このテーマでの三回目。前回までの話をまとめます。 第一回めは、ネットワークにおいてどのような形態の統治あるいは法が成り立ちうるのか、という問題について、部分社会説、新領域説、四規制力説の三つの考え方を紹介。それぞれ、部分社会説は「穏健保守主義 (moderate-conservative)」、新領域説は「自由至上主義 / 共同体主義 (cyber-libertarian / cyber-communitarian)」、四規制力説は「基本構造で維持する民主的寛容主義 (cyber-liberal)」と整理したつもり。第一回目にこれらの言葉を使わなかったんで、その点は失敗だったと思ってます。脳内補完してください。 第二回目では、近代法の基本構造に「常識 (common sense)」が存在していることが前提になっていることを解説。ただし、手続に重点をおくアメリカ法のアプローチでは、常識の不存在が致命的な問題にならない(かもしれない)ことも指摘した。加えて、前述の三つの考え方がいずれも常識を前提として機能していることを説明した。ところが、電網界では常識が形成され難いどころか、ますます小さな共同体に分裂していく傾向をもつのだと指摘した。部分社会説が機能しないと予測されることはもとより、現在支持されている新領域説は、その分裂傾向を加速する危険すらもつと批判。四規制力説は現在においては有効だと考えられるが、時期を失うと機能しなくなることを指摘。 で、今回、四規制力説が機能しなくなってしまう状況になった場合、どのようにして電網界(のみならず現実界)の統治を行うべきかという問題に対する私なりの回答を提示することになる。その基本的世界観が東浩紀氏が唱える「環境管理型権力」の世界。そこでまず、環境管理型の世界についての説明をすることになる。 ... というわけで、はじまりはじまり。 【環境管理型の世界】 電網界の状況は、すでに小共同体が多数並立する状況になっていて、それぞれ独自の価値観を持つようになっている。だから、異なる価値を掲げる小共同体を超えて、多様性と異質な存在を容認するような民主主義的な討議ができる環境は、次第に失われつつあると考える。さらに悪いことに、こうした価値観の分裂と世界観の分裂は、電網界のみならず現実界においても進行中で、現実界の常識を足がかりに電網界での民主的手続を維持できるか、という点について疑問を感じたりする。それゆえ、民主的手続に信頼を置いた四規制力説は、動作する機会を失いつつあると考える。やるなら早めに。 そこで残された手法としては、(b)の手法ということになる。これが東浩紀さんがいうところの環境管理型統治だ。簡単に言えば、法律や民主的手続が動作する下部構造であったオペレーティング・ソフトウェア(第3層から第6層)が機能しなくなってしまったのなら、ハードウェアを(第1層)を直接制御してしまえばいいじゃないか、ということ。環境管理型統治は、基本構造(第1層)をある目的に添った形で操作し、また認知枠や抽象枠(第3層、第4層)を制御することで、操作の対象となっている私たちに「支配されている」という意識をもたせることなく、ある統治目的を実現しようとする。 私たちが最大限の自由の感覚を維持しながら(リバタリアニズム)、自分たちの好きな人たちと好きな世界で生きていく(コミュニタリアニズム)ことを可能にし、なおかつ社会全体の統治を維持するためには、人々を監視し、選別し、目的に添った情報を与え、その人の自発的意思で 特定の世界観なり生き方なりを選択したように操作することになる。そして、価値観が対立する小共同体を認識的・認知的に隔離し(ゾーニング)、紛争を未然に防ぐように調整・配置することになる。こうした操作は、すでに情報技術を駆使して、経済目的のために行われている。よく例として挙がるのが、オンライン書店の推奨図書サービス。 ある人の購買履歴をもとに、その人が好みそうな本を自動的に推薦してくる。 私たちは自由に好きな本を選んでいるようで、ある機構が提示する枠内の本を選ばされているわけだ。そして、青少年に対しては、成人向け図書が表示されない設定をすることで、「成人向け図書」というものの存在自体を青少年から隠蔽しようとしている。 ある種の傾向をもって本を購入している人たちを選別して、小共同体を形成させれば、その人たちにとって、そこは居心地のよい空間になるだろう。しかし、その人たちの考え方に対立する傾向をもった人たちがいるという事実に、小共同体内部の人々が気が付かない事態が発生するかもしれない。こうした操作は、電網界では完璧に行うことができ、情報的な分断によって、自分たちと対立する価値観を持つ人たちが存在することすら隠蔽することができる。アメリカの憲法学者 キャス・サンスティーンは『インターネットは民主主義の敵か』で、こうした状況の問題点を指摘している。その問題の中心は、対立しあう多様な価値を議論を通じて調停する能力や可能性が失われてしまうということにある。(1) 対立する多様な価値が衝突しないように調整・配置するためには、*誰か* が全体を見渡し、環境を管理・操作する必要がある。それゆえ、環境管理型統治は、避けようが無くエリート支配にならざる得ない。また、(2) 操作の対象となった人は、自分の好む情報しか与えられなくなるのだから、自分を取り巻く世界において何が解決されるべき問題なのかを認知することができなくなる。さらに、(3) 基本構造 (第1層) 全体にかかわるような問題に直面したとき、その基本構造に乗っている小共同体は、連携することできないため民主的手続で解決することが不可能になってしまう。 さらに、環境管理型統治の問題点は、法律が完全実行されてしまう点にある。現実界では、偶然かつ不確定要素をもつ環境のもと(第1層)、不合理かつ曖昧さをもつ人間に(第2層)、世界観を与える常識を基礎としながら(第3層〜第6層)、あるべき理性的世界の記述である法律が結合することで、均衡を生み出し、これまでの法の状態が実現されていた。私たちは、自らの責任において法を破ることが可能であったし、法の実行には「ゆとり」あるいは「遊び」の部分、灰色領域があったわけだ。ところが、環境管理型の世界では、私たちには「法を破る」という選択が存在しなくなる。環境が私たちに法に沿った生活のみを準備することになる。たとえば、現在の私たちは「赤信号では止まりなさい」と教えられる。でも、まわりを見回しても車一台いない田舎町の昼下がりの交差点では「まあ、いいか」と横断歩道をわたることだろう。一方、環境管理型世界の私たちは、止まるべき時と場所であるなら、たとえ車がまったく走っていなくても一歩も踏み出せないような歩道や靴を与えられるか、継続的な監視で些細な法律違反についても減点を数えられるようになるだろう。 (余談: もし環境管理型統治を行うのなら、交通信号に関する法規がなくなってしまうはず。なぜなら、基本構造が法律が目的としていた状態を強制するから。環境管理型世界では、歩行者は、道の好きなところを好きなタイミングでわたることができる。ただし、接近中の車があり、それが歩行者をはねる可能性が高い場合には、「管理者」が歩行者と車の間の距離や速度を計算・制御して、車と歩行者が接触しないようにうまく調整することになる。そのために、歩行者や車は、常に自分の位置や移動方向や速度を「管理者」に伝えることが要求されるだろう。「問題」── こうした状況は現在よりも自由なのか?) さらに例として、著作権法を挙げる。仮に著作権法が禁止していることでも、私たちは自らの責任において実行することができる。訴追される危険を冒してでもコピーを作らねばならない事態というものはありうる。ところが電子的著作権管理機構 digital right management system が著作権法の規定に沿った形で基本構造に実装された場合、私たちは著作権法に従った行動しかとれなくなる。もちろん、著作権法が完全に実行されることは望ましいことだろうし、それは、合理的な結果をもたらすのだろう。しかし、この状態においては、法律が変更されていないにも関わらず、実際にもたらされる法の状態が 著しく権利行使が容易な状態に変更されることになる。私たちはそうした法の状態の変更について、承認の機会を与えられなくてもよいのだろうか。 第1層が法律の記述に基づいた行為しか取れないように管理・制御され、第3層から第6層にいたる常識や考え方自体も、法律の記述を「よいもの」として認知するように操作され、さらに、その上部構造として権力の強制を伴う法律が動作するとき、私たちに対して、理性や合理を増幅しながら強制する帰還回路が形成される。そのとき「生き物」としての人間は、理性や合理の強制に耐えられるのかどうか懸念が出てくる。この懸念は、たとえば『すばらしい新世界』や『1984』が描く、暗い未来世界の像を呼び起こしながら提示される。 それでいて、私たちは非合理性や逸脱を積極的な人間の価値として主張することがためらわれる。私たち人類は数千年にわたって、制御困難な現実界の環境や「生き物」である私たち自身をなんとか制御しようとして文化や文明を形作ってきた。それゆえ、これに反する規定、すなわち制御を困難にするような曖昧さや不確実性を確保するような規定を、合理の体系である法律に組み込むことに強い抵抗を感じる。しかし、全てが制御可能である電網界の性質をふまえながら、そこでの法律を考えるとき、現実界におけるこれまでの法の状態を保全するような手当てとは、電網界の基本構造に曖昧さや不確実性を実装するよう法律で強制することなのではないかと、私は考える。 私自身は、法律の条文が一語も変わっていないとしても、その他の要素の変化によって法の状態が大きく変動しているのなら、均衡を回復するために法律を変化させる積極的な必要があると考えている。とくに現代のように法律以外の要素の変動が早すぎるとき、「法律を変化させない」という選択肢は、実際には ある方向への「劇的な変化」を消極的に支援しているような状況をもたらしている可能性があることを考える必要がある。──当然、この考え方は「変化」をどの視点から評価するかによって、まったく逆方向への法律の変化を主張する根拠として使える。そこで重要になってくるのが「その法律は、どういった法状態を維持するために作られ・維持されてきたのか」という本質論だ。これは、「その法律が作られた当時の人たちがどう考えていたか」という立法者意思の探求だけでは足りない。その法律が、その時代の社会でどのような機能を果たしていたか、現代社会においてはどのような機能として動作しているのか、という現在の問題関心からの評価まで考慮に入れる必要がある。 【まとめ】 回りくどい話がずーっと続いたので、もともと何のためにこんな長い文章を書いたのか忘れてしまいそうになったので、まとめておきたい。その上で、「ネットワークにおけるラジカルな保守」という態度について提案したい。 (1) 現実界の法を電網界にもそのまま適用しようとする部分社会説は、電網界の特殊な性質を考慮してない点でよろしくない。そもそも、ポストモダニティの影響で、現実界においてすら法が動作する環境が壊れつつあるのだから、電網界においては なおさら既存の法律が動作するかどうかはアヤシイ。 (2) 電網界をフロンティアだと考えて創発的な法の発生に任せるべきと考える新領域説は、英米法の考え方をとるなら、ある程度可能かもしれないけれど、大陸法の考え方をとるなら、法の根本となる価値選択の問題についてまったく考慮していない点で、問題がある。また、法が立ち上がってくる基本構造について無頓着だという点でよろしくない。私たちに最大限の自由を与えてくれる電網界では、小共同体への細分化傾向が強くなるので、広域的に作用する法律が生み出されない可能性が高い。 (3) 民主的手続で決定される法が、環境、市場、規範という他の要素を制御することで、法的価値を保全しようとする四規制力説は、民主的手続が機能している現状において、民主的手続を電網界の基本構造に組み込む手当てをするなら、かなり有望な考え方だ。しかし、電網界において小共同体への細分化傾向が進行するならば、民主的手続の維持自体が困難に直面するため、結果として新領域説に近い状態に陥る可能性が高い。 (4) 法律家は、社会のプログラマとして「法」と「環境」のいずれをも記述 coding しうる能力が必要となる。 現実界においてすら広域に対して動作する法律の実装が難しくなりつつあるなか、電網界においては、なおさら法律の実装は困難だろう。そうしたなか、環境管理型の統治手法が現実味を帯びてくる。情報技術は、価値観の分散を加速する原因の一つであり、かつ環境管理型統治の道具としても使いやすい。環境管理型統治は、基本構造を制御するものである──とすれば、法律家(含む立法者)は、閉じた上位体系としての法律を学ぶだけでは、社会制御の目的を達することはできなくなる。法律を運用するのと同じ程度に、基本構造の設計、実装、運用ができなければならないはず。長い間 法学が大事だったのは、それが法律を学ぶことだからではなく、社会の秩序維持・統治が法や法律を通じて行われる、という具体的有用性があったから。ならば、かつての法学の地位を情報社会においても維持するためには、法学はどうしても他の領域 とくにプログラミング工学の成果を取り入れて、秩序維持・統治を実現するための全体設計ができなければいけないはず。(... というわけで、法科大学院に工学部の学生がたくさん来てくれると嬉しいなぁ、と個人的には思ってます。) 東氏が彼のゼミで「これからの真の政策的論争点は、アーキテクチャの選択にしかない!」 と喝破して、私は「すごくカッコいいな」と感心したわけだが、まことにその通りだと思う。この時代において、アーキテクチャが理解できて設計ができる人たちが国会議員、立法に関わる官僚、司法関係者にほとんどいないという状況は、寒々しく心配ですらある。 (5) これまで機能してきた法律 working codes を社会変化への安定に役立てるべきである。 これまで、法律が安定して動作するための基本構造は、認知枠・抽象枠と常識との間で帰還回路が構成されることで安定していた。電網界ではこの帰還回路が機能しにくくなる。このため、民主主義的な討議が成立する前提が失われる懸念があり、逆に、またそれゆえに、ある先鋭化した見解に雪崩のごとく人々の支持が集まるサイバー・カスケード現象といった、意思決定過程の不安定化と政策の極端化が同時に起こる懸念がある。 電網界で「熟慮ある民主主義」が実現しがたい状況にあるのなら、これまでの法の歴史(法制史)を参照し、多様な文化における法律を比較(比較法)することで、これまで現実界をそれなりの均衡状態に置いてきた「過去の熟慮」を利用することが可能になる。別の表現をすれば、帰還回路を失って不安定化した法の運用において、私たちの社会をツブさずに動かしてきた過去の working codes を安定器(スタビライザー)として機能させることができる。もちろん、この場合の working codes というのは、ある時期に一時的に導入された法律の*字面*を指すのではない。ある領域を統括する法律が長い歴史のなかで一貫して果たしてきた現実の*機能*を指している。キザな言い方をすれば「法の精髄 essence of Law」とでも呼べるものだ。 歴史や伝統を参照することで「価値」を抽出し、その「価値」を基礎構造に実装してしまうことで、情報技術が急速かつ劇的に変化させようとしている世界のあり方を、私たち人間にとって適切であると考えられる範囲内での変化へ安定させようとする考え方。これが「ラジカルな保守 (radical-conservative)」という態度。 以上が私の主張であり立場。こうした伝統主義的な考え方は、法の正当化根拠としてもっとも古典的なものであり、その手法についても積み上げられた手堅い事例がある。 例をあげる。 大学の法学部に入って、真っ先に「法学通論」という講義を受講したとき、やたらとドイツ法学界の昔話ばかり聞かされたような印象があった。というのも、日本の法律はドイツの法律を、日本の法学はドイツの法学を輸入してきたものだから、そのへんの話は日本の法律を学ぶ(ことになっている)学生たちにとって必要な基礎的教養だ(と教授たちが考えていた)からだ。学生当時の私は「司法試験とも関係ないのに、なぜこんな話ばかり聞かされるんだろう。ドイツ人の名前は覚え難いのに」と不遜にも思っていたわけだが、今にしてみれば、とてもありがたい導入教育を受けられたものだとマリアナ海溝よりも深く感謝している。さて、こうした昔のドイツの法律・法学を「ありがたや... ありがたや... 南無南無」とする態度は、けっして日本だけの特殊事情ではなく、19世紀のドイツの法学は普遍性と精緻さで世界の指導的立場にあった。 「ドイツの法学はァァァ世界一イィィィィィィィッッッ!!!」 という状況があったわけだ。 ドイツは20世紀に至るまで、300程の領邦国家に分裂しており、それぞれの領邦が特殊な地域法を持っていた。こうした神聖ローマ帝国あるいはドイツ王国と言われていた地域で領邦を超えて通用していた法は、世俗化されたローマ法とゲルマン法の混合物だったわけ。で、19世紀の初めに神聖ローマ帝国が瓦解して、ドイツを近代国家に生まれ変わらせるための政治的統合が課題となった。その中の重要な要素として法の統合、統一法典の整備が目指された。「サッサと法典作って一丁上がり!」としようとした風潮に敢然と反旗を翻したのが、近代ドイツ法学の基礎を作ったサヴィニー (Friedrich K. v. Savigny) という学者さん。彼がどのくらい偉いかは、Googleってください。 さて、サヴィニーは、法が立法者の意思によって任意に決められるものではなく、言語と同じように習俗と民族の確信とによって成立・発展するものであり、徐々に、かつ有機的に発展するものであると考えた。従って、法律の制定は有機的な法発展を阻害するものであるから、必要やむをえざる場合意外は避けなければならないとした。では、どのような方法で、ドイツの分裂した法を統一するのか。ローマ法とゲルマン法の混合物が通用しているのなら、これを歴史的に遡り法の根源を探求し、これを個人の自由・自律を軸とする普遍的・近代的法体系へと再構成することで、法の統一は達成されうるとサヴィニーは考えた。こうした態度を「歴史法学」という。目の前にある封建的で不合理な現状を打破する統合原理・指導原理を古代に求めたわけだ。この手法は大成功を収める。 歴史法学派は、ローマ法を探求するロマニステンと、ゲルマン法を探求するゲルマニステンに分かれてがんばるわけだが、前にも書いたようにローマ法は汎ヨーロッパ的な法源として勢力があったわけで、ロマニステンが展開した法学研究は他の欧州諸国でも通用する法理論を提供することになる。こうしたロマニステンが展開した法学は、パンデクテン法学と呼ばれる。大陸法の特徴である (1) 体系の完全性 (2) 原理からの厳密な論理操作 (3) 演繹と類推による個別命題への展開 は、パンデクテン法学において精緻さを極めた(らしい)。では、パンデクテン法学がガチガチの論理世界で閉じていたのかといえば、そうではない。パンデクテン法学を代表するような、これまた偉い法学者である イェーリング (Rudolph Jhering) は、
法規則の解釈を対象とする作業は受容的で低い次元の法学である。これに対して、法概念を獲得する作業は、生産的で高い次元の法学である。 というようなことを言ったらしい。歴史的法源を遡り、一般原則を抽出して概念化するという、もっともっと活動的な法学の姿だったことがうかがわれる。実は、歴史法学派には トリックがあった。彼は、彼らの理論が、あたかもローマ法源からの論理展開によって必然的に導かれたように装いつつも、実は個人の自由と自律を軸とした近代国家に必要な法概念を目的として新しい法体系を作り上げていた。しかし、それは恣意的に行われていたわけではない。千年以上の古代ローマ帝国での蓄積と、それから数百年にわたる欧州でのローマ法の運用という歴史の重みが、「過去の熟慮」としてドイツ法学に普遍性と妥当性を与えた。 パンデクテン法学は、ますます発展する。これまた偉い法学者であるヴィンドシャイト(Bernhard Windscheid)は、そのままズバリの『パンデクテン法教科書』というローマ法体系書を出版して大成功しているし、19世紀末の「ドイツ民法典第一草案」を起草している。このあたりで、サヴィニーから続くローマ法の現代的再構成の作業は、ほぼ完成の域に達して、ガッチリした法理論体系と教育手法が確立した。そして、日本の明治期の各法典は、このころのドイツ法と法学の強い影響力の下に作成・導入された。現在だって法学部では第二外国語はドイツ語が主流だし、法制史をやる人もだいたいドイツ系が多い。なぜって、日本の法律と法学がドイツ流だからだ。 ドイツから法学を輸入して100年以上たった。パンデクテン法学の影響は昔ほどではないにしても根強い。だから、「ラジカルな保守という態度について I」で取り上げた「部分社会説」を唱えるタイプの保守的な法曹のみなさんは、サヴィニーの子供たちであるはずなんだ。彼らが拠って立つ理論の創始者が、いかにラジカルだったか わかってもらえるかな。それで、私が採用すべきだと唱えたい「情報社会における法学」の手法は、19世紀のドイツで行われたことの焼き直しを提唱しているに過ぎないことがわかるだろう。というわけで、部分社会説を取るような保守的なみなさんも、私の「ラジカルな保守」という態度をこころよく受け入れてくるんじゃないかと思う。 ドイツでは、新しい時代に適合する法体系を作るのにザッと100年かけたわけで、情報社会の到来が近代市民社会の到来と同じくらいの衝撃を持っているのなら、情報領域での法の見直しにも同じくらいの期間がかかるはず。私の聞いた話だと、民法や刑法の領域では、新しい研究テーマを見つけるのも難しいほど びっしりと研究の蓄積があるらしく、大学院生あたりがとても困っているらしい。それなら、情報法領域でがんばれば100年くらい仕事があるかもよ... と誘惑してみようかな、とも思う。でもまったく仕事がない事態が50年くらい続く可能性もあるよ... 【おまけ / そもそも論の利点】 「ラジカルな保守」という態度の利点を具体的にあげよう。 私の唯一と言っていい(...泣)のマトモな学術書『コピーライトの史的展開』のキモとなる部分は次の記述だ。
コピーライトの効果とは、排他的独占権を通じて生産物の供給量の調整を可能にし(1)-(4)の問題が生じることを防ぐことにあるのであり、第一には、ある作品を大量複製して販売することを業とする媒体産業が存立していくための基礎を与えることにある。 引用文中の(1)-(4)というのは、次の通り。
(1) 市場を先占するための時間的競争の激化 「著作権」と「コピーライト」との関係とか、「天才の偉大な芸術作品を守るために著作権ってのはあるんだ! 凡人どもがガタガタぬかすんじゃない! だまって著作権法を崇めればよいのだ!」「著作権ってのは、神聖不可侵の所有権の一種なんだ! これに疑義を呈するようなヤツはコミュニストだ!」という主張に対する歴史的経緯を背景にした反論とか、については、いちいち書くだけでウンザリするので、拙著『コピーライトの史的展開』 を読んでください。で、私はこの本を書くための研究をしたことで、すっかり著作権法理論を相対化してしまい、ドライに情報技術と権利とビジネスの関係を見ることができるようになった。 (a) 情報を流通させる媒体企業と著作者において、誰がリスクをとって誰が利益をとるのか。(b) 旧媒体と新媒体との間の権利・利益を巡る争いとその結果について。(c) 歴史のある段階に生まれて消えていった、情報を商品とするための手法。 などなどの歴史的事例を、「著作権法絶対主義」の目のウロコを外して素直にみれば、情報やいわゆる知的財をこれほどまでに手軽に瞬時に流通させられるインフラができてしまった時代に、どういうビジネスモデルを構築すべきかなんてことはすぐに分かるはず。 ここで、今さら言ってもジャンケンの後だしみたいでカッコ悪いと承知しつつ、自慢してしまおう。 2000年の末頃、電子音楽配信に取り組み始めた某S**Y関連会社の社長さんに、上記のドライな私の著作権観を開陳したことがある。そのとき、その会社がやってる電子音楽配信ビジネスをいろんな点から批判した。その中でもとくに、国内で一枚3000円で販売されている音楽CDに、だいたい10曲入ってるから、一曲あたりの配信価格は300円 ── という根拠不明のコスト積み上げ方式の価格設定を 「もう...アホかと...バカかと...」 とボロカスに批判したうえで、「ワン・コイン、一曲 100円という価格が消費者が受け入れられる合理的価格です!」と断言した。で、その社長さんも賛同してくれたけど、やっぱり300円で楽曲は販売されつづけた。 ちなみに、2月17日の日経新聞の「春秋」が紹介していた記事にこんなのがあった。
堺屋太一さんが、どこかに書いていた。官と民間の価格付けの違いを。公共料金などの官製価格は、コストを積み上げ、その上に適正利潤を加えて出す。一方、民間は市場で決まる価格を受け入れ、利潤が得られるようコストを工夫する。 すると、日本の音楽業界の価格決定は、公共料金と同じような発想でなされているということになる。こんなことがまかり通るのは、やっぱり再販売価格維持制度なんていう、特権があるからだろう。再版制のために 市場における適正価格が決定できないから、コスト意識がなくなる。こうした特権が自分たちのビジネスをどんどん虚弱にしていることにまだ気がつかないのかな? さらに同じ頃2001年の1月。やはり某S**Yが保有する教育・研究機関の方からお誘いをいただいて、講演をさせていただいた。そのときの資料を公開してしまおう。そこで、講演資料のようなことを話して、「御社は、ソフトウェア部門とハードウェア部門と通信事業部門を持っているのだから、ソフトウェア部門では赤字覚悟でコンテンツの価格を下げて、たとえば一曲100円で販売し、その赤字分はハードウェアと配信サービスの利用料で回収すべきです」 と断言した。でも、このときの参加者は、まだ若手の人たちばかりだったから、当然大企業であるS**Yのポリシーなんかにはならなかった。 さて、私が 2001年の初め頃に言ってたビジネスモデルは、要するにiPodとiTunes Music Storeの組み合わせによるビジネスモデルとだいたいおんなじ。というか、2000年当時にネットワークに親しんでた音楽ファンだったら 誰もが自然に考え付きそうなアイデアだと思う。なぜこんな自明なことを S**Yは事業化できずに、Appleは事業化できたのか? それは、「法律」というものを「とにかく神聖不可侵」とみるか、それとも「(変更可能な)ルールの集合体」とみるか、という態度の違いにあったのかもしれない。とにかく法律を尊重することが法の素養のある人の態度と考えるのか、法をもうすこし大きな視点からみて正しさを考えることが法の素養のある人の態度と考えるのか、という違いにあったのかもしれない。 いま、企業では「コンプライアンス (compliance 法令遵守)」が掛け声になってる。もちろん、現実の世間では法がちゃんと遵守されていない場面が多いので、「法令を守る」という基本的態度を徹底することはとてもとても大切だ。でも、ただただ盲目的に法を守るだけでは、創造的破壊なんてできっこない。ヤマト運輸の宅急便事業の合法化をめぐる苦闘に関する話なんかみても、法律と役所の言いなりになっていたら、活発な宅配便市場はまだこの世に存在しなかったことがわかる。経営者が「コンプライアンス、コンプライアンス...」と唱えるだけなら、法律家を代表取締役にすればいい。経営者というのは、もうすこし深いところから社会と法と制度を理解して、場合によっては、法律と対決するくらいの気概をみせなければ意味がない。その新しいビジネスが、法 (Law=法則) の示す知恵と正義に沿ったものなら、いずれ正当なビジネスとして認められるはずだ。 法曹を目指さないのなら、そうした大枠としての法に関する知識を講義するコースというものも十分な価値がある、と私は考える。というわけで、経営者を目指している学生の皆さん、ぜひぜひ法学部の基礎法学分野も受講してみてね。誰か「産業法制史」とかやったらどうだろう。新ビジネスがどのように既存の法と対立し、これを乗り越えて新しい市場を開拓したのか、というようなケーススタディをする講義。すっごく面白いと思うんだけどね。
告知長ーい、一連の記事がようやく終わりました。お付き合いくださってありがとうございました。次のネタは、小倉さんのブログに関連して電網界の政治思想傾向についてのネタになる予定ですが、4月がえらく忙しくなりそうなので、一回分あいだを空けさせてもらうかもしれません。 さて、昨年の後半から今年初めにかけての、いわゆる思想哲学系の人たちとの交流を通じて、私が持っていた法学系の思考枠組みにはえらく古臭いところがあることがよーくわかりました。それだけでもたいへん勉強になった。法学系の頭にはえらく辛い難解な理屈やら思想家の立場やらを、頭のいい人のズバッと斬れた解説で聞くと、頭の中にあるゴチャゴチャのテトリスのピースが、カチャ カチャ カチャと繋がってパッと消えるような快感を味わえる。現代の学問は、誰かの本を読んでそれを引用して論文を書かないと学問として認めてもらえないけど、リアルな対話というものの魅力も大事にしないとねぇ...と思いました。 で、そうした講義を聴きつつ、えらく古臭い法学系の思考枠組みにも利点はあるし、現代社会に貢献できることもいっぱいあるよ、と思ったりもした。その一方で、従来型の法の枠組みが現代社会で効力をもちえなくなりつつある理由についてもよくわかった。で、それをどうするか、というのが昨年末から今年初めくらいの私のテーマだったわけ。 ised@glocom での議論やら、このHotWiredの記事やらで、私なりの回答を提示したわけだけど、いかがでしたでしょうか。「ああ、また白田がタワごとを言ってる」と軽くあしらわれるくらいがちょうどいいのかも。本気でとられたりするとなんだかメンドウな責任が降ってきそうな気がするんで。
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白田 秀彰 (Shirata Hideaki) 法政大学 社会学部 准教授 (Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences) 法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450) e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp |