De Legibus et consuetudinibus Interreticuli

いただいた投稿へのフォロー I

白田 秀彰とロージナ茶会

さて今回は、予告のとおり、以前の実況中継からこれまでに頂いた読者の皆さんからの投稿にお返事することにします。前回、この連載の形式について なにかコメントください、とお願いしたわけですが、やっぱり何も来ませんでした。まあ、たいていの人は Text Only Version で読んでるみたいなんで、自分のブラウザで好きなように読んでるんだろうと思います。愚問でした...

では、まず「メンドウな事態とポリシー・ロンダリングについて」についての投稿から。こちらは、その前の「政治的であることについて」とも絡むお話。

仮に発言力を作るために利益を代表させる仕組みをこさえたとして、それを実社会の政治に持ち込むにはやっぱり実社会での代表者を議会なりなんなりに送り込まなくちゃイケナイのかな。それだと最初のハナシのとりまとめだけ低コストで出来そうだけど、結局は実際に「金」がないとダメなのかしらん。

ネットワークを通じて「金」を集めればいいのかなぁ。そんで、普通のやり方で利益の代表者を実社会に送り込む、あるいは「メンドウな事態」を引き起こす技術を買うのかなぁ。

(中略) 「メンドウな事態」を使わずに、法と秩序を保ったまま発言力を持つネットワークならではの方法って、結局は行動を実社会上に戻すか、みんなでいろんなことを放棄するしかないのかしらん。

(中略)「政治的要求を代表する回路」って、出力先はネットワークでも実社会でも同じですよね、政府は1国に1個しかないんでしょ?「ネットワークならでは」っていうのがなんかピンと来ないッス。

私自身は、自由主義政体を支持している。アメリカ独立の頃のように、(1) 強力な州政府(地方権力)と制限された連邦政府(中央権力)が緊張関係にある状態、(2) 国民が(自立|自律)していて、基本的に政府を疑っていて、自分自身で政治に参加しようとする状態が望ましいと思ってる。強力な中央政府を志向するような政治体制は、だいたいロクでもない結果になると思ってるし、一方で国民の性善説に立った無政府主義はタワごとだと思ってる。前者としてはマルクス=レーニン主義すなわちボリシェビズムや、強いナショナリズム、ファシズムなんかが該当する[1]。後者は広い意味でのアナーキズムが該当する。

[1] 茶会のメンバーからツッ込みが入りました。本文をいじると面倒そうなので、転載します。下記の指摘、まったくそのとおりだと思います。私が連邦政体を「望ましい」と考えているのは、単に私の*趣味*であるとご理解ください。

連邦体制と中央集権体制を対峙させて、中央集権体制を悪としてしまうのはいささか問題があるように思います。たとえば戦後日本の政体は日本国憲法において地方自治制度を充実させたにもかかわらず中央集権的であるとされ、それにもかかわらずこれだけの繁栄をもたらしたわけですし、その他にもフランスなど先進国といわれる国々にも連邦制を採用しないところがありますので、中央集権的政治体制を消極的に解するにはもう少し丁寧な説明が必要であると思います。

また、ソ連については、政体としては連邦制をとっておりますが、ソビエト共産党を通じてごく一部の指導者のもとで運営されていたことが問題であったわけですから、この点誤解を生じさせないよう配慮されてはいかがでしょうか。読み違えられることはあまりないとはおもいますが、念のため。

上記の質問は、質問者が意識してるかどうかはわからないけど、中央政府の存在を国家の基本的な形としてとらえる近代的な国民国家をイメージしているように思う。しかも、現体制の枠内で政治的要求を実現しようとしているので、穏健路線だといえる。もちろん、それは健全な認識だと思う。機能する議会制民主主義は貴重な社会資本であり、これを守ることは、あらゆる社会的利害を超えた価値だ。

でも、それはネットワークがなかった時代の話かもしれない。

ちょうど今、Peter Ludlow 『Crypt Anarchy, Cyberstates, and Pirate Utopias』という本を読んでる (以下、『クリプト・アナーキー』)。この本は、ネットワークで表明された政治的文書を集めたもの。クリプト・アナーキズムの部分を読んでいて、上記の質問というか意見について思うところがあった。

『クリプト・アナーキー』では、(1) ネットワークでの人々の交流と繋がりが拡大していくなかで、国民国家を形成していた、地理的・血縁的結合が解体し、国家の枠を超えて人々が繋がり、国家の国民統制が困難になること、(2) 強力な暗号化(クリプト)ツール、たとえばPGP等が一般的に普及することで、国家による国民の監視・統制が困難になること、これらの二つの理由で、人々が「別に(既存)政府なんてなくってもいいよね」という感じになってしまうとする。だって、国家は国民を監視・統制することで、国民の自由、財産、安全を保障するために存在するわけだから、国家が人々を統制できないなら、存在するだけ邪魔だ。

アナーキーとはいっても、汗臭い武装闘争をするんじゃなくて、人々が暗号技術を活用することで、国家の手の中から砂がサラリとすり抜けていくようにアナーキーが実現してしまう感じ。こういう静かなアナーキズムがクリプト・アナーキズムだといえるだろう。

ところが、ネットワークに参加している人たちが、みんな良い人であるわけがないから、紛争解決のための「政治」を行う仕組み、すなわち、なんらかの形の「政府」が必要になる。『クリプト・アナーキー』では、ネットワーク社会における政府の形についても議論している。いくつかのネットワーク上のコミュニティでは、自治ルールが形成されたりして、政府っぽい統治機構が現れたりしているようだ。このあたりは、同書では、「サイバーステイツ」として取り扱われる。でも、ネットワーク上の統治形態についての決定版は、まだ出てない。こういうことは、ぜひぜひ政治学の皆さんに考えてもらいたいんだけど、なにかいいアイデアやモデルは出てるのかな? でも、ネットワークが地理的制約を持たず、ネットワークを監視・統制する能力が統治の基本だとすると、既存の政府とはまったく違った形にならざる得ないと思う。それは、「一つの地理上の国に一つの政府」というこれまでの原則を覆すことになる可能性が高いと思う。

余計な話だけど、いま日本政府が e-government なんていう構想を掲げてる。だいたい、e- をつければカコイイ!(・∀・)と思ってるセンスが、もうどうしようもなく高度成長期のオヤジ臭がしていたたまれない。かつてのインパクみたい。情報時代の統治の問題は、既存の政府組織をコンピュータ化・ネットワーク化するという話じゃない。まあ、しないよりはマシかもしれないけど。より根本的には、コンピュータやネットワークがもたらす可能性をどのように使って、可能な限り人々に自由を保障しながら安定した統治を実現するかという視点から考えなければならない。強力なネットワークへの監視・統制能力と、その強力な監視・統制能力を抑制する政治・法システムの設計と実装を考えることだ。

次世代の軍事力・警察力を生み出すのは、数学者とコンピュータ科学者。数学者が原理を考え、コンピュータ科学者がそれを実装する。次世代の統治機構を生み出すのは、政治学者と法学者。政治学者が設計し、法学者がそれを実装する。... ほんとは、それらのプロセスを一般の国民も理解し、批評・指導しうることが望ましい。けど、ごく一部の意識の高い人々を除いて無理だと思う。しかし、このことは絶対的な欠陥ではない。設計と実装がオープンにされていて、個別的な政治的決定から中立のシステムとして実現されていることが一般に確認できるなら「どんなバグでも深刻ではない」。これはオープン・ソース的アプローチといえるだろう。

明治維新の前夜、徳川幕府は、ヨーロッパの議会制を学んで、将軍を首長とする諸侯会議へと政体を変更し、政権を維持しようとした。旧来のシステムの上へヨーロッパの近代システムの装いをつけようとしたわけだ。しかし結果的には、旧体制を完全に廃棄して まるっきりヨーロッパ型の政体を移植した新政府が、その後の日本の発展を道づけた。そのとき新政府を構成していたメンバーは、ヨーロッパの近代システムを留学等で直接学んだ三十歳台あたりの中・下級武士階級。それよりオヤジの連中は、全員政権から追放された。ワカってない人たちを残したまま、新しい状況には対応できない。「時代は変わった。もはやこれまで。」と、ワカってる人たちに(比較的)アッサリと政権を渡した幕府の連中は、メチャメチャ誉めてあげてよいと思う。武士の偉いところはこういうところだ。

英米諸国が連携して、エシュロンという世界的な通信傍受・監視システムを構築しているという話がある。アメリカ政府は、NSAという組織において、世界最高の暗号解読能力を保持しているという。日本政府が21世紀にも何かするつもりなら、エシュロンに対抗しうる監視・統制システムの技術開発と、そうした監視・統制システムから人々を保護する技術開発、そして、それらの監視・統制システムが暴走しないように制御する政治制度・法制度の研究をすることが 必要なはず。次世代の人々の自由と安全を目的として、次世代の政体を生み出す研究を 旧世代の政体が推進する。自らの権力を奪うだろう勢力を育てて、自らの介錯をさせる。これができればアッパレなわけだが、まあ、そういうことはしないだろうね。

続いて「メンドウな事態...」の知財分野に関するコメント。

現実に、国連の官僚と各国の外交官だけで、国連の活動は成り立ってないので、知的財産の分野に関しても、NPOとか業界団体(反対派、賛成派)とかが適当にぐちゃぐちゃやってれば、それなりにいい方向に進むんじゃないかなぁ、と思いました。

これを「適当にぐちゃぐちゃ主義 (以下、「適ぐちゃ主義」)」と言ってしまうと、せっかく投稿してくださった方の気分を害するかもしれない。ごめんね。でも、わりとこの「適ぐちゃ主義」は、ネットワークの気分として一般的なような気がする。それは、これまでのネットワーク統治が、大雑把な合意 (rough consensus) によって、けっこううまく進んできた経験からだと考えられる。でも、適ぐちゃ主義がうまくまわるのは、利害関係者が共通の文化的背景をもち、類似した属性をもち、共通の価値観をもってる場合くらいなものだ。

しばしば指摘されるように、1995年以前にインターネットに接続するのはエラく大変だった。大学や研究機関でUNIXワークステーションを使ってるのでなければ、たとえばWindows なら Windows 3.1 に Trumpet Winsock というソフトをインストールして、手動でネットワーク設定をして、ようやく接続できるというような状態だった。UNIXワークステーションだって、素人には理解不能・操作困難というハードルの高さがあった。

このハードルを乗り越えてインターネットに現れてくる連中は、最低限のハードウェア・ソフトウェアの運用能力が保証されていて、年齢層や性別等の属性もかなり高い確率で揃っていた。これなら適ぐちゃ主義でも、そんなに合意形成過程は紛糾しないし、そんなにヘンテコな決定がされる危険は低い。でも、インターネット利用の一般化で その構成員たちの同一性が壊れてしまったから、いま、インターネットの秩序維持・統治の問題が深刻になってるんだ。もう「それなりにいい方向に進む」なんて楽観してられる時代は終わった。しかも、国連なんていう「私たちから遠い」舞台で、知的財産という「金が絡んだ生臭い」領域が問題になってるならば、「望ましい解にそのうち到達する」なんてとても楽観してられない。

世界のどこを見渡しても、兵士一人一人の意見を合議制で作戦に反映させるような民主的軍隊がないことでもわかるように (あったら教えてください)、具体的な目的を効率よく達成するには、ピラミッド型の統制構造をもった軍隊型組織が望ましい。そのときどきの時代の軍隊は、具体的な目的達成のための組織形態への解答なんだ。だから、知的財産の領域において、たとえば「権利強化」という具体的目的がある場合、経済力のある軍隊型組織が、その目的に向かって政治(戦略的&戦術的)に攻めてきたら、権利強化にブレーキをかけるために、ぐちゃぐちゃっと集まっただけのNPOやら業界団体やらは、蹴散らされてしまう。それに対抗するためには、NPOやら業界団体も軍隊的組織と戦略・戦術を採用するしかないだろう。実際、アメリカの強力なNPOや圧力団体は、潤沢な資金、企業的組織、研究機関、多数のロビーをもち、緻密な戦略と戦術を駆使している。だから、適ぐちゃ主義を唱えることは、すくなくとも具体的な利害を巡る攻防に参加する態度としては適切でない。

前に述べたように、ネットワーク的統治が基本的にアナーキズムを志向するなら、現実世界側の組織との具体的利害をめぐる交渉において、ネットワーク世界側の利益主張は、かなり不利だと考える。この問題については、(1) ネットワーク的アナーキズムを前提として、軍隊型組織に対抗するような組織形態とはどのようなもので、いかにそれを構成するのかという組織論の話になるだろうし、(2) ネットワーク的アナーキズムが戦略的組織らしいものを構成できないのなら、ネットワークならではの情報環境を生かして、どのような戦術を採用すべきかという戦術論の話になるだろう。まだ『クリプト・アナーキー』を読み通してないので、見通しはないけど、そのあたりの話は同書の後半に出てくるのかもしれない。だけど、そろそろ真面目に考えてもいいんじゃないだろうかと思う。もう、そうした論文なんかがあるなら、ぜひぜひ紹介してください。

さて、続いて「茶会」付近においでくださってる人たちからの投稿。なんだか身内みたいな感じに...

まず、のらDJさんから。

そこで、この連載「法と習慣」でネットラジオについて取り上げ、考察をお願いしてみます。

単に音楽のみならず、ニュース読み(「blog読み」)……つまり、この連載を「勝手に」生ネットラジオで読み・紹介し、番組のネタの一つとして取り上げる事や、そのような行為が簡単に誰でもできる現状と、地上波ラジオとの違いやそこに存在するであろう問題点等についてです。

うむむむ。具体的すぎ。放送行政の問題と知的財産権の問題で、かつネットラジオという新メディアについてそれを述べると... これは腰を落ち着けないと書けません。というか、私自身がネットラジオ界についてそんなに詳しくないので、のらDJさんからいろいろと教えていただかないと難しいですね。いずれよろしくお願いします。ネットラジオ界で困ってることなんかがまとまってるサイトとか番組とかあったら紹介してください。

みちむこさんからの投稿。

米国は判例主義の国と言うことはよく言われることですが、日本もそれに近いと言う幻想でもあるんじゃないですかね。だから、まず多少いい加減でも法律的に制限を作ってしまう。しかし、これが米国ほどには「やってみて、司法の判断を待つ」ということが機能していない気がします。裁判自体が少ないこともありますが、「まずやってみよう」という人は、米国に比べて更に少ない気がするのは私だけでしょうか。こうして、息も詰まるような状況になっている気がするのです。

これをうけて「法律の重みについてI, II」を書いたので、お返事はそちらの記事ということで。アドバイスありがとうございました。

... と、このあたりまで書いたところで、茶会のメーリングリストに次のような記事がまわってきた。

ところで、知り合いの院生から以下のタレコミをいただきましたので転載します。
文体の過激さはともかく、ワイヤード記事への率直な感想を頂けたようです。

>   よく見るウェブサイトに白田先生に対する
>  批評が載っていたので、良かったら読んで下さい。
>  好き好きおにいちゃん! 内 [2]
>  kagami著 「アドルフ・シラターの誕生 −我が法律−」
>  (2004年9月15日頃公開)

[2] 現在「アドルフ・シラターの誕生」のURLは変わって、http://mazoero.hp.infoseek.co.jp/utas.html から参照できるようになってる。

おー! きたきた! こういうのを待ってました! 2004年現在の2ちゃんねるでは、この言葉は、「痛いところを突かれたときの負け惜しみとして用いられる」と聞いていますので、あえて使わせていただきます。

釣れた

これを書いた kagami さんは立派な人だと思います。これだけビッチリ文章を書いて、参考文献を挙げてるんですから。私よりも勉強しているに違いない。すくなくとも私は現代思想・哲学については完全ドキュソです。まあ、いまどき18世紀の理性主義を標榜する化石がときどき生き残ってるのも悪くないと思う。これも多様性だろうから。kagamiさん、私は多様性の信奉者ですよ。多様性があるからこそ、私が古めかしい理性主義を唱えても世の中が大きく道を誤らない。たぶん、私が合理主義全盛、理性主義万能の19世紀に生まれていたら、神秘主義でも叫んでたんだと思います。占星術とか好きだし。

世界は均衡と調和で成立していると思います。

私のことをヒトラーになぞらえたあたりは、なんだか私の近くにいる人かも...(笑)と思わせてしまう。でも、ほんとに近くにいたら、カリスマ性がまったくないのにも気づいてたはず(笑)。私の物心ついたときの憧れの人は、仮面ライダーの悪役「死神博士」。幼い瞳をキラキラさせながら「いつか博士になって改造人間を作るんだ!」と思ってたら、ほんとに博士になってしまった。文系だったけど。いつも好きになるのは、整然とした悪の組織。マトリックスでは、エージェント・スミスに萌えて、サングラスを買ってしまった。スーツでカンフー萌え〜。

kagamiさんのほかの文章を読むと、過激な煽り表現が持ち味みたいなんで、どこまで kagamiさんが本気なのかわからない。でもね、貴方ならわかってもらえると思う。安心して右派(保守)の立場をとりつづけるためには、左派が存在し、それ以上に多数の中道層が存在しなければいけない。私のような人間が世の中の多数派を占めるようになったら、エラいことになる。まず、国家予算の大半を傾けて 大型二足歩行汎用機械の開発をはじめてしまう(笑)。茶会のメンバーも、萌え絵を書く人、真面目な大学院生、哲学思想系の人、左翼の人、共産趣味の人、私と似たような悪の組織萌え〜な人まで幅広くいる。それで仲良く議論してます。これが多様性であり、この多様性を支えるのが、「理性」というインターフェイスなんだ。もし茶会のメンツが理性的に対話してなければ、つかみ合いの大喧嘩を始めてロージナ茶房から出入り禁止を食らってるはず。

今、私が懸念しているのは、多様性ではなくて、商業主義の圧力によって「作られている多様性」。たくさんの差異を生み出すことができれば、多様な商品を売り込むことができる。差異を生み出すこと自体が目的となって多様な商品が投入される。そうした現在の商業主義の圧力の中で、人々が本来的に持っていた本性・個性が歪められているように思う。「貴方は誰?」という問いかけではなく、「貴方は誰になりたい?」と問い掛けられているように思う。そうした「作られた多様性」のなかで、人々の認識をつなぐインターフェイスが存在しなくなったとき、対話が成立しなくなる。対話が成立しないとき民主主義は死ぬ。

よく理解していないのを曝して述べるなら、ポストモダニズムでは、多様性と個の自由を強調し、自らとは異なる他者との終わりなき対話で社会・世界を維持しようとしているんだろうと思う。でもね、対話にはインターフェイスがいる。他者の多様性が増していくとき、ある段階で対応力に限界が現れて断絶が起きる。もう起きてる。断絶の結果、理解不能な他者は恐怖の対象として現れるようになる。そこで、「もっと対話を!」と叫ぶのもいいだろう。でも、情報技術・監視技術は、壁や鉄条網を使うことなく、自分と対話可能な他者と、対話不能な他者を巧妙に、空間的に、認識的に 分断していくことを可能にしつつある。そうした分断化は、社会における広い意味での「安全保障 | セキュリティ」という大義名分で進みつつある。分断された「対話のようなもの」がもたらすだろう「民主主義のようなもの」の上に現れてくる多様性って、多数の孤立したカルトの集合体にすぎないんじゃないだろうか。

認識をつなぐインターフェイスには、信仰や歴史や哲学や世界観などが考えられる。現在は、それらすらも商品として売り込まれる時代。そんなとき、これまで機能してきて、これからも機能する *比較的中立的な* 認識と対話のインターフェイスとして、私には理性しか思いつかない。もちろん、この理性もまた自然なものではない。長期間にわたる綿密な教育によってはじめて人間に実装できるインターフェイスだ。私が理性を設定することが重要であると言うのは、理性による人間や社会の統一的支配ではなく、理性をインターフェイスとする対話の基盤を維持することで、多様性を保障すること、多様性を保障しうる政治体制を維持することが重要であると主張したいわけ。私の文章力が足りなかったのなら申し訳ない。

もうすこし噛み砕いて言えば、教授だろうが、ヲタだろうが、ドキュソだろうが、ヤンキーだろうが、ヒッピーだろうが、いざ事があったとき、合理的な解を発見するための議論の場に全員が参加できる程度のところまでは、少々無理をしてでも持ち上げておかなきゃ、どこかの悪の組織が他の連中をキレイに洗脳して全体主義を作ってしまうぞ。... と言いたいわけ。多様性の名のもとに、データベースを消費するだけの「動物的」ヲタでもいいんだという現在の風潮は、私の目には情報技術を用いた監視と隔離と洗脳のステキな世界への一里塚に見える。

じゃ、対話のインターフェイスとしての理性を誰が設定し保持していくの? 国家? 企業? アカデミズム? 少数の人間にこの作業を任せてしまうのは、その作業内容と結果を多数が監視できなくなるから危険だ。理性は設定可能であるから、少数者が設定してしまうとバイアスがかかる。私には、その仕事は、第13回でも呼びかけたように、「哲学や文学...人文系の学者の皆さん、エンターテイメント業界を含むマスコミに影響力のある皆さん」 にワヤワヤ言いながら やってもらうしかないと考えているわけ。これなら ある立場に重心が移っても、均衡を取り戻そうとする作用が起きることが期待できる。というか、そうした人たちは、主張の偏りを敏感に察知し、反対の主張を支持することで均衡を維持することを仕事にしてきたと私は考える。あるいは、新しい議論の空間として、たくさんのブログのネットワークがそうした役割を担うようになるかもしれない。

「エリートが設定」と書くと、すぐにソビエトやナチスのイメージが飛んでくる。それはわかるんだけど、あまりにも短絡的じゃないかな。kagamiさんは、私が『最高の理性と知性が社会を支配すべき』と書いたように書いてるけど、私はこう書いてる。

個別具体的な政治的決定については、民主的プロセスで決定することが、おそらくもっとも望ましいんだろうけど、民主的プロセスが動作する基盤は、最高の理性と知性をもって設計し、設定し、維持しなければならないんじゃないだろうか。それが、どのような民主的プロセスが動作するのかに、強く影響するという危険があるわけだけど、なんとも仕方がないんじゃないかと思う。

この二つの違いがわかってもらえるかな? わからない? それなら私の文章が下手なんだ。精進します。

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まだ、いただいたメールはあるんですけど、今回は長くなったし、テーマがなんだか揃ったみたいなんで、このあたりで一回切らせてもらいます。次のフォローは、1月か2月ころに。来月は、プライバシーと個人情報保護についての原理的考察を予定しています。この領域での理解がずいぶん混乱しているみたいなんで。これまた長くなりそうなんで2回連続になるかと思います。

皆さんからの投稿を募ってたんですけど、ほとんど来ない投稿よりも 圧倒的にSPAMが多いんで、しばらく募集は停止しようと思います。ケッサクなSPAMの表題としては、『おはようございます。山下です。』 というやつとか、『無料で「冬のソナタ」ロケ巡りツアーに行きたくてお願いします!!』 というやつ。山下って誰だよ! とか、 勝手にヨン様のところにでも行ってこい! という感じですな。

でも、相変わらず批判・罵倒・嘲笑を待っております。投稿してこなくてもいいから、自分のblogにでも書き込んでおいてくださいね。 そのうち発見して、返事さしあげますので。

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Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 准教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp