この論文は、2001年の「情報法」の講義前半において、 講義がうまく進められなかったことへの反省をもとに執筆されました。 社会と経済の変化にともなう人々の認識の変化、 それに対応して変化する法について説明し、情報時代におけるエートスについて語り、 そして情報時代に憲法がどのように変わるべきかについての説明は、 あまりにも多くの要素の説明が必要であったため、 私の説明能力を超えてしまったのです。 講義の不備について指摘してくれた学生さんに、この論文を捧げましょう。整理され、 書かれた言葉である この論文で、その学生さんの納得が得られれば、 これに優る幸いはありません。また、この論文に有益なコメントを下さった 崎山 伸夫 氏、辰巳 丈夫 氏、林 紘一郎 氏、安江 憲介 氏、山形 浩生 氏、山根 信二 氏、矢野 直明 氏 の皆様ありがとうございました。
1 はじめに私は、大学1、 2年生である皆さんのために憲法の基本的な役割と情報時代の様子について解説して、 これからの社会の変化について皆さん自身で考えるときの参考にしてもらおう と考えて、この論文を書くことにしました。 皆さんに向けて書かれた憲法の話は、すでにいろいろとあるようです。しかし、 そうした話の大部分は「基本的人権はとても大切で尊重されるべきものです」 「日本国憲法は世界でもっとも先進的な良い憲法ですから絶対に変えてはなりません」 とか「日本国憲法はアメリカから押し付けられた憲法だからすぐにでも改正すべきだ」 「憲法がしっかりしていないから日本の国が乱れるのだ」とか、 著者本人の立場からそれぞれの考え方を主張したもののようです。それらの主張は、 もっぱら「現代の日本における憲法がどうあるべきか」を考えたもので、 より大きな歴史の流れや社会の変化と憲法の関係について書いたものは、 あまりありませんでした。 そこで、この『情報時代の憲法について』では もうすこし広い視野にたって、 「憲法」は社会に対しどのような機能を果たしてきたのか、 社会はこれまでどのような変化してきたのか、また、 これからどのように変化すると考えられているのかということについて、 説明していこうと思います。そうして、これからの時代に必要とされる基本的権利が、 どのようなものになるかということを考えてみることにしたいと思います。 この文章を読むことで、皆さんが人間としての基本的権利というものの意味を理解し、 これからの社会のあり方が自分たちの選択と判断にかかっているのだ、 という意識をもってもらえれば幸いです。
2 憲法とはなんでしょう?「憲法」というと、ある時代のある特定の国の最高法規を想起してしまいますので、 ここでは、憲法を「ある社会においてもっとも重視される原則」 の一種だと考えることにしましょう。そして、その原則のことをこの文章では 「基本法」と呼ぶことにします。 こうすることで憲法の発展の様子が記述しやすくなるからです [1]。 ここで結論から書いてしまいますと、基本法というものは、 その時代ごとに考えられた「人間的なあり方」 を保障するための仕組みを記述したものです。 かつては慣習や伝統に従うことで伝統的な人間のあり方を保全しました。 やがて近代国家が成立し、強大な権力が伝統的な人間のあり方を侵し始めたときに、 近代国家の力を縛るために文章の形で記述された「憲法」が誕生しました。 つづいて市場経済システムが世界をおおっていくうちに、 暴走した市場経済が大多数の人たちの人間的なあり方を侵すようになりました。 これに対応するため憲法の縛りを緩め、近代国家の力をもって、 市場経済システムの暴走を抑えることになりました。現在の憲法(基本法)は、 国家の形態や活動を縛る一方で、 私たちの権利や幸福を保障するために 国家が活動することを求めるものとなってい ます。それは、これまでの歴史的な発展の末に成立した姿であり、 永遠に続く形を示すものではありません。もし、将来何か新しく大きな力が生まれ、 それが私たちの「人間的なあり方」を侵すならば、そうした力を縛り、抑制し、 私たちの人間的なあり方を保全する仕組みを作らねばなりません。その仕組みは、 憲法という形をとらないかもしれませんが、 いずれにせよ新しい時代の基本法として位置づけられるものになるでしょう。 さて、ここからしばらく基本法が どのように発展して現代の姿に到ったのかを、 詳しく見ていくことにしましょう。歴史を踏まえなければ、 将来を見通すことはできないからです。
2.1 古代社会憲法をいったん「ある社会においてもっとも重視される原則」すなわち基本法である、 とおきますと、古代社会にも基本法が存在していたことになります。 古代社会においてもっとも重視される原則とはなんでしょうか。 すべての古代社会のあり方について列挙する能力も紙幅もないので、 大まかにまとめてしまいますと古くからの「伝統」「慣習」 等とよばれるものが社会の原則を定めていました [2]。ですので、古代社会においては、 その集団の中でもっとも歳をとった者が社会的なもめごとの解決を担いました。 長老が尊重されたのは、彼らがその社会において もっとも正確に古くからの「伝統」 「慣習」を知っていると考えられたからです。 社会の構成員の記憶の及ばない遠い昔からずっと守られてきた基本法を守ることは、 これから将来の社会をずっと維持していくことを保障すると考えられたわけです。 これは、農耕や狩猟など自然に密着した産業を中心としながら、 変化の少ない社会を営んでいた古代社会においては、 合理的な考え方であったといってよいでしょう。 もうひとつ重要な点があります。「伝統」や「慣習」は、ある社会集団の世界観、 信念、あるいは宗教といった共通意識を基礎にしています。そういった意味で、 基本法というものは、 その社会集団が長い期間にわたって形成してきた性向というものを抜きにしては、 成立しないものであるといえます。 この社会集団に通有 [3] された性向のことを「エートス (Ethos ギリシャ / ドイツ語 ethic 英語)」 と呼びます。逆にエートスとして定着していないならば、 たとえしっかりと文章として書かれた基本法があったとしても、 それは基本法としては機能していないといっても良いでしょう。 ここでエートスという用語についてもうすこし説明しておきます。 もともとはギリシャ語の「習慣 (エトス)」という言葉が起源です。 ドイツの社会学者マックス・ ウェーバー [4] によって使われることで、社会学用語として定着しました。 エートスは社会の構成員としてふさわしい「ふるまい」を繰り返すことで体得される、 すなわち習慣によって形成される行動の傾向です。 それは人間が社会をつくりだす上で通有されている行為の類型とも言えます。しかし、 単に機械的にある行為を繰り返すだけではエートスとなったとはいえません。 その習慣は、人が意識的に選択するものでなければなりません。すなわち、 「そのように振舞うべきである」という意識が背景にあることが必要です。また 「そのように振舞うべきである」という意識の基礎になるのは、何が「正しい」 かということについての人の内心の判断です。ですから、 報酬や罰によって維持されている行為類型はエートスではありません。 このようにエートスというものは、社会における「正しさ」の共通認識を基礎に、 意識的に選択される行為類型であると言えるでしょう。そしてそれはギリシャ語の 「習慣」という意味からもわかるように、「伝統」や「慣習」と裏表一体なのです。 一方、とても説得力のある新しい規範が唱えられ、 それが社会に広く受け入れられれば「正しさ」の共通認識が変わりますから、 エートスも変わることになります。 また、ギリシャ語・ ドイツ語の Ethos に対応する英語が ethic であることに注意してください。 日本語ではエートスは社会学用語として独立しており、 それとは別個に ethic にはふつう「倫理」という訳語が当てられます。また、 日本語では「倫理」というと「道徳」と混同されている傾向があります。そこで、 「エートス」「倫理」「道徳」のあいだに混乱が見られます。つまり「倫理」 として語られている内容が、高い次元の「正しさ」について語られているのか、 それとも現状の社会の一般通念に従うべきであるという趣旨で語られているのかにつ いて、 注意をしながら理解する必要があります [5]。 さて、 ここで西洋世界における法文化の基礎を作ったローマ帝国の法について見たいのです が、その発展の歴史については、 それだけで立派な本になるほどの内容を持つものですので、 詳しい内容は割愛させてください。 ローマ帝国の法の発展は、ローマの発展に伴い進みましたが、 その展開において常に二つの軸があったといって良いでしょう。 一つは揺らぐことのないローマの伝統、すなわち基本法にあたる 「父祖の遺風 (mores majorum)」すなわち先祖伝来のしきたりであり、もう一つは、 そのときどきに応じて生じる法的問題をどのように解決するのかという具体的な判断 です。この二つの軸をバランス良く維持したことが、 ローマが長期にわたる大帝国として存続しえた理由なのだと思います。 「父祖の遺風」は、とくに共和政期において不文の基本法として公法・ 政治の世界を取り仕切っていました。 また帝政期においても無視しえない規範として皇帝の権力を抑制していました。 ローマでは国政に関する公法的な法律が数多く制定されましたが、 規範としての重要性は「父祖の遺風」にくらべればかなり低いものといえました [6]。 もうひとつ、重要なできごとを挙げておきます。 西洋法文化における最初の成文法 (文章として書かれている法典)として 「十二表法 (Lex Duodecim Tabularum)」 というものがあります [7]。 この十二表法は、紀元前451年から450年に成立したものとみられています。 ローマの法発展の基礎となった最古の包括的法典といえます。 王政が倒れた後のローマ社会において支配層となった貴族 (patricii)は、 行政と法の運用を独占し勝手気ままな法律の運用をしていました。 これに不満を持った平民(plebs)たちは、一団となって抵抗するようになりました。 この身分闘争の過程で平民たちは、 明確でなかった法の内容をはっきりと確定した文章で示すことを要求し、 貴族側も平民の要求をうけいれて十人委員会を編成し作成したものとされています。 この十二表法もまた、ローマの法文化において「父祖の遺風」 を具体的に形作る根拠となったものです。十二表法が、 貴族の勝手きままな法の運用を縛るために、 平民の要求にしたがって文章としてまとめられたことに注意してください。それまで 「あたりまえ」だと考えられて、だれも意識していなかった良き慣習が 「あたりまえでなくなる」ときに、かつて「あたりまえ」 であった良き慣習をとりもどすために、文字として記してこれを確認する、 というのは基本法が文章化されるときに繰り返し見られることです。 私は不勉強で、そのほかの古代社会において古くからの「伝統」「慣習」 が法的規範として取り扱われた ということを説明することはできません。しかし、 どの社会集団においても、 伝統や慣習が強力な社会規範として機能していたことはまちがいありません。 そしてまた、ある社会集団の中に強力な権力者が現われて圧政を敷くとき、 社会集団の構成員は、過去(あるいは神話時代)の「古き良き時代」 に存在した自分たちの自由や権利を根拠に抵抗をしたと考えられます。
2.2 中世社会西洋では、中世は大まかに西ローマ帝国の滅亡(476)から東ローマ帝国の滅亡(1453) までの1000年間を指します。この時代は、前期、中期、後期に大まかに分けられます。 この三期をごく簡単に特徴づけますと、次のようになります。ローマ帝国の社会制度が崩壊した後、周辺部族による王国が形成される前期。 ローマ帝国が崩壊してもキリスト教の守護者にして諸王の長と考えられた「皇帝」 という地位の観念が諸国の王に残ったため、 この皇帝に戴冠する立場としてのキリスト教会が精神世界における支配的地位に立ち ました。 王から臣下への土地の分与と、 その見返りとしての忠誠義務の契約から形成される社会制度である封建制が確立する 中期。社会に安定にともなって中世文化が展開し、さまざまな芸術上・ 文学上の成果が現われました。また、キリスト教(ローマ・カソリック) の支配は諸国の王を糾合した十字軍の編成とイスラム世界への侵略によって示される ように頂点に立ちました。 相次ぐ飢饉と黒死病(ペスト)そして100年戦争による疲弊で、 中世社会が崩壊に向かった後期。 中世後期の苦難はヨーロッパに甚大な人的被害を与えましたが、 これらの苦難を乗り切った人々には豊かさが訪れました。というのも、 人口が急激に減少したため生き残った農民には多くの耕地が割り当てられ、 社会的地位も向上しましたし、 十字軍による派兵でヨーロッパは高度な文明を誇っていたイスラム世界との接触によ って都市を中心として商工業が発達したからです。 このころイタリアを中心にギリシャ・ローマ時代の文化・ 芸術を復興させるルネサンスがはじまり、近世へとつながります。 中世という時代は複雑で、簡単にまとめることは困難です。 中世という時代が複雑であるという理由の一つが、 中世社会がそれぞれに独自の組織の目標と支配領域と権限を備えた、 社会集団のモザイク状の組みあわせであったことがあります。とくに、 注意しなければならないことは「ある地域(国という観念もまだ不明確でした) で一番権力をもっている人物が誰か」 ということさえはっきりしていなかったことです。国王や皇帝はいましたが、 それは並び立つたくさんの貴族や領主たちのなかのリーダーという位置づけでしかあ りませんでした。ですから、 貴族や領主たちの同意がなければ政治を行うことはできませんでした。 また、地域内の教会も王の支配下にはありませんでした。 教会は基本的にローマ法皇の支配下にあると考えられていました。 たとえばイギリスにおいては、16世紀のなかばにローマ教会と分離する以前において、 国土の約1/3が教会領すなわち国王の力の及ばない土地でした [8]。さらに、 都市も王の支配下にはありませんでした。都市はそれぞれ自治権をもち、 場合によっては王の指揮する軍と戦争さえ行っていたのです。ですから、 ある組織での基本法が別の組織での基本法であるとはいえないわけです。 まず、公式の社会規範の根本にはキリスト教が据えられました。すべての「正しさ」 はキリスト教神学に照らして判断されたわけですから、 これが基本法であったといってよいでしょう。たとえば中世後期の神学者・ 哲学者トマス・アクィナス [9]は、政治の目標を 「神の定めた秩序ある世界の実現」であるとしました。ですから公法の分野では、 とくにキリスト教神学の影響が強かったのです。まず、 神との契約で成立している宗教ですから [10] なによりも契約の遵守が重視されました。封建領主と臣下の間柄も、 はっきりと条件と効果について確認することのできる契約で定められていたのです。 また、キリスト教が「正しさ」の基準であるとすると、「正しさ」 については聖書にすでに書き込まれていることになります。そこで、社会の規範は、 神学をつうじて聖書の中から発見・解釈されるものと考えられました。 ところが、このキリスト教の支配が社会の末端まで及んでいたかというと、 そうではありません。キリスト教がヨーロッパに本格的に広まったのは、 宗教改革以後であるといわれます。それまでは、 ほんとうのキリスト教信者の数は少なかったのです。 一般庶民はキリスト教の教義をしらず、 教会からの批判をうけながらも古くからの土着の神々を奉っていました。 こうした精神生活の様子からうかがわれるように、実際には、 中世社会でも社会集団が古くから保持してきた既得権や伝統や慣習が、 もっとも強い力を持っていました。 あたらしく作られた法律や命令が自分たちの集団の既得権を冒すと考えられたとき、 それら集団はもっとも強固な組織的抵抗を行いました。 そして得てして既得権や伝統や慣習が法律よりも優先される結果になっていたのです。 この「正しさ」は発見・解釈するものとする神学の考え方、 それとつよく伝統や慣習に依拠している中世社会の構造があいまって、法とは 「発見するもの」であるという観念がこの時代を支配しました。中世においては、 目に見えない、条文には書かれていない伝統や慣習こそが絶対でした。だから、 なにか問題があれば過去の中にその解決策を「発見」するのが当然だったのです。 さて、中世において、皇帝、王、領主および教皇や司教などの権力と、 農民や商工業者たち都市の住民との間の利害が緊張して対立していたのは、 もっぱら課税の問題です。王や領主は軍備等のために税金を増やしたいわけですが、 それぞれの社会集団は、税金をいわれるままに支払ったりはしませんでした。 それぞれの社会集団が保持する特権を認めさせることや、 国政に対する一定の関与をさせることなどを条件にしながら、 王や領主と微妙な権力均衡を保っていました。この当時のことわざに 「代表なくして課税なし」というものがあります。税金を掛ける際には、 かならず納税者代表の意見を聞くという伝統です。ことにイギリスでは、 この原則が何度も何度も王とそれ以外の社会集団の間で確認されてきました。 ここで、「憲法的」な歴史上最初の文書として皆さんが教科書で教わるマグナ・ カルタ(Magna Carta)がようやく現われます。 マグナ・カルタは、 イギリスのジョン王 [11] の失政が原因となって誕生しました。ジョン王は、父ヘンリー2世、 兄リチャード1世からイングランドとフランスのアンジュー地方の領地を継承しまし たが、アンジュー地方の経営がうまくいかず、 フランス王から領地を没収されてしまいます。ジョン王は、 この失ったアンジュー地方を奪還するためにフランスへの侵攻をすすめました。彼は、 この戦費の捻出のために古くからの慣行を破り、 イングランド臣民にさまざまな新たな負担や税を課しました。 仮にフランスの領土を回復できれば、 イングランド臣民の不満も抑えられたかもしれません。しかしジョン王は、 フランス軍に決定的な敗北を喫してしまいます。 圧政と敗戦によってとくに諸侯の不満は爆発し、一部の貴族が 「ジョンを主君と認めず、みずからをジョンの臣下と認めず」と宣言し、 王に対して反旗をひるがえしました。また、これにロンドン市まで同調するにいたり、 ジョン王はイングランドでも力を失ったのです。 この一連の事件をみるだけでも、中世の王と臣民の関係がよくわかります。王は諸侯・ 人民と契約で結ばれていました。その契約の中には伝統的・慣習的な諸侯・ 人民の既得権の保全も含まれていました。それらの契約が基本法だったわけです。 ジョン王は契約を破り、既得権をふみにじることで基本法を侵しました。ゆえに、 権力から排除されるにいたったのです。 王と臣民の交渉のすえ、両者の妥協点がみいだされました。 そこで改めて主従契約が結びなおされることになったのです。とうぜん、 ジョン王が踏みにじった伝統的・慣習的な臣民の既得権を明確に文字の形で表して、 それをジョン王がはっきりと認める形が採用されました。ですから、マグナ・ カルタの内容は形式的に統一されておらず、王と貴族との関係を中心に王権を制限し、 王が侵してはならない臣民の既得権を列挙したものでした。 こうして辛うじてジョン王は王位を守ったのでした。しかし、 ジョン王はローマ教皇に頼み、マグナ・カルタの無効を宣言してもらうことで、 この約束を無かったものとしてしまおうとしました。当然、 ふたたび内乱が起きました。ジョン王はこの内乱のなかで病死しました。 そして有力な貴族たちは、まだ9歳のジョンの子をヘンリー 3世として即位させ、 弱体な王に修正されたマグナ・カルタを再び認めさせることで、ようやくマグナ・ カルタは法となったのでした。 マグナ・カルタは、後に大法官エドワード・ クック [12] によって新しい意味付けを与えられるまで、 実際にはそれほど重要な意味をもっていたわけではありませんでした。 しかし中世において、文書をもって王の大権を制限し、 臣民の自由や権利を保障させようとしたマグナ・カルタは、 基本法がそなえるべき最低限の要件を形にしたという点で、 画期的なものだったといえるでしょう。ここでも、古くからの良き伝統、慣習を、 支配者の勝手きままから守るために、かつて「あたりまえ」 であったことを文章の形ではっきりと書き記して確認する、 という形がとられているのです。
2.3 近代社会近代という時代の特徴は、重商主義と絶対主義という二つの考え方に現われます。 中世末期に都市を中心に商工業者が発展しました。 そしてしだいに市場を舞台とした商品経済が形成されるようになります。 自ら生産したものを自ら消費することによって成立していた、 小規模な生産物流通の仕組みが、 都市を中心として次第に拡大してきた市場の仕組みのなかに取り込まれていくなかで、 分業と交換によって生産性が向上すること、 そしてその分業と交換を可能とするのが市場の役割であり、 向上した生産性によって発生した利益の大部分を商人が獲得し得ることが、 はっきりしてきました。その理由を説明しましょう。 ある製品XがA、B、Cという3つの部品によってできているとしましょう。最後に部品A、 B、Cを組み合わせるので、必要な工具と工程はそれぞれ4つになります。仮に、 それぞれの部品を作るのに必要な道具は一つ、工程も一つとしましょう。 ある職人Aさんが製品Xを生産するためには、4つの工具を準備し、 4つの工程を覚えなければなりません。 そして一つの製品Xを作るために4つの作業を繰り返すことになります。職人B、C、 Dさんもそれぞれ 4つの工具を準備し、4つの工程を覚え、 4つの作業を繰り返すことになります。 ここで分業を導入します。職人AさんはAの部品だけを作ります。同様に職人B、 Cもそれぞれ、部品B、Cだけをつくることにします。職人Dは、部品A、B、 Cを組み合わせる仕上げをすることにします。すると、職人一人あたりでみると、 一つの工具を準備し、一つの工程おぼえ、それを繰り返せばよいことになります。 すると準備にかかる費用が小さくなりますし、 同じ作業を繰りかえすことでしだいに作業の熟練度が高まり、 よりよい製品をより早く作れるようになることが期待できます。すると、職人A、B、 C、Dのそれぞれが ばらばらに製品Xを作っていたときの時間当たりの総生産量よりも、 それらの職人が分業したときのそれが大きくなることが期待できるわけです。 そして実際に分業は効率を向上させました。 こうして分業によって製品を生産すると、ある職人Aさんは、 部品Aしか作らないことになってしまいます。Aさんは、 生活に必要な食べ物や衣類などをどこかから手に入れなければなりません。しかし、 Aさんの手許には部品Aしかないのです。ですから、 これを誰かと交換しなければなりません。といいますか、 交換することが可能であるという前提ではじめて分業は可能になるのです。Aさんは、 職人Dさんに部品を渡す代わりに、Dさんから製品Xを受け取るかもしれません。 そうすれば、誰かに製品Xを売ることができます。 職人A、B、C、Dが同じ工房にいれば、交換は簡単です。しかし、 人間が生活するために必要な製品は多様です。 この多様な製品を手に入れる場所として市場が重要になります。 工房における工業製品のみならず、社会での分業がすすめばすすむほど、 市場の重要性は増していきます。 (逆にある人が自分の消費するものを自分で生産できる自給自足なら、 市場の役割は小さくなります。) 市場における交換が可能であることが分業を可能にし、生産性を向上させました。 しかし、こうした分業による生産性の向上が、 どの程度の富を生み出したのかを職人A さんが測ることは不可能です。というのは、 増加した富の大きさは市場によって測られるからです。職人Aさんは、 かつての自分の生活がいくらかでも楽になればそれで十分だと考えがちです。 ですから、分業によって増大した富は、市場を動かす人々、 すなわち商人に吸収されることになりがちでした。こうして商人は、 市場経済システムによる富の増大を一番に受けられたのでした。 現在でこそ、誰がどのような商売でどのような商品を販売しようとも、 基本的には自由であると考えられていますが、中世は違っていました。 中世社会においては、分立した社会集団が職業について既得権をもち、ある人物は、 いずれの集団に属するかによって職業の内容がほぼ決定されました。また、 ある人物がどのような権利をもち、 どのような自由を得られるのかも属する集団によって決まりました。 それらの職業を中心とした社会集団をギルドと呼びます。そして、 それぞれのギルドが自分たちの生産する商品について、 その販売についてもさまざまな制限を置いてきました。農民についても同様で、 農民は複雑に絡み合った土地支配の制度の下で、 自分の耕作している土地を処分する能力 (すなわち「所有権」)を持ちませんでした。 農奴にいたっては土地の付属品として扱われましたから、 彼らが土地を売却することなど考えられもしませんでした。 そこで市場を支配していた商人を中心とした新興市民階層と、 ギルド構成員との間には対立が生じることになります。 新興市民階層は自由な商取引によってより多くの利益を得たいと考えるのですが、 中世以来の複雑な既得権の網の目が市場の機能を妨害します。 新しい生産方法を導入したり、海外から安い商品を輸入したり、 生産性の低い耕地に新しい商品作物を導入しようとしても、古くからの既得権、伝統、 慣習が邪魔をしたのです。 しかも、それらの既得権や伝統や慣習は、全面的に「正しいこと」 と見られていたのです。この時代の考え方では、過去に行われていたことは、 ただそれが過去に行われていたという理由だけで正当化されました。 中世の思考法では伝統は絶対でした。合理的な考え方をもとにして、 過去のやり方を変えようとするだけで、それは「悪いこと」だと考えられたのです。 この時代、「普通法」と呼ばれていた一般的な法は、こうした既得権、伝統、 慣習を基礎にしていたのですから、 伝統や慣習が基本法であったことは中世と変わりませんでした。 このころ王も政治を行う上での困難に直面していました。 しだいに形成されてきた国家 [13] は、相互にヨーロッパの覇権を争いはじめていました。それは宗教改革によって、 中世におけるローマ教会の権威が低下したことも影響していました [14]。すなわち、 それまで諸国の王の上に観念的に存在していた「帝国」と「皇帝」 の影が限りなく薄くなっていったのです。諸国間の競争を勝ち抜くために、 政治活動やその一種である戦争を行わなければならないのですが、 国王が大貴族たちや自治都市や身分それぞれの代表との意見調整を行わなければ、 政治が進められないのでは不便です。とくに、 戦争の遂行に必要な税金を取りたてるときに、古くからの既得権、伝統、 慣習によって課税の額や方法が制限されていたことが問題視されました。 ローマ教会の権威の失墜に関連して、 プロテスタントの発生を挙げなければなりません。最初、腐敗したローマ・ カソリックを批判する改革運動からプロテスタントは発生しました。彼らは、 このころ現われた印刷という新しい情報伝達手段を活用し、 教会に独占されていた聖書の内容を各国語に翻訳された書物の形で、 一般の人々のもとに届くように努力しました。その結果、理性を重んじ、 職業を天命と考え、神の下の人間の無価値(平等) をエートスとする人々が増え始めたことも「憲法」 が生まれた下地となったのです [15]。 権力を強くする必要に迫られた王に強力な援軍があらわれました。それが「主権」 という考え方と「王権神授説」です。フランスの思想家ジャン・ボーダン [16]は、 カソリックとプロテスタントの間の宗教紛争で解体しそうになっていたフランスを憂 えて、『国家論 (Les six livres de la r'epublique)』という書物を著しました。 そこで「絶対でありかつ永続的な国家の権力」として「主権」を定義しました。 逆にいえば、国が一つの単位として永続するためには絶対的な「力」 が必要だと唱えたわけです。ここでボーダンが定義した主権の絶対性から、 これまで考えられもしなかった原則が導かれることになったのです。第一に、 主権は絶対的立法権をもちますから、 伝統や慣習をまったく無視して法を作ることができることになります。第二に、 主権は絶対権力ですから、国内の資源を自由に使用することができることになります。 すなわち、自由に課税し、財産を没収しても構わないことになります。また、 国民に対して自由に兵役を課すこともできることになります。 こんなとんでもない学説が受け入れられたのには理由があります。それが 「王権神授説」です。古くから「一番偉い人というのは神様から選ばれた人であろう」 という考え方が世界の各地で見られました。 ある集団のなかでもっとも高い地位にある人というのは、 何かやはり特殊な運命があったのだろうと考えるのは自然なことです。実際、 近世になっても王は神に近い人間であると考えられており、 王は手を触れることで病人を治癒する力をもつという考え方もありました。 イギリスでは国王が国内各地を巡幸すると、 たくさんの民衆や病人が集まってきたそうです [17]。こうして「王権神授説」 には基礎的な信仰があったわけですが、 これが 16--17世紀にかけて別の意味を持つようになりました。 まず、先に述べたように、 新しい市場経済システムがうまく機能するようにするためには、 権力が集中していたほうが都合がよかったので、 絶対主義は新興の都市商人たちに支持されました。 とくにギルドや封建領主が政治や経済におよぼす影響を排除する限りにおいて、 絶対主義は歓迎されたのです。 第二に宗教改革の混乱がヨーロッパ全域を揺るがすなか、 とくにローマ教皇が国政に介入してくることを排除する理論であったため、 国内の統一すなわち安全と平和を維持することを重視する立場から歓迎されたのです。 国内、国外が混乱するとき、強力な統一権力が求められるのは、 いつの時代でも同じですね。こうして「王権神授説」のもとで、 国王は直接に神に対してのみ責任を負い、 人間に対してはなんら責任を負わなくてもよいのだとされたのです。とうぜん、 支配される側の人間にはどんな酷い仕打ちを受けても、 それを我慢することしか許されないことになります。 神様が選んだ人がすることなのですから。こういう考え方を基礎に「主権」 は理論として確立していったのです。 そこで、新興市民階層と国王は、 古くからの伝統や慣習を破壊するという目的で協力することが可能になったのです。 新興市民階層は国王の軍事力による庇護を基礎に、 国外貿易などによって市場の規模を拡大しながらますます多くの富を貯えました。 これが重商主義です。国王は新興市民階層からの資金をもとに、 国王直属軍および国王直属の官僚組織を整備し、 大貴族の国政における位置づけを無意味化していきました。そして、 名実ともに国内唯一の権力へと成長していったのです。これが絶対主義 (絶対王政) です。国内において並ぶもののない強力な王権は、 近代になってやっと確立したのです。一方、新しく発生した市場経済システムは、 貨幣経済に領主たちを取り込みました。 これによって中世領主たちの自給自足を基本とした荘園制は弱体化し、 国王の対抗力とはなり得なくなりました。 こうして、国王の発する法律や国王大権に基づく命令によって、 市場経済システムにとって邪魔な伝統や慣習は、 どんどん廃止されたり変更されたりしました。一方、法律関係者たちは、 古くからの伝統と慣習に基づいた「普通法」を守り抜こうと努力しました。ですから、 この時代にはヨーロッパのどの国においても、「普通法」と「国王大権」 の緊張した関係が見られました。 ちがった根拠をもつ二つの法律システムがあったといってもよいでしょう。 憲法的にみれば「法の下にある国王」を掲げる基本法と、「国王の下にある法律」 を掲げる基本法との闘いの時期であったわけです。この時期、「法の下にある国王」 の基本法を守り抜いたのは、イギリスだけであったといってもよいと思います。 この当時の国家観は、トマス・ ホッブス [18]の 『リヴァイアサン (Leviathan)』に示されています。 複雑で不定形でアメーバのように力がバラバラの方向に向いていた中世社会は、 いまや世に並ぶもののない力を振るう巨大な怪物すなわち国家へと成長したのです。 これでようやく近代国家が成立したことになります。ところで、ホッブスは、 国家権力を聖書ヨブ記に記された海の怪獣リヴァイアサン [19]に喩えたわけですが、 それに対峙するもう一つの陸の怪獣の名前を表題にした本も書いています。それが 「内乱」についての歴史書である『ビヒーモス(Behemoth)』です。ホッブスは、 ビヒーモス(内乱)を抑えるために、リヴァイアサン(国家) を対抗させるのだと考えたのでしょう。しかし、 この論文ではビヒーモスを別の象徴に使うことにします。その理由は後述します。 さて、絶対王政が確立し、 中世的な因習があたらしい経済システムに適合するように作り変えられました。 商工業者を中心とした新興市民階層たちは、 強力な王権のもと幸福になったのでしょうか。ところがそうではなかったのです。 国王と新興商人たちは古い因習を作り変える、という共通の目標をもっていましたが、 その共通の目的がほぼ達成されたとき、 こんどは王権が強力になりすぎた弊害が現われてきたのです。 とくに課税の面についていえば、国王の課税や市民の財産を侵害する能力は、 古くからの伝統や慣習によって強く制限されてきたのですが、 その伝統や慣習よりも国王の命令が強くなってしまった結果、 国王の意のままの課税や徴発によって、 商工業者たちの財産もまた国王からの侵害の危険に曝される結果となりました。 古代ローマで十二表法が作られたとき、そして中世イギリスでマグナ・ カルタが作られたときのことを思い出してください。 いまや古くからの良い伝統や慣習が文字に記されて固められる時期が来たのです。 絶対主義は市民革命によって倒され、近代市民社会が成立したと説明されます。 そして市民革命の時代に、はじめて「憲法」 とよばれる国家の基本法が文字の形で表されるようになったのです。 近代憲法は、その当時に勢力を持っていた「自然権(あるいは自然法)思想」 を基礎にしています。中世までの伝統や慣習は、神秘主義的な部分があり、 超自然的で不合理な伝統や慣習もまた、 ただそれが伝統や慣習であるというだけで尊重されてきました。一方、 自然権思想はちがったアプローチをとりました。それは、まず想像上の「自然状態」 すなわち社会というものが、成立していなかったときの人間のあり方を仮定して、 そこで達成されていたと考えられる自由や権利というものを基本権であると考えまし た [20]。そこで主張されたのが、 法の下の平等、身体の自由(と精神の自由)と財産の自由でした。そして、 それらの基本権は、 絶対王政の時代以前から基本法として機能してきた古代のローマ法の考え方、 それぞれの民族の伝統や慣習、 そしてそれが裁判例としてまとめられてきた普通法の中に、 多かれ少なかれ取り込まれていたのだと考えたのです。 たとえば、この当時のイギリスの政治家エドマンド・ バーク [21] の二つの革命に対する見方を示すことで、「根源的な人間のあり方」が、 市民革命にどれほど強い正当化の力をもたらしたかがわかります。バークは、 アメリカ独立戦争を支持し、フランス革命を否定しました。バークの見方はこうです。 アメリカ独立戦争については、イギリス臣民が古くから保持していた 「代表なくして課税なし」という重要な基本法を、 当のイギリス政府が破ったので反乱は正当化される。 アメリカ植民地人たちもイギリス臣民であることには変わりないのに、 イギリス議会へ代表を送ることが許されなかった。しかしながら、 イギリス議会は砂糖法、印紙法、タウンゼント諸法、 茶法といった法律を作る [22] ことでアメリカ植民地人に一方的に課税した。したがって 「イギリス臣民としての古くからの権利」にもとづいて、 国王に抵抗することが正当化される。しかし、アメリカ植民地人は、 国王を廃位して新しいイギリス王を立てる地理的状況にない。 したがってアメリカ植民地は、イギリスから離脱することも正当化される、 と考えたのです。 一方、フランス革命については、 フランスが絶対王政を基本法としていた限りにおいて、 人民には抵抗権がないことになります。ゆずって抵抗権があったとしても、 革命の根拠でありかつ目標となったのは、 仮定された自然状態における人間のあり方を理論の基礎に据える社会契約説でした。 すなわち、バークの目からみれば、 伝統によって立証される基本権とはまったく違う空論、理想論、 思想といったものがフランス革命の理由であることになります。 したがってバークはこの革命を正当化できない単なる内乱である、と考えたわけです。 今でこそ、フランス革命が掲げた思想は、近代市民社会の基礎となった思想であり、 もはや新たな伝統と慣習として成立しているといえるかもしれません。しかし、 自然権思想でも、過去のどこかの時点に存在していた「はず」 の状態を自然状態であるとおくことで、 みずからの主張を正当化しようとしているわけです。すなわち、 理性において発見された(実際は、 市民革命を主導した豊かな都市商工業者たちが求めていた、 商業活動の自由と財産権の保全が最大の目的だったのですが)「基本権」 と呼ばれるものを正当化するときに、 それが古くからの伝統や慣習と一致しているとすることで、 より権威正しいものにしたわけです。近代国家理論の基礎をつくったジョン・ ロック [23]の社会契約論において、 契約の第一の目的が私有財産の保全にあったとされることが、 当時の思想の傾向を明らかにしています。 こうして市民革命によって絶対王政を乗り越えた市民たちが、 巨大で強力な統一体となった国家が絶対王政のように暴走しないために、 はっきりと示された文章によって縛ろうとして作ったものが「憲法」であるわけです。 ですから、憲法とは、近代社会においてもっとも強力な存在である「国家」を縛り、 暴走させないための安全装置であるといえるのです。それゆえ、 すでに中世末期において「法の支配」すなわち「王といえども法(伝統や慣習) に服さねばならない」という考え方を確立していたイギリスにおいては、 現代にいたるまで文章の形になった憲法が存在しません。自然権思想が力を持った、 すなわち「憲法」が発明された17世紀の初頭には、すでに「憲法」 と同じ機能を果たす仕組みができあがっていたからです。 国家を縛るために作られた憲法は、二つの部分に分けられます。ひとつは 「政体 (Constitution)」、もうひとつは「権利章典 (Bill of Rights)」 です [24]。政体は、 国家あるいは政府の構造(constitution)を定めるものです。 政体が権力者によって勝手に変更されると、再びリヴァイアサン(国家) が暴走してしまいます。ですから、国家の基本法である憲法において 「国家は必ずこういう形を取らなければならない」と固めてしまったのです。とくに、 近代憲法においては、リヴァイアサンの頭(能力) を立法・行政・ 司法の三つの権力に分割して、互いに抑制させることにしました。 (キングギドラみたいですね。) また、 よく設計された国家であっても国民の根源的な権利や自由を侵すような法律を作った り、政治を行ったりする危険があります。そこで、権利章典を置くことで、 国家が法律をつくる等しても侵害しえない権利や自由を明確に示しているわけです。 そして重要な点を指摘しておかなければなりません。中世社会から近代社会への転換、 いいかえれば封建経済から市場経済への転換の原動力となった市民の大多数は、 都市に住むプロテスタントの人々でした。ウェーバーは、市場経済成立・ 発展の基礎に、 プロテスタントの人々の理性を重んじる厳格な考え方や質素な生活態度があったとし ています。また、憲法が基礎にしている理性的自然権思想が仮定する「自然状態」 というのは、あくまでも想像上のものです。 これがその時代のイギリスやフランスの人々に説得力をもった理由もまた、 神の前における人間の無価値(平等) をとなえるプロテスタントの考え方の影響が、 とても大きいのです。ですから、近代法制度の柱となったのは憲法ですが、 これが基本法として機能するための社会的合意、 すなわちエートスのもとになったのはキリスト教プロテスタンティズムなのです。 ですから、 キリスト教プロテスタンティズムが社会の基本合意となっていない国家においては、 憲法が紙に記された単なる文章以上のものになることは大変難しいことなのです。 キリスト教の伝統をもたない日本において、 近代憲法の精神を国民のエートスとするために、 どのような方法を取るべきか難しいところです。
2.4 現代社会市場経済が成立するためには、契約の絶対そして所有権の絶対が必要です。 契約がきちんと守られ、私有財産の所有権が明確に保証されない限り、 市場経済システムは動作しないのです。契約が守られなければ、 商品と資本の流通がスムーズにいきません。所有権が絶対でなければ、 安心して投資は行えませんし、目的に沿った合理的な経営もできません。「憲法」が作られて、 人間の自由と基本権とくに財産権は国家の侵害から保全されることになりました。 また、国民が主権者の地位に立ち、三つに分けられたリヴァイアサン(国家) の能力を相互に抑制させることで、 国民はようやく国家を支配できるようになりました。 こうした国民が主権者となる国家すなわち国民国家においては、 リヴァイアサンの巨大な力は、国内においては市場機能の維持と整備、 国外においては市場の拡大に用いられました。国内については、たとえば民・商・ 刑法典の整備やそれらを運用する裁判所、 また法の維持を行う警察組織の整備が挙げられます。国外においては、 外交や軍事による国外貿易の安全の確保、市場獲得、 国外貿易経路の確保が挙げられます。 法の整備という点では、 フランス革命が落ち着いた1804年に制定されたフランス民法典、通称 「ナポレオン法典」が象徴的です。この民法は「所有権の絶対」と「契約自由の原則」 を打ちたてた最初の法典です。所有権とは、所有者が自己の所有物を自由任意に使用・ 収益・処分し得る絶対的権利とされ、また、 契約は両当事者が自由任意の合意によって成立するものだとされたのです。 この単純な大原則の前には、 中世ではあたりまえだった因習的で複雑な権利関係が入り込む余地はありません。 こうして19世紀を通じて機械工業の生産力とそれを支える国際市場が機能し、 すくなくともヨーロッパ社会は豊かになりました。 蒸気機関からはじまる内燃動力機関が、 19世紀に一般化したことによる爆発的な生産力の拡大は、 やがて国内市場を飽和させてしまいます。この生産力の過剰を解決するために、 国家は、資源と市場を国外、 とくにアフリカとアジアに求める帝国主義的政策を取るようになるのですが、 これに関する論点については割愛します。 さて、国家の力に守られつつも国家からの干渉からまぬがれた市場経済システムは、 次第に巨大化していきました。具体的には市場における自由競争の結果、 競争の勝者である独占的あるいは寡占的大企業があらわれ、 一方で競争の敗者である労働者、 プロレタリアート [25] があらわれました。かつて中世の農民は貧しい暮らしをしていましたが、 それでも自分が耕作する土地をもち、領主の庇護を受けることができました。 かつて都市の商工業者は、ギルドに忠誠を誓い真面目に仕事にいそしむかぎり、 ギルドの特権や庇護を期待することができました。しかし、 封建制やギルドなどの社会システムを壊した後に作られた市場経済システムは、 勝者である資本家たちには莫大な富を生み出してくれましたが、 敗者である労働者たちには何もしてくれませんでした。 近代は、巨大な国家という怪物を生み出しましたが、それは「憲法」 によって国民の支配に下り、国民は基本的な自由や権利をえることができました。 19世紀末から20世紀始めにかけての現代は、 国家のなかに生まれた市場経済システムが暴走し巨大な怪物となり、 国内では富の偏在をもたらし、 憲法で国民に保障されていたはずの権利を実体の無いものにしてしまいました。また、 その怪物は、国外では帝国主義によって他の民族を虐げるようになりました。 人間が人間として生きていくことが困難な社会になったとき、 人間は古くから維持されてきた良い伝統、慣習を復活させようとします。 19世紀末から20世紀はじめは、 伝統的なキリスト教的博愛精神を基礎にした社会改良運動や慈善活動、 かつて存在していた共同体の復活などが模索されました。また、カール・ マルクス [26] に代表される思想家たちによって、 市場経済自体を否定した共産主義社会体制が提案されました。『共産党宣言』 [27]の冒頭には 「怪物がヨーロッパをうろついている。共産主義という怪物が」と書かれていますが、 実際にはリヴァイアサンよりももっと恐ろしい市場経済システムという怪物の暴走が 始まっていたのです。 先に述べたように、ホッブスは内乱の象徴としてビヒーモスを当てましたが、 わたしは、 暴走を始めた市場経済システムの象徴としてこのビヒーモスを当てたいと思います。 ビヒーモスについては、リヴァイアサンと同じようにヨブ記に記述があります。 ビヒーモスは、大食いの怪物の象徴です。ユダヤの伝承では、 毎日千もの数の山に生える草をひたすら食べつづけているとされます。 ヨブ記には次のような記述があります。
「さあ、ベヘモット(Behemoth)を見よ。私はお前を造ったように、これを造った。 それは牛のように草を食べる。見よ、その力は腰にあり、その強さは腹筋にある。 尾は杉の枝のようにたわみ、ももの筋はからみあっている。 骨は青銅の管のようであり、四肢は鋼鉄の棒のようである。これこそ、神の傑作。 造った者だけが、これに剣を突きつけることができる。山々の獣はこれを見つめ、 野のすべての獣も、これと戯れる。 ベヘモットは蓮の下や 沼の葦の繁みに伏せている。蓮の蔭はそれを覆い、 小川の柳はそれを包む。たとえ、川が荒れても、怖れない。 その口にヨルダン川が流れ込んでも、ひるまない。その目をつかみ、 その鼻を鉤で突き通せる人があろうか。」 [28]ひたすら富をもとめて貪欲に動きつづける市場経済システムの象徴として、また、 その市場経済が生み出した飽食と資源の収奪の象徴として、さらに、 野の獣たちの戯れの場となるほど巨大さの象徴として、 ビヒーモスは適当な気がします。 さて、もともと憲法は、市民的自由を保障するために、 巨大な力となった国家を縛るためのものでした。 とくに市場や民間企業の活動に対して、 国家が干渉しないことをなによりも重視して設計されていました。ですから、 憲法学者たちは、 市場経済システムの暴走のために発生している労働問題を中心とした社会問題の解決 を、国家に当たらせるべきか否かについて判断に苦しみました。しかし、 暴虐な力を振るうむき出しの市場経済システムに苦しむ人々からの根強い請願と活動 によって、恐ろしい怪物となった市場経済システムを押え込むために、 国家という怪物を用いることに決めたのです。 (まるで怪獣映画のタイトルみたいですが、『リヴァイアサン対ビヒーモス』 というところです。) こうしてようやく、18-19世紀的人権と呼ばれる「法の下の平等」と 「国家からの自由」を内容とする各種自由権に加えて、20世紀的人権と呼ばれる 「国家による市場経済システムの暴走への介入」と「国家による国民の保護」 を内容とする各種社会権が憲法の中に組み込まれることになりました。 実際に世界恐慌のときに、フランクリン・D・ ローズヴェルト [29]は、 市場への政府の介入、各種産業への政府支援、公共事業によって、 行き詰まった市場経済システムを国家の力で動かそうとしました。しかしながら、 国家を経済対策に用いる彼の政策は、憲法違反であるという批判を浴び、 たくさんの憲法訴訟によってローズヴェルトの政策は足踏みを余儀なくされたのです。 国家が公共事業などで経済システムに介入して良いのだ という共通認識が形成され たのは、世界恐慌の苦い経験があったからです。 そういう意味で、 国家を道具として使いながら市場経済システムが暴走すると生じる外国への軍事的・ 経済的進出、 すなわち帝国主義的な侵略戦争を憲法によって放棄あるいは禁止している日本国憲法 は、まさに20世紀後半的憲法であり、 また憲法というものの発展の本流に位置づけられるものとみることができるでしょう。 また、市場経済システムの暴走がもたらすもうひとつの弊害として、 第二次世界大戦後の世界で顕著になった資源の枯渇や自然環境の破壊は、 人間の生存の基本的条件を破壊しようとしているわけですから、 環境権などが21世紀の憲法の中に組み入れられる傾向にあるのは当然といえるでしょ う。 現代の憲法の課題は、ビヒーモス(市場経済システム)という怪物を、 リヴァイアサン (国家)という怪物で押え込むための設計を、 いかに巧妙に行うかということにつきます。かつて、 リヴァイアサンの頭を三つに分割して互いに監視させる三権分立という名案を思い付 いたような、うまい解決案を探しているのです。しかし、 二つの怪物の力を均衡させて、 その両方の巨大な力を私たちの幸福のために使うにはどうすればよいのか、 まだはっきりとした答えは出ていません。 共産主義はビヒーモスをリヴァイアサンで完全に押え込んでしまおうとしました。 しかし、その結果、 市場経済システムから生み出されるはずの富や活力を失い国家経済は衰退し、 抑圧の鎖を外されたリヴァイアサンは再び暴走を開始し、国民の基本的諸権利を侵害・ 抑圧することとなりました。 18世紀の憲法は国家という怪物を縛るためのものでした。20世紀の憲法は、 国民の支配のもとにある国家という怪物を、 市場経済システムという怪物を抑えるために出動させるためのものでした。 いずれの場合も憲法は、 私たちが古くから受け継いできた良い伝統や慣習を基礎とした人間的生活を脅かす、 その時代ごとのもっとも巨大な力を縛り、 私たちの人間的なあり方を守ろうとしていたのです。ですから、 憲法について考えるとき、私たちの「人間的なあり方」 について深く考えてみる一方で、そうした「人間的なあり方」 を脅かす巨大な力が何であるのかをしっかりと認識する必要があるのです。
2.5 本節のまとめ本節を簡単に整理すれば、次のようになります。
3 情報社会とはどんな社会でしょう?市場経済システムという怪物を抑制し、私たちの幸福のために用いるために、 どのような仕組みを用いればよいのか、 そのために国家はどのような憲法を持つべきなのかについての検討は、 まだ続いています。しかし、20世紀の末になって新しい「力」が現われ、 ますます強大になりつつあることが、 たくさんの人々によって指摘されるようになりました。それは、 情報通信技術を基礎にして形成されつつある世界規模の情報通信ネットワークです。 この情報通信ネットワークが、 暴走する市場経済システムを制御する切り札になるのではないか、 と考えている人もいるようです。 本節では世界規模の情報通信ネットワークが普及し活用される時代、すなわち 「情報社会」がどのような姿になるのかを検討したいと思います。ところで、 情報社会がどのような姿になるのかという問題を考えるときに、 通信速度がどれほど速くなってどれだけ大量の計算ができるようになるのか、 ということを考えても、この論文の目的からすればあまり意味がありません。 この論文の問題意識に沿うならば、社会の巨大な力である「国家」と 「市場経済システム」に情報通信ネットワークがどのような影響をあたえ、 それらの力の均衡をどのように変えるのか、 あるいは情報通信ネットワークが新たな支配的な力となるのか を中心に見なければ なりません。 この点については、すでに優れた研究がいくつもあります。 ここではその中でもアルビン・トフラーの『第三の波』、『パワー・シフト』 [30]そして公文俊平の『情報文明論』 [31] を基礎にしながら整理してみることにしましょう。
3.1 「力」をめぐる競争この論文では、国家が強大な「力」を持った、とか市場経済システムが「力」 を持ったというような書き方をしています。では「力」とはなんでしょう。 この論文で言えば、近代に成立した国家が独占し揮った力は軍事力や警察力です。 それらを端的にいえば「暴力」でした。 現代に巨大化した市場経済システムが揮った力は、「財」 の生産と配分を制御する力でした。それらを端的にいえば「経済力」 といえるでしょう。よく、「人の目標とは所詮、権力と金である」 という言い方がされますが、権力とは法によって正当化された暴力の行使であり、 金とはまさに経済力に他なりません。では、なぜ人は「暴力」と「経済力」を求めるのでしょうか。私はここで「暴力」 「経済力」が行使された結果どうなるのかという点に着目して、それらはいずれも 「他人を意のままに動かす」ものであるといえると考えます。 私たちの生活に利便をもたらすようなもの(すなわち「物」や「サービス」ですが、 これをまとめて「財」と呼びます)を生産するためには、 いずれにしても何らかの形で人間の労働力を投入する必要があります。 天然資源の採掘についても農耕にしても工業による生産にしてもです。 すると他人を意のままに動かすことができれば、 私たちの生活に利便をもたらすものを手に入れることもできるわけです。 この他人を意のままに動かすために、どのような手段を用いるかというとき、 かつては暴力を背景に人を支配し、 現在では賃金すなわち貨幣を背景に人を支配しているわけです。すなわち、「暴力」 「経済力」をまとめる「力」というものを考えると、それは 「他人を意のままに動かす」ものであると考えるわけです。 実は「人が他者をその意思に反して行動させる力」というのは、「権力 (power)」 の定義でもあります。すなわち抽象的な力である「権力」は、 あるときは暴力としてあるときは経済力として顕現することになります。 「力」が「他人を意のままに動かす」ものだとすれば、「力」に対抗するものが 「自由や権利」であることも明らかになります。自由は 「自分の意のままにふるまうこと」であり、権利は 「自分が正当に行えることを他人に認めさせること」です。 いずれも人間が自分の意志において自己のふるまいを決定するという点で共通してい ます [32]。 さて、トフラーは自らの文明論のなかで、農耕文明、産業文明、 情報文明という時代区分を用いています。それは、この論文の区分でいえば、 中世末までを農耕文明、近・現代を産業文明、 情報文明はもうすぐこれから始まるとされています。公文は古代を初期農耕・ 牧畜文明、中世を後期農耕・牧畜文明、近・現代を初期軍事・産業・ 情報文明とします。現在は、やがてくるだろう智識文明の基礎となる初期軍事・産業・ 情報文明の最終段階であるとしています。いずれの論者も、これから始まる時代は、 情報を中心とした社会システムが形成されていくであろうと予測しています。 そしていずれの論者も、それぞれの時代において「正当である」 と社会的に合意されている「力」の形態があり、 それが時代とともに変化したことを指摘しています。 憲法のあり方と直接関係する国内の権力の形態という点から見れば、 古代から中世をへて近世初期までは、暴力が社会を支配した時代であり、 近世から現代にいたるまでは、経済力が社会を支配した時代だといえるでしょう。 ただし、国際関係についていえば、20世紀初めまでが、暴力の支配した時代であり、 20世紀中期以降が経済力の支配した時代であるといえます。そして、 いずれの論者も20世紀末から21世紀の初めにかけて情報のうみだす「力」 が社会を支配するであろうと予測しています。 ある力が「正当である」と考えられることについて、説明します。 中世までの戦争は、経済的・政治的目的すなわち領土の獲得などの目的のほかに、 感情的目的すなわち宗教上の主義や信念が目的となっている戦争が見られました。 ローマ、スペインやイギリスのような大帝国の場合、 野蛮民族の征服による文化の普及、 文明化といったものが理由になったりする場合もありました。ですから、 単に経済的目的の戦争は「卑しい」ものですが、主義や信念が目的となる戦争は 「正しい戦争」であるわけです。ですからこの頃は「正戦論」 が盛んに研究されました。どういう大義名分でどのように戦争を行うことが 「正しいのか」が研究されたのです。 近代に入りますと、宗教的な善悪に関する関心が薄れ、戦争はいずれにしても経済的・ 政治的目的で行うものであるということが正面から認められました。その一方で、 どのような手続にしたがって戦争を開始し、どのように戦争を進めれば「正当」 であるのかという議論に「正戦論」の中心が移りました。「理念の正しさ」から 「手段の正しさ」が問題とされるようになったのです。しかし、この段階においても、 戦争には正しい戦争があるのだという観念は残っていたのです。むしろ、経済的・ 政治的目的での戦争も「正しく」なったため、 戦争はやりやすくなったといってもいいでしょう。 戦争には正しいものなどなく、すべて「悪」であるという考え方が現われたのは、 第一次世界大戦の後のことです。徹底的にヨーロッパを破壊した大戦争のあと、 勝ったものも負けたものも大きな痛手を負っていることに気がつきました。 核兵器の存在する現代においては、戦争に勝者はいません。ですから、 人間に理性というものがあるならば、 もう国家間の大戦争を心配する必要はありません (もちろん、 人間には狂気がありますから、もしかすると...ということもありえます)。 19世紀の末くらいまで、経済活動というのは自由であると考えられていました。 それが「正しいこと」だったのです。資本家たちは、自分たちの経済活動の結果、 インチキで危険な商品が出回っても、失業者がでても、公害が発生しても、 資源の荒廃が起きても、地域の共同体が破壊されても、 それは個別に企業と消費者や労働者との間で解決される問題であり、 自分たちの自由な経済活動に国家が介入することは「不当なことである」 と信じていました。しかし、すでに説明したように、 自由な経済活動が社会に深刻な問題をもたらすようになった19世紀の末頃から、 この考え方は覆されました。 自由な経済活動に対する国家からの介入が入るようになると、 企業は国際化して国外において「自由な経済活動」をするようになりました。 ここなら、うるさいことをいう国家から自由になれますから。 いわゆる経済帝国主義という手法です。 これによってアフリカやアジアの発展途上国には酷い目にあった国もたくさんありま す。とくに資源の収奪と環境の破壊は無視できない規模になりつつあります。 そこでようやく20 世紀の末頃から、19世紀の末とはちがった視点から、 市場経済システムに対する異議申立てが強くなりつつあります。公的・ 私的それぞれの国際組織が、「自由な経済活動」に関する批判を始めています。 こうして「海外でなら何をしても自由」という考え方は、 正しくないことになってきたのです。 また社会においては、その当時に正当であると見られている力を獲得するために、 多数の主体がそれぞれの戦略にもとづいた競争的な活動を行います。 この競争的な活動には、やはり社会的に合意されたルールが存在します。 どの民族においても古くから戦闘にルールがあり、それを破ると「卑怯者」 と罵られました。国家が成立した後、国内においての私的な戦闘は禁止され、 紛争の解決には法によって制御された公的な暴力が用いられることになりました。 この段階において勝手に私的な暴力を振るうと国家によって処罰されることになりま す。 国家間の暴力である戦争についても先ほど述べたように、正戦論を基礎にした 「戦時国際法」というルールが存在し、正しい戦争の進め方について定めていました。 しかし戦争を国際関係解決の手段として用いるという考え方は、 20世紀前半の二つの世界大戦の苦い経験をもとに否定され、 現在では国家間の紛争においても戦争を行うことは基本的に悪いことである、 という認識が普及しました。そして実際に20世紀後半において国際間で争われたのは、 地球全体を戦場とした経済力の戦争でした。では、 21 世紀のはじめに争われる情報力の競争とはどのような形態をとるのでしょうか。 そこで、社会で行われていた「力」の競争の形態を整理し、 憲法との関係について検討してみましょう。
3.2 暴力の時代古代社会や中世社会においても、他人を動かすときの基本的な方法は、第一に依頼・ 説得というような働きかけでした。依頼や説得が失敗した後も、 たとえば食糧等の何らかの財を提供することと引き換えにある行動をする約束を取り 付ける「契約」という方法が取られました。 とくに法律のシステムが発達していたローマでは、 市民間の関係の大部分は契約によって処理されていました。ですから、 古代社会や中世社会が常に暴力を基本として成立していたわけではありません。しかし、古代社会や中世社会に共通してみられる身分構造は、 軍事力を背景にした支配階層によって設定され維持されていました。 身分がある人物の社会的役割や権利を決定するわけですから、 それらの制度を維持する「力」は暴力にあったのです。また、依頼、説得、 契約などの非暴力的な働きかけが失敗した後にも暴力の行使が控えていました。 そもそも依頼、説得、契約においても、 暴力の行使を背景にした威圧がしばしば用いられていたのです。 そしてもっとも重要なことは、 社会における紛争解決の手段として暴力を用いることが社会の共通合意として容認さ れていたことです。王族や貴族は、 しばしば相互の利害の対立の解決のために私的な戦闘を行いましたし、貴族層、 市民層においても決闘による解決があたり前に行われていました。 また裁判の一つの形態としても決闘はみとめられていたのです。むしろ、 闘いによって紛争を解決することは名誉なことであると考えられていました。 公文は、この時代に社会のルールとなっていた暴力を背景とした社会ゲームを 「威のゲーム」と名づけています。 こうして暴力を背景にした社会システムが動いていましたが、 これが人々にそれほど悲惨な状況をもたらさなかった理由は、 相互の集団の暴力が相互に抑制しながら均衡状態を保っていたからでした。 皇帝や国王は、 大貴族や大都市との微妙な勢力の均衡をいつも気にしなければなりませんでした。 貴族である領主は周辺の領主たちとの勢力均衡、 また領民たちとの勢力均衡をはからなければなりません。大都市の内部では、 多数のギルドがお互いに牽制しあいながら市政を運営していました。 こうした相互の協力関係と対立関係の複雑な網の目が、 むき出しの暴力が発動する危険を小さくしていたのです。 また、ローマ教会の努力によりキリスト教が、 社会のエートスとして受け入れられていたことも暴力の行使の歯止めとなりました。 神の愛で給う(めでたまう)「正しい暴力の行使」と、神の罰するところである 「誤った暴力の行使」を区別し、「正しい力の行使」 とはどういう物であるのかを考えるなかから、正しい暴力行使のシステムとしての 「法システム」が整備されたのでした。事実、ローマや中世の裁判では、 原告と被告のいずれが、 それぞれの目的を達成するのに正当な地位にあるのかだけを判断し、 その目的の達成はあくまでも当事者同士の問題であるとされていました。 ところが先に述べたように、結果的には新興市民階層と結んだ国王が、この 「威のゲーム」で一人勝ちする状況になりました。新興市民階層は、 国王の強大な軍事力の保護の中でまったく別のゲームを始めていたのです。 それが公文のいう「富のゲーム」です。商人たちは、 軍事という面倒くさい作業は国王に任せてしまい、 自分たちは市場経済システムを利用して、 ひたすら経済力を増大することに専念しました。経済力さえあれば、軍事力は 「買ってくることができる」ことに気がついていたからです。 しかしながら強大になった国王は、国王直属の軍隊と官僚組織をととのえ、 ついに統一された暴力と法を背景とした近代国家を成立させました。 リヴァイアサンの誕生です。 大商人たちや都市の市民たちは、 このリヴァイアサンが他の国家と闘って市場を拡大してくれることには賛成でしたが、 国内において古くからの伝統や慣習で認められてきた既得権を侵すことには大反対で した。そこで、 このリヴァイアサンを憲法によって縛り付けたというのはすでに説明したところです。 これによって国内では国家の暴力は、 厳格な法システムに従ってのみ発動されることになりました。そしてこの基本原則、 すなわち「憲法」 が市民階層だけでない社会全体のエートスとして定着していったのです。 もうひとつ重要な変化があります。「富のゲーム」のゲーム盤が整備されたのです。 もはや国内において法に基づかない私的な暴力の行使は国家によって禁圧されました。 また、法によって商取引に関する紛争の解決方法が定められました。すなわち、 ゲームのルールが定まり、ゲームの参加者は、ゲーム中に争いが起きても、 ゲーム盤をひっくり返して取っ組み合いをすることができなくなったわけです。 すでに「威のゲーム」は国内においては終わりました。あとは国家が独占した「威」 に近づくための政府内部での出世競争が「威のゲーム」の代わりをつとめるだけです。
3.3 経済力の時代国家間では、相変わらず「威のゲーム」 すなわち植民地獲得戦争や侵略戦争が行われていましたが、国内においては 「富のゲーム」が主流となりました。 富のゲームの正当なルールは基本的に二つしかありません。「交換」と「分業」です。 その裏にはあまり正当でないルールもありました。それは「収奪」と「搾取」です。先には、効率の向上という視点から行った「交換」と「分業」に関する説明を、 国内における資源の均等配分という視点から説明します。 近代国家が主権の及ぶ範囲として確定した領土には、さまざまな「財」 が存在しまた生産されていました。 ひとりひとりの人間が生活していく上で必要な財は、 誰についてもたいして違いはありません。ところが生活に必要な「財」 の生産を行うための資源は、国内においてとても偏って存在しています。 平野部では小麦や野菜が取れますが、山岳地帯では取れません。 山岳地帯では牧畜が行われて乳製品や肉類が取れますが、平野部では不足しがちです。 工芸品は都市の市場 (いちば) に行かなければ手に入りません。 逆に都市では常に食料品が不足していました。必要な財と、 そこにある財の不均衡を調整するのが商業です。 商人はある地域に豊富に存在する財を安く買い、 その財が不足している地域に運んで高く売ることで差額を利益としたのです。 こういった商業の機能は人々が必要とする財を遍く分配するために必要な機能です。 分業について説明します。先に述べたように平野部では小麦や野菜などの農作物、 山岳地帯では乳製品や肉類、都市では工芸品といった生産物の偏りがありました。 これは、意図してそうなったのではなく、 それぞれの地域に適合した生産物というものがあるからです。それまでは、 平野部でもなんとか牧畜を行い乳製品や肉類を生産したり、 鋤や鍬などの農機具を生産したりしていました。すなわち、 地域経済における自給自足です。しかし、 商業の働きで別の地域で作られた品質や性能のよい商品が、 比較的に安く手に入れられるようになると、 無理してその地域で生活必需品を作りつづける理由がなくなりました。 そこで地域に適合した生産物の生産に専念するという分業が始まるわけです。 すでに説明したように、分業には効率を上げるという効果がありました。 とくに蒸気機関が発明された産業革命の時代以降になりますと、 人間の力を超えた機械によって生産が行われるようになりました。 機械は人間と違っていろいろなものを作ることができません。 ある特定の工業製品しか作れないのです。 ですから機械生産は本質的に分業的となります。しかし、 いったん機械で生産を始めれば高い品質のものを大量につくり、 一つ一つの生産物の価格を極めて安くすることができるわけです。こうして分業は、 社会全体の生産力を大幅に拡大することになったのです。 また分業は、市場における交換機能があってはじめて成立するのですが、 分業が進めば進むほど市場の価値が高まるという関係にもあります。すると、 市場を制御することができた新興市民階層は、 ますます大きな利潤を得ることができるようになるわけです。その大商人の利潤は、 新しい生産方式がこれまでになかった富を生み出しつづけている限りは、 容認される利潤であると考えられました。みんなが豊かになれたからです。 ところがこの市場経済システムには、落とし穴がありました。 それまで人々は効率が悪くても、 自分の必要とする生活必需品を自分自身の手で作り出すことができました。 ところが効率性を目的として分業が採用されますと、人々は、 生活必需品をすべて市場で手に入れなければならない状況になってしまったのです。 また、機械による生産が主流となると、 高額な機械を購入することのできる裕福な人のみが生産力をもち、 機械を購入することのできなかった人たちは、 自分たちでは自分たちの必要なものを生産する能力を持たず、 たんに労働力としてのみ生きていく他ない労働者(プロレタリアート) になってしまいました。 こうして地域共同体や職業共同体を基本に構成されていた社会は、 工場や大農園を備えた産業資本家とそれらを持たない労働者へと分解されていきまし た。そして分解された社会を交換によって繋ぐためのシステムとして市場の地位は、 ますます高まっていきました。 同時にその血液として機能する貨幣の価値も高まっていきました。 やがて市場を動かす媒体である貨幣の流通を制御することで、 市場の機能を制御する金融資本家が現われます。彼らは、 まさに市場を制御することのみで莫大な利益を市場システムから挙げるようになりま した。市場は、いくつかの勢力のある資本家によって制御されるようになります。 産業資本家も労働者も、市場の存在なしには生きていくことができません。 こうして国内の「富のゲーム」では金融資本家が一人勝ちの状況になりました。この 「富のゲーム」は、国際社会においては、国家間の「威のゲーム」 と組み合わさって続けられました。 市場経済システムが小数の大金融資本によって制御されるようになると、 あまり正当でないルールが演じられるようになります。これを市場独占(寡占) といいます。独占が発生した市場では、 対等な価値のあるものを交換する場所である市場の機能が歪められ、 ほんとうは価値のあるものを安く買いたたいたり、 あるいは価値のないものをあたかも価値のあるもののように見せて、 高く売り付けたりすることが市場を操作することが可能になったのです。 こうして市場において弱い立場にある労働者たちからの「収奪」や「搾取」 が簡単に行えるようになりました。ここで、 市場経済システムは人間を絞り取る怪物と化しました。 そこでこの怪物を縛る方法を考えなければなりません。 そこで、もうひとつの怪物である国家(リヴァイアサン)によって、 市場経済システム (ビヒーモス)を制御するほかない、という結論になりました。 すでに説明したように共産主義はこの考え方を徹底させた方法です。 もうひとつはいわゆる修正資本主義あるいは福祉国家主義というようなもので、 市場における財の配分が独占によって歪められているならば、 国家が独占の発生を抑制し、市場が失敗した財の配分を、 税と社会保障の組み合わせで国民の間で再配分するというものです。 現在の私たちの社会は後者の方法をとっています。 当然、怪物である国家にそうした仕事をさせるのですから、憲法を書き換えて、 すこしだけ縛りをゆるめてあげなければなりません。 また国家が再び暴走しないように、 憲法のなかに国家がそうした仕事を担当するのに必要な機構や能力の範囲に関する詳 細な条項を書き込み、そうした国家の新しい仕事が、 国民のどういった自由や権利に奉仕するのかを書き込みました。これが社会権、 20世紀的人権というものです。20世紀的人権と呼ばれるものは、 20世紀になって発見された権利ではなく、それまでの人間社会において「あたりまえ」 であった人間の幸福を、 ふたたび現代において保障するために確認されたものであることに注意してください。
3.4 情報力の時代さて、現在は情報力の時代といわれます。 どうして情報の力が重要になったのでしょうか。単に 「コンピュータが発明されたから」というのは理由ではありません。 ある技術が大発展する背景には、 そうした技術が強く要求される社会的背景があるのです。ここでは、 情報通信ネットワークの二つの形態についてわけて考えてみたいと思います。 ひとつは、統合された巨大なコンピュータ、統合された巨大なデータベース、 世界を覆う通信ネットワークから作られた「中央集権的コンピュータの世界」、 もうひとつは、個々人が保有するパーソナル・コンピュータが連携して、 世界を覆う通信ネットワークを形成する「分散的コンピュータの世界」です。 この二つの用語は、 情報通信ネットワークに対する基本的考え方について分類するもので、 実際のシステムが物理的にどのように構成されているかについては考えないものとし ます。
3.4.1 中央集権的コンピュータの世界すでに説明したように、市場経済システムは「分業」と「交換」 を基礎にしたシステムです。 分業によって市場経済への参加者を限りなく細分化していく一方、 市場において統合しようとするこの市場経済システムは、とても複雑でした。 この複雑なシステムを動かすための媒体として「貨幣」 が大きな役割を持っていました。貨幣には「蓄積」「交換」「尺度」 という三つの機能があることはすでに高校で教わっているはずです。 貨幣は市場における交換を円滑にし、 交換にあたって財の価値を表示するという機能を果たしていました。 そして重要な点ですが、 ある財の価格が高くなったり安くなったりすること自体が市場の機能を助けていたの です。ある市場Aである財aが不足しますと、その財aの価格は上昇します。 別の市場Bでその財aが余りますと逆に価格は低下します。それゆえ、 市場における財の価格を見てさえいれば、 その財が足りないのか余っているのかすぐにわかるのです。これをこの論文では、 貨幣の「信号機能」と呼ぶことにします。当然商人は市場Bで財aを購入し、 市場Aに運びそこで販売することで利潤を得ようとします。 すると市場Aではしだいに財aが充足してきますから値段が下がってきます。 結果的には市場Aと市場Bの財aの価格が同じになったところで財の移転は止まります。 すると財aが等しく市場Aと市場B に配分されることになるわけです。 また、貨幣を尺度にした「物」の価格は、貨幣の量との関係で決まります。 すると次のような操作も可能になります。市場Aに大量の貨幣を放出しますと、 見かけ上、ある財aの値段を上げることができます。すると、 ほかの市場から市場Aに財aが流れ込んでくることが期待できます。 こうして貨幣は信号機能を果たすだけでなく、その流通量を操作することで、 財それ自体を制御することもできるのです。もちろん、財a の見かけ上の高値が、 貨幣量の増加によるものであることがわかれば、 こんどは市場 Aの通貨の価格が下がることで(すなわち国際為替レートが変わる)、 そうした市場操作は意味を失います。しかし、市場の変化には、 それなりに時間がかかります。そこで、 その操作が有効な間にさまざまな取引を行うことで利益を上げるのです。 こうして、金融資本は、 市場における血液にも等しい貨幣の量を操ることで市場の動きを操作し、 莫大な利益を挙げることができたのです。ところが、 市場経済システムが国際的になり、各国毎の貨幣の価格、 すなわち為替が複雑に変動する中で財をやり取りして、 利益を上げなければならなくなりました。この複雑さは、 すでに一つの経済主体が制御し得るものではなくなりつつありました。また、 生産システムの改善で生活必需品がほぼ行き渡るようになると、 市場経済システムが動きつづけて資本家に利益をもたらしつづけるようにするために、 つねに新しい商品等で消費者の欲望を刺激して、 需要を作り出さなければならなくなりました。 このため生産物のデザインや機能が複雑化し、 もはや貨幣による単純な信号機能だけでは、 市場を動かすことがむずかしくなってきたのです [33]。 そこでよくよく考えてみれば、 もし貨幣を使わなくても直接に財の性質やある市場での価値が分かるならば、 貨幣は必要ありません。もし、 貨幣よりも詳しくそういった情報を手に入れる方法があれば、 そちらのほうが便利です。 このころ登場したのがコンピュータと通信ネットワークでした。 いずれも大量の情報を正確に処理する事ができる道具です。そこで、 極限まで複雑化した市場経済システムをより効率的に動作させる道具として、 コンピュータを用いた情報通信システムが重要視されるようになったのです。 この意味では、情報通信ネットワークは公文の指摘するように、 極大化しつつある市場経済システムを補完する道具として、 爆発的発展の過渡期にあるのです。 完全競争の市場とは、(1) 売り手も買い手も十分に多数存在し、(2) 売られている商品の質がまったく均一で、(3) 市場の参加者が誰でも同じ情報を無料かつ自由に使用でき、(4) 誰もが自由に参加・ 脱退できる 市場であるとされています。すなわち、 情報システムが完全に近づくことは、経済学でいう「完全競争市場のモデル」 に近づくことでもあるのです。完全競争市場がもし実現できたら、 市場は経済学の教科書のとおりに理想的な財の配分を実現し、 最大多数の最大幸福を達成することになります。 そしてもうひとつ重要なポイントがあります。市場経済システムは、 そのシステムを軍事力・警察力や法システムで維持してくれる国家に対して、 維持管理費を支払っていました。それが税金です。税金は国家が貨幣の移動を観察し、 それを富の生成と消滅として理解することで徴収されていました。もし、 貨幣を用いなくても市場を動かすことができるならば、 国家が富の生成や消滅を把握することができなくなるわけですから、 税金をごまかすことができます。こうした理由から市場経済システムの勝利者たちは、 莫大な資金を投入して、競って情報通信ネットワークの整備を進めているのです。 しかし、情報通信ネットワークは単なる市場経済システムの道具ではありません。 かつて市場経済システムは、 国家間の軍事的覇権争いのために必要な富を生み出す国家の道具として使われていた のに、いつのまにか国家を凌ぐ強大な怪物になったのと同じように、 情報通信ネットワークは市場経済システムそのものを乗り越えてしまう怪物になるか もしれないことが指摘されています。 かつて金融資本が貨幣を操作することで市場を支配していたことを考えれば、 その理由はすぐにわかります。 情報通信ネットワークにおける競争に勝利して情報を支配するものは、 ただちに市場を支配することが可能になるからです。 そしてもちろん市場をつうじて消費者 = 労働者を支配することにもなるのです。 一方、上記の市場経済システムにおける情報通信ネットワークの意義は、 国家についてもまったく同様です。20世紀的人権を保障するために、 市場の補完システムとして機能することになった政府もまた、 複雑化した市場に対応するように複雑化・肥大化しました。19世紀までの憲法では、 国家という怪物の頭部にあたる政府を、 できるだけ小さなものにするよう作られていたのですが、 20世紀的人権を保障するためにその縛りをゆるめたため、 政府は巨大化してしまったのです。この複雑化した行政システム、 そして法システムを効率よく動作させるために、 情報通信ネットワークは政府の後押しを得ながら整備されました。 そしてもうひとつの理由があります。国家 (リヴァイアサン)は、 常に国民の全てを支配したいという欲望を秘めているのですが、 いくら国家といえども国民ひとりひとりの生活までも、 完全に支配下に置くことはできませんでした。従来の技術を前提とする限り、 国家の監視能力には限界がありましたから。ところが、 情報通信ネットワークはその膨大な情報処理能力を使って、 国家による国民の直接管理を可能にしてしまう能力を秘めています。 リヴァイアサンは再びうめき始めました。新しい技術の登場によって、 憲法の設計者が想像だにしなかった事態が発生しようとしているのです。 また、中央集権的なネットワークで、 国家が情報の流れを完全に支配下に入れてしまった場合に起きる、 とんでもなく反憲法的事態について触れておきたいと思います。 基本的人権といえども、 場合によっては法に基づいた様々な制限に服することが憲法に示されています。 しかしどんな理由があろうとも、 絶対に国家が干渉してはならない領域があるとされています。それが「内心の自由」 すなわち言論の自由や信教の自由の基礎となっている自由です。もし、 国家が私たちのものの考え方や見方を制御するようになってしまったら、 民主主義はお終いになってしまいます。仮に議会が機能し、 選挙がつつがなく行われていたとしても、 それがすべて誰かの思うままに進められているのなら、茶番劇にもなりません。 もちろん情報システムは、私たちの内心に直接入り込んできたりしません。しかし、 私たちが手に入れる情報のすべてが誰かに操作されていれば、 私たちは知らず知らずのうちに、 誰かの操作に従うしかなくなってしまうのです [34]。
3.4.2 分散的コンピュータの世界上記のように、情報通信ネットワークは、 市場経済システムと国家という二つの怪物が、 憲法の隙を突いて暴走し始める危険をもたらす側面を持っています。 ところが情報通信ネットワークにはもうひとつの側面があります。 その側面を生み出したのがパーソナル・コンピュータです。その意味でパーソナル・ コンピュータは、 世界の方向を大きく変化させる潜在能力をもつ革命的な道具なのです。パーソナル・コンピュータという概念が現われるまで、 コンピュータや通信ネットワークは巨大で高額な機械であると考えられていました。 ですから、 市場経済システムの勝者である資本家や国家のような巨大な組織でなければ使うこと ができないと見られていました。もし、そうであるなら情報通信ネットワークは、 市場経済システムや国家の単なる道具にすぎません。しかし、 1950-70年代のコンピュータ・マニアたちの尋常でない情熱と使命感が、 個人が使うことのできる小さなコンピュータを生み出しました。 ここではあえてコンピュータ・マニアであった彼らのことを「ハッカー」 と呼びたいと思います [35]。 この小さなコンピュータは、最初オモチャであると見られていました。 ところがその後の30年間で、パーソナル・ コンピュータはかつての大型コンピュータを凌ぐ能力を備えてしまいました。 価格もあきれるほど安くなってしまいました。 オモチャの価格で買える強力な道具になったのです。 インターネットは、初め国家が使うためのネットワークとして開発が開始されました。 やがてこれがとても有用だと考えた市場経済システムにも解放され、 ますますその規模と能力が拡大されました。その発展の速度が著しかったのは、 インターネットの有用性を理解した二匹の怪物がこぞって力を合わせて整備したから です。ところが、実際にインターネットを作り上げた技術者(やはり彼らも 「ハッカー」 と呼ばれていました [36])たちは、 このインターネットの構造をとても中央集権的にコントロールしにくいように設計し ました。このことは、パーソナル・ コンピュータをもった個人がインターネットに容易に参入できる環境であることも意 味しています。 巨大で複雑で身動きが取れなくなった身体をかろやかに動かすために、 インターネットを利用しようと考えたビヒーモス(市場経済システム)は困惑しました。 せっかく整備した情報通信ネットワークは、 彼らの思惑どおりに動作してくれない管理困難なシステムだったのです。 そこでやはり情報ネットワークの管理を欲しているリヴァイアサン(国家)とともに、 なんとかインターネットを市場経済システムや法システムが機能する「インフラ・ ストラクチャ」として整備しようと様々な努力を始めました。 ですから、この市場経済システムと国家によるインターネットへの規制強化の動きは、 それらの二つのシステムによる世界の安定が望ましいと考える人たちにとっては、 きわめて正当であり歓迎されるべきことに見えます。逆に、 情報通信ネットワークが市場経済システムと国家の道具になったときに、 恐ろしい二匹の怪物の暴走がふたたび始まると考える人たちにとっては、人間の 「自由と権利」への攻撃であると見えます。インターネットの商用化・ 規制強化について激しい対立が存在するのは、 この二つの立場が対立しているからです。 さて、ハッカーたちのおかげでコンピュータとインターネットは、 市場経済システムの覇者たちにも、国家にも、 その他の人々にも等しく利用可能になりました。これは、 それまで巨大な国家に対しては小さな国民として、 市場経済システムに対しては弱い消費者 = 労働者としての存在でなかった個人にも、 国家や市場に対して直接影響をおよぼしうる可能性を解放したのです。これは、 近代国家が成立する以前に、「威のゲーム」 で誰にでも等しく勝利するチャンスがあった時代や、近代資本主義システムが独占・ 寡占状態に入る以前に「富のゲーム」 で誰にでも等しく勝利するチャンスがあった時代に等しい、 混沌とした時代を生み出そうとしています。公文によれば、現在は「富のゲーム」 が終わりと安定に近づき、「智のゲーム」 が多数の参加者によって闘われ始めた時代であるといえるでしょう。 まだ、情報通信ネットワークを使って結びついた個人たちが、 市場経済システムや国家を凌駕したという事例は見当たりません。しかし、 情報通信ネットワークで国際的に結びついた個人たちが、 NGOやNPOとよばれるような非営利組織を形成し、 国家や企業に対して異議申立てを始めるような事例や、「Linux」 という複雑なコンピュータの基本ソフトウェアが、 金銭的な見返りをもとめないボランティアたちの手によって作られ、 無償で世界的に配布されるといった、 経済システムの原則から判断すれば有り得ない事例が出始めています [37]。これらは、 それまでの支配的だった社会の「力」に対抗するあたらしい形の「力」 が生まれつつあることを示しています。
3.5 情報力のゲームで強くなり過ぎるのは誰か?まだ現在は「智のゲーム」がたくさんの参加者によって争われ始めたばかりです。 ですから、いつ頃、どの勢力が「智のゲーム」 を勝ち抜いて新しい支配力を揮うようになるのか、予測は大変に困難です。また、 その支配力がどのような形態をとるのかについても予測が困難です。とはいえ、 可能な限り予測を試みてみようと思います。ここでは、 デジタル情報を取り扱う情報通信技術の基本性質から考えてみたいとおもいます。 ある技術が社会につよい影響をあたえると考えるとき、 その技術がもつ特質を有利に使うことのできる勢力が勝ち残り、 逆にその特質が不利に働く勢力は負けることが予測されるからです。まず、ハードウェア製造者は勝ち残れないでしょう。「物」 としてのコンピュータを製造・販売する事業者は、 市場経済システムの内部に組み込まれています。製造・販売業者たちは、 1995年ころから始まった情報設備投資ブームに乗って生産設備を増強したことの反動 で、 ブームが過ぎ去った2000年ころを境に急激な生産力および在庫の余剰に陥りました。 市場経済システムの変動の波を直接に受ける彼らが次世代の勝利者にはなり得ません。 次に「智のゲーム」という言葉から、 たとえばソフトウェア製造者やコンテンツ製作者は、 情報力のゲームで有利だと考える人も多いでしょう。しかし、彼らも現在のビジネス・ モデルを維持する限り勝ち残ることはできません。 ソフトウェア製造者やコンテンツ製作者は、自らの生み出した生産物を媒体に固定し、 この媒体をハードウェアと同様に工業生産品として市場で販売するモデルをとってい ます。このため彼らは二つの点で情報通信ネットワークの利益を失っています。 まず、ハードウェア製造者と同じように、 自らの商品の流通を市場に依存していること。 せっかく情報通信ネットワークが市場を凌駕する流通システムを整備しつつあるのに、 これを使わないわけです。つぎに、自らの生産物を「物」 として市場で流通させるために、 いくらでも複製できるという情報の本質的利益をみずから棄てていること。逆に、 現在の工業製品モデルを維持するために、 著作権法によって複製を禁止する手法をとらざる得なくなっています。 このようにソフトウェア・コンテンツ産業が成立するために、市場を利用し、 政府の法による強制力を背景にしなければならないという点で、 市場と国家というシステムに従属しなければならない構造になっています。それゆえ 「智のゲーム」でそれら二つの「力」を打ち破ることはできないと考えるのです。 情報通信産業はどうでしょうか。かなり有望です。 通信ネットワークの社会における有用性はますます増大することが予測されます。 ですから、ここを独占あるいは寡占することができれば、 膨大な経済的な利益を得ることができますし、 仮にネットワークで伝送されている情報を思いのままに傍受して利用することができ れば、情報通信産業は市場も、国家も、そして個人までも支配し得る強大な「力」 を得ることができます。しかし、「智のゲーム」 において圧倒的に有利な立場にある情報通信事業者には、すでにその「力」 を縛る憲法上の法理が存在しています。たとえば、 通信業務にかんして通信内容の傍受やこれを第三者に伝えることを禁ずる電気通信事 業法3条、4 条です [38]。 これは憲法21条の言論・表現の自由の規定をうけて作られた規定です。これはまた、 見方を変えれば情報通信ネットワークを利用する私たちの「プライバシーの権利」 であることがわかります。情報通信事業者が民間企業である限り、 憲法が直接には適用されないわけですが、もし、 情報通信産業が怪物と化し暴走を始めるならば、 国家がこれを縛るための規定を憲法に導入する必要がでてくるでしょう。 様々な情報を集積して処理・解析することを業務とする、 データベース産業はどうでしょう。たとえば金融機関、保険会社、 信用情報産業やマーケティングを行う企業は、いずれも本質的に情報産業ですので、 いずれもデータベース産業に含むことができます。この分野も非常に有望です。 社会の情報化が進むにつれて、デジタル情報の形でやり取りされる情報の種類は、 ますます増大することが予測されます。それらは、 いずれもデータベース産業がその機能をより精緻かつ完全に近づけるために使えます。 ですから、 情報化が進展するにつれてこれらの産業の優位はますます高まっていくことが予測さ れます。情報通信産業と同様に「智のゲーム」 において優位な立場にあるデータベース産業には、その「力」 を縛る憲法上の法理がまだ確定していません。あえて言えば「プライバシーの権利」 とよばれるものがデータベース産業を縛る鎖になる可能性がありますが、 まだ憲法上の権利として確定しているわけではありません。それゆえ、 データベース産業は暴走する危険を秘めています。 また難しいことに、情報を集めること、これを分析すること、 これを公表など利用することは、いずれも憲法において伝統的に守られてきた 「言論表現の自由」「知る権利」によって強固に保障されているのです。ですから、 データベース産業が怪物と化して暴走した場合に、 これを縛るのに国家を対抗させることがとても難しいのです。ですから私は、 情報ネットワークを備えたデータベース産業が「智のゲーム」 において勝利する可能性が高く、また怪物と化して暴走する危険が高いと考えます。 ここで、「国家 = リヴァイアサン」、「市場経済システム = ビヒーモス」 という象徴に加えて、将来あらわれるであろう、 私たちを監視する巨大情報システムに「グリゴリ (Grigori)」 という象徴を与えたいと思います。グリゴリとは怪物の名前ではありません。 200人からなる堕天使たちを指す名称です。その名は「神の子」あるいは 「眠らない監視者」を意味します。 キリスト教では偽典とされるエノク書に詳しい記述があります。もともとは、 人間たちが正しい行いをするように監視するべく、 神の命令によって派遣された見張りの天使でしたが、 人間の娘たちが美しいことに惑わされ、 神の命令に背き地上に降りて人間の娘たちと交わりました。 そして巨人の子らを産ませ地上に混乱をもたらしたそうです。また、 もともと天使であるグリゴリたちは、人間に天界の秘密の知識を与え、 人間たちの科学と文明を高めました。このため、神の怒りにふれたグリゴリたちは、 一部は天界の洞窟に石詰めにされ、 一部は大天使たちによって滅ぼされたといいます [39]。 人間に接触せず監視しなければならなかった天使たちが誘惑に負けて人間と交わり、 与えてはならなかった知識を与えたという寓話は、 情報システムが私たちの知識を大きく高め、幸福に貢献することを期待されつつも、 私たちを支配してしまうのではないかとも怖れられる時代の「力」の象徴として、 適切なのではないかと思います。
4 情報時代の基本権について考えてみましょうさて、ここまでの検討をもう一度まとめてみましょう。憲法には、 私たちが伝統的に慣習的に維持してきた「人間らしいあり方」を、 その時代ごとのもっとも強大な「力」 から保全するという使命があることが示されました。 私たちのどういった価値を強大な「力」から保全するのかは、社会の共通合意、 すなわちエートスから生まれることも示されました。そして、 情報時代において争われる「智のゲーム」は始まったばかりであること、 このため一種の混沌状況にあることが示されました。またこの論文では、 情報社会において情報通信産業とデータベース産業が、 国家や市場経済システムを凌駕する強大な力を得ることになるのではないかと考えま した。 仮にそれらの産業が強大な情報の力で私たちを「思うままに動かそうとする」とき、 私たちは自らの主体性という譲ることのできない人間の本質を防衛するために、 憲法を再設計して それら産業を縛るための権能を注意深く国家に付与し、 それら産業によって脅かされる人間性の価値を、 憲法上の権利として書き込まなければなりません。そうして、 そうした価値を憲法上の権利とするときに、 私たちが伝統的にそういった権利を行使し、 人間的なあり方を享受していたことを論証する必要がでてくるでしょう。
4.1 レッシグの「CODE」について情報時代の基本権について書かれたもっとも影響力のある本といえば、レッシグの 『CODE』[40]でしょう。実は私は、 みなさんが『CODE』 を読むときの手助けになることも目的としてこの論文を書きました。『CODE』 は重要な指摘をしている優れた本ですが、なかなか読みにくい面もあります。そこで、 この小節では、レッシグの『CODE』での主張をごく簡単に整理してみたいと思います。 この論文を読んだ後には、ぜひ『CODE』を自分自身で読んでみてください。そして、 もし私の要約にまちがいや誤解があれば、 連絡してください [41]。インターネットがもたらした新しい社会状況、 そしてなによりもネットワークによって形作られつつある、 新しい生活空間であるサイバー空間 [42]の状況に対応して、 とくに知的財産、プライバシー、 言論の自由の領域でさまざまな法的な議論や検討がされています。レッシグは、 それらの議論や検討の基礎にあるのが、 ネットワークがとても規制しにくいものであるという前提であると指摘します。 すなわち、サイバー世界はその「本質」として「規制が不能であり自由である」 という考え方です [43]。 この前提を規制をかけたがる側も規制を嫌う側も当然のように考えて行動しているわ けですから、サイバー空間では「自由」がエートスであり、 基本法を構成していると私は考えます。 しかし、コンピュータのプログラムによって創造された世界であるサイバー空間は、 その世界をコンピュータに実行させている「コード」 [44] 次第でどのようにでも作り変える事ができることをレッシグは指摘します。 サイバー空間には「本質」というものは存在しないのです。彼は、 とても規制しにくい現在のネットワークの構造(architecture)を「Net95」と名づけ、 このNet95の構造は、 ネットワークの構築に携わったハッカーたちのエートスが反映したものであると指摘 します [45]。 市民革命の時代の憲法起草者たちは、 新しい社会が保障すべき価値をはっきりと文章の形で示し (Bill of Rights)、 国家が暴走できないような国家の構造(Constitution)を定めました。これと同様に、 現在私たちが享受してるネットワークにおける「自由」は、 ネットワークの創始者たちが設定した基本構造 (architecture) によって保障されているわけです。 プロテスタンティズムのエートスが近代を生み出したように、 ハッカーのエートスが現在のネットワークのあり方を規定しているというのです。 レッシグは、 GNU Project の活動 [46] やオープン・ソース運動 [47] が掲げる「コードはすべて公開されるべきだ」という主張が、 情報社会における権力濫用に対するチェック機構として作用すると指摘します [48]。 サイバー空間の構造を決定するコードを明らかにするという原則が憲法化されるなら、 その空間での自由の構造的な保障として、 一種の権力分立システムとして機能するというわけです。 ところが、国家や市場経済システムがネットワークを利用して、 それぞれの目的を達するため、ネットワークの構造すなわち「コード」 は変えられつつあります。 とくに市場経済システムがサイバー空間に進出してくるにあたって、 商取引に必要な各種の安全機構、たとえば監視、秘密保護、本人特定、 認証などの機能をNet95に追加しようとしています。 現在のところサイバー空間を支配しているコードについては、 市場における技術標準獲得競争が唯一のルールであって、 コードが変えられていく方向が私たちの幸福のためになるか否か、 というような政治的視点はほとんど考慮されていません。 しかもコードの変更については、 それを公に示し国民の選択を仰ぐような仕組みがありません。 コードを変更する力のあるものが、 公的な議論と判断を仰がずに好きなように変更してもよい、という状況にあるのです。 レッシグは、コードの選択が「きわめて政治的なものである」と強調します。それは、 私たち人類がこれから関わっていくだろう、 一つの世界のあり方を決定する選択であるからです [49]。 そこでサイバー空間のコードが、 市場経済システムの都合だけで変えられていくことを抑制するために、 国家において政治的判断を担当してきた政府が介入すべきことになります。ところが、 現在の政府はもっぱら市場経済システムを支援することが主たる仕事であり、また、 政府それ自体にも、監視、秘密保護、本人特定、 認証などの安全機構をNet95に追加する動機があります。ですから、 政府が市場経済システムの意向に反するようなコードの規制を行うことは、 あまり期待できません。 それでもレッシグは政府によるコードの規制が望ましいとします。その理由は、 政府による政治過程には憲法という縛りが入っていて、政治的決定についても国民 (参加者)参加という大原則が存在します。 この国民参加を保障するために公開性の原則があり、 また政治的決定についての責任の所在が存在するからです。このように、 すくなくとも政府による規制については、なんらかの形で国民(参加者) の判断を仰ぐというプロセスを関与させることができます [50]。 国民(参加者)が参加するサイバー空間のコードの変更にあたっては、 私たちの現実世界において、その基本構造(architecture) が自ずと保護してくれていた価値を、 どのようにでも基本構造を決定できるサイバー空間においては「意識的に」 保護できるようにコードを設計する必要があるとレッシグは指摘しています。 その事例として知的財産、プライバシー、 言論の自由のそれぞれについて方向性を示します。 レッシグの具体的な議論については、『CODE』を参照してください。 まとめますと、レッシグの主張は、サイバー空間のあり方を変えるなら、 それについての参加者の判断・選択を取り入れるべきだということになります。 そうした参加者の判断・選択を実現していくシステムは、政府に他なりません。 すなわち、現在の政府でもよいし、その他の形態の政府でもよいが、 サイバー空間には何らかの形態の政府が必要だというわけです。もちろん、 サイバー空間には従来の意味での国境が存在しませんから、 その政府の意思決定に世界中の人が参加しうることになるでしょう。 これは一種の世界政府を作ることを意味します [51]。そして、 サイバー空間の基本構造が固まってしまう前に、どのような基本構造 (constitution) を採用するのかを、私たちが選択しなければならないとレッシグは訴えています。 しかし、私たちに残された時間はそれほど多くありません。ネットワークの「整備」 は着実に進みつつあるからです。
4.2 ヒマネンの「リナックスの革命」についてさて、古くからの私たちの権利や自由が脅かされることに対抗することに加えて、 新しい情報技術が可能とした新しい生活様式に適合したエートスが生まれることも考 えなければなりません。とくに、現在のインターネットの構造 (architecture) を決定したものが「ハッカー倫理(エートス)」であることが指摘されています。 「ハッカー倫理」とは何でしょうか。この点について考察した本としてヒマネンの 『リナックスの革命 (原題 The Hacker Ethic)』 [52]があります。ヒマネンは、 近代を生み出したエートスであるキリスト教プロテスタンティズムと、 彼が新しい時代のエートスであると考えるハッカー倫理を比較しながら次世代のエー トスについて考察しています。まず、ハッカーやハッカー倫理については、さしあたり私の別の論文 『ハッカー倫理と情報公開・プライバシー』 [53]の前半を読んでみてください。 また、そこで触れられている文献についてもぜひ読まれることを薦めます。 ハッカーという言葉は、現在「犯罪行為を行うコンピュータ・マニア」 という意味に固定されつつありますが、ヒマネンは、そのような狭い範囲ではなく、 ハッカーとしての「あり方」、 言い換えれば情報ネットワーク時代になって現われてきた新しい「生き方」 に焦点を当てています。 たとえば次の部分をみればヒマネンが設定している対象の範囲がわかるでしょう。
1984年にサンフランシスコで開かれた初のハッカー会議で、バレル・スミス --- アップルのマッキントッシュ・コンピュータを開発したハッカーだ --- はこんなふうに定義している。「ハッカーは何をやってもたいていハッカーになる。 大工のハッカーにもなれる。ハイテクである必要はない。たぶん職人気質とか、 自分のやっていることを愛せるかどうかに関わっているのだと思う」。また 『ハッカーになろう』という指南書のなかで、レイモンドはこう言っている。 「ハッカー的な態度をほかの[ソフトウェア以外の]ことに向ける人間もいる。 たとえば、エレクトロニクスとか音楽とか。と言うより、科学でも芸術でも、 その分野で最高の人間にはそういう態度が見られるものだ」。 [54]ヒマネンはハッカーに特徴的な態度として、とくに労働倫理と金銭倫理を挙げて、 これが新しいエートスであることを証明しようとします。 まず労働倫理について。プロテスタンティズム以前までは、 労働すなわち苦役は懲罰でした。ですから人々は、 自分の必要なだけ最小限労働することをエートスとしていました。 そして労働からの解放がなによりの幸福だったのです。ところが、 プロテスタンティズムのエートスはまったく逆です。 神から与えられた天職 = 召命 (calling) としての労働においては、 一心不乱に働くことが神への信仰の証であると考えられました。 労働が義務なのであって、 どのような労働をするのかについては考えてはならないものとされました。 そしてウェーバーが指摘するように、 この労働を人生の目的として見る勤勉なエートスが、資本主義社会を作ったのです。 余暇は労働のための休養期間とかんがえられました。 あくまでも労働が人生の中心にあったのです。そして重要な点は、 プロテスタンティズム以前も、それ以後にも「労働」と「余暇」、「仕事」と「遊び」 は明確に区別され、対置されるものと把握されていたことです [55]。 ヒマネンが指摘するハッカーの倫理の中心点は「情熱」です。彼らは「労働」と 「余暇」の区別をしないことを特徴とします。 情熱を持って取り組めることであるなら、 それはどちらであっても構わないということになります。「遊び」を「仕事」 にしているというのではありません。 ハッカーと呼ばれる人々がおこなってきた仕事の大部分は、 コンピュータやネットワークに関わるプログラミングなのですが、 大変根気のいる忍耐強い努力が必要とされます。かれらは自分たちの仕事が 「重大であり、必要である」という認識を持っているからこそ「情熱」 をもって取り組むのです。それが結果的に趣味として見られるか、 それとも仕事として見られるかは、 二次的な問題であることが特徴です [56]。 次に金銭に対する見方について。プロテスタンティズム以前においては、 人は自らの必要な限りで労働しました。 仮にそれ以上に働かなくてはならないとすれば、 それは支配者の暴力による強制で働いていました。「必要な限りで」 というのは自然が彼らに与えた労働であり、「それ以上に」というのは、 誰かが与えた労働であったわけです。ですから、 労働が一種の懲罰であると考えられたのは自然でした。 プロテスタンティズム以後には、労働それ自体が目的になりました。 では金銭とは何であったかといいますと、「どれくらい労働したか」 を客観的に測る目安でした。ですから、たくさん真面目に働いて、 たくさん蓄財した人というのは、 社会に貢献した立派な人であるという社会的認識ができ上がったのです。やがて、 労働を神の召命であるとするプロテスタンティズムは、 だんだんと意識されなくなりまして、現在の労働は、 賃金を稼ぎ市場経済に参加するための手段であると認識されているように思われます。 社会のもっとも重要なシステムに参加するための必要条件として、 労働は位置づけられているのです。 ハッカー倫理において「貨幣は物を買う手段である」という点までは、 それまでの金銭観と同じです。しかし、貨幣がたんなる「信号」 に過ぎないことに気がついてるハッカーたちは、貨幣の価値を低く見ています。 彼らは金銭だけでは動かないのです。彼らは、自分たちが必要とするものを生み出す (この点では市場経済以前の自給生活のエートスに近いものがあります)ことに加えて、 これを社会に公開・通有することで、コミュニティからの「尊敬・賞賛」 を得ることを最大の価値としています [57]。 自分の労働の成果をいとも簡単に公開・通有できる理由について、 もう少し検討してみましょう。 情報時代以前の「財」は「複製」がすなわち「製造」 に他ならない物体であったのに対して、情報時代の「財」が、 いくらでも複製ができる「情報」を主としていることが前提条件となります。 情報時代においても「財」の大部分は製造される物体であるでしょう。しかし、 現在の効率化され自動化された生産手法においては、日用品の生産の費用は、 ほとんどゼロに近いところまで低下しています。 この段階において価値を生み出している主体は、実は情報に他なりません。 すると価値のかなりの部分が、情報ネットワークにおいては、 非常に低い費用で増幅できることになります。 ハッカーは、かつての自給生活のエートスと同じように、 必要なものを自ら生み出します。そういう意味では、 単に趣味の段階に留まらなくなった日曜大工や日曜エンジニアもハッカーのエートス と共通したものを持っています [58]。いったん情報を生産しますと、 自分の需要は満たされます。そのあと、情報を公開・通有することは「おまけ」 のようなものです。自分の需要を満たすという目的からすれば、公開・ 通有は自らの利益を減じるものではありません。もちろん、 「その情報を売ることができたかもしれない」という利益の可能性はありますが、 3.5 節で指摘したように、情報を商品として販売することは、商品としてのパッケージ化、 流通経路の確保、違法複製の禁止方法等、個人が負担しかねる費用がかかります。 ですから、公開・通有しますと金銭的利益の面では損をするかもしれませんが、 「尊敬・賞賛」を得るという利益の面では、 はるかに効率よく利益を得られるのです [59]。 ハッカーが「尊敬・賞賛」をなによりも重視する理由は、 彼らの社会においてもっとも重要なシステムである、 サイバー空間に参加するための必要条件だからであろうと私は考えます。すなわち、 サイバー空間において「尊敬・賞賛」は、現在の市場経済システムにおける「貨幣」 と同じような役割を果たしているのです。それは、「威のゲーム」における暴力、 「富のゲーム」における経済力につづく「智のゲーム」 における説得力 [60] を生み出すからです。サイバー空間においては、 そのコミュニティに対する貢献を基礎に作られる 「権威 [61](authority)」を基礎に 「他人を意のままに動かす」力が与えられるわけです。 このあたりの仕組みについてはエリック・レイモンドの『ノウアスフィアの開墾』 [62]に詳しく説明されています。 こうした諸点からみても、ハッカー倫理は、従来のエートスと異なったものであり、 かつ機械産業社会の末期である現代において初めて可能になった「あり方」 であることが理解できるかと思います。 つづいてヒマネンは、こうしたハッカーが掲げる「ネット倫理」として、 プライバシーや言論の自由の重視、ネットに対する各種規制への反発、 互助に高い価値を見出す価値観などを挙げています。しかし、これらについては、 ハッカーの労働倫理や金銭観ほどに、 情報時代という社会状態との関連性を説明していません。しかし、 この論文を読んできた皆さんには、もうお分かりかと思います。 情報システムの構造や仕組みについてよく理解しているハッカーたちには、 レッシグが指摘する「人間としてのあり方」への新しい危機が見えているのです。 この論文での象徴で言えば、「グリゴリの暴走」です。情報社会において、 なによりも危機に曝されるのは、「プライバシー」と「言論(内心)の自由」 として語られる「人間の自由と主体性」であることはすでに説明しました。彼らが、 現在のさまざまな規制に反発するのは、現在のサイバー空間への規制が、 ネットワークをリヴァイアサンとビヒーモスの道具へと変容させる方向に進んでいる ことへの危機感の表われであると思います。互助に高い価値を見出すのは、 次世代の価値システムが、ネットにおける「智のゲーム」 すなわち説得力の競争によって動くことを理解しているからです。 レイモンドは次のように述べています。
ハッカーらしくふるまうには、 これ [人間はくだらない反復仕事で苦労すべきではないということ] を深く信じ、 退屈な仕事はできるだけ自動化してしまいたい、 それも自分のためだけでなくほかのみんなのために、 と思うようにならなくてはいけない。この一文は、公開・ 通有が合理精神にも根拠を置いていることを示しているように思われます。 ヒマネンは、プロテスタンティズムの倫理とハッカー倫理の違いを強調するために、 あまり触れていないようですが、両者には共通する要素があります。それは 「世界を合理的(理性的・論理的)に再構成すべきである」という信念です。 プロテスタンティズムの倫理では、それは「神の与えた秩序の実現」 として観念されたのですが、ハッカー倫理では、「論理の示す秩序の実現」 と把握されていると思われます。現在の市場経済システムは、 プロテスタンティズムの倫理から「神」や「合理性」の要素を失って存在しています。 ですから「利益のためなら不合理な行為でも行う」 という利益至上主義に陥っているのです。 ハッカー倫理における合理主義は、システムの効率性やプログラムの効率(美しさ) について絶対的な価値を持っています [64]。 これはコンピュータに留まらず、社会のシステムにも適用される価値観です。 ですから、彼らは不合理なシステム一般について我慢ができません。 そのような視点から見れば、経営システムの合理化に尽力する経営者や、 政治システムの合理化に努力する政治学者、 法学者にも適用可能な価値観だといえるでしょう。また、 合理主義が本来のプロテスタンティズムの倫理の主要な柱であったことから考えれば、 ハッカー倫理は、近代精神の正当な継承者であると言うことができるかもしれません。 しかしながら、ハッカー倫理の示す合理主義には特徴的なものが現われると思います。 プロテスタンティズムにおける合理主義は、世界全体が「そうあらねばならぬ」 という価値観を基礎にしていましたが (たとえばピューリタンなど)、 ハッカー倫理における合理主義は、自らが責任をもてる領域については 自らの「理」 によって最適化をすすめますが、他人の領域については不干渉であると思われます。 他人には他人の「理」 が存在することを尊重するからです [65]。その一方で、 システム全体が合理的に機能するために、 多数の主体が承認すべきインターフェイスやプロトコルについては、 最大の関心を持って統一をすすめると見られます。これは、 多数のコンピュータがインターネットを形成するときに採用された構造です。これが、 社会のほかの領域にも適用されていくものと予想するのです [66]。 ヒマネンの指摘とレッシグの指摘によって、いま犯罪者扱いされているハッカーたち [67]のエートスが、 次世代の社会の基本構造によく対応したものであることがわかります [68]。というより、 ネットワークに没入して、その仕組みを理解したハッカーたちは、 私たちよりも先の世界を見ているのです。 信じられませんか?でもこうしたことは過去にも起きているのです。 思い出して下さい。ローマ・カソリックがヨーロッパを支配していたとき、 プロテスタンティズムは憎むべき異端とされ、プロテスタントたちは、迫害され、 逮捕され、火炙りにされました。聖書は秘密にされるべき知識であり、 民衆がこれを直接読むことなど信じられなかったのです。法の知識も同様です。 ほんの200年ほど前までさかのぼれば、一般民衆の子弟が、 国の基本構造を書いた文章、すなわち憲法を読むなどということは、 信じられなかったに違いありません。 ウェーバーがいうように、プロテスタンティズムの精神は、 もともとのプロテスタントの信仰から離れて社会のエートスとして成立し、 近代資本主義社会と民主主義社会の基本を構成しました。同様に、ハッカー倫理は、 もともとの「ハッカー」と呼ばれた人たちの信念から離れて、 社会のエートスとして成立したときに情報時代の精神となりうると考えられます。 ハッカーのエートスは、 コンピュータやネットワークの基本構造として記述されていて、 人々がそれに慣れ親しんで使ううちに理解されるものです。その段階に到れば、 ハッカーのエートスは、もとの意味での「ハッカー」 に限定された信念ではなくなります。プロテスタンティズムの教典は当然に「聖書」 でしたが、ハッカリズムの教典は、 コンピュータとネットの構造と言えるかもしれません。 そして次世代の社会の運営方法は、現在のインターネットの運営方法、 すなわちある問題について「情熱」をもって取り組もうとする人たちがつくる、 緩やかな組織体による運営方法にとても良く似たものが採用されると思います。 私の講義をとっている、ある学生さんがこう言いました。
「先生、僕は UNIX の使い方や、インターネットの仕組みについて 一般教養として中学、高校で教えるべきだと思います。」私は、この意見に賛成します [69]。
5 終わりに / 情報時代の基本権さて、長かった本論もようやくまとめに入ります。 情報時代における憲法を検討するにあたって、 次の視点が必要だということを指摘しました。
私は、この論文では「グリゴリ」によって象徴される、コンピュータ・ ネットワークとデータベースが結合した、 私たちに意識されないで運用される緻密な監視と管理のシステムが、 情報社会における脅威であると指摘しました。レッシグは、これに対抗するために、 新しい形態の政府、 とくに公開性を重視した政府が必要であると主張していると私は理解します。 そして憲法のなかに、「伝統的に享受してきた自由」 を保障するように書き込むだけでなく、それを実現できるように、政府が「コード」 を制御しなければならないとレッシグは主張しています。 情報社会にあらわれる新しいエートスについては、 ヒマネンだけでなく多数の論者が指摘するように、 ハッカーのエートスであろうと予測します。それは、 コンピュータやネットワークの構造として表現され、世界にいま伝播しつつあります。 そしてかつての「ハッカー」という存在から離れた、ものの考え方、 ものごとの進め方として一般化していくのだろうと考えます。 今の社会になんとなく違和感を感じている皆さん、そして「ハッカー」 になんとなく憧れを感じている皆さん。皆さんは、新時代の 「抗議する人 = プロテスタント」であると私は考えます。 新しい時代を切り開いていく主体であると考えます。 誰かがお膳立てしてくれたファンタジーの中に没入したり、 程度の低い悪戯に時間を費やすのは無益なことです。 ささいなことからでもよいのです。自分のできることから始めて、 その成果をもってサイバー空間の共同体に参加してみませんか? 新しい社会の価値を守るために声を上げてみませんか? 皆さんにはその資格と能力があるはずです。
Note
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白田 秀彰 (Shirata Hideaki) 法政大学 社会学部 助教授 (Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences) 法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450) e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp |