Winny をめぐる今回の事件は、原理的な問題を含んでいる。しかし、今後の裁判に おいては、そうした問題には踏み込まないだろう。事件の背景にある問題を訴訟上の 論点に含めてしまうと、金子氏を無罪に導こうとする訴訟戦略から見た場合、強いて 必要のない労力を費やすことになるため、著しく不利になるからだ。  とはいえ、ここでは原理的な論点について検討してみよう。  まず第一に言論表現の自由に関する論点。以前から彼は、現行著作権制度への疑問 と批判を語っていたようだ。確認していないが、こうした彼の主張が著作権侵害の故 意を立証するものとして、逮捕の一つの理由となっているという。  ところで、刑事法の原則は、犯罪として刑法に規定された行為[*注釈]を処罰する ものだ。幇助犯は犯罪行為を助ける行為を処罰するもの。金子氏が逮捕された理由と される「片面的幇助」というのは、犯罪を実行した者と共謀することもなく、一方的 に犯罪行為を助ける行為をいう。確かに、ソフトウェアは動作するものだから、 Winny の公表は、幇助行為だと言えるかもしれない。 [*注釈] 「行為」とは物質的であるか精神的であるか、作為であるか不作為であるか を問わない法律上の概念。行為は、何らかの様態で人間の外側に表現されたものであ り、内心のみの働きで犯罪とされることはない。たとえば、誰かをそそのかして罪を 犯させることは教唆という行為であるが、心の中で罪を犯すように願っているだけで は、たとえそれが実現したとしても犯罪行為とはならない。  では、彼の書いた Winny が、現行著作権制度への批判を表現した文章的な作品だ と考えたらどうだろう。人による創作的な表現(すなわち思想)を保護する著作権法に は、プログラムが保護対象として含まれる。プログラムが、人間の思想の表現形態の 一つであることは疑いない。彼は、自身の「コンテンツ流通の理想」をプログラムと して表現したところ、犯罪とされた。しかも、その犯罪の故意を立証するものとして、 彼の言論による主張が用いられた。これは思想の自由への抑圧につながりはしないだ ろうか?  もし、金子氏が Winny に込めた思想を自然言語で表現・公表していたなら、彼を 逮捕することはとても困難だっただろう。それは憲法で保障された基本権だからだ。 では、やはり言語の一種であるプログラム言語で Winnyの思想を表現・公表した場合、 憲法的保護は及ばないのだろうか? 自然言語とプログラム言語で、思想の自由と表 現する自由の重みはどのように変わるのだろうか? 私にはわからない。しかし、単 に「反体制的な思想・表現だから取り締まってよい」というのであれば、全体主義的 発想だとしか言いようがない。 (追記: 金子氏がWinnyの実際の利用状況を理解しつつも、改良バージョンの提供を続 けたことについては、故意の成立を認めうる余地が大きいと考えられる。)  第二に著作権制度の根本的見直しに関する論点。著作権制度のあり方について、こ れほど一般の人の目を集め、また著作権制度と技術的発展との均衡についての問題を 明らかにした事件は過去になかった。現行著作権法に照らして考えれば、Winny 利用 者が著作権を侵害していたと判断される可能性はきわめて高い。しかし、現行著作権 法がネットワーク環境と対立的な要素を多分に備えており、著作権法を強化しつづけ る結果が、ネットワーク環境の本質的美点を潰してしまうだろうことは、ある程度、 意識の高いネットワーク利用者なら実感として理解しているだろう。ならば、どうす べきか。現行制度の枠をいったん離れて、望ましい制度について構想する時期が到来 していると考える。 (追記: レッシグ先生の『Free Culutre』を読むとヒントがいろいろと書いてある。 でも、それはアメリカ法での話で、日本法にそのまま適用できるかというとかなり絶 望的。その理由は HotWiredの私の記事でも読んでみて。)  すでにネットワーク環境や技術に明るい論者たちは、現行著作権制度の枠組みが作 られた時代から遠く隔たり、根本的な見直しが必要なことを指摘し始めている。金子 氏もそうした問題に気づいていて、新たな枠組みを作るために、まず現行著作権制度 を機能不全にする必要があると考えたのかもしれない。そうしたことを考えることも 表現することも自由なのだが、彼は、実際に動作するプログラムとしてリリースした。 これによって社会的な混乱が生じ、経済的損失が生じたと主張する人たちがいる以上、 彼は、Winny のリリースについて、しかるべき熟慮と慎重さをもつべきだったし、そ の無謀さについての責任を負わねばならないだろうと考える。  しかし、世の中は誰かの一声から変わりはじめる。京都で新撰組に追いまわされて いた、無謀な維新の志士たちの銅像が建つようになったのは、維新が成って何年後か らなのか、私は知らない。しかし、変革というものはそういうものだということだけ 書いておきたい。 さしあたり上記二点が Winny 事件の原理的な問題であると考える。この事件をきっ かけにして、知的財産制度のあり方についての議論が、とくに利用者の立場からなさ ることを強く望む。が、商品として販売されているコンテンツや社会的な価値がかな り低いと思われるコンテンツを法に反した状態で広く共有することについて、これほ どまでに無頓着であった利用者層に期待することはできないのだろうか。 (全 1987字)