De Legibus et consuetudinibus Interreticuli

ラジカルな保守という態度について I

白田 秀彰とロージナ茶会

最近、「『法と慣習』というタイトルに相応しいのだろうか...」と自問するようなネタが続いています。が、「そういうことは良くあることだ」と前向きにとらえつつ、今年も力尽きるまでがんばるつもりですので、読者の皆様よろしくおつきあいくださいませ。

さて、そうした新年初頭の1月8日、GLOCOM にて、ised倫理研 という研究会の発表をすることになってた。そのころには、もう書かなければならない原稿ができているハズだったので、「そのネタを使いまわして発表すればいいや」と思ってこんな大変そうな日を選んだわけ。ところが原稿ができていないので、年末からずーっとisedのためにネタを考える羽目に。で、その原稿の内容とは必ずしもリンクしてないわけだから、当然ネタに困る。そこで、東浩紀さんの講義をちょくちょく聴講させていただいてたときに考えたことを使わせてもらった。

それが、『情報時代の保守主義と法律家の役割』という発表。東さんは、たいへん面白がってくださったけど、他の ised倫理研 の皆さんはちょっとコメントに困惑している風があった。やっぱり、あるメッセージを伝えようとするとき、その背後にある認識をすり合わせておかないと うまく伝わらないんだなぁ、と思った。そんな感じで必ずしも「大成功!」ではなかったような気がしていたけど、その原因についても東さんがビシッ!と指摘してくださった。

「社会学系の人には、立ち位置というものがあるのですけど、白田さんのそれがわからないから、他の先生方がツッこみにくいんだと思いますよ。」

「なるほど。そうか。そうなのか。」

立ち位置をあんまり意識したことが無かったので、ちょっと考えてみようということで今回のテーマを選んだ。で、これについて語ることは、この連載が「何を目的としてはじまったのか」ということを再確認することにもなると思うので、年初のテーマとして適切かと...

さて、発表での主張をバシッと言ってしまうと、「私たちの社会を制御してきた法が目的としていたものを再抽出して、情報時代という新しい環境においてその目的を実施できるように法律を再プログラミングしましょう」というもの。目的の抽出作業では、過去に遡るので保守的なわけだけど、その目的を法律として実装するときには大胆に根本から考え直しましょう、というわけでラジカルなわけ。ラジカル radical という単語の意味としては、「過激な、急進的な」という意味もあるけど、ラテン語の radix 「根」という単語からの派生なので、「根本的な、基礎の」という意味がもともとの意味。だから、ラジカルであることは、常に根本を問い直すと言う態度とつながってしかるべきなわけだ。

この主張から導かれる方法は、私が著書『コピーライトの史的展開』およびそれに続く研究でやった方法と同じ。この手法をプライバシーでも使ってみようと思っていたら、前回の「プライバシーに関する私論I, II」で紹介した新保先生がプライバシーの歴史の洗い出しというたいへんな仕事をしてくださってた。── こんな感じで、情報技術によって強く変動を受けるだろうと思われる法領域の全体にわたって「もともと何のために、何を目的として、それは法律となったのか、それはどういった経緯で現在の形をとっているのか」という確認をした方がいいんじゃないかと思う。

法学の一部として法の歴史を研究する「法制史」というとてもオモシロイし興味深い領域がちゃんとある。だから、そこの成果を情報社会という視点から再評価するだけでも、ずいぶんいろんな発見があるんだろうと思う。一方、それをネットワークにおける事物の性質や人々の活動とすり合わせするときには、ネットワーク内部で発生しつつある規範あるいは慣習のようなものをちゃんと理解しておかなければいけない。この連載では、読者からネットワークにおける慣習の事例をもらうことで、そのすり合わせの実験をしようと思ってたわけ。

こうやって書くと、「そんなこと、法学界で当然とりくんでるんだろ?」とみなさんは思うかもしれないけど、実はそうなってない。法実務家や法学者は、すでにそこにある法律の解釈や運用に取り組まなければいけないし、大学においては、そうした能力を持つ人たちをたった数年で作り出すことを目的にしているわけだから、憲法、民法、刑法...といった法律に関する勉強が主になる。さらに、法科大学院(ロー・スクール)修了が司法職に就くのための前提条件となると、ますますこの傾向が強くなる。法制史とか、比較法とか、法哲学といった「そもそも何でこの法律があるの?」というような、法の根本的な部分を問い直すような領域=「基礎法学」は肩身が狭くなりつつある。でも、情報法のような領域についてちゃんと考えようとするとき、この基礎法学はとっても役立つ、という話を次回以降でしようと思う。

【ネットワークと法の関係について】

●部分社会説

さて、大学でキチンと法律を勉強して司法試験に合格するような人たち、およびそれを目的としてキチンと法律を勉強した人たちは、ネットワークにおける法律について考えるときに、次のような考え方をする傾向にある。

いわゆるサイバー・スペースとかネットワークといわれている領域(長くなるので「電網界」と書かせてください)も、それは結局のところリアルな世界(これまた「現実界」と書かせてください)の人たちが作り出している、特殊な領域なわけだから、現実界の法律を適用することができるし、そうすることの方が法律が安定的に動作するために適切だと考える。では、なぜ電網界で特殊な問題が発生し、かつ現実界の法でうまく仕切れないのだろうか... というと、それは法律を強制する権力が欠けているからだと考える。国家が定める法律は、国家の権力を背景に動作しているのだから、国家権力が電網界を掌握できれば、現実界の法律がうまく機能するはずだと考える。

こういう考え方をとりあえず「部分社会説」とでも呼んでおこう。

そういうわけで、電網界への政府の規制がどんどん強化されているし、もう一つ大事なポイントとして、法律を真面目にとらえる技術者のみなさんが、既存の法律が実行可能な形へ電網界を「改良」しようと努力している。匿名性が電網界での法的問題の原因なら、匿名性のないネットワークを作ろうとか、コピーが容易であることが電網界での著作権侵害の原因なら、著作権者の許可が無い限りコピーのできないネットワークを作ろうとか、そういう努力がされている。そういう努力は「正しい」ことだけど、もしかすると危険なことなのかもしれない...という話は、これまた次回以降に。匿名によるコミュニケーションの利点を経験し、円滑な情報の流通のために発展してきたインターネットの歴史を知っている人たちは、そうした現実界からの法律の強制について、抵抗感を感じる面があるに違いない。

もう一つ。現在のところ国家という単位を越えて、国際的に法律を強制する権力が存在しないことが部分社会説の弱点。電網界は、その構造として国境に該当するような境界を持たない。ところが、国家の権力を背景にする法律が機能するためには、作動領域としての国境と作動対象を特定する国籍が必要だ。ある人の考えでは、「電網界を国境分割すべきだ」ということになる。そうすれば、その領域内では、ある国の法律を権力的に強制することがより容易になる。でも、それはとても難しい。またある人の考えでは、「電網界を制御するための国際的な枠組みを作るべきだ」ということになる。これは、国境分割よりは現実的な対応だけど、まだまだ難航中だ。

このように書くと、部分社会説をとってる人たちが頑なで融通の効かない人たちのように思える人もいるかもしれない。そういう人たちは、たぶん、次に紹介する考え方が適切だと考えるはず。さて、なんでちゃんと法律を勉強した人たちが部分社会説を採用する傾向にあるのかといえば、日本法を含む大陸法の構造に理由がある。──英米法と大陸法については、以前に書いた、「法律の重みについてI, II」も参照してね── この構造については、これまた次回で。

●新領域説

部分社会説とは対照的に、電網界はまったく新しいフロンティアだと考えている人たち、サイバー・リバタリアン(自由至上主義者)とか呼ばれている人たちがいる。この人たちは、電網界は、現実界ともっとも根本的な性質から異なっているし、国家の権力も及んできていない。さらに、国家の権力や法律が及んでくる以前から、独自の規範や慣習が成立しているので、現実界と同様の法律を適用することは困難である以上に不適切であると考える。

(余談: 大英帝国時代のイギリスでは、植民地に、西欧の価値観と類似した価値観を基礎とした体系をもつ現地法が存在する場合、その法をそれなりに尊重するが、そういうものが無い場合、イギリス法を基礎とする法を設定するという考え方をとっていた。... だから、電網界の規範や慣習が法としての体裁をとっているか否かは、電網界の独自性を主張するときに、かなり重要な論点となる ... かもしれない。)

もちろん、何らかの統治主体(複数可)が、利害対立の調停、紛争の解決、安全の保証などのサービスを提供してもよいと考えるけど、そうした法的サービスのあり方は、自由な参加者の間の交渉によって、しだいに慣習等から規範化していくもので、外部の権威から与えられるものではないと考える。また、そうした統治主体のいずれに属するかも、各参加者の自由に任せるべきだと考える。電網界は、わたしたち参加者に無限の自由を可能とするようなアーキテクチャ(以下、「基本構造」と書かせてください)を与えてくれているのだから。

こういう考え方をとりあえず「新領域説」とでも呼んでおこう。

そういうわけで、電網界への政府の介入に対しては、根強い抵抗が表明されているし(サイバースペース独立宣言)、もう一つ大事なポイントとして、自由を信奉する技術者の皆さんが、既存の法律を無効化してしまうような技術をどんどん実用化している。というか、そもそもインターネットからして、技術的にやりたいことをどんどん試していく、あらゆる可能性の実験場として驚異的に発展を遂げてきた歴史をもっている。こういう技術者の無邪気さというか、独善主義のようなものについては、それが画期的なものを生み出す点から賞賛されるべきものである一方で、物理学が核爆弾を生み出したように、あとから「アレを世に出したのはマズかったのではないか...」というような結果になる危険を常にはらんでいる。そうした懸念は、人文学領域からの真面目な批判から、SFやアニメに描かれる悲劇的未来のイメージにまで広く見られる。

新領域説の弱点としては、自由な個人が集団を形成すれば、そこから妥当な規範や慣習が自ずと生まれてくる(創発する)のだ、という想定に依存していること。これは現実界では、歴史的にみてもその通りなんだけど、電網界でも同じようにそうした創発性が維持されるかについては、私自身としては疑問をもってる。これについても次回以降に。それから、もう一点。そうした創発的に生まれてきた規範や慣習が、現実界が数千年にわたって発展させてきた法的価値の観点からみて、妥当な状態を実現するかどうかアヤシイということ。

たとえば、奴隷制は、歴史的にみても世界的にみてもしばしば見られる制度だ。だから、人間集団が自然に規範を作っていくと容易に奴隷制のようなものを生み出すのだろう。でも、それでは「人間性の観点からマズい」ということで、ようやく20世紀に入ってから「奴隷制はダメ」という考え方が一般化した。放っておくと生じる望ましくない傾向を矯正するのも法の重要な役割だ。もちろん、そのときには何が「望ましいのか」という価値の問題が重要になる。

●四規制力説

そこで出てきたのが、レッシグ先生が『CODE』で紹介した基本構造、市場、規範、法律からなる四つの規制力を、法律で制御するアイデア。

基本となってるのは、新領域説の考え方。人間集団がある状態を作り出すとき、その集団に含まれる個々人の行動は、まったくの自由に任されるわけではない。(1) 集団の人間関係から創発してくる規範や慣習があり、また (2) 個々人が経済合理的に(あるいは不合理的に)行動する結果生み出す市場の状況があり、そして そもそもそうした(3) 人間が物理的・生物学的にどのように振舞えるのかを決定する環境がある。仮に法律が無ければ、(1)-(3)の三つの要素によって人間集団の状態は作られるわけだけど、先ほど述べたようにその結果が「望ましい状態」を実現するかどうかはアヤシイ。そこで、法学者でもあるレッシグ先生は、(4) 集団構成員のそれぞれの価値観や目的をすり合わせる過程である、民主的手続によって決定される法律、またその法律によって維持される法が、他の三つの要素を制御することで、可能な限りの自由を維持しつつ、民主的な価値の実現過程を維持すべしと主張している。

この考え方は、新領域説の弱点となっていた、集団が目的とする価値の選択の問題を、民主的手続を経由することで解決しようとし、また民主的手続を存続可能な状態に維持しようとすることで解決しようとしている。

こういう考え方をとりあえず「四規制力説」とでも呼んでおこう。

四規制力説の弱点を強いてあげれば、ものすごく多様な価値観をもった人々が集まってくる電網界において、民主的手続を経由することで価値選択の問題を解決することができるだろうか、という疑問があること。現実界においても、さまざまな価値観をもった人々がいて、その価値観ごとに国家や民族や小共同体(colony)が形成され、独自の価値を掲げつつ対立あるいは協調している。とすると、電網界においてもやっぱり価値観の違いによって人々はいくつかの小共同体に分離し、独自の価値を掲げることになるんじゃないか (サイバー・コミュニタリアニズム)。

そうであるなら、部分社会説の弱点と同様に、電網界をなんらかの方法で分割して、対立する小共同体を分離するようなことを考えなければならなくなるはず。一方、小共同体が互いに違う価値をもっていて紛争解決が困難であるとき、それら小共同体の上位にあって、それらを横断する権力をもつ国家や、さらにその上位の権威が紛争解決を担ってきたことを考えると、小共同体は、それぞれに独自の価値を持ちつつも、上位権力の権威を承認するところまでは揃っていなければならないことになる。こうした問題は、現実界では小共同体が物理的(地理的)に近接していることや、それらを横断する文化圏が存在することで解決されてきたわけだけど、電網界ではそうした権威の承認過程が機能するかどうか、かなりアヤシイと考えられる。その理由もまた次回。

ただ、最近読んでる『シカゴ学派の社会学』(中野正大 宝月誠 編, 世界思想社)の記述をみると、アメリカは、20世紀の初めころから、大量の移民を受け入れる中で、いま私たちが電網界で直面しているような社会における価値観の分裂や、小共同体間の意思疎通の困難性等の問題に直面してきたらしい。いろんな問題を抱えつつも、アメリカは そうした価値観の分裂から生じる問題を今日までなんとかやりくりしてきたし、また、そうした分裂した価値観を、法の手続としての側面を強調することでなんとか統合してきた経験をもっている。だから、電網界でも同じように、分裂した小共同体間の調停がうまくいくと思っていても不思議ではない。むしろ、そうした社会状況は、現実界においては「国際化」の名のもとに、電網界においては そもそもの構造として推進されているわけで、これこそが「新しい世界像」だとむしろ積極的に肯定しているフシすらある。うーむ。個人的にはあまりウレシクない世界像だな...

さらに言えば、レッシグ先生の知的背景である英米法は、何らかの固定された価値を実現する体系というよりは、紛争解決のためのルール群のように作られている。だから、価値観が対立するような小共同体間の調停に向いている。というわけで、やっぱり電網界は、英米法──その中でも特殊なアメリカ法的なルールが支配しやすい世界にならざる得ないといえる。それで「アメリカ法的ルールでイイ!(・∀・)」と皆さんが思うのなら、まあ、それでいいわけですけど、アメリカって国がそんなにイイ状態にあるとは、私には思えない。

英米法の根っこには、コモン・ローという民族的確信というか常識が備わっているはずで、それがイングランドの歴史から生まれてきたものであることは誰にも否定できない。アメリカも初期の状態では、イングランドの伝統を基礎にした国家だったわけだが、今はそうではないことは誰の目にも明らか。もちろん、アメリカの法制度は、「アメリカのコモン・ロー」を根っこにして動いているわけだが、コモン・ローの部分がかなり小さくなって、法の手続としての側面に依存して かろうじて法の正統性が維持されているような感じも受ける。

... 途中ですけど、あまりに長くなったんで、ここでいったん切らせてもらいます。以下次号に続きます。大事な部分が全部 次回以降になってしまってもうしわけないです。

─────── * ───────

告知

─────── * ───────

締め切りが近づくのにネタは出ない〜♪ 真っ白なエディタの画面を見ながら、頭の中では赤色灯が回転中という危機的状況にあったわけですが、「どうせいずれまとめさせられるにちがいないだろうから」と ised@GLOCOM での発表をもとにしてキチンと整理した文章を書き始めたら、これが長い長い。結局、2回以上に分けなければいけないことになってしまいました。

この「ラジカルな保守という態度について」ネタが終わったら、権利と義務の帰属対象である「人格」をテーマにしようと思っております。匿名問題とは違った面から、人格の問題を取り上げる予定です。ネトゲー人格について思ったことでも、ネット上での人格の使い分けの話などでも、なにか思うところがあれば、shirata1992@mercury.ne.jp 宛にメールでもくださいませ。

まってまーす。

─────── * ───────

Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 准教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp