De Legibus et consuetudinibus Interreticuli

知的財産権制度と封建制について

白田 秀彰とロージナ茶会

4回目にして早くもネタに詰まったこの連載。それでも〆切はやってくる。さぁ困った。すると「こんなこと書いてもいいのかなぁ」と思うようなネタでも出さなければならなくなる。今回がまさにそう。もしかすると連載の効用っていうのは、執筆者が切羽詰まって、差し障りのありそうなことも書かされてしまう、というところにあるのかもしれない。

ということで、今回はいろいろと話題の知的財産権について。なんとこれが情報時代の封建制度を支える中心軸になると書こういうのだから、怪しい怪しい。普通の学者さんならキナくさい臭いをぷんぷん感じて書かないだろうと思う。でも書かないと〆切が... 知的財産権をガンガン強化したいと考えている政府および業界関係者の皆さん、これはネタに困った末の戯言ですので、生ヌルい眼差しで見守ってやってください <(_ _)>。

さて、まず落語でいう「枕」になる話。

最近(というかずっとそうだけど)、ファイル共有ソフトを使った違法ファイルの交換で何人が捕まったという話が絶えない。HotWiredを見ている人たちなら、そうした行為を苦々しく思い、それをやっている(そしてそれを自慢している)自分の友達に、「それ、著作権法違反だからやめておきなよ」と注意してあげたことがあるかもしれない。それで、結果はどうだっただろう? 相手が「悪かった、オレが悪かった」と言ってやめたのなら、あなたは実に幸運だ。実際は「なんか、コピーできちゃうから、いいでしょ (ウゼぇんだよお前)」ってのが多いんじゃないだろうか。

この言い方は歪んではいるけれど、一面の真理も隠れている。ネットワークの世界、いわゆるデジタルの世界での「事物の本性」は、データをほとんどゼロの費用で複製できてしまう、というものだ。しかも自分だけで、他人の手をわずわらせることなくできてしまう。彼らにとって、データの複製行為は、合理的で、実益があって、場合によっては友達から感謝されてしまうかもしれない素敵な行為に見える。もちろん「彼ら」にとってそう見えるだけで、実際にはいろんな所に大迷惑なわけだが。

特に「タダで使えるものは何でも使い倒せ」と言う傾向が強い日本では、長い間 著作権法なんて一般に人にはどうでもいい存在だった。特にデジタルの世界では、上のような本性があるもんだからその傾向は特に強かった。コンピュータ黎明期から70年代末ころまで、ソフトウェアのコピーは悪いことだとは一般に考えられていなかっただろう。そりゃもちろん、値段をつけて販売されているソフトウェアをコピーして買わずに済ますのは問題ある行動だと考えられたに違いないけど、「コピーすること」それ自体が悪いことだとは考えられていなかったはずだ。

個人だけでなく、会社単位でも、平気でソフトウェアをコピーしていた。そこにおいては、コピーを「合理的で、実益があって、場合によっては感謝されてしまうかもしれない素敵な行為」と見る土壌、つまり、「コピー=善」という一種独特な(間違った)概念が、「慣習」として成立していた、と見ることもできるだろう。著作権業界のひとたちが頭を悩ませている消費者のカジュアル・コピーの根にあるものはこれ。

これに対して、法律の分野では、1978年にプログラム(ゲーム) のコピーを著作権侵害だとする訴訟が提起されて、1982年にはプログラムを著作物であるとする初めての判決がでている。1985年には、著作権法が改正されて、プログラムが著作権法の保護の対象であることが確定した。だから、80年代初めのネットワークの黎明期から、著作権法はネットワークにも効力を発揮していたことになる。でも、大衆は、そんな難解でヨクワカラナイ法律なんかより、身をもって感じることができ、しかも個人レベルでは自分に利益が得られる「慣習」を優先したわけだ。現在でも、この慣習は相当な力を持っている。

現実世界でも、土地所有権というものができてから数千年経ってるけど、空き地になってる誰かの所有地で草野球をやった経験なんていうのは、私の世代ならザラなはず。だれも使ってないなら、草野球程度で侵入したところで別にいいよね、という経験的判断の方が、法律理論よりも強いわけだ。今もなお。

話を戻そう。初めのうち権利者は、「コピー=善」の「慣習」にあまり逆らわなかった。これは、ネットワークがまだあまり現実社会と関係してこなかったことと関係がある。でも、ネットワークが現実世界に広く関係していくようになると、著作物の複製物(コピー)を売りさばくことで生活している人たちは、「コピー=善」の慣習を放っておくわけにはいかないと考えるようになった。そこで、現実世界の「法律」で、ネットワーク上の「慣習」をぶっ壊そうと考えた。それが先に掲げた著作権意識向上キャンペーン。もちろん、現在も継続中。

でも、一回できてしまった「慣習」を「法律」で覆すのは難しい。「慣習」は一人一人の経験に基づいている。でも、「慣習」と異なる様式を規定する「法律」にはそれがないからだ。そして、「法律」が実感として不利益をもたらすと感じるものであれば、なおさら「法律」の方を生殺しにしてやれと思う人がでてきても不思議じゃない。

おそらく、この状況を根本的に変えるには「著作権違反(コピー)=悪」という概念を「慣習」化してしまうしかないだろう。その手段は、教育=意識改造だ。いま大学生になってる若者たちが80年代初めの生まれであることを考えると、彼らが物心ついた頃からガッチリ教育していけば、いまごろ「コピーしちゃいけない? なにあたりまえのこと言ってんのよ?」という学生が大勢を占めていたはず。しかし、そうなってないのを見ると、まだまだ著作権業界の人たちの努力が足りないといえるかもしれないし、事物の本性と人間の合理性から発する行動を教育だけで乗り越えることは難しいといえるかもしれない。

さて、ここで ものすごーく牽強付会なおとぎ話へと移行。前半とのつながりの悪さは、ご勘弁のほどを。

馬に乗って旅を続けるあなたの目前に一面の野っぱらがあったとしよう。やっぱり馬で近づいてきたオッサンがあなたに「ここは領主ウィリアム・ゲイト様の土地なり。ここから先に進むことは許さん。早々に立ち去るがよい!」と言ったとしよう。そこであなたが、(A)「何をいってんの?この人」と思うか、それとも(B)「ああ、そうか、じゃ出て行かなきゃ」と思うか。土地に基礎を置いた文明をもつ「くに」を基本として考えるなら、(A)は野蛮人で(B)は文明人。私たちは文明人だから(B)の考えをそれほどヘンテコだとはおもわないだろう。

でも、考えてほしい。目の前に広がる野っぱらには見えるような境界はなく、別にあなたがそこを通り抜けたとして誰も困ることはなさそうだ。なんで、追い出されなければいけないんだろう?所有権の基本中の基本である土地所有権というのは、私たちが自分の馬や剣を所有する、という状況よりもずいぶん観念的だ。確かに、自分の屋敷がある土地やその周りの農地くらいなら、日常的に自分の支配下にある土地だから、自分のものだといえるだろう。でも、先のゲイト卿のいう「オレのもの」は、いざ戦争になったらゲイト卿の私兵がそこにいる連中を追い払えるという意味での「オレのもの」のレベルなわけ。

土地を基礎においた文明をもつ「くに」が秩序だって成立するためには、その領域全体の所有者が王様であり、その「くに」の一部が王様の権威でゲイト卿に与えられており、ゲイト卿のものであるということが、観念的に承認されていなければならない。でも、そうした観念的土地所有なんていう高度な概念は、先の(A)のレベルの野蛮人たちにはサッパリわからないだろう。野蛮人がその「くに」の構成員になるためには、観念的土地所有という概念を理解しなければならない。でも、それは結構大変なことだったんじゃないかと思う。この「大変そうだ」という感覚は、加藤 正信 著 『「所有権」の誕生』(三省堂) にでている土地所有制度を知らない民族の話を読むと理解してもらえると思う。私たちが土地所有についてとりたてて疑問をもたないのは、社会全体が私たちに与えた教育の結果だ。人間に天賦に備わっている認識ではない。

ここまでの話を知的財産権の話に置き換えてみよう。

あなたが何か作ったとしよう。それが特許の対象になるものでもいいし、著作権の対象になるものでもいい。まあ、ちょっと大きめの耳のついた「しゃべるネコ」のマンガでも書いたとしよう。ある日、弁護士とか代理人とか名乗るオッサンがやってきて「あなたの作品は、ウォルト・エンタテインメント・カンパニーの作品である『おしゃべり黒ネズミ』の著作権を侵害していると我々は考えています。法的手段を取る前に、使用料交渉に参りました」とか言ってる。あなたはどうするだろうか。(A)「なに言ってんの?このオヤジ 」と思うか。(B)「ああ、他人の知的財産権を侵害してたかもしれないのか」と思って交渉に応じるか。いくらかでもそうした業界の人であれば、当然(B)の対応を取るわけだけど、私の見る限り、一般の人は(A)の認識くらいしかもってないと思う。

もとより所有権は観念的なものだけど、知的財産権はさらに観念的だ。あるアイデアやイメージが誰かのものであって、それを勝手につかったり、似たようなアイデアやイメージを自分のものだと主張することはいけないことだということは、まだ文明人である我々にも一般的な観念になっているとは言いがたい。だから我々はカジュアル・コピーを繰り返す。でも、いざ裁判になったら、ウォルトの弁護士が私たちから賠償金を取ることができるわけ。

知的財産権に基礎をおいた「くに」が秩序だって成立するためには、知的所有権がいまの所有権と同じくらいに広く人々から承認されなければならない。そのために、すでに知的財産権の観念を理解し、そこから恩恵を受けながら「くに」の構成員になっている人たちは、知的財産権という観念を野蛮人たちに教育し、自分たちの「くに」を安全にしよう、できれば拡大しようと努力しているわけだ。ここで、この知的財産権に基礎をおいた「くに」のことを「神聖知財帝国」と呼ぶことにする。「帝国」って言い方にバイアスが掛かってると言いたい人もたくさんいると思うけど、以下の物語を読めば、「帝国」のアナロジーが適切だということがわかってもらえると思う。

神聖知財帝国の国教は、知的財産教。「知財は、神の与えた霊感と人の知的労働の結婚の果実であるから神聖不可侵である」というのが中心教義。帝国は、国教を信奉するたくさんの貴族たちによって維持されている。帝国にとどまる限り、この教義に疑問をもつことは許されない。

もともと貴族たちは、自ら荒野を開拓しながら自分の知財を確立していったのだが、長い長い時の流れの間に、知財の売買、戦争による略奪、貴族同士の結婚によって大貴族が成立している。大貴族は、広大な知財の領域を所有していると主張する。他の小貴族たちは、大貴族の受封家臣となって、自らの知財収入の一部を上納することを条件に、自分たちの所領を保護してもらっている。だから、小貴族たちには、大貴族たちの主張に反論する動機がない。こうした帝国の利益配分システムに食い込めなかった自由農民は、帝国の辺境の荒野を開拓しながら知財の蓄積に励んでいる。そして、貴族の農奴となった人々は、自らの生み出した知財のほとんどを貴族に収奪されながら生活している。

ある人が誰もいない荒地に気が付いて、そこに自らの知財を確立しよう鍬を振り上げると、どこからか役人がやってきて告げる。「ここはゲイト侯爵の土地であり、我輩バルマン男爵が受封している。もしここで知的労働をしたければ、知財からあがる毎年の利益の12分の1を税として納めよ。税を拒むならば直ちにここから立ち去れ。」これが神聖知財帝国の秩序。

神聖知財帝国は、知的財産の何たるかをまったく理解しない蛮族に国境を脅かされている。蛮族は帝国の知財を尊重せず、「かったりぃ」とダラダラしながら知財を略奪していく。帝国は、蛮族の征伐にときどき軍を送るが、蛮族のゲリラ戦には手を焼いている。最近 蛮族は、帝国の知財を大量に奪い去る新しい武器(記録型メディアやP2Pネットワーク)を使用するようになった。しばらく帝国の領土は蛮族に侵されたが、いまや反撃のとき。帝国の全土を監視する監視網を整備したし(著作権管理システムや電子透かし技術)、強固な防塁も築いた(コピー・プロテクション技術)。こうした防衛設備は、国内の秩序維持にも使える。これまで税金を逃れたり、貴族の知財を横領していたような帝国内の不届き者たちも一網打尽にできるようになった。

いくつかの部族は、知的財産教を受け入れ、帝国に恭順した。彼らの荒地も帝国の領地となった。それもこれも知的財産教を蛮族に布教することに命を燃やす布教僧たちや教会騎士団たちのおかげだ。蛮族に知的財産教を理解させるもっとも適切な方法は、彼らの荒地を知財として承認すること。ある制度を強固なものにするためには、その制度から恩恵を受けている人々、あるいは恩恵を受けていると信じている人々を増やすことが肝心だ。帝国は拡大しなければならない。知的財産教の神の威光を全世界に広めるために!

どう? けっこう当てはまったりしてませんか? 現実世界で数百年成立していた封建制度は、現在の自由市場経済制度から見れば とても効率が悪い不合理な制度だったけど、とにかく機能する秩序であったことは間違いない。そしてそれが「あたりまえ」だったときには、ほとんどの人はそれを疑問には思わなかった。

この帝国アプローチの問題点は、所有制度がそのまま人の支配に直結していたこと。現実世界の封建制度は、財産の観点からだけみれば土地の授受のシステムだったけど、人の支配のシステムとも結合していた。現在の自由市場経済では、土地そのものも土地から上がる収益も、貨幣によって評価される財としてのみ把握される。だから、土地を借りて何か収益をあげたときに、原則として一定の額の地代を貨幣で支払うだけで済むわけ。

ところが封建的な対価というのには、ヘンテコなものがずいぶんあった。領主様の土地を使わせてもらってる恩のみかえりとして、領主様代々のお墓のある教会で領主様のご先祖の幸せを祈らなければならなかったり、結婚するとき新妻をまず領主様に差し出さなければならなかったり、領主様の屋敷の庭の手入れをしなければならなかったり、といったような義務があったりした。

知的財産の封建制において、知財の使用の対価が単に使用料の問題だけであるならいいのだけれど、貴族同士の勢力争いの道具やら、新興貴族や成り上がりつつある自由農民の足を引っ張る道具として知財が使われるようになると、イヤーな状況が生じる。

たとえばゲイト侯爵のところにジョイス伯爵からの使者がきたとする。

使者「わが君の領地を灌漑するために、ゲイト侯爵様の領地の一部を通る運河を引きたい。いかがか?」

侯爵「この間の槍試合で伯爵に負けてムカつくので認めるつもりはない。帰れ。」

使者「そこを何とか。」

侯爵「じゃ、運河の川岸に『ジョイスのアホ』と書いた旗を立てるなら認めよう。」

こんなガキのようなことを言う人はあまりいないと思うけど、知的財産権の使用許諾交渉において、こんなヘンな条件を付加することは不可能ではない。相手側が条件を受け入れなければ、許諾を拒絶すればいいだけの話だ。所有権を根拠に他人の行動を支配できるわけで、所有権は権力としても使えるわけだ。こう考えると、すべてをカネで割り切ってしまう現代的な考え方は、とてもクリーンでシンプルで平等なシステムだと言うこともできる。

さて、知的財産教にも分派がある。「知的財産教セクト諸派」とでも呼ぼうか。このセクトの人たちは、神聖知財帝国のすぐそばにいくつかの国を作っている。ここでは、そのうちの一つ、「ヌー国」の物語をみてみよう。

ある日、イグヌチウスという隠者に天啓が下った。「どんなに偉い貴族でも そいつが今いる場所以外はいつでも空き地じゃん!」そしてその世界(コンピュータやネットワークの世界)では「知的労働から生み出された知財が いくらでもどんどん増やせるじゃん!」というよくよく考えてみるとあたりまえのことだった。知的財産教では、「神と知的労働への冒涜である」という理由で、教会の許可なく勝手に知財を増やすことが堅く禁じられていた。イグヌチウスは、教義への反駁の書を教会の入り口に掲げると、自ら帝国を離れた。

イグヌチウスは辺境の荒野で一人開拓をはじめた。彼は自らの生み出した知財を惜しみなく人々に与え、またその人々がそれらの知財を増やすように薦めた。イグヌチウスは、自分の庭で誰かが鍬を振るっていると、「それじゃ、一緒にやろう」と手伝った。荒野はどこまでも広く、人が住める開拓された土地は少なかったから、帝国を離れた人や、野蛮人がなんとなくやってきてイグヌチウスの開拓した土地に住むようになった。イグヌチウスはその人たちを追い出すのではなくて、とにかく人の住める土地を広げるため一緒にがんばった。やがてイグヌチウスたちの教団は、ヌーとよばれる国に成長していった。

ヌー国では、誰でも好きな場所で好きな労働することができる。他人の畑に虫がいたらまわりの人間がよってたかって虫取りをするのが礼儀。へたくそな家を建てている人がいたら、勝手に作りかえたり修繕したりするのがあたりまえ。生活に必要な知財はいくらでも増やすことができる。帝国を離れてきた人は「私たちはいままで、なんてアホらしい教義に縛られてきたんだ」と嘆息した。

ヌー国での生活は、基本的に不便で質素だった。だからヌー国では、一人一人が職人になることを奨励する。未熟な少年たちを年長者たちが指導する姿があちこちで見られた。そのうち、だんだん立派な道や建物が作られるようになった。ちなみにヌー国での職人養成は、ものすごく厳しいことでも知られている。たとえば、コテの握り方からレンガの積み方のいちいちまで指導される。それがヌー人の気質なのだ。

蛮族たちが「たりぃ、たりぃ」とダラダラしながらヌーの知財を奪っていくけど、ヌー人たちはまったく気にしない。いくらでも増やせるからだ。いくつかの部族は、あまりにも寛大なヌーの人々の態度に感銘をうけて、ヌー国に勝手に連合してきた。ヌー国は自由なので、ちょっとだけ違った教義を掲げてヌー国を出て荒野に移住する人たちもいた。どちらに対してもイグヌチウスは「勝手にすればいい」と相変わらず自分の畑の世話を続けた。

ヌー国では、土地所有や知財が他人を支配する道具として機能しない。どれも自由に使ってよいからだ。帝国で見られたような貴族という存在はありえない。誰もが自分の必要なだけ知財を増やして生活している。そして荒野を開拓するもよし、他人の仕事を手伝うもよし、何もしなくても一向にかまわない。

どう? けっこう当てはまったりしてませんか? もちろん現実世界では、財をホイホイ増やすなんていうような魔法は使えない。だから、ヌー国のようなアプローチは不可能。でも、ネットワーク世界ではそれが可能だ。ヌー国が帝国ともっともちがうところは、所有制度が人を支配する道具としてまったく使えないこと。ヌー国で「土地を使わせるからオレの言うことをきけ」と言っても「ハァ?」と言われておしまいになる。

ネットワークの世界では簡単な「知財を増やすこと」を、知的財産教が堅く禁じていたのは、知財の支配を軸に教会と帝国の秩序が成立していたからだ。時として秩序は、あらゆる財産的な利益に優越する価値になりうる。上記の例では、ヌー国がまるでユートピアみたいに表現されていたけど、実際には世の中の人たちというのは、いい人ばかりではない。野蛮人が傍若無人に振舞ったとき、帝国なら領主の私兵が剣の力で取り締まってくれる。けれど、ヌー国では、教育によって培われた職人気質だけが秩序を守るよりどころとなっている。誰かの乱暴を取り締まることは難しい。

二つのおとぎ話を現実世界との結びつけて考えてみよう。知的財産(のコピーを収めたパッケージ商品)をだれもが勝手にコピーして増やすということは、現実世界の市場経済機構を混乱させてしまうから容認されるものではない。希少性を失った財は、市場で価値を発生させることができなくなってしまう。逆にいえば、市場機構をもちいて知的財産を貨幣に変換し、そして その貨幣をやはり市場機構をもちいて他の財と交換しながら生活する必要がないのであれば、ヌー国のアプローチも使える。

「自由なソフトウェア」が、無料であることを目的としているのではなく、ソフトウェアと利用者が自由であるために、対価の問題を無視する必要があるのだ、というところがなんとなくわかってもらえるだろうか。そして、フリーソフトウェアの唱道者 R. ストールマンがいう「自由であること」とは、「所有が人を支配することを止めよう」という意味であることをなんとなくわかってもらえるだろうか。所有が問題なんじゃない。所有が支配に用いられることが問題なんだ。

というわけで、まとめ。知的財産権を人々の「あたりまえ」の観念にすることは可能。そうして成り立つ秩序もあるわけで、これを望ましいと考える人たちもたくさんいるだろう。でも、知的財産権をネットワークで強制することは、かつての封建社会で生じていた不都合をもう一度ネットワークで復活させることになるんじゃないかと懸念する。そうした不都合を回避する方法として、たとえばヌー国のお話みたいなやり方があるよ... ということ。あと、ソース共和国とかコモンズ共和国なんていうお話も考えられるけど、それは、またの機会にしたいと思う。

最後に、ルソーの『人間不平等起源論』の有名な一説を引用して私の妄想的おとぎ話をおしまいにしよう。

ある土地に囲いをして『これはオレのものだ』ということを思いつき、人々がそれを信ずるほど単純なのを見いだした最初の人間が、政治社会の真の設立者であった。杭を引き抜き、あるいは溝を埋めながら、『こんな詐欺師の言うことを聞くのは用心したまえ。産物が万人のものであり、土地が誰のものでもないということを忘れるならば、君たちは破滅なのだ!』と同胞たちに向かって叫んだ人があったとしたら、その人はいかに多くの犯罪と戦争と殺人と、またいかに多くの悲惨と恐怖とを、人類から取り除いてやれたことだろう。

ルソー 「人間不平等起源論」『世界の名著 30 ルソー』小林 善彦 訳, 中央公論新社 p. 152.

私は、現実世界の仕組みに関しては、自由市場経済の信奉者で私有財産制度に大賛成。引用部分の末尾についても「そうかなぁ、そんなことはないと思うけど」と思っている。でも、事物の本性がまったく違うネットワーク世界にまで、現実世界とおなじ仕組みを導入しなければならないかについては一度キチンと考えたほうがいいと思う。私には、杭を引っこ抜いたり、溝を埋めたりする根性はないけど、誰かの囲いの前で「ご用心、ご用心」とブツブツ言うくらいのことはしておこう。

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告知

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「もうだめ...」と前回書いたら、応援メールを1通*だけ*いただきました(泣)! 沢田さん、ありがとうございます!。あと、コメントくださった数人のみなさん。ありがとうございます!

今回の記事は、締め切りギリギリに ほんとうに苦心惨憺しながら書いたものなんですけど、はやくも次のネタについて考えなければなりません。なんとなく「ネットワーカーたちが服している権威」について書こうかと思っております。ネットワークにおいて皆さんが活動するとき、誰の定めたルールを受け入れ、誰の指示に従っているのか、と言うようなことについて何でもいいので教えてください。なかには「オレがルールだ!」というようなジャイアニズムの人もいるかもしれませんね。shirata1992@mercury.ne.jp 宛によろしく、よろしく(泣)。

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Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 准教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp