最終回にあたって、何を書こうかとずいぶん考えた。で、この原稿を書いている段階ですでに締め切りを過ぎているわけ(泣)。もう仕方がない、ということで必ずしも「法と慣習」という表題とは沿っていないことを書かせてもらおうと思う。でも、ここで書くことは、私がずいぶん長いこと考えていることでもあるし、読者の皆さんの中でもとくに年若い諸君に私が訴えたいことでもある。ちょうど4月。進学や就職で新しい環境に移る諸君も多いだろう。私からのちょっと危ない贈り物だ。 さて、以前、「ラジカルな保守という態度についてI」で、部分社会説、新領域説、四規制力説という三つの見方を示した。ここで繰り返すと冗長になるので、該当部分を参照してほしい。これらの見方では、現実界とは異なった性質をもつ空間としての電網界に、どのように現実界の法あるいは法律が作用すべきなのか、が主たる課題となっていた。もちろん、この連載もそうした視点で書いていたつもりだ。 しかし、前回の記事である「法律とプログラミング」では、むしろ電網界の特性を現実界の法や制度の改善のためにどのように使うか、ということについて述べた。「現実界→電網界」について考える場合に、私はわりと真面目な話として記述してきたにもかかわらず、「電網界→現実界」について考える場合は、ラジカルな私ですら「妄想」と前置きして書き始めている。ガッシリとした現実の前に、仮想の世界はなんだか一ランク下にあるように思いがちだ。 ところが、私たちが信じている「現実」というのも、ずいぶんアヤフヤだ。私たちの知っていることのうち、自分自身で確認したことってどのくらいあるだろう。私たちの世界観を形成しているほとんどすべての知識が、何らかのメディアを通して獲得されていることは、よく指摘される。でも、私たちはそのことをあまり意識していない。いや、意識したくないんだと思う。私たちの脳には、不快なことを忘れてしまうという自己防衛機能があるらしいから。 私たちが直接見聞きしている世界は、次のようなものではないだろうか。静まり返って人気のない、どこにでもある空虚な住宅街。埃っぽいアスファルトの道路。一人歩く老人。コンクリート作りの収容所のような学校。愚昧な教員による無意味な授業。シャッターが下りた廃墟のような商店街。全国どこに行ってもまったく同じチェーン店。立ち並ぶ毒々しい色の看板。絶望的な気持ちになる。 では、私たちが好ましいと思っている世界は、どのようなものだろうか。若夫婦が子供の手を引く緑豊かな住宅街。楽しい仲間たちのいる活気ある学校。素敵な彼氏/彼女。厳しくも優しい心暖かな先生たち。人情味あふれる人々の集まる商店街。興味深い商品でいっぱいのお店。そうした場所が実際に存在しないわけではない。しかし、ほとんどの人たちにとって、こうした世界は、メディアの中にのみ存在する。でも、なんとなく世界は「そうあるべきだ」と自然に思い込んでいるはずだ。 そうした現実と幻想の間の差が、私たちに不満あるいは渇望を生み、そうした不満や渇望を埋めるものとして商品が提供される。しかし、商品では永遠に幻想に到達できない。だから私たちは商品を消費し続ける。それが現在の経済機構を駆動している。 テレビを消して、パソコンを切って、部屋を見回してみてほしい。乱れたベッド。食べ散らかした弁当の容器やスナック菓子のビニール。積まれた雑誌。だらしなくぶら下がった服。そこに住んでいるのが貴方だ。次に洗面台に行って、鏡の中にいる人物をじっと見てほしい。どんな人間が見えるだろうか。荒れた肌に目の下のクマ。すこしたるんできた喉のあたり。奮発して買ったブランド物のTシャツ。でもヨレヨレ。テレビの中でおなじみの人たちとはずいぶん違っているはずだ。もしかすると自分が思う自分自身の姿とも違っているかもしれない。さて、窓から外を見てほしい。安っぽい住宅がゴチャゴチャと立ち並ぶ街には、気味が悪くなるほど、たくさんの電線が空を覆っているのが見えるだろう。それらの電線が私たちに幻想を送り込んでいる。私たちの現実は、ケーブルに支配されている。 絶望的に醜悪かつ退屈な世界で、私たちは夢を見ることでなんとか生きている。 私は歴史が好きで、昔の写真を見るのが好きだ。それで、気がついたことがある。100年ほど昔のアメリカの街角のスナップ写真だ。みんな体型は標準的で、スーツを着てコートを着て帽子をかぶっている。全員だ。ブロードウェイのミュージカルを見るために集まっている人たちもおおよそ体型は標準。みんな精一杯おしゃれをしている。50年ほど昔のアメリカの街角のスナップ写真もある。みんな体型は標準的で、だいたいスーツを着ている。帽子をかぶっている人は少数派になったようだ。映画館の前に集まっている人たちの体型は標準。みなキチンとした格好をしている。で、現在のアメリカの街角のスナップ写真をみると、ほとんどの人がかなり肥満している。着ているものも、自由といえば聞こえはいいけど、滅茶苦茶で統一感はない。 100年前、50年前、そして現在の日本人を比較しても同じような変化が見られるはずだ。ここ数年でも変化は感じられる。「オヤジくさい」といわれることを承知で言えば、ここ数年の学生たちは、全体として平面的な顔に変化してきている。女性は横に広がった顔立ちが増えて、男女ともに目が離れ気味で小さくなったように思う。男女ともに身長は伸びたようだけど、足が短くなっている。ジーンズを腰履きしているからそう見えるわけではないようだ。 おおよそ50年前、世界は変わった。乱暴な主張であることを承知でいえば、テレビと自家用車が世界を変えたのだろうと思う。夢を見る娯楽は昔からあった。でも、そのために人々は、外に出なければならなかったし、一箇所に集まる必要があった。そうすれば他人の目があるから、服装や振る舞いに関する社会的なルールに従わなければならない。自家用車がなければ自分の姿をさらしながら歩くか、乗り合いの乗り物に乗るほかない。そうすれば他人の目があるから、服装や振る舞いに関する社会的ルールに従わなければならない。そうした社会的ルールへの参加者全員による相互監視と評価が、社会的ルールの維持に貢献していた。 でも、テレビという娯楽は家庭的かつ私的なものであって、裸で見ていようが、スウェットスーツを着て見ていようが、誰も咎めだてしないだろう。楽が一番だ。移動手段が自家用車になってしまえば、普段着で遠出しても気にならなくなるだろう。楽が一番だ。「ああ、ずいぶん遠くまで来た」という気分になったとしても、実際にはスナック菓子を食べながらずーっと座っていて、数分しか歩いていないかもしれない。いったんそういう「あり方」が容認され、ましてやそうした「あり方」自体がファッション化してしまえば、かつて存在していた規範は崩壊する。だから、家族全員でスウェットスーツを着て、サンダルを履いて、車内テレビを登載した大型のワンボックス・カーで近所のファミリー・レストランにやってくる家族が、もっとも現代的かつリアリティのある家族像になっている。 「そうしたライフスタイルのどこが悪い」と言われれば、「どこも悪くない」としか言えないが、私の主観的感想としては、非社会的生活、引きこもり的生活の始点が、そのあたりにあったように思われてならない。 インターネット(と携帯電話)は、人々のコミュニケーション行動を劇的に変化させた。インターネットがきっかけとなって生じた社会変化については、いろんな研究があるだろうし、皆さん自身もいろんな変化を感じているだろう。でも、社会に対する影響力として最大のものは、コンピュータとネットワークの結合物が、「仮想現実」とまで言われるほど、現実の社会生活を代替しうる機能をもったメディアだったことだろう。それまでのメディアでは、そのメディアが提示する世界にどんなに没入したとしても、やっぱりどこかで自分の現実と現実の社会に直面せざる得なかった。でも、電網界ではいくらでも自分の在り様を好きなように設定することができる。自分のいる世界の在り様を好きなように選択することができる。現実が絶望的に醜悪で退屈なら自由に設定できる電網界のほうが楽しいに決まっている。でも、みんなが「あちら側」へ行ってしまったら、私たちの現実はどうなるんだろう。 私たちの現実は、私たちが望んでいる姿とはだいぶ違っている。でも私たちは現実を変えるよりも、仮想現実へと逃避することを選びつつある。「現実って変えられないから。」と私自身も思いがちだし、学生たちもそう思ってる。でも、歴史を振り返ってみれば、先に提示したように、現実は変わっている。誰か偉い人や頭のいい人が思うように誘導したわけではない。あえて言えば、私たちが周囲の環境に適応していくなかで、いつの間にか変わってしまったのだろう。だから、変化の中には誰も意図していなかったにもかかわらず、実現してしまったものもある。 なぜ、今の私たちは、これほどまでに現実を変えることを諦めているんだろう。私は、旧い学校制度が、現実を変えていこうという意欲と能力を持っていたかもしれない人材を大いに損なっていると考えている。 アルビン・トフラーの『第三の波』という本で、とても印象に残っている指摘がある。工業社会の必要に応じる人材をを作り出すために、近代的な学校制度が作られた。学校では当然、工業社会に必要となるような基本的知識が内容として教育されたわけだが、実は、もっとも重要な教育カリキュラムがあった。それは、決められた時間に、決められた場所へ集まり、決められた作業を黙々と長時間行うことだったという。よくよく考えてみれば、ある年齢に達した子供たちが、決められた時間に一人残らずある建物に収容される、というのは実に不気味なことだ。でも、現在の私たちはそのことをあまり不思議に思わない。いずれにせよ、教育されている内容はともかく、工業社会が必要とする工場労働の行動様式に適合的な「訓練」がもっとも重要な「真のカリキュラム」だったわけだ。 さて、コンピュータやネットワークが労働の各部分に導入され、労働の様式や必要とされる知識や技能は変わった。日本社会では、サービス労働すなわちコミュニケーション能力が重視される職業の割合が増加し、また多様な労働環境・労働時間に対応しながら、全体としての人生設計・生活設計ができる能力が重要になっている。黙々と工場で作業を続けるタイプの労働者の割合は、機械化によって劇的に少なくなった。というか、今の社会ではそういうタイプの労働は、あまり子供たちの望むところではなくなっている。実際のところテレビや雑誌のみが夢と希望の源泉となっているようなタイプの子たち(地方に多い)の、本音の部分での希望職種はタレントであり俳優でありマスコミ業界人ということになる。それ以外の職業では、おそらく彼らの不満や渇望を満たすことができない。 このような現在の労働状況において、明治時代以来基本的には変わっていない教育制度が惰性的に強制された場合、トフラー的観点からの「真のカリキュラム」は、次のようになりはしないか。無為であることがわかっている作業を黙々と行わされる。しかもその作業を達成した先に成功や幸せはない。しかしながら、その無為な作業に対する異議申し立ては許されない。すなわち学校制度は全体として「どんなに理不尽な現実であっても変更はありえない」というメッセージを伝えることになってはいないか。若者たちが現状を変えることについて無気力にならないほうがオカシイ。そして、若者たちが諦めてしまった社会は、閉塞して希望のないものになるのが当然だ。 私に言わせれば、「楽しい授業、活気ある生徒、希望あふれる学園生活」を本気で信じている教員がいるとすれば、彼こそが仮想現実の住人であり、そうした仮想現実に強制的に付き合わされる生徒たちにしてみれば、それは最悪の仮想現実だといえるだろう。このように考えれば、生徒たちのヒエラルキー(スクール・カースト)において、いわゆる「不良」たちが勝ち組に分類されうる理由がわかる。彼らは、すくなくとも学校という仮想現実を揶揄し離脱したポジションにいるからだ。まじめに勉強する生徒たちは、教員たちの支配下にあるとみなされるがゆえに、同輩の生徒たちからの尊敬を受けることはできない。教員に従うことが「よいこと」であり、教員に従わないことが「カッコイイ」ことであるという分裂した価値観のなかで、多感な時期をすごした人間はどうなるだろう。 私が昨年の夏に公開した随筆「『ハッカー宣言』の誤解説」を読んでみてほしい。思ったより好評だったようだ。そこには、教育こそが奴隷化の手段である、って書いてある。そうは思いたくないけど、どうも実際にそういう風に機能しているように見えてならない。 「『ハッカー宣言』の誤解説」では、ハッカーを「私たちが必然として受け入れている認識のパターンを超えて、この「世界そのもの」が持っていたあらゆる可能性を試し、私たちの世界へ 従来には存在しなかった何物かを組み入れてくる能力を持った人々」と定義した。現在のような社会の変動期において、さらにはこれから訪れるだろう絶え間ない変化の時代においては、「現在ここにある世界」を組み替える能力が、次の時代を勝ち残るために望ましい能力となるはずだ。しかし、こうした「世界の外」を見る能力を今の教員たちは容認することができない。実に悲しい現実だが、現在の公立中・高等学校教員のほとんどすべては、知的能力において社会全体の中位程度に位置している。無意味だが熾烈な学歴上の序列化にさらされてきた結果、彼らは自分たちよりも知的能力に優れた生徒たちを、自分たちの「業績」として完成させる──偏差値上位校に送り出す生徒の数字──以上に親身になって成長させようという動機を持たない。潜在的に彼らは、優秀な生徒に対して「足を引っ張りたい、自分の支配下に置きたい」というルサンチマンに基づいた欲望を持つことすらありうる。 上記をずいぶん酷く偏った見解だと考える人もいるかもしれないが、私の知る範囲で大変優秀な学生諸君が、中・高等学校時代に一種の迫害状態に置かれていたことを見聞きするなかで、このような見解を持つに至ったことは理解していただきたい。大学は、中・高等学校と異なり「クラス」の概念がなく、教員も学生を支配する気がないので、特定の学生がどのように成長しようとあるいは堕落しようと干渉することがほとんどない。それゆえ、知的水準の高い学生は、大学に来てようやく解放感を感じるはずである。とはいえ、その解放感から「失われた青春」の回復に4年間を費やしてしまう学生がはるかに多い。単位も出なければ、社会的ステイタスにもならないロージナ茶会に集って、法だの制度だの情報社会だのといった話題を肴にコーヒーを飲むような学生諸君は、まことにモノズキにして変わり者だと言わざるを得ない。しかし、こうした学生をもっと世の中に送り出さないと本当はマズイんだろうと思う。 「真のカリキュラム」の観点に立つとき、現在の「学校」という枠組みでどのようにカリキュラムを弄っても、情報時代における必要な人材の育成は不可能だろうし、可能性のある人材をスポイルする否定的効果を無くすことはできない。「学校」という制度自体を新しい現実に適合するように組み替える必要があるわけだが、情勢の変化の早さに制度改革は間に合うだろうか。 とはいえ実際には、現実はけっこう簡単に変わる。先に述べたように、私たちが現実だと思っていることは、かなりの程度私たちの思い込みによって構成されている。権威や権力によって社会的に強制されている「思い込み」が広い意味での「制度」というものだ。ところが、権威や権力もまた制度であるがゆえ、結果的にすべては「思い込み」であることになる。情報の流通経路やメディアを操作して、ある「思い込み」を設定していくことで、現実は次第に変わっていく。社会は、ハックできる。 もともと、コンピュータヲタの大学の先輩と後輩が、研究室の片隅で「文科系もすこしはコンピュータのこと知ってたほうが絶対にいいよね」とブツブツ言っていたところから始まった会が、いろいろ紆余曲折を経ながら定期的になり、「会の名前なんにする?」→「ロージナ茶房に集まってるからロージナ茶会でいいだろ」と約10秒ほどで名前が決まり、オンライン雑誌に記事を寄稿したり、リチャード・ストールマンにインタビューしたりしているうちに、いつの間にか民間の総合研究所に協力したり、政府の委員会に参加したり、パブリック・コメントを提出したりするようになった。こんなに適当に運営されている会がここまでやれるんだから、本気でなんかしようとすれば、かなりのことができるはず。 もちろん、今日はじめてプログラム言語の勉強を開始した人がすぐにハッカーになれるわけではない。せいぜい画面上に Hello World! と表示させるくらいしかできないだろう。しかし、最初に Hello World! を表示させなかった人は、永久にハッカーになれない。小さなハックの組み合わせが、複雑なシステムを作り上げていき、巨大な GNU/Linux体系を現実のものにした。私たちが希望のもてる新しい現実を作り上げることも実は簡単にできる。みんながハックすればいい。そのためには、まず、商品を売り込むために作り上げられた、絶望と幻想から成る悪夢のセットから離れなければならない。売り物の夢を遮断して絶望的に醜悪かつ退屈な世界を素直に眺めてみるんだ。そうすれば、片付けなければいけない部屋も、梳かさなければならない髪も、着替えなければいけないシャツも見えてくるだろう。 「そんなことで、現実が変わるなんて信じられない」と言いたくなるだろう。でも、そこから変えなかった人間は、現実を自分の望む方向に変えることなんて永久にできっこない。 ハッカーになろうよ。一緒に現実2.0を作ろう。連絡をまってる。
告知ついに連載が終わりました。HotWired Japanでの連載は終わったけど、これからもネットでいろいろと書き散らすので、またすぐにお目にかかれるかとは思います。 連載第一回目を読み返してみると、なんか当初の目的からずいぶんズレてしまってて、ごめんなさい。インターネットの慣習を集めて法的に分析を加えるという作業は、これからも継続していくつもりなので、また皆さんにお手伝いをお願いするかもしれません。そのときは、よろしくね。 あと、この「インターネットの法と慣習」全27回からの抜粋に、私が加筆整理したものが本になります。たぶん。そのうち。出るよね...きっと。みなさんの期待通り、相当変な本になる予定なので、もし出版されたら話のネタにでも買ってください。 それじゃ、また。
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白田 秀彰 (Shirata Hideaki) 法政大学 社会学部 准教授 (Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences) 法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450) e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp |