近年、情報技術の進展に伴って、書籍だのCDだのDVDだのなんだのといった著作物の不正な使用・利用やら違法な複製行為やらが増加し、そうした「著作物からの経済的利益によって生活している人」たちは莫大な損失をこうむっているらしい。私自身は、比較的に読書する人だろうと思うし、オーディオ・マニアなので音楽もよく聞く方だと思う。でも最近、書籍だのCDだのDVDだのが、なんだか つまらなくなって、買うに値するものがあまり無いからあまり買っていない。私のような人たちがたくさんいれば、情報技術がどうだろうが そうした業界が衰退するのは当然だと思うんだが、とにかく彼らは困っているらしい。困っているからには、なんとも気の毒であるという気持ちにはなる。 また、近ごろニュースにたびたび登場する文化庁という行政組織がある。基本的には、寺院とか仏像とか、古典芸能とか伝統技能とかといった、古くて大事で、大事にしないと壊れたり廃れたりしそうなものを保存したり維持するための組織だ(と思う)。そうした「古いもの大事大事」を基本とする組織が、なんで未来へ向かった創作活動に関する権限をもっているのか、私にはよく分からないところがあるのだが、これは、日本国においては、文化というものが基本的に「古いもの大事大事」を基本としていることを端的にあらわしているのかもしれない。さて、最近 文化庁は、古墳内部にはるか昔に描かれた国宝である貴重な壁画の保存に失敗してカビだらけにしてしまったらしい。それでそうした貴重な壁画を保存するという名目で、ただいまそれらの古墳を壊しているらしい。なんとも残念かつ気の毒な話である。 さて、「著作物からの経済的利益によって生活している人たち」からの請願に応えて、文化庁が最近推進していることがある。それは、著作権の保護期間を「創作者の生存期間+50年」から、「創作者の生存期間+70年」にする法案の準備だ。 読者の皆さんはあまり知らないだろうけど、私は知的財産権法の研究者としては、かなり変わり者であり、「著作権の保護をあまり強くするとロクなことはないよ」という立場をとっている。できれば、そんな損な立場をとりたくないわけなんだが、博士論文を書くために研究した結果、そういう結論に至ったのでしかたが無い。学者としての誠実さは、メシの種をどうするかという問題よりも大事だと思ってる。とはいえ、上記の気の毒な人たちの気持ちもわからないわけではないので、今回、著作権保護期間延長を擁護してみようと思う。 まず、どういう根拠で20年のさらなる保護が必要なのかということについて、文化庁へ出された要望をみてみよう。
1. 文化芸術の担い手である創作者の権利を保護し、新たな創造を促進すべきである。[引用元] こうした要望は、「文化芸術の担い手」である21の団体から提出されたらしい。[要望書][*] こんなによく似た組織がたくさんあるなあ、と感心するわけだが、きっとそれぞれ大事な役割を担っているのだろう。そして、それらの組織がこんなによく似た理由付けで、よく似た請願をするものだなあ、と感心してしまう。きっと20年間の保護期間延長は、彼らにとってとても大事なことであるのだと思う。そして、どの請願をみても文化庁がまとめた三つの理由に集約するところから判断して、他の根拠は存在しないか、仮に存在するとしても、それほど重要ではないのだろうと推測する。
[*] 要望書 をみると、2団体、すなわち社団法人電子情報技術産業協会と知財系BLOG運営者会議だけが、延長に反対している。こちらはいわゆる文化芸術の利用者側であるので、反対するのは当然だろう。要望の理由付けをみると、延長を要求する団体の中には、説得する意欲の乏しいものや、理由付けが完全に誤っていると思われるものもある。それに対して知財系BLOG運営者会議はよく研究しているなぁ、と思う。そこで、まず20年間の保護期間を延長する根拠として、私が力強く主張したいことは、私たちのような下衆な素人ではない、「文化芸術の担い手」である大事な皆さんが組織する、日本国の文化芸術の振興に大事な役割を担っている団体が、これだけ保護してほしいと政府にお願いしているという事実だけでも、延長の立派な根拠となるということだ。大事な人たちのために、保護を与える、補助金を与える、というのは日本国の文化保護行政の基本的な態度であり、この問題について専門的知識をもっている団体の皆さんや、文化庁が「20年間延長しないと困るよ」と言っているのだから、黙ってそれらの要求を受け入れることが、文化的国民としての日本国民の当然の態度なのである。こうした権威に対して疑問を抱いたり、反対したりするようなことは、「和をもっと尊し」とする日本の伝統に対する挑戦そのものなのである。 次に、延長の理由その1について検討してみよう。ここでの論理は、単に「創作者」ではなく「文化芸術の担い手」である者に限られているように読める。すなわち、「単なる創作活動のうち、程度の高いもの」を行う創作者の保護を主張しているように読める。しかし、著作権法の精神においては、独立して行われた(オリジナリティのある)創作活動をすべて保護することになっているので、程度の高い文化を 程度の低い文化から区別し、前者のみを保護することは想定していないと信じる。 さて、「創作者の権利を保護し」「新たな創造を促進す[る]」とある。ということは、権利保護が創造の促進に繋がると主張しているわけだ。通常の場合、ここでいう権利とは著作権法第17条から第28条までに列挙される諸権利を指していると考えられる。それらは、いずれも著作者に対して、自らの創作物に対する排他的な、すなわち独占的な支配権を与えるものとなっている。ということは、既存の著作物に対する著作者の支配を強化することで、新たな創造を促進することを目指すというわけだ。 「著作者による支配権の強化→創造の促進」という論理が成立するためには、次のような考え方をとらざるえない。 著作者による排他的支配権の強化によって自由が増大するのは著作者本人であり、逆に他者による作品の使用・利用には制限が増大する。これは作品についての利用を、金銭等の経済的対価と交換で許諾するような場面でもあてはまる。著作者は、自らの作品に対するより強い排他的支配権から、より大きな経済的利益すなわち経済的自由を獲得しうると考えられるからだ。対して、作品の利用者はより多くの対価支払いを余儀なくされる。これは、片方が増大すれば、片方が減少するシーソーのような関係にある。 通常の場合、創造が行われるためには、表現活動における自由が増大することが望ましい。表現活動における自由が大きい領域においては、創造の可能性が増えるわけだから。このことは、創作者において経済的自由が大きいことが望ましいこととも連動している。創作者により大きな経済的利益を保障すれば、より優れたより多くの創作が行われるのだ、という信念に立脚する立論をインセンティヴ論という。知的財産権を正当化するときに頻繁に主張される考え方だ。 すると、ここでいう「創造」とは、ある作品を創造した著作者によって その作品が発展的に展開されることを意味しているか、あるいはある作品から獲得される経済的利益を基礎として続く創作が行われるのであると読める。インセンティヴ論の主張にも関わらず、創作者における経済的自由の増大によって創作が増大するとする経済学的証明は存在しない。ただ、創作の「可能性」が増大するとは言えるだろう。こうした論理においては、他者の作品に依拠せずに創作を達成するという難行を成し遂げた著作者は、その後、創作についてより多くの自由領域を獲得し、そこに創造的な要素を次々に追加して、更なる創作を心置きなく展開していくという姿が予定されている。西洋近代が予定している、「自由な精神による万人による創作」という状態ではなく、伝統や技能や型(カタ)の継承という家元制度的創作の姿がうかがわれるが、その方が望ましい面があるのだろう。 さて、こうした支配権の強化によって著作者がじっくりと作品を洗練させ、あるいはマンネリ化させていくことができるわけだ。ところで、この論理が前提としている目的は、創作者本人の死後に与えられる保護期間の延長である。すなわち、創作者本人が死亡した後 50年間、すなわち死亡時に「おんぎゃあ」と生まれた彼の子供が50歳になるまで保護する、という現行の保護期間に加えて、さらに20年間保護を延長しようとするものだ。つまり創作者の孫が老年に達するまで、創作者の著作権の相続者に作品の支配権を認めさせたい、ということを意味している。 この論理の背後には、ある作品を基礎とした創作活動や、ある作品の発展・洗練は、創作者の子孫あるいは相続者によって制御されるべきであるという考え方が示されている。この考え方には、知的創作の能力は遺伝するという思想があると思われる。たしかに、偉大な音楽家であるバッハの家系にはたくさんの音楽家が生まれているらしいし、近年においても、芸術家、芸能人、俳優、政治家等、高い知的能力や芸術的感性が必要とされる職業において二代目、三代目が多く見られることからも、知的創作能力の遺伝ということは立証されうるかもしれない。こうした優秀な血統の人々に対して、そうでない人々よりも大きな創作の自由を与える政策には、効率という観点からみて合理性があるかもしれない。 ところで、創作者はその権利を企業体に帰属させることができる。事実、企業体が著作権を保有していることは めずらしくない。この状況について長期の保護期間を認めさせることで、創造を促進するということは何を意味しているだろうか。これは、ある作品の洗練・発展や、ある作品を元にした創作については、その企業体で継続して行うことが望ましいという考え方を示している。 こうした状況において、企業体が保有している作品に関連して創作を行いたいと考える個人は、企業体の被用者となるか、企業体と交渉して(経済的対価の支払と交換に)利用許諾を得なければならないことになる。これは、企業体が保有している著作物を、あたかも工場に設置された機械のような生産手段とみなして、その「資本」の支配下に個人を置こうという政策にみえる。すなわち、創造を行いたいと考える個人の立場から見れば、知的資本によって支配(搾取)される知的労働者という図式になってしまうわけだ。しかし、現在の資本主義の勝利をみても明白であるように、価値のある財は、民間営利企業体によってこそ効率的に活用され、最大の効用を抽出することができる。それゆえ、このような知的財産資本主義体制(=知的創造の「労働化」)は、全体としてみた場合、創造を促進する効果を持つのである、という思想が展開されていると見ることができる。 続いて、延長の理由その2について検討してみよう。ここでの論理は、「日本国が知的財産戦略を推進している」という事実認識のもとに、「著作権の保護期間について外国と調和すべきである」としている。ここでの「調和」が意味することが20年間の保護期間の延長であることは明らかだ。確かに、EU諸国は、著作権の保護期間を生存期間+70年としている。単純に考えれば「よそが伸ばすなら、うちもうちも!」という論理が考えられるが、知的創作を行うような知的水準の高い人々の団体の主張の根拠がそんなに単純なものとは考え難い。というのは、その20年間の延長が「知的財産戦略」の一環として行われるものであることを示しているからだ。何らかの経済学的分析に基づいた、日本の国益に結合する合理的な戦略的思考の結果として20年間という数字が導かれているのだろうと推測する。ところが、私の手に入る範囲では、20年間の保護期間の延長によって、わが国にどのような利益があるのかを提示している資料は見つけられなかった。 ただ、一般的に、わが国が知的財産に関連した商品について輸出超過にある場合、とくに今回計画されている20年間の延長によって、保護期間の満了を免れる作品群について輸出超過にある場合、保護期間の延長は、海外との取引において有利に作用する。知的財産の利用にともなって発生する収益がより長期間にわたって発生するわけだから、利益となるだろう。しかし、逆にそれらの保護期間の満了が迫っている作品群について輸入超過状態にある場合は、保護期間の追加的延長は、海外との取引において不利に作用する。たとえば、知的財産に関連した商品の輸入超過状態にある開発途上諸国においては、むしろ保護期間を短縮したほうが国際収支上有利になる場面が多いと考えられる。それゆえ、ベルヌ条約においては、条約加盟の条件として、最低限の保護としての「著作者の生存期間+50年」を定めているわけだ。 こうしたことから判断するに、戦前から終戦直後頃の時期に作られた作品群について、わが国は輸出超過状態にあるのだと思われる。ただ、専門家ではない私の主観では、その時期において、知的財産について言えば、わが国は圧倒的な輸入超過状態だったのではないかと推測するのだが。さらに この立場では、知的財産戦略の検討の結果、著作権の保護期間の短縮や、より自由な使用・利用を一般的に許したほうが有利であると判断される場合、政府は、諸外国にその利点を説得し調和を促進することになるだろう。こうしたことから、延長の理由その2は 延長あるいは短縮について中立的な理由であり、それ自体では延長の理由としては説得的でないと私は思う。 それでも理由として掲げられているからには、最初に排除した仮定である、「よそが伸ばすなら、うちもうちも!」という論理が採用されているのではないだろうかとあやしむ。もちろん、こうした横並び的発想もまた わが国では説得力をもって主張され、しばしば採用されるのであるから、単純ではあるが十分な理由であるとはいえるだろう。 最後に、延長の理由その3について検討してみよう。実は、この理由付けは、独立した理由としては意味を成していないように読める。すなわち、「我が国のコンテンツ創造サイクルの活性化」は、理由その1と同一のことを述べており、「国際競争力の向上を図る」は、理由その2と同一のことを述べていると読めるわけだ。しかし、「理由が二つではカッコ悪い」「理由としては三つが収まりがいい」 というような安直な理由でその3が設定されたとは考えられないので、さらに20年間の保護期間の延長によって、コンテンツ創造が活性化される、その他の状況があるのだと推測する。また、さらに20年間の保護期間の延長によって我が国の知的財産関連貿易が、さらに利益を上げると考えられる根拠があるのだと推測する。 ...うーん。説得力ない... やっぱり無理だ。すくなくとも延長を要望している主体から提示されている理由付けでは、さらなる20年の延長を正当化する根拠が弱すぎる。そこで、やっぱりタイトルを変更しよう。
やっぱり著作権保護期間延長を批判するもちろん、「すっごく短い『エルドレッド事件』へのコメント」でも書いたように、合衆国連邦最高裁判所は、20年間の保護の延長を憲法に違反しないものとして容認した。だから、アメリカの法律上の最高権威においても、保護期間の延長は認められているのだということは確認しておきたい。ただ、このエルドレッド裁判において初めて保護期間延長の是非が、真剣勝負の法廷において全力をもって議論されたのだから、そこでの議論は、肯定派・否定派いずれの主張であっても貴重なものであるといえるだろう。 さて、エルドレッド事件で用いられた「さらなる延長は憲法に違反する」という論法は、憲法に「独占的権利を限定された期間付与する」という文言があるアメリカにおいては有効だが、著作権を財産権と人格権の混合した所有権の一種としてみる日本や欧州では基本的に通用しない。「著作権は所有権の一種なのだ」「所有権は絶対なのだ」と言われれば、グウの音も出ない。逆に「なぜ著作権の保護は永久不滅ではないのか」「もっともっと保護期間を延長すべきである」という主張すら可能となる。所有権であれば所有権の対象が滅失するまで永久に存続するものとされているからだ。 この点について、私は、博士論文とそれを書籍化した『コピーライトの史的展開』(信山社)において、著作権(コピーライト)が所有権ではなく独占権として始まったことや、その独占権の効果を正当化するために、所有権理論が後からくっついてきたことを確認した。また、『岩波応用倫理学講義 第3巻』(岩波書店)に掲載した論説「知的所有について」においても、知的所有という概念の曖昧さ、所有概念との違いについて述べてきた。つまり、私の立場では、著作権は所有権の一種ではないということになる。 というわけで、この問題は、権威の争いとなるわけだ。「著作権は所有権と同じものである」という主張がある。この主張は、かなり一般的に承認されているように思われるし、実際「権威ある」とされている論者もまた、こうした立場をとる人が多数だ。もちろん、さらに20年間の保護延長を要求している人たちも、この立場をとっていると思われる。彼らの主張の根拠は、「偉い人もそう言っているし、みんなもそう言っている」という一点にかかっている。逆に私のような、「著作権は法律に依拠して作り出された独占権である」という主張は、アメリカにおいては上記の合衆国憲法に依拠して、それ以外の国においては著作権制度の歴史的沿革を基礎に主張される。私自身は、歴史的沿革がその制度の本質をもっともよく説明するものと信じるが、「みんながそう言っている」という主張は、やはり多数に頼んで強力であることを認めざる得ない。 そこで、読者が権威を信じるならば、私にはこれ以上読者を説得する手段を持たない。逆に、「著作権は法律に依拠して作り出された独占権である」という主張を受け入れてくれるならば、保護期間延長の是非は、20年間のさらなる保護によって、誰がどのような利益を獲得し、誰にどのような不利益が生じるのか、を分析することで判断できることになる。こうした考え方は、法学業界では「法の経済分析」あるいは「法と経済」という名で扱われる[*]。今回の記事の字数も尽きることもあり、続く分析と検討は次回に持ち越したいと思う。 [*]「法の経済分析」については、こちらも参照ください。
告知突然寒くなってきた最近ですが、みなさまいかがおすごしですか。私は、あまりに突然寒くなったので なんだか天気にハラが立ってきて、テレビのお天気お姉さんにヤツ当たりしたりするこの頃です。 さて、今回のテーマである著作権保護期間延長については、最近刊行された、野口英司 編著 『インターネット図書館 青空文庫』(はる書房) もぜひご覧ください。この記事を書いている途中に絶妙なタイミングで刊行されたようです。これまで青空文庫が作り上げてきた成果 (青空文庫収録作品のDVD付)、その活動に携わった人たちの思い、そして保護期間延長によって何が得られ何が失われるのか、がとてもよくわかる内容になっています。 茶会は細々と続いています。すこし活発にはなりました。でも、ちょっとまわりから浮いている変わり者のあなたの参加を待ってます。
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白田 秀彰 (Shirata Hideaki) 法政大学 社会学部 准教授 (Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences) 法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450) e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp |