1 はじめにどこかの書評[*]で『ハッカー宣言』なる本が出版されていることに気がついた。そこで、買ってみた。これがまあ、私にとっては困った本だった。 [*] その書評を発見しました。ありがとうGoogle! まず、著者であるマッケンジー・ワークは、『ハッカー宣言』を『共産党宣言』 のパロディとして書こうとしているわけで、「階級」とか「剰余」とか「搾取」とか、 そういうイヤンな用語がいっぱい出てくる。いや、 これは翻訳した金田智之さんの趣味なのかもしれないけど。いずれにせよ、 「抽象的階級であるハッカーは、 抑圧され搾取されている生産階級と連合しながら 支配階級と闘うのだ!」 みたいなことを、なんとなくにでも期待されているのであるとすれば、 ハッカーの皆さんは「わぁ、えんがちょ!」 と言いながら逃げていってしまうと確信する。
[043] 長い目で見れば、 ハッカー階級の利害は抽象化の進展によってもっとも利益を得た人々の利害と一致し ている。それらの人々とは、すなわち生産手段を奪われた生産階級の人々、すなわち、 農民や労働者たちである。この新しい政治の可能性を現実化する試みの中で、 ハッカー階級は政治それ自身をハッキングする。ハッカーたちは新しい政体を創出し、 大衆政治を多種多様の政治へと転換するのだ。そこではすべての生産階級が、 彼らの仮想的潜在性を表現することができるのだ。(p. 27)と、言われてもねぇ... ハッカーは、 きっと自由に楽しく世界を合理化したいだけなんですよ。 次に、本文の内容が、私には意味不明瞭。これは翻訳が悪いのか、 あるいは もともとの文章がこういう「抽象・難解趣味」 で書かれているのかがわからないので、誰を批判してよいのかわからないんだけど、 とにかく意味不明。もちろん、私の頭がかなり悪い可能性が否定できない。「たぶん、 この手の文体にとても慣れていないせいだ」 と自分自身を説得しつつ読み進めるほかなかった。ただ、何箇所かは、 たぶん訳がマズいせいで著しく難解になっているだろうと思われる文があったことは、 指摘しておきたい。
[288] 稀少性は主体的欲望は際限がないという観念に基づいているのだが、 しかし資源となる物質は数少ないのだ。(p. 152)とはいえ、ガマンして全体を読みすすめていくと、 言いたいことがボンヤリとわかったような気がする。その言いたいことは、 かなり好い所を突いているのではないかと思った。そこで、この「誤解説」では、 ワーク氏が黙示録的に書いた原典を、金田氏の黙示録的な翻訳を通じて読んだ、 何が書かれているかよくわかってない私が、 理解したつもりになっていることを書こうと思う。ただ、 私の理解したつもりの内容は、えらく単純でシンプルだ。だから、 きっともっと深遠なものが原典『ハッカー宣言』にはあるんだろうと思う。 興味のある人はぜひ原典を読むといいと思う。けれども、そんなに興味のない人は、 この誤解説で、わかった気になることくらいは できるのではないかと思う。
2 内容の誤解 あるいは オレ理解まず、「世界そのもの (文中では「自然」)」 がある。これはあらゆる可能性の素となる混沌であり、私たちは「世界そのもの」 を直接的に把握することができない。私たちは、ある認識のパターンに従って、 世界を認識する。これがこの本でいう「抽象化」だ。抽象化は、「世界そのもの」 が本来秘めていたあらゆる可能性を、ある視点から整理統合したものであり、 凡人たる私たちは、その視点の外について想定することができないため、 数多くの潜在的可能性の中の一つの視点からの抽象化を「必然の結果」 であると思い込んでいる。 ハッカーとは、私たちが必然として受け入れている認識のパターンを超えて、この 「世界そのもの」が持っていたあらゆる可能性を試し、 私たちの世界へ 従来には存在しなかった何物かを組み入れてくる能力を持った人々 である。この意味で、この本でいう「ハッカー」とは、コンピュータ・ ハッカーだけでなく、 あらゆる分野において従来の認識や理解の枠組みを組み替える革新的な創造活動を行 う人たち全てのことを指している。私たちは、「あるモノそのもの」を表象 (シンボルやイメージ)を用いることで理解する。しかし、そうした表象によって 「あるモノ」からたくさんの要素や可能性が脱落し、固定化される。ハッカーは、 そうした表象を解体し組み替えることで可能性を解放する。この解体と組み替え、 すなわちハッキングは、文化、政治、生産、娯楽のあらゆる場面において行われる。 ハッカーは、階級という認識枠組みそれ自体をも組み替えうる階級である。 いかなる視点に基づいて階級を分類し集団として枠づけるか、 というメタ視点を認識している階級であるということだ。また、 情報技術の発達によって、ハッカーたちは、 シミュレーションという手法が使えるようになった。 「現在ここにある世界 (文中では「第二の自然」)」 とはちがった、「ありうる世界 (文中では「第三の自然」 あるいは「終わりなき自然の可能性」)」 の可能性を具体的に現実性をもって提示できるようになったし、また、ある 「ありうる世界」を「現在ここにある世界」のなかに(仮想的にでも) 実装してしまう力を持つようになった。こうして、かつての階級的な利害、 政治的な利害の対立軸自体を変化させつつある。 ハッカーに対抗する立場として、この本は「ベクトル」という用語を用いる。これは、 「世界そのもの」から生み出されてくるさまざまな可能性を一つの枠や傾向に揃えて、 私たちの認識パターンを作りだし、 世界をある必然性にもとづいて運行するものとして説明し、 世界を秩序づけている人々のことを指している。20世紀の共産党宣言の世界では、 世界を「持つ者たち」である資本家と「持たざる者たち」 としての労働者の闘争の過程として描いていたわけだが、この本では、そうした 「持つ」とか「持たない」とか、「私たちが何を求めて闘争しているのか」 という世界や歴史の理解や構図自体を、 自分達の利益のために操作しているメタ階級を「ベクトル」と呼んでいる。 したがって、この本の枠組みでは、ハッカーとベクトルが、私たちの認識する「世界」 の外側を知っているということになる。ただ、ハッカーは「世界そのもの」 が与えてくれる可能性を解放することに努力するわけだが、ベクトルは 「世界そのもの」の可能性を自分達のなんらかの目的のために方向付け、 制約しようと努力するところが異なっている。
[190] ... ベクトル主義階級はまず始めに情報上の独占 ── 土地や資本よりも一層かけ離れた 抽象化形態 ── を確立するために闘争しそしてそのときそのほかの支配階級を上回 る権力を確立するのだ。ベクトル主義階級は、 利潤や地代の犠牲の上に利ざや ── 情報所有者への報酬 ── としての剰余を保障 するのだ。(p. 103)この本によれば、教育こそがベクトルの行使する具体的な権力であり、 教育を通じて私たちは奴隷化される、 すなわちベクトルの設定した一つの必然に組み込まれていくのだそうだ。 しかしやはり、私たちには何らかの形の教育が必要だ。 零の状態から何物かを生み出すことはできない。ここで批判されている「教育」は、 ある種の価値観や物の見方を、私たちに設定していくような過程であろう。私たちは、 教育によって提示されている視点が、 誰によって誰のために設定されているのかについて、注意すべきということだ。 与えられる教育から進んで、教育を乗り越えるハッカーになるためにもまた、 この世界の摂理と制約条件について学ばなければならない。 ハッカーに教育は必要ないが、自由に知識を獲得できる環境が必要であるわけだ。 しかし、ベクトルは、教育や知識ですら商品化してしまう。ある輝く価値をもつ 「権威」へと近づく道筋を設定し、 その過程を進むための手順そのものを産業化してしまう。こうして、 私たちが私たち自身を形成するという価値もまた、 高額な対価で購入する商品となってしまうのだ。 世界の抽象化、すなわち世界の*ある形*での理解を通じて、私たちは、 世界から剰余を取り出すことができる。そういう意味で、 世界の理解の形を組み替えるハッカーは、創造的な生産者といえる。ハッカーは、 20世紀的意味での物理的・量的な生産ではなく、物理的・量的な生産の手法・ 手順に関する生産、いわばメタ生産を行う生産者なのだ。一方、ベクトルは、 自ら生産を行う能力をもたず、あるいは意図的にある方向へのメタ生産しか行わず、 ただ、剰余の意味付けや配分や流通を支配する能力へと特化する。ベクトルは、 抽象化から剰余を抽出する過程を支配し、また生み出された剰余の流通を支配し、 世界の「ある部分」と「別の部分」との間に「差」を生じさせ、 かつ埋め合わせることで利益を得ている。こうした操作は、 市場化や商品化と呼ばれる。 ハッカーが生み出した剰余が、 自ずと世界の構成員のすべてに行き渡るような性質のものであるなら、 すなわち本質的に排他性を持たないような価値であれば、 その価値は 市場的配分も商品化も必要なく世界の構成員全体の効用を増大させるだ ろう。しかし、 同時にベクトルが市場化と商品化を通じて掠取するだろう利益は消滅する。 このためにも、ベクトルは、ハッカーが行う創造に期待し 依存しながらも、 ハッカーの生み出すメタ生産を稀少性と差異を生み出すような方向へと制御しつづけ なければならないわけだ。 抽象化によって生み出される剰余を、土地を例に説明する。 さまざまな種類の土砂とおびただしい生物群から構成される「世界そのもの」 における土地は、区画として切り離され「作物の生産」や「住居の建築」 などの視点から抽象化されるとき、耕地あるいは宅地として抽象化される。 土地そのものが持っていた他の可能性が捨象されることで、 土地のある目的に沿った用途・効用が剰余として抽出されたわけだ。耕地や宅地は、 それぞれが持っている潜在的な生産能力や、 家屋に蓄積された所有者の歴史や記憶といった固有性を捨象したうえで、 土地所有権として抽象化されることで、市場において記号的に取引可能な抽象的「財」 となる。こうすることで、抽象化によって抽出された価値の交換が加速され、 投資や投機すら可能になる。 このように土地そのものがもっていた多様な潜在的価値が捨象されることで、 流通や交換を目的とした貨幣のような記号としての価値が抽出されたわけだ。 こうした抽象化が進むと、最終的に価値や財は情報になってしまう。こうしたとき、 情報には本質的に稀少性が無いわけだから、 財の稀少性と偏在から生じる差異を交換によって価値に転換してきたベクトルには、 利益を生じさせることができなくなってしまう。こうして、 ベクトルは自らの戦略の矛盾に直面することになる。 情報の商品化について補足する。商品化の対象となる情報は、 生活上の有用性をもって日常生活の中にすでに存在したものであったり、 あるいはハッカーによる創出・ 発見によって 新たにこの世界にもたらされたものであったりする。それは、 そのまま誰にも支配されなければ、その有用性にしたがって、時間が掛かるにしても、 その情報を必要とする人のもとに伝達され利用され効用を発揮しただろう。しかし、 ベクトルは、そうした情報を掠取し、加工しあるいはメディアに固定し、 彼らの定義した産業からの生産物としての形態で、 市場において大量にかつ迅速に販売するだろう。このとき、 私たちの生活にありふれていた、あるいはありふれたものとなるはずだった、 その情報は、市場から供給される商品として提供され尽くすか、 あるいは市場を経由しない取得や利用が無効化あるいは違法化される。こうして、 私たちは、自らの中にあった情報を製造物化され、商品化され、 市場を通じて買い戻すことを余儀なくされる。
[135] 商品化された「コンテンツ」としての知識と情報の私有化は、 情報の自由な発展を歪め台無しにする。 そして情報それ自身の自由な発展を経た情報の自由という優れた概念を妨害する。(p. 73)例としてはやや不適切かもしれないが、次のような例が挙げられるだろう。 私たちの伝統的な衣服は、私たちの共通の知識としてありふれたものだったはずだ。 それらは家庭内で伝承され、家庭内で作られ、家庭内で消費された。 いわば文化として成立していた。しかし、衣服に関する文化は、 ベクトルによって世界各地から集められ、新奇な商品へと組み替えられる。 この組み替えの作業にはハッカーが関与する場面もあるだろう。そうして、 ある地域の伝統的な文化は、製造物または商品として他の地域へと販売される。 しかも、産業の製造能力と市場の流通能力を使って、圧倒的な勢いで販売される。 こうして、私たちの伝統的な衣服の文化は、ベクトルに掠取され、 気がつけば自らの伝統的な衣服でさえ、市場を通じて購入することになっているのだ。 いつのまにか私たち自身が自分たち自身の文化から断絶させられていることに驚くこ ともある。ありふれた民族的な織柄が、 いつのまにかデザイン上の権利として誰かに独占されいること、 ありふれた一般名詞であった伝統的名称が、 いつのまにか商標として独占されていることに気がつくのだ。 ただし、形のある商品について言えば、市場には物的生産を効率化する機能、 物的配分を効率化する機能があり、その効率化の利益と私たちの文化の喪失は、 「埋め合わせ」の関係にあるものと理解された。 (その理解ですらベクトルによる操作である可能性も否定しない) その効率化は、 これまでの世界全体の富を増大させてきたことは、大変な功績だろう。ただし、 商品化と市場機構による効率化は、限界に近づきつつある。いまや、 産業と市場にとって必要不可欠な資源は需要であり、 需要を創出するために欲望の創出すなわち情報の制御が緻密に行われている。 その意味では、すでに形ある商品ですら「情報化」してしまっている。 私たちは生産物を消費しているのではなく、 情報操作によって作り出された欠乏である需要を市場に売り渡しているのだ。 しかし、コンピュータとネットワークが可能にした情報伝達能力は、 情報の伝達においてもはや形を取ることを必要としない。すなわち、 ネットワークの存在において すでに情報の生産と流通は十分に効率的なのであり、 あえて稀少性を与えて市場機構を経由する合理的理由はどこにもないのだ。 市場を通さないで情報や情報化された財貨が流通するとき、 ベクトルの取り分は消失する惧れがある。 整理する。(1) 「世界そのもの」を段階的に抽象化し、 抽象化された対象の稀少性と偏在を取引する交換過程から価値を抽出してきたベクト ルの手法において、対象の抽象化が極限にいたったとき、対象が情報となったため、 稀少性が消滅してしまったという皮肉が生じた。(2) そこにおいてハッカーは、 ベクトルが定めた「価値」に対して、他の「ありうべき価値」 をつぎつぎに生み出すことで、ベクトルの「現在ここにある世界」 を定義づける力を揺るがしている。(1)と(2)は、 いずれもコンピュータやネットワーク技術による情報化によって同時に顕在化したも のだ。
[108] ... それぞれが所有のより抽象的な形態に基づいていくにつれ、 また自然の物質性のある側面との結びつきがより少なくなるにつれ、 それぞれが独占し安全であることは容易でなくなる。そのために、 これら支配階級は所有を保障する法の力へとますます依存するようになり、 下部構造的権力を保護するために法を支配的な上部構造へと仕立て上げるのだ。 (p. 62)ハッカーがコンピュータと結びついたことで、 ベクトルの利益と支配は脅かされている。もちろん、 ベクトルはハッカーの利害をも操作することで、 ハッカーが生み出す剰余を自らの利益に組み込もうとするだろうし、 現在の利益を求めてベクトルと妥協するハッカーも当然のように存在するだろう。 しかし、根本的には、ハッカーはベクトルとは、 解放と統制という相容れない原則に立脚する存在である。また、 コンピュータが可能としたシミュレーションは、ハッカーが創出・発見した 「もうひとつ」の「ありうる世界」を説得力とともに提示するものとして、 「現在ここにある世界」を必然として説得しようとするベクトルを脅かすことになる。
[196] ... 短期的には、 知的所有という形態はハッカー階級にとっていくらかの自律性をベクトル階級から保 障するだろう。しかし、 長期的にはハッカー階級はハッキングそれ自体の足枷である知的所有を全廃すること を通して、自らの仮想的潜在性を実現化するのだ。(p. 106)それゆえ、ベクトルは、情報の管理の手段である、知的財産権とセキュリティ (特にプライバシー侵害、危険情報、猥褻情報の抑制)の必要性を訴え、説得し、 制度化し、次の世界における「必然」にしようと努力している。情報の (何者かによる)管理が必用だという認識が一般化するとき、 その管理を行う主体として、当然のように支配階層が選抜されるのであり、 その支配階層のなかでも情報の制御に長けたベクトルに情報の管理権限は委ねられる ことになるだろう。
[079] 法の制裁のもとで、ハッキングは有限な所有となる。 そして所有形態との関係の中から、すべての階級と同じように、 ハッカー階級も姿を現す。土地または資本と同じような所有形態とともに、 知的所有は稀少性の関係を押し付ける。知的所有は、 その非所有の犠牲のもとに所有者へと所有の権利を与え、 収奪という犠牲のもとに簒奪者たちの階級へと所有の権利を与えるのだ。... (p. 46)ハッカーは、こうしたベクトルの統制を嫌い、統制から逃れようとする。 ハッカーの利益は、 統制から逃れた自由な抽象化による価値の抽出に依存しているから、 統制を利益の抽出原理としているベクトルとは、根源的には対立せざるえない。 こうして、ハッカーは、ベクトルから反社会的存在、 犯罪的存在と名指しされることになるだろう。これは、ベクトルによって定義された 「現在ここにある世界」の価値観から見た場合の呼び名だ。
[073] ベクトル的利害にとっての弁護人は「ハッカー」 という用語の意味論的生産性を単なる犯罪なのだと限定することを望む。というのも、 彼らはそのより多くの抽象性と多様な潜在性 ── ハッカーの階級的潜在性 ── を 明らかに畏れているからだ。人は、どこにおいても、 それは少年非行の新しい形態であるとか野蛮なニヒリストであるとか組織犯罪の従事 者であるとかといったハッカーについての噂を耳にする。 あるいはハッカーはたんに有害なサブカルチャーのように表され、 限定された外見上のスタイルと振る舞いのコードを伴った強迫神経症的ガレージ内研 究のように表される。情報の潜在的仮想性を解放し、データを贈与として共有し、 ベクトルを表現のために横取りする欲望は、あらゆる場所において、 モラルパニックにおける攻撃対象として、監視の言い訳の対象として表象され、 そしてまた「権威的専門家」の技術的知識を制約するものとして表象される。....(p. 43)コンピュータやネットワークによって顕われつつある、ハッカーによる世界は、 「現在ここにある世界」を組み替えた「もうひとつのありうる世界」しかも、 新しい環境に適合した世界像、世界観を提示しようとしている。私たちには、 ベクトルの価値観とハッカーの価値観のいずれを選択することがより望ましいのかと いう選択肢を与えられている。 そのときベクトルの価値観からのみ判断をすることは避けなければならない。
心を無にして、ありのままを見るのだ。
そこに何が見えるのか、自分自身の目で確かめてみよ。
3 おわりにこの本は、私にとって困った本であることには変わりがないが、この『誤解説』 を書くことで、すこしだけ見通しがよくなったような気がする。『ハッカー宣言』 の読者、さらにはこの『誤解説』の読者は、 どのような理解と視点を獲得することができただろうか。 私のボンヤリとした誤解がすこしでも役に立てば幸いだ。 さて この本を読んで、私自身はハッカーなのだろうか、 あるいはベクトルなのだろうか、と考えてみた。私自身が、 ハッカー的価値観やハッカー倫理に共感していたこと、また博士論文によって、 著作権概念の組み替えを提案できたこと ── その論文の内容はベクトルにとっては 実に不愉快なものだっただろうと思う ── から、 ハッカーの側にありたいと願っていることは明らかだ。その一方で、 GLOCOMのisedでの講 演で表明したように、 無制約の自由や可能性の解放について懐疑と恐怖を感じていることも事実だ。私は、 ハッカーの爆発的な創造力に規範的な制約をかけたいと願っている。 ということは私はベクトルだということになる。うーむ。 私は、情報社会へと進む時代の潮流のなかで、 ベクトルが準備しつつある情報の商品化と市場化について疑問を感じ抵抗しているつ もりだ。しかしまた同時に、私は、ハッカーがもたらすだろう「ありうる世界」 を、近代がようやく実現した人間的価値を維持できる枠内に収めたいと考えているわけ だから、「情報自由主義ベクトル穏健派」とか、「近代規範主義ハッカー」 とか呼べるような位置付けになるのだろうか。しかし、『ハッカー宣言』では、 [261] まさに国家が主体と対象との表象、 そして市民とその所有の表象とを管理し、記録紙、裏付けるのである。 対象の主体からの分離を隔離し、 主体と対象とが遭遇するだろう平面を取り締まるという特権を確立する暴力の原初的 行為は、国家の空っぽな中心に存在するのである。(p. 138)とされているから、「近代法」がまさに国家そのものであるという理解に立てば、 私はやはりベクトルの側にいることになるのだろう。「なんだか仕方がないな」 という気持ちになる。 そうそう、 [361] ... 超国家的な政治におけるベクトル的利害の影響を示す指標が、 国際特許や著作権と商標の国際的な保護、 メディアとコミュニケーションの規制緩和であるのだ。... (p. 190)という記述があった。すると、 「米政府、世界的な著作権保護構想を発表」 なんていう記事は、 ベクトル的戦略がまさに世界を覆おうとしていることを示していることになる。 とりえず、世間的には私はベクトルだということにしておこう。 そのほうが何かと楽に生きて行けそうだ。 フォースの暗黒面へ堕ちてこそ最強となるのだ。 Noteこの『ハッカー宣言の誤解説』に関連したテキストへのリンク。(2005/10/09 追記)記識の外 9月30日、10月6日 / 翻訳者の金田さんのブログと思われるもの。 短信 9月10日 、10月3日 / 書評者の室井さんのブログ。 メディアリテラシーの練習問題;室井尚の奇妙な反・嫌煙運動プロパガンダ論 / 評論家の山形さんのページ。ほめてくださってありがとう。 s-yamane 日記 9月30日、10月6日 / ハッカーである山根さんの日記。
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白田 秀彰 (Shirata Hideaki) 法政大学 社会学部 助教授 (Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences) 法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450) e-mail: hideaki@orion.mt.tama.hosei.ac.jp |