ナイフと情報

* ナイフと情報 *

白田 秀彰

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少年犯罪の増大が社会問題となってきています。少年がナイフで人を殺す事件が多発 しています[*]。そうした事件に対する反応として必ず「少年からナイフを取り上げろ」 という主張が出てきます。その一方で、最近の子供たちの不器用ぶりを象徴的に指摘 する意見として「最近の子供は鉛筆さえ満足に削れない」という表現がしばしば見ら れます。

[*] 統計的には実際には少年犯罪は減少しているのだそうです。「キレやすいのは誰だ」をご覧ください。ご指摘くださった田辺さん、ありがとうございました。(2005/9/25 追記)

ナイフは、人間が使う道具としてもっとも基本的な道具の一つです。大自然を相手に するアウトドア・スポーツにおいてナイフをまったく用いないことが想像もできない ように、ナイフは私たちの様々な生活技術の、そして生産技術のもっとも基本的な要 素なのです。だから、少年たちからナイフを取り上げることは、私たちの文明を衰退 させるきっかけとなる一つの象徴的な出来事になるに違いありません。

そもそも、少年のときにナイフを使わなかった人は、成人式の日に突然ナイフを渡さ れて正しく使うことができるのでしょうか。また、鉛筆を削るナイフなら良くてバタ フライナイフなら駄目なのでしょうか。バタフライナイフで鉛筆を削ることもできま すし、カッターナイフで十分に人を殺すことができます。もっといえば、鋏でも三角 定規でも靴紐ででも十分に人を殺すことができます。それらをすべて取り上げて少年 が大人になるまで待ち、ある日突然一人前の人間として生活することを要求すること は、いかにもナンセンスなことです。しかし、こうしたナンセンスなことをおおまじ めに考えている大人がいる、ということもまた、事実なのです。

こうしたナンセンスの合理的な解決法としては、正しい大人(悪い大人はナイフで人 を殺しますからね)が少年たちのナイフの使用を教育して、その正しい用法を守らせ るというものが考えられます。といいますか、この文章の文脈では、ナイフは生活技 術の基本要素を象徴していますから、教育とは当然に私たちの生活環境にある諸物を 正しく使えるようになされるのが本当なのです。もし、少年たちがナイフがある故に 人を殺すようになったということを認めるならば、今の教育が根本的な誤りに陥って いることをも同時に認めることを意味しています。

さて、ナイフについては合理的な解決法が見出されました。何らかの方法で正しい大 人を選び出し、そうした大人が少年たちを教育し、その精神および技能の発達段階に 応じて、適切な種類のナイフの使用を許可していく、ということになります。一種の 免許制のようなものでしょうか。社会では実際に他人に害を与えかねないもの、例え ば車や猟銃や薬物については免許制を導入していますね。

近年では同時に情報についても、ナイフと同じように少年を害しているといわれてい ます。「少年から有害情報を取り上げろ」という主張がそれです。その一方で少年た ちを評して「物を知らない」「常識がない」「判断力がない」という表現がしばしば 見られます。

私の小論集で繰り返して指摘しているように、情報は民主政体の最も基本的な要素で す。ここで考えている情報の中身については、それが一般的に言われているような良 い情報も、悪い情報も含んでいます。(この件に関する私の見解については、「言論の自由に関するコメント」も参照してください。) 私たちは「悪」について知らないときに、どうしてそれに対処し、また、その「悪」 を避けることができるでしょうか。もし、「悪」に関する情報が一切存在しないにも かかわらず、私たちが「悪」を避けることができるのなら、その「悪」は人間の本性 として備わっていることになります。すると「悪」について情報があろうとなかろう と、私たちは「悪」を行うことができることになります。

そもそも、少年のときに社会の悪徳について知らなかった人が、成人式の日に悪徳に 満ちた大人の世界に放り出されて、正しく世の中を渡っていけるでしょうか。社会の 危険と悪徳に関する情報なら、社会を渡るために認められるが、猥褻や薬物に関する 情報はみとめられない、などと情報の内容で区別することが可能でしょうか。私自身 の人生を振り返ってみてもそうですが、人が成長するとは、さまざまな社会の危険や 悪徳について知り、知りつつもそれらを実践することを思いとどまる理性や常識を備 えることを意味しています。奇麗事ばかりならべて少年が大人になるまで待ち、ある 日突然、一人前の人間として生活することを要求することは、いかにもナンセンスな ことです。しかし、こうしたナンセンスなことをおおまじめに考えている大人がいる、 ということもまた、事実なのです。

こうしたナンセンスの合理的な解決法をナイフの例に倣うならば、正しい大人が少年 たちの情報の享受の仕方を教育して、その理解と対応を実践させるということが挙げ られるでしょう。しかし、このことはすなわち教育を意味しています。だから、イン ターネットごときが現れた程度で「情報教育」などと慌て出すこと自体が、これまで の教育の怠慢を決定的に示しています。

ところで、情報に「有害で危険なものがある」ということを前提に、それを受けても 大丈夫な人と、そうでない人がいる、ということを考えますと、情報についても免許 制を導入することが考えられます。実際にそうしたことを主張している人もいるよう です。たとえば、インターネットの利用に免許制を導入するなどということです。

しかし「少年たちは、感受性が未成熟だから情報に制限を掛ける、大人は...」とい う議論が空論であることは直に見て取ることができます。実際に「有害で危険」な情 報を積極的に発信し、享受しているのはむしろ大人たちであって、素直で若々しい感 受性を備えた少年たちよりも、長い社会の悪徳に曝されて歪んだ感受性を持った大人 たちを規制した方がよさそうです。すると、免許制を導入する基準は、年齢ではなく、 その人の情報享受能力と判断力と常識を基準にすることになりそうです。

すると、社会には三つの種類の人間が存在することを認めることになります。一つは あらゆる情報を享受するに価する能力を備えた人たちと、もうひとつはその能力の欠 如ゆえに、誰かがお膳立てした「害のない」情報のみを享受すべきだ、とされる人た ちです。さらに、もう一つの階層があります。こうした二つの階層に人間を選り分け ていくだけの能力を備えているとされる最上の階層です。プラトン、アリストテレス の時代からこうした考え方はありましたから、悲しいことに、人間には能力について ランクがあることになりそうです。また、ジャーナリズムになんらかの特権があると 考える考え方も、類似した基礎に立っているといえましょう。

情報技術の発達による情報の奔流は、私たちに一つの選択をナイフのように突きつけ ています。国民の誰もが、すくなくとも教育をうけた大人の国民の誰もがあらゆる情 報を享受するに価する能力を備えている、という擬制を維持して民主政体の原則を維 持するか、それとも知的エリートの存在を認めて、残りの国民は「よき牧場の羊」と しての幸福を享受するものとする政治体制を容認するかということです。どちらにも それぞれ長所と短所がありそうです。とくに「情報の害悪」が甚だしくなっている現 代において、その選択は困難なものであるように思えます。

しかし、ここで一つ強調してこの話を終えましょう。人々の情報の享受と発信の能力 にランクを設けようとする考え方は、それ自体で民主制度の前提を否定するものであ ること、このことを十分承知しておくべきだということです。

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Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 助教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
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