法研究において今なされるべき事は、 そうした集団的組織的活動に従事する個別の創作者の保護、 またその組織内における権利関係の明確化のための制度づくりということになる。

つぎに、コンピュータの普及による情報通信革命は、すべての人が創作者であり、 またすべての人が印刷者であり流通業者である事態を発生させている。とするならば、 著作権法が媒体企業保護法であった時代から中心に据えている複製禁止権を維持する ことは、社会の情報流通能力を阻害し不便を強いることとなり、 ひいては社会一般の支持をうしなう結果となるだろう。 1840年代に生じた著作権概念の転換は、 まさに拡大した大衆的読者層が作家達に抱いた尊敬の念と支援の心情を背景にしてい るからである。 完全な監視システムと強制システムを備えることができない著作権法において、 その制度の実体を支えるのは、制度に対する社会一般の支持のみである。

ゆえに著作権法は、すべての人が情報の創作と消費を行なう情報環境を前提として、 創作活動を奨励し文化的多様性を増大させるために、 いかにあるべきかという視点から問い直されなければならないことになる。

Note

[1]
1842年著作権法改正 著作発行後42年間、 著作者がその期間を超えて生存する場合には、彼の死後7年間の保護を与える。 著作権の範囲を戯曲、彫刻、音楽まで及ぼす。国際的保護の原則について認める。
[2]
Nathaniel S. Shalter, Thoughts on the Nature of Intellectual Property and Its Importance to the State, Boston
[3]
Bleistein v. Donaldson Lithographing Co., 188 U.S. 239, (1903), United dictionary Co. v. G %& C Merriam Co., 208 U.S. 260, (1908), Kalem Co. v. Harper Bros., 222 U.S. 55, (1911).
[4]
ドイツ書籍商・ 取引組合 (Boersenverein der Deutschen Buchhaendler)は、各都市の諸機関と全体的規則とをしだいに整備して、小売店と出版社との関係を規正し、手数料に関する慣習と一定価格の尊重(ダンピングの禁止)とを決め、また最初の書籍商人養成学校を建てる(1853年)などドイツ出版業の発展の基礎をつくった。

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Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 助教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
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