* インターネット化と著作権法の行方、 そして図書館 *

白田 秀彰

以下の論文は、2006年8月18日に札幌国際大学図書館で開催された、第49回北海道地区大学図書館職員研究集会での講演内容を整理したものです。

─────── * ───────

1 図書館の歴史と役割

─────── * ───────

時の流れとともに失われていく情報を記録し保存することは、 人類の歴史そのものといえる。 そうした記録や保存を意識的に行っていた担い手もまた、 極めて古い起源をもつといえるだろう。記録や保存には、 石碑や壁画といった移動が困難な媒体もあれば、石板、粘土版、皮革、 紙布といった移動が容易な媒体も用いられた。 そのうち移動容易な媒体を一個所に収集し保存することは、 管理や利用の便宜を考えれば、自然な発想である。わが国でも、 書籍類を公的あるいは私的に収集することが広く行われ、 各地に文庫や書庫などが形成されていた。

とはいえ、「物」としての書籍類を収集し保管するという発想が強く、書籍類の 「内容」を広く社会に流通させるという視点に欠けていたことは事実だろう。 もとより、明治維新以前の社会において、 知識を一般に広めて民衆の教化をはかろうという意図が、 社会の上層部に存在し得たとは思えない。「依らしむべし、知らしめるべからず」 が統治の上策として認識されていた。

わが国における近代図書館の設置は、明治維新後のことである。 この段階において図書館に新たに加わった役割は、「富国強兵・殖産興業」 という政府の目的に添った知識の普及であるといってよい。 大学等の教育機関であれば貴重かつ高価な輸入学術書等を、 その他の図書館であっても同様に高価であった書籍を、 多人数で最大限活用するための手段として位置づけられていた。

1886年の諸学校通則 第1条 「師範学校ヲ除クノ外各種ノ学校又ハ書籍館ヲ設置維持スルニ足ルヘキ金額ヲ寄附シ其管理ヲ文部大臣又ハ府知事県令ニ願出ルモノアルトキハ之ヲ許可シ官立又ハ府県立ト同一ニ之ヲ認ムルコトヲ得」、第3条 「学校幼稚園書籍館等ノ設置変更廃止其府県立ニ係ルモノハ文部大臣ノ認可ヲ経ヘク其区町村立ニ係ルモノハ府知事県令ノ認可ヲ経ヘシ其私立ニ係ルモノハ設置変更ハ府知事県令ノ認可ヲ経ヘク廃止ハ府知事県令ニ上申スヘシ 」や、1899年の図書館令 第1条 「北海道府県郡市町村北海道及沖縄県ヲ含ムニ於テハ図書ヲ蒐集シ公衆ノ閲覧ニ供セムカ為図書館ヲ設置スルコトヲ得」に見られるように、 図書館を政府の許認可の下にあるべき施設として認識していることがわかる。それは、 同時代の新聞(「新聞紙法」 1909年)や雑誌書籍(「出版法」 1893年) 事業への許認可制、郵便通信事業の国営(1873年) と同じ文脈において理解されるべきだろう。すなわち、 情報の流通経路の監理が政府の役割であるという認識である。

また、それまで図書館関連法規には、法の目的が明示されていなかったが、 1933年の図書館令第1条において図書館の目的が示された。すなわち 「図書館ハ図書記録ノ類ヲ蒐集保存シテ公衆ノ閲覧ニ供シ其ノ教養及学術研究ニ資スルヲ以テ目的トス」とされ、その目的が、 国民一般の教化善導にあることが示されている。

第二次世界大戦後、 図書館を民主政治の基盤として把握する米国流の思想が導入された。それは、 米国の連邦議会図書館を模範とした国立国会図書館の設立によって象徴される。 1948年の国立国会図書館法 第2条では、同図書館の目的を次のように規定している。 「国立国会図書館は、図書及びその他の図書館資料を蒐集し、国会議員の職務の遂行に資するとともに、行政及び司法の各部門に対し、 更に日本国民に対し、この法律に規定する図書館奉仕を提供することを目的とする。」 続いて、1950年の図書館法では、第1条の「国民の教育と文化の発展に寄与すること」 とする目的規定につづいて、第2条において「図書館」の定義がされた。すなわち 「図書館とは、図書、記録その他必要な資料を収集し、整理し、保有して、一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、 レクリエーション等に資することを目的とする施設」とされた。続いて、 1953年の学校図書館法、 1956年の大学設置基準等において教育機関における図書館の位置づけがなされた。

米国の民主政治モデルに強く影響を受けた憲法を採用した我が国であったが、 民主政治の基盤たるべき図書館の位置づけについては、 国立国会図書館が米国連邦議会図書館に倣ったという事実を除いて、 設置根拠となる諸法律において明確には提示されなかったことがわかる。さらに、 1950年の図書館法では法文として目を引く「レクリエーション」 なる語が目的として掲げられることで、 図書館を娯楽施設類似のものとして認識する可能性が生じた。

ここで、図書館の機能の変化に関して概略をきわめて雑駁ながら整理しておく。

古代を代表する図書館としてアレキサンドリア図書館が挙げられる。 この時代においては、知識を記録した媒体そのものが稀少である。さらに、 人の手を経た写本による複製に頼ったことから、 テキストの内容は不正確であり信頼性が低いと考えられる。そこで、 旅行者から強制的に書籍を没収し、 写本を作成するという過剰に積極的な知識の収集手段が採用され、 加えて収集したテキストを校訂し、真正なテキストを確定する必要があった。 同図書館の初代館長であるゼノドトスは、 ホメロスを校訂した文献学者であったという。同図書館の任務としては、図書の収集、 分類、目録作りといった図書館の基本的機能に加えて、原典の校訂や註釈の作成、 写本の複製、市販まで含まれていたという。すなわち、 同図書館は現代的な意味で言う図書館の機能のみならず、 研究機関と出版機関も兼ねていたということができる。

中世に至ると研究機関としての修道院や大学が図書館と密接に関連する形で分離を開 始し、 さらに写本作成業や出版印刷業が独立した業種として分離を開始するようになる。 この時代においても、記録された知識は稀少であり、やはり不正確であった。さらに、 宗教的権威による社会統制が重視される社会――西洋の場合はキリスト教の教義―― では、その教義と対立矛盾する知識の存在が問題視されるようになる。そこで、 可能な限り大量の文献を集め、校訂し、 真正なテキストを確定するという作業のみならす、 検閲的機能が重要性を増すことになる。 図書館が直接的に検閲に関わった事例については寡聞にして挙げられないが、 法定検閲の制度的な一部である納本制度の担い手として図書館が機能していたことは 事実である。

端的な例としては、異教文化に対する破壊活動がある。 389年司教テオフィロスによって、アレクサンドリア図書館は焼き払われたという。

知識は社会統合の力すなわち権力の一形態である。 知識が稀少な世界では知識の集積が権力を生み出し、 知識が多様化しつつある世界では権威ある知識を維持することが権力を生み出すとい えるのではないか。

近世にいたると、研究機関が図書館から独立し、出版印刷機能もまた独立する。 活版印刷術すなわち機械的複製によって、 知識を収めた媒体の生産力が飛躍的に増加し、 そこに収められたテキストの正確性も著しく向上した。こうして、 書籍を収集する活動がいわゆる図書館のみならず、 個人においても見られるようになる。 個人が書籍を私的に所有する形態が一般化するにつれ、 宗教的統制を免れた知識が流布しはじめる。すなわち、 印刷した書籍に支えられた啓蒙思想の抬頭、科学的合理的思考の普及である。 知識を収めた書籍の民主化が政治的自由の基盤となり、 民主政治を可能としたことは明らかである。

富裕層が収集した個人蔵書は、 やがて各種結社やクラブへ移管され私立図書館へと成長した。 そうした私立図書館の公益性が認識されるようになると、 公費助成等がなされ公立図書館へと転換する図書館もあらわれる。 「知識を一般に普及する図書館に公益性が認められる」という状況自体が、 民主政治の基盤である図書館の存在意義を示している。とくに米国において図書館が 「民主政治を支える基盤」として強く意識されている。

こうした展開を踏まえて、現代の日本の図書館の状況をみる。

1963年に日本図書館協会が発表した『中小都市における公共図書館の運営』 においては、資料の利用に対する住民の要望に積極的に応えることが重視されている。 これは、戦前の図書館が国民に対する教化善導を目的としていたこと、 その結果としての戦時体制への反省を前提として、 図書館が政治的に中立であるというよりむしろ、 自ら利用者の総体的意思に従属することを選んだことを意味している。すなわち、(1) 図書館の運営とりわけ選書において、利用者の要求をありのままに受け止め、 図書館員が要求を評価したり、要求に介入したりしないこと、また (2) 提供するものはあくまでも資料であって、 そこから利用者がどのような情報を引き出すか、 どのような使い方をするのかについて図書館員が関知しないという方針が掲げられた。

ここにおいて図書館は、政治性を放棄し透明な存在であることを目指し、 さらに戦後の図書館法に規定された「レクリエーション」を根拠としながら、 住民の余暇や娯楽といった要求に応えるよう変化しつつあることが指摘できる。 市立や県立の図書館のみならず、大学の図書館ですら予算が制約されていくなか、 それら図書館の業績としての利用率を向上させるため、 人気のある軽図書の購入割合が増大し、 資料的価値のある図書の収蔵が圧迫される傾向があるとされている。しかしながら、 こうした娯楽目的が前面に出る中で、 公立図書館の存在意義が問われる事態になりつつあるのではないか。

現代においては、19世紀以来の情報媒体の多様化、 とりわけ1980年代以降の情報社会化をうけて、 媒体に記録された知識の量は爆発的に増大している。 かつてのように知識が稀少であった時代や、 何らかの権威が正しい知識を決定していた時代とは異なり、 情報の洪水のなかで自分の得ている情報や知識に対する疑いと迷いが生じている。 この状況を図書館に当てはめてみるならば、ごく限られた大規模図書館を除いて、 すべての資料を収集することはほとんど不可能な状態になっており、一方、 膨大な収蔵図書の維持管理に悩まされることになる。また、 価値観が多様化している現代において、読者や利用者の要求へ従属するいわゆる 「民主的傾向」の結果、玉石混交の出版物が市場に投入され、 また図書館に収蔵されている。 そこにおいて科学や合理と神秘や不合理がいずれも受容される状況が生じているとみ る。

歴史を振り返ってまとめるならば、図書館は文化的価値の社会的共有を通じて、 社会統合のための基盤として機能してきたし、とくに民主政治を前提とするならば、 図書館は必要不可欠な政治的基盤であるといいうる。しかし、 現代の図書館はそうした機能を果たしえなくなっているように思われる。 繰り返すならば、出版物を網羅できないし、網羅する必要もないと認識されており、 レクリエーションが強調される中で知識の保存維持の機能は期待されていない。 情報化に伴い、科学的・社会的・政治的情報の重要性は高まっているが、 それらの情報は、主として図書館以外の主体から人々に提供される事態に至っている。

こうした問題を、一言にまとめるなら、 ――不適切な表現かと懼れるが―― 「しなくてもよいことにこだわって、 しなければならないことをしていないのではないか」という問かけとなる。

─────── * ───────

2 インターネットの傾向

─────── * ───────

現代に社会変化をもたらしつつある情報技術のなかで、 もっとも影響力のあるものはインターネットである。 インターネットでアクセス可能な情報の量を測ることは、 現在ほとんど不可能と思われるが、2004年度に総務省が集計した 『2004年 我が国の Web 上のコンテンツ量推計調査の集計分析結果について』 に拠れば、わが国のインターネット上のWebページに限っても、 総データ量は13.6テラバイトと推定されており、 2004年までの6年間においてデータ量は44倍以上に増大したという。 13.6テラバイトという量は、公共図書館約4館分(1館あたり30万冊換算) の情報量に匹敵するという。もちろん、 情報量の多さだけで知識への貢献を測ることは無意味だが、 一般の利用者が一瞬にアクセスすることのできるメディアがすでに巨大な容量を備え ており、かつその容量が年々増大しているということが重要である。

インターネットでは、テキストのみならず、音声・画像・ 動画を同一のインターフェイスで閲覧することができる。 こうした統合されたメディア特性は、百科事典等の参照文献には理想的な特性であり、 インターネット普及以前よりそうした事典類は、 大部の分冊形式からCD-ROM等の固定電子メディアへ移行していた。現在ではそれらは、 インターネットでの有料サービス形式に移行しつつある。 この形式であれば項目内容の更新や修正にも迅速に対応できる。 また利用者の知識を集合する無料百科事典 Wikipedia も存在している。また、 プロジェクト・グーテンベルグや青空文庫に代表されるように、 無料で自由に使用することのできるテキスト・アーカイヴも整備されつつある。

ネット上の情報量が増大していく中で、 目的とするデータを見つけにくくなるといった問題が指摘された時期があった。 しかし、 現在ではネット上のデータをほぼ網羅する検索エンジン Google を我々は無料で利用 することができる。検索技術の飛躍的な進歩によって、ある事項を調べるにあたって、 最初の手掛かりを得る手段としてのインターネットの価値もまた飛躍的に高まった。 さらに Google は、画像検索、世界地図、衛星写真なども無料で提供しており、 これまで図書館でも発見することのできなかった種類の情報をインターネットで閲覧 することができるようになっている。

さらに、ネット上の書籍等販売業者 Amazon を経由すれば、新書・ 古書を容易に検索し、注文することができ、購入品の配達も極めて迅速である。 すなわち、インターネットを窓口として、 電子化されていない情報も入手可能となっている。もちろん、 図書館もまたそうした電子化されていない文献を収蔵しているかもしれない。 しかしながら、家庭から迅速に検索でき、 数日中に自宅まで配達してれるサービスがあるならば、大多数の利用者にとって、 目的とする情報の入手までに必要な費用や手間は、図書館を利用するよりも小さい。

上記の状況を端的にまとめれば、インターネットの登場によって、 中小規模図書館が収蔵・保存・検索をつづける必然性は、ほぼ消失したといえる。

ところが、第1節で示した「図書館は社会統合の基盤であり、 さらに民主政治の前提的基盤である」とする視点に立つならば、 図書館の重要性はむしろ増大しているといえるだろう。というのは、「問いかけ」 から「答えを得る」までの時間的・ 心理的費用をインターネットが大幅に短縮したため、 またコンピュータ画面上に現れる情報を信頼しがちな私たちの性向のため、 私たちは様々な「問いかけ」に対する答えが、 すべてネット上にあるものと錯覚しがちになる。こうした傾向は、 大学生が提出する各種レポートのかなりの数が、 ネット上の情報の切り貼りによって作成されており、 かつ他のメディアによる真偽の検証をまったく欠いているものが多数であるという、 極めて憂慮すべき事態から明らかである。

インターネットでは、利用者間の交流がひろく行われているが、 「嘘が嘘であると見抜けない人には使えない」 メディアであるということがしばしば語られてきた。 誰でも情報を発信できるメディアであるが故に、 誤りや嘘もまた多く存在することを理解した上で、 インターネットを情報源として使うことが要求される。とはいえ、 正しい情報と誤った情報の判断自体が知識に依存しているため、インターネットは、 知識を得るためのメディアとしては大きな欠陥を抱えていると言わざるえない。

また、日々多量の情報がインターネットに提供されつづけている。 大規模な電子掲示板では、毎月200万人以上が参照しているといわれる。また、 近年よく利用されるようになったBlogでは、 世界的にみて4000万人以上が日々情報を書き込みつづけており、 日本でも350万人以上がBlogを利用しているといわれる。とはいえ、 電子掲示板での書き込みの大多数は言葉遊びの類であり、 またBlogでの書き込みの大多数は、 極めて個人的な身辺雑記や友人への近況報告の類である。すなわち、 インターネットが図書館を代替する能力や機能は十分であるのだが、 インターネット利用者の側で、 それをこれまで図書館が果たしてきた社会的役割を代替するメディアとして取り扱っ ていない様子がうかがわれる。

こうした傾向について、憲法学者の立場から警鐘を鳴らしたのが、 Cass Sunstein である。その著書 『Republic.com』 (『インターネットは民主主義の敵か』)では、 現実世界でもネットワーク世界でも日々増大していく情報を処理しきれなくなった人 々が、 情報の取捨選択を機械的処理あるいは他人の提供するサービスに依存するようになる と指摘する。典型的な例として Amazon の購入推薦サービスが挙げられよう。 こうした他律的な情報選択の結果、 自分自身にとって都合がよく心地よい情報のみを受け取り、 自分にかかわりのない情報を受け取らない人々が現れることになる。こうした、 自己の関心領域に閉じこもり、他を省みない人々から構成される社会が、 民主政治を維持することができないことは明らかである。

また、ネット上では、自分と同じような主義主張をもった人物と容易に出逢え、 さらに頻繁に対話できる一方、自分と異なった主義主張をもった人物と容易に絶交し、 関係を断絶することができるため、ある主義主張をもった人々は、 互いにその主義主張をより強化・ 先鋭化する方向で議論を展開させやすい傾向にあることが同書で指摘される。 こうした、インターネットのメディア特性から生じる、 異なった主義主張の間の断絶と、同一の主義主張の先鋭化の傾向は、 多数の人々の討論と熟慮に基づいて進められるべき民主政治にとっては、 否定的な作用であるといえる。こうした傾向は、 すでに電子掲示板等でしばしばみられるところである。

まとめれば、Sunsteinは、何らの手当ても行われないならば、 インターネットのメディア特性は、民主政治を支える「熟慮を生み出す社会構造」 を破壊する危険があるとしているのである。こうした、懸念は、 ネット上で閲覧することができる『EPIC2014』 と題された未来予測的映像作品によって鮮烈に描きだされた。

『EPIC2014』では、先に紹介したGoogleとAmazonが合併することで、 インターネット上の巨大な情報権力として成立し、 さらに現実世界で力を持っていた各種メディアを統合し、 競争事業者を打ち倒していくなかで、 ついには世界の情報メディアを事実上統括する神のごとき権力を獲得する筋書きが描 かれている。この映像作品は、 こうした筋書きを説得力をもって具体的に提示したことで評判を呼んだ。 皮肉なことに、 Flashという電子的なアニメーションのソフトウェアによって少人数で作成され、 インターネットで全世界的に配布された『EPIC2014』こそが、 インターネットのメディア特性を生かした作品であった。

─────── * ───────

3 図書館の役割を再定義する

─────── * ───────

本来の図書館の目的が「文化的価値の共有を通じての、社会統合のための基盤」 「民主政治を支える基盤」であるとする前提に立つならば、 第2節で述べたインターネットのメディア特性から生じる、 文化的な分裂ひいては社会統合への否定的作用、 民主政治の基盤の脆弱化に対応する必要があることが導かれる。

こうした筆者の問題意識は、 上述の状況に対処するためにジャーナリズムが担うべき役割について述べた2004年の 「情報メディア学会」での講演や、その公演内容をまとめた論文 『網論との共生関係構築へ── 公論形成に向けたマスメディアの役割』(新聞研究, 2005年)と一貫するものである。その論文では、 インターネットのメディア特性から生じる種類の言論を「網論」、 マスメディアのメディア特性から生じる種類の言論を「統論」、 民主政治を支えうる熟慮に基づいた議論を「公論」と定義し、 以下のように述べている。

「網論が世論を公論としうる言論媒体となるためには、(A) 少なくとも発言の検証可能性を担保する程度の連絡先を明示する、 責任ある慣習を成長させる必要がある。また(B) 取材・資料収集・ 分析能力を網論が備えることが望ましいが、 個人を中心とする網論の媒体としての特徴から限界がある。それゆえ、統論は (C) 職業的専門家・組織として独自の地位を依然として維持可能であり、 またそうであることが望ましい。」    『「網論」 との共生関係構築へ ── 公論形成に向けたマスメディアの役割』 (新聞研究, 2005年)
引用部分では、インターネット上の言論に、 ネット上で提供される情報の真偽の検証手段、またその言論の確固たる裏付けをとり、 かつ提示する手段が欠けていることを問題としている。本論においては、 インターネットのメディア特性が文化的価値の共有をむしろ困難にし、 社会統合を脅かすことをその欠点に付け加えた。 こうした欠点を矯正するために図書館が担うべき役割とは何だろうか。

すでに方向性は示されている。 1998年の文部省生涯学習審議会図書館専門委員会報告書 『図書館の情報化の必要性 とその推進方策について──地域の情報化推進拠点として』では、 すでに図書館の情報センター化構想が打ち出されている。この路線に沿うならば、 次のような役割が図書館には期待されるだろう。(1) 各種統計データの蓄積、検索、 活用の援助 (2) 地域政治のために必要な統計データの整備 (3) 官公庁の情報公開担当窓口と連携して広報・相談窓口化 (4) 官公庁の公文書管理担当と連携して公文書館化 (5) NGO/NPOの政策提言への立法支援・ 情報支援 等である。すなわち、 政治から距離を置いた中立的な図書の収蔵庫としての図書館ではなく、 民主政治の基盤施設として中立的でありながら積極的な政治的役割を担うことが望ま れる。図書の収蔵・貸出は手段であって、目的ではない。 そもそも国立国会図書館法に初めて導入された概念である「図書館奉仕」は、 利用者が抱える問題解決への奉仕であったはずである。

データ量ですでにインターネットを凌ぐことが不可能であることを受けとめ、 収蔵書籍を絞り込む一方、各種データベースの導入を進め、 専門家のアドバイスを受けられる情報検索の窓口として特化し、 コンピュータやインターネットの恩恵をすべての利用者に提供することが図書館の進 むべき方向であろう。ここ数年問題視されている、 人々の間のコンピュータやネットワークの利用能力の格差、すなわちデジタル・ デバイド問題の解決もまた図書館の役割なのではないだろうか。 つづいて、ネット上での議論において、信頼に足る資料が不足しているならば、 重要な議論に対して、図書館資料での検証にもとづいた参考情報の提供や、 論点を決するのに必要な資料の提供などを積極的に行うべきではないだろうか。現在、 ネット上の議論を整理し、補足等する活動がボランティアによって進められている。 とはいえ、ボランティア達の努力のみに依存することは望ましくない。彼らは、 資料の扱い等に関する専門的な訓練を経ていないと思われるし、 彼らが頻繁かつ自由に図書館資料を参照することは難しいだろう。そうであるならば、 専門家を擁する図書館が何らかの貢献をはかるべきだ。

先の『「網論」との共生関係構築へ』との関連で整理するならば、筆者は、 網論を公論とするための指導的な役割をジャーナリズムに期待し、網論を資料・ 根拠に基づいた確固たる公論とするための支持基盤として図書館に期待しているので ある。

─────── * ───────

4 著作権法と図書館

─────── * ───────

さて、第1節で、図書館は社会統合の基盤であり、 さらに民主政治の前提的基盤であると位置付けた。 また実際にわが国における近代図書館は、 国家の情報流通基盤の一環を成すものとして認識されてきたことを示した。 図書館は極めて公共性の高い設備・組織であり、 それゆえにその機能を十全に果たすべく特権的な取り扱いがされてきた。それは、 郵便制度において、新聞・定期刊行物・ 書籍の郵送料が政策的に低く設定されてきたり、新聞・書籍・ レコード等の著作物について再販売価格維持を独占禁止法の例外として認めているこ とと同様の政策目的に沿ったものだった。

図書館には多数の文献があり、この文献を多数の利用者に閲覧複写させることで、 文化教養の普及を図ることが期待されていたわけであるから、 文献の閲覧や複写に関する著作権法において、 図書館についての特例が置かれたことは当然である。 1899年から1971年まで用いられた旧著作権法においては、 とくに図書館に言及はないものの、 第30条に列挙された著作権の制限事項に該当するものとして収蔵図書の自由な利用が 実現していた。また旧著作権法の時代において、 コピー機に代表される複製器機が普及していなかったことも、 法がとくに図書館に言及していない理由と思われる。一方、現行の著作権法では、 第31条において図書館資料の複製を可能とし、 また第35条では学校教育における複製を可能とする著作権の制限事項を置いている。 また第38条では、営利を目的としない場合に、 著作物の無許諾での貸与を認める規定が置かれている。

ところが、近年の情報技術の発達によって、 現行著作権法が制定された当時には想定していなかった使用法が現れるようになった。 情報技術の発達は、当然に図書館業務の効率化や迅速化に貢献するはずであったが、 そうした情報技術に関連した著作権法の規定には、 1970年代まで意識されてきた図書館の重要な役割に関する配慮が欠けていた。

例を挙げる。第3節に示した、 本論の主張するこれからの図書館のあり方を前提とするならば、 図書館資料の数量を絞り込むことになる。すると、 当然に図書館相互協力の緊密化と迅速化が必要になる。 もとよりそうした図書館相互協力は、著作権法において認められるものであるが、 著作権法23条に最近新設された公衆送信権では、 図書館についての適用除外がないため、 図書館資料の複写物を郵便等を経由して相手方図書館に送付することは可能であるも のの、 ファクシミリやインターネットを使ってデータを送ることが許されないと解釈されて いるようだ。また、ビデオやDVDといった視聴覚資料もまた図書館資料であるならば、 第38条の規定に基づいて貸与することが認められるはずであるが、 権利者団体からの要望で、図書館団体は法律外の運用上のルールを設定した。 こうすることで、権利者団体と図書館双方の利害(とはいえ図書館は非営利) 対立を回避しているという。さらには、図書館での書籍や雑誌の閲覧貸出が、 それら図書の売上を奪っているとの出版社団体からの主張によって、 図書館の貸与にかかる権利の新設が検討され始めているという。

図書館業務を制約することを目的としないまでも、 悪影響を及ぼすような権利主張や法的請求が続いている背景には、 民主政治における図書館の重要な役割に対する無関心と無理解がある。 上記の例においていわゆる著作権者たちは、 明らかに図書館を貸本屋やレンタルCD / レンタルビデオ店と同視しているし、 著作権法において図書館に対する配慮が欠けがちになりつつあることは、 政策担当者たちまでもが図書館の役割を重視しなくなりつつあることを意味している のではないか。一方、このように図書館の本質的役割が忘れられつつある背景には、 先に指摘したように単なる娯楽的資料の書庫となり果て、 情報時代における民主政治の要請に応えようとしない図書館側の態度があることはい うまでもない。

このような傾向を放置するならば、 政策としての知的財産権の強調にともなう著作権法の強化において、 今後も図書館資料の運用への制限は強化されつづけるであろうし、 法律に基づかない権利者側からの要求もまた強まっていくことが明らかである。 筆者は、 しばしば図書館員から図書館業務と著作権法の関係について法律解釈を尋ねられるこ とがある。しかし、図書館が直面している著作権法上の課題は、 法律解釈の問題ではなく、図書館の位置付けについての政策的な傾向である。加えて、 先に述べたように情報技術の恩恵が個人に及ぶことによって、 図書を収蔵して貸与するという図書館の基本的機能までも存在意義を失いつつある。

─────── * ───────

5 結論

─────── * ───────

情報時代における図書館は、 新しい情報環境における公論の維持に貢献する必要があるだろう。 戦前の教化善導方針がもたらした結果に脅えて、 真実と誤謬が混交する現状にただ従うのみならば、 どうして図書館が公共的役割を主張することができるだろうか。また、 地方行政の縮小化の傾向にある現状において、 民主政治の基盤として図書館を位置付けるため、図書館は各種統計情報や行政情報 (公文書)のセンターとして機能すべきであろう。政策的決定をめぐって、 しばしば市民と対立的関係になりうる行政機関の一部門が、 同時に市民に行政情報を提供するという現在の情報公開制度は、 必ずしも中立的な仕組みではないと考えられる。そこで、 中立的な機関として図書館が市民の行政参加に不可欠な情報を提供するならば、 文書管理の面において行政を効率化するのみならず、 情報公開制度の本旨にも沿ったものとなるだろう。

端的にいえば、情報の価値が増す一方情報が洪水的に溢れる現代において、図書館は、 信頼にたる情報源としてますますその価値を増しているはずなのである。加えて、 図書館がこうした公共的役割を発揮しうるならば、 現在図書館が直面している著作権法上の諸問題も、 図書館の業務実態と調和するように解決していくはずである。

革新とは、組織を組み替えることや単に新しい技術や器機を導入することではない。 それは、伝統的に果たしてきた自らの役割を自覚し、 そうした伝統的役割を新しい環境において効果的に果たしつづける創意と努力である。 戦後制定された現行憲法を奉ずるこの日本社会において図書館の本質を考えるとき、 同時期に制定された国立国会図書館法の趣旨を再確認すべきであろう。

「真理がわれらを自由にするという確信に立って、 憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、 ここに設立される。」

Note

─────── * ───────

Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 助教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
e-mail: hideaki@orion.mt.tama.hosei.ac.jp