Table of Contents
1 はじめに高校生や大学生である皆さんのために「言論・ 表現の自由 [1]」 という考え方がなぜ重要なのか、 どのように憲法や法律で取り扱っているのかを説明し、情報時代における言論・ 表現の自由を考えるための助けになるようにと考えて、 私は この論文を書くことにしました。 皆さんに向けて書かれた憲法の話は、すでにいろいろとあるようです。しかし、 憲法全体を説明する本では、「言論・表現の自由」 について十分に触れることができないため、 「多数の人々が議論をして政治を決めていく民主主義国家においては、言論・ 表現の自由は絶対的に保障されなければならないのです」 などと簡単に触れられるのみになっていたりします。物事に対するとき、 誰かの意見を疑いなく飲み込んでしまう態度が言論・ 表現の自由にとって最も危険なものであることを考えると、 こうした説明では不十分であるといえましょう。 そこで、この『情報時代における言論・表現の自由』では、「なぜ言論・ 表現の自由が憲法に組み込まれなければならなかったのか」「言論・ 表現の自由に関する法理とはどのようなものか」 「情報時代においてどのような変化が見られるのか」 ということについていっさい手を抜かずに、 難しい用語や概念をできる限り使わずに説明することを目標としています。もし、 本論の目的が達成されるなら、今後ますます複雑になっていくであろう言論・ 表現の自由をめぐる議論をよりよく理解することができるようになるでしょう。
2 なぜ言論・表現の自由が憲法に組み込まれたのか今では、私たちが自由に考え、 自由に自分の意見を述べることがあたり前のように思われています。なかには、 こうした自由をまさに無制限の自由のように勘違いして乱用している人たちもいるよ うです。そこで、まず過去の歴史にさかのぼって、 かつて言論とはどのような状況にあったのか、 どういった経緯でその自由が確立されてきたのかを見てみましょう。
2.1 依らしむべし、知らしめるべからず市民革命期と呼ばれる18世紀にいたるまで、 統治というものは少数の人々によって行われてきました。権力は、 まず暴力によって獲得され、軍事・ 警察といった暴力機構が人々の自由を抑制することから開始されました [2]。しかし、 暴力と恐怖だけではいつまでも人々を支配しつづけることはできません。 暴力によって権力を獲得した者は、 いずれまた別の者の暴力によって権力を奪われる結果になるからです。また、 暴力による支配は、支配される人々の必要最小限の服従・ 協力しか得られないという点で、支配地域の人的資源を効率的に活用できません。 そこで、伝統や宗教や法(正義)といった支配の目標となる「価値」 と価値を実現させる「システム」が必要となります。暴力は、 システムを補強する存在として、システムの背後に退きます。支配の目的となる「価値」は、 権力を握った者の好き勝手に設定できるものではありません。支配される人々 (被治者)の間にも説得力をもって訴える価値でなければなりません。しかしながら、 支配する者(治者)にもそれぞれ目的があるのですから、 被治者の抱く価値と治者の目的とする価値の擦りあわせが必要になります。 伝統や宗教や法というものは、 もちろん伝統的に人々によって保持されてきたものがあるわけですが、 権力を握った治者が学者や宗教家や場合によっては軍隊を動員して社会に設定してき た部分が多分にあるのです。 もちろん、このような社会的な価値の設定はそれ自体として悪いものではありません。 人々や共同体や民族の間でバラバラなものの考え方や価値観が揃うことによって、 広い地域や階層の人々の間に一体感が創り出され、 治者の指示のもと巨大な人的能力を発揮することを可能にするのです。 こうしたことから、そもそも統治という行為は、 人々の考え方をできる限り一つに揃えようとする方向性をもっているといえるでしょ う。それゆえ、治者に対して批判的な意見はもとより、 伝統や宗教や法を乱すような考え方を排除しようとすることもまた統治の当然の傾向 です。こうして、政府によってみとめられた宗教的権威が、正統とする教義を設定し、 これに反する考え方を抱くことや公表することを犯罪として取り締まることが広く行 なわれてきました。 また、こうした統一された考え方を重視する態度は、しばしば政治的・ 軍事的に混乱した時代の後にようやく統一的な権力が現われたときに鮮明になります。 政治的・軍事的な混乱とは、すなわち意見の分裂です。人々が、 そうした混乱によって長く苦しめられたあとに、統一的な考え方を歓迎し、 これを乱そうとする人たちを処罰したり排除しようとするのも当然のことといえるで しょう。 しかしながら、人間にはそれぞれ自分の考えや意見があります。 国家や社会がある考えを強く打ち出そうとすればするほど、 それに対する抵抗もまた強くなります。人類の歴史は、 人々を一つの考えにまとめようとする力と、 これに抵抗しようとする力との闘争の歴史であったと言っても過言ではないでしょう。 この対立が最も鮮明に現われるのが宗教上の思想・信条の対立です。多くの戦争・ 内乱は宗教的な教義の対立によって引き起こされました。 やがて人々の生活や行動が宗教によって規定される割合が低下していくにつれて、 他の教義を受け入れない態度(不寛容) が社会の大きな害悪になるということが意識されるようになりました。そうして、 宗教的寛容が政策的に採用されるようになります。言論・表現の自由は、 まず宗教的な思想・信条の自由というところから開始されました。また、 古い時代の学問は、神学を中心として成立していましたから、 学問の自由という考え方も、この思想・信条の自由と同じ基礎に立っていました。
2.2 社会契約説西欧では、人々が宗教上の教義に縛られなくなる一方で、科学的・ 理性的な考え方が広まるようになります。やがて、 啓蒙主義という思想運動が始まりました。現在では基本的に「よいこと」 だと考えられている啓蒙主義思想ですが、この思想が流布しはじめた当時では、 無神論・反宗教・悪魔主義などと批判されていました。しかしながら、 合理をたっとぶ理性主義は科学技術上の成果によってその実利を示し、 社会に受け入れられていきます。このころ、神学と緊密に結びついていた学問が、 理性と合理を基礎とする近代的科学を中心にするようになりました。 ここで学問の自由は、思想・信条の自由から分離し、 真理を探究する活動が国家や宗教等の権威から制約を受けない権利として独立するに 至ります。こうしたなか、国家や政治のあり方についても、 理性的な見方が受け入れられるようになります。これが社会契約説という考え方です。社会契約説において、国家の権力というものは、 本源的には一人一人の国民の自然権に由来するものであり、 それらの自然権をよりよく保全するために、 国民が相互に契約を結び統治権力を設立した、と説明されました。ゆえに原理的には、 一人一人の国民が自らの意見を公表し、 政治に反映させることが望ましいということになります。実際には、 すべての国民が意見を公表し議論することは不可能ですので、 選挙によって代議員を選出し、代議員が議会において議論し、 政治をすすめていくことになります。こうして統治は、 少数の治者のまわりに被治者を集結させて行なうものから、 多数の被治者が議論を行ないながら一つの政策を選択していくものへと180度の転換 をします。こうして民主政治が成立しました。 民主政治を国家の政治体制として掲げる限り、 誰の意見であるとしても排除してはならないことになります。こうして、 宗教的な思想・信条の自由は、政治的・社会的な思想・ 信条の自由へと拡大されました。ただ、20世紀に入るまでは、 一つの考え方に社会をまとめていこうとしていた時代のあり方が、 伝統や宗教という形で残っていました。このことは、二つの影響を言論・ 表現の自由に及ぼします。 一つめは、言論・表現の自由に対する脅威として現れます。 民主的に選抜された為政者たちが、社会において「望ましい」 と考えられている倫理や規範に沿った考え方を身に付けていること、 あるいはそうした「望ましい」 倫理や規範を代表する階層から選抜される可能性が高いこと自体が、「望ましい」 言論を自明のものとして社会に強制する可能性です。「多数者による専制」 という事態は、 愚かな大衆が社会の雰囲気に流されて為政者を選択する場合のみならず、 じゅうぶん倫理的・理性的な市民が合理的に行う為政者の選択の結果にも生じえます。 そこで、 実質的には為政者の集合体によって運営される国家という国内最大の権力機関が、 言論の場を支配しないように憲法で縛る必要が生じるのです。 社会的な圧力を突き破って異議申し立てをする少数者に対して、 すくなくとも機関としての国家は中立であることが必要とされるのです。 二つめは、言論・表現の自由に対する安定装置として現れます。表面的に言論・ 表現の自由をとらえますと、 社会的に害悪があると考えられる言論であっても自由に発言してよいことになります。 社会に対する異議申し立てのよりどころであるこの自由は、 本質的に反社会的な要素をもつものです。しかしながら、その自由の行使の結果、 具体的に害悪が発生するならば、その害悪を除くこともまた重要な国家の任務です。 すると、ある発言の意義とそれが発生させている害悪の程度について、 誰かが判断することになります。憲法によって保障された自由ですから、それは、 最終的に司法により判断されます。それゆえ、その判断は、場当たり的(政策的) なものであってはなりません。 誰に対してもいつでも一律に示される基準によって判断されなければ、 もはや法的判断とはいえません。このとき、伝統や宗教に基づいた「望ましい」 社会状況や言論のイメージが判断基準として存在していたことが、18世紀、 19世紀の言論・表現の自由の概念の安定性に貢献していたことは間違いありません。 それゆえ逆に、ある種の言論・表現については、 当然に害悪があるものとして抑制しても良いと考えられていました。 どのような考え方や表現が禁じられるべきかということについて、 社会的な基準となるものが存在していたのです。政治的・社会的な思想・ 信条に関して強固な憲法上の保護を与えることは、 民主制から当然に導かれるのですが、それ以外の部分については、政治的・ 社会的な領域との関わりの程度に応じて保護されると考えられました。
2.3 複雑化する時代に20世紀に入り、大衆文化の時代が始まりました。拡大したメディアの力、 国民の情報収集能力・表現能力の増大に応じて、 多様な見解や考え方が公表されるようになりました。それまでの時代には、 伝統や宗教によって社会的に標準的とみられる思想・信条が存在していたのですが、 様々な人々が意見を表明していくなかで、この標準的とされる思想・ 信条に対する批判や懐疑が示されるようになりました。こうして、 価値観が多様化するようになったのです。現在の民主主義国家は、 「価値観の多様化は基本的に良いことである」という「メタ価値観」 によって辛うじて一つにまとまっているということができるでしょう。さて、「価値観の多様化は基本的に良いことである」ということになりますと、 伝統や宗教が掲げる基準は基準となり得なくなります。ある種の言論・表現が政治的・ 社会的な要素を持っているのか否かの判断が次第に困難になってきました。 白と黒の間の境界が曖昧になり、灰色の領域がどんどん広くなってきたのです。では、 灰色の領域をどのように扱うべきでしょうか。 灰色の領域を憲法の保護から排除してしまうと、場合によっては、 尊重すべきであった思想・信条を排除してしまう可能性を否定できません。そこで、 灰色の領域全体に渡って、場合によっては黒の領域も含めて、憲法の保護の下におき、 その表現が国家や社会に具体的な害悪を発生させる限りにおいて抑制するという態度 をとることが採用されたのです。 ここで、「基本的にはあらゆる言論・表現に自由を保障する」 「具体的な害悪を発生させる限りにおいて抑制する」 という二つの指導原理が提示されたことになります。
3 言論・表現の自由このように長い歴史の末に獲得された言論・表現の自由ですが、 いくらこの自由が重要だからといって、 これを掲げればなんでも許されるというわけではありません。そもそも言論・ 表現の自由が適用される範囲には限界があり、 具体的にどのように保護されるのかについても法律によって規定があります。また、 他の法律が目標としている利益と言論・表現の自由が競合する場合、 法律はどのようにそれらの法的利益を調整しているのかを説明します。 ここで、私は日本人として日本人の読者に説明するのですから、 当然に日本の事例を中心に説明することが必要とされるでしょう。しかしながら、 次の理由から主としてアメリカの事例を引きながら説明を進めていきたいと思います。 まず、日本の裁判記録とアメリカの裁判記録を比較してみますと、日本の裁判記録は、 アメリカの裁判記録ほどには ある判断にいたる理由や基準について明確に示しませ ん。これは、それぞれの国の司法の伝統のようなものです。 情報時代という不明確な時代の基準を探ろうとする本論において、 より具体的な基準が示されているものを題材に検討しなければ、 検討の足がかりさえないことになってしまいます。また、 日本国憲法がアメリカの影響のもと制定されたことから、日本の言論・ 表現の自由をめぐる議論は、アメリカにおける議論の影響を強く受けています。事実、 本論で説明する各種のアメリカ憲法上の法理は、 日本の憲法上の論議においてもしばしば引用されます。 加えて、 本論が中心的な問題にしている情報時代の重要な社会基盤であるネットワークにおい て、各種意思決定がアメリカに中心を置く各種組織主導で進んでいることは、 否定できない事実でしょう。それが善いことか悪いことなのかは、また別の問題です。 そしてアメリカ政府とアメリカに中心を置く各種団体の間で、 ネットワークにおける言論・ 表現の自由をめぐる活発な議論が起きていることを考えれば、 私たち日本人であってもそれらの議論の背景となる考え方を理解しておくことは有益 だと考えるからです。 もちろん、日本独自の言論・表現の自由、 日本人の倫理や社会道徳に適合的な自由のあり方を探求することも十分に意義のある ことです。本論を読んでアメリカ的な発想に違和感を感じた読者が、 そうした研究に着手することを期待します。
3.1 誰の誰からの自由なのか3.1.1 憲法の適用範囲について憲法による人権保障とは、 政府を縛ることで国民の基本的権利を保障することを基本とします。ゆえに、 私人である国民相互の関係において、憲法が保障する言論・ 表現の自由は直接には作用しません。それら私的主体は、 自らの望むような内容や方向性をもった言論の場(forum)を設定することができます。 たとえば、あなたが個人的に開設した電子掲示板では「モー娘。 を褒め称える発言以外は削除します」 というような方針を掲げて運営することができます。その方針に従えない人は、 他の掲示板で発言すればよいからです。しかしながら、現代では、 民間企業や各種団体等のさまざまな私的な社会集団が存在し、ある言論を行う個人や、 ある特定の事項についての言論の場を取り込んでしまっているような状況が発生して います。そこで、ある発言を中心に据えてみた場合、 ある個人やある特定の事項に関する言論・表現を、 それら社会集団が実質的に抑圧するような状態が発生していると考えられる場合、 憲法が保障する言論・表現の自由は、私人の間にも適用される場合があります。 たとえば、 国内の電子的な言論の場が数社の事業者によって寡占的に提供されているような状況 があり、ある事業者の運営方針について賛否両論の議論が持ち上がったとき、 その議論に利害関係をもち活発に議論をするのは、 その事業者の利用者であることは当然のことです。こうしたときに、 その運営方針に批判的な利用者の発言を排除するような行為は、 公正なものとはいえないと考えられます [3]。 日本の憲法の考え方では、「私人間の紛争について憲法は間接的に作用する」 とされています。私人間の紛争において、 一方の当事者がいちじるしく弱い立場にあり、単に法を適用するだけでは、 その当事者の憲法上の権利が実質的に脅かされるときには、 私人間の関係について定めた私法の解釈においても憲法上の権利保障が援用される場 合があるというものです [4]。 上記のように、 ある種の言論が実質的に私的主体によって維持されている言論の場でしか行えないよ うな状況があるときには、憲法上の言論・ 表現の自由を主張しうる余地があるといえるでしょう。 アメリカには、判例から導かれた考え方として「州の行為 (state action)」 というものがあります [5]。これは、 私的主体による行為であっても、 一定の要件を満たした場合に実質的に公権力と同様の機能を果たしているとみて、 その行為に対して憲法を適用することができるという考え方です。その内容は、(1) 伝統的に政府が担ってきた役割を行う私的主体の行為、(2) 政府が立法や免許などを通じて ある私的主体に特別な権能を付与したり公共に対す る義務や責任を課す場合、 その私的主体の行為には憲法が適用されうるというものです [6]。 アメリカでは、この「州の行為」に加えて、事柄が言論・ 表現の自由に関する場合には「公の言論の場 (public forum)の法理」 が関わってきます。 政府などの公的主体によって公共目的で一般の利用に提供されている「場」 については、上記の州の行為があるわけですから、強固に言論・ 表現の自由が保障されることになります。しかしながら、 公的主体によって運営されている場であっても、 病院や図書館等のように特定の目的のために設置されている場である場合には、 その目的に添って言論・表現の自由は制限されうると考えます。たとえば、 病院や図書館の付近であまりに大音量の言論活動や、デモ行為などがされますと、 それら施設の機能に支障をきたすことになります。ゆえに、 表現方法に対して法的な規制が容認されます [7]。また逆に、 私的に所有されている場であっても、一般的な利用を目的に設定され、 実際に言論の場として伝統的に利用されてきたことが明らかである場については、 それが「公の言論の場」であるとされ、憲法上の言論・ 表現の自由が適用されうることになります。 ある土地が私的に所有されているとしても、 その土地が伝統的にその地域において公共的な空間として利用されてきた事実がある 場合、その土地が私有されていることを理由として、 ある種の発言を排除することは許されないことになります [8]。 従来、言論・表現の自由に関する「州の行為」や「公の言論の場」に関する議論は、 もっぱら集会やデモ等の現実空間における「物理的な行為を含む言論・ 表現 (speech plus)」についてすすめられてきました。公的に、 あるいは私的であっても州の行為を認めうる状態で所有されている不動産において行 われる言論については、その不動産が「公の言論の場」 であると見られる限りにおいて原則的に憲法上の言論・ 表現の自由が保障されることになります。ですから、 それらの集会やデモが生じさせる可能性のある具体的な害悪(騒音、治安の悪化、 交通混雑)を抑制する限りにおいてのみ、 政府による規制が認められることになっています。
3.1.2 メディアと憲法とのかかわりさらにすすめて、各種メディアにおける言論・表現の自由について考えてみましょう。個人は、自らの発言や行動で意見を表明することができます。また、 そこが公の言論の場であるなら、 公園や街頭に木箱を置いて立ち [9]、 人々に語り掛けることができます。さらに、 自分の意見を文章の形で発表することができます。 自分自身で書いた文書をコピーしたものを配布することも、また、 出版社を経由して書籍などの形で配布することもできます。 そうした個人の書いたものを配布するためのメディアである出版社や新聞社は、 個人からみる場合には、言論・表現の「場」である一方、それらメディア自体が言論・ 表現の自由を行使する私的主体であると考えられています [10] 出版社や新聞社は、 社説などによって自らの意見を掲げることもありますが、もっぱら 「どのような言論を自らの保有するメディアに掲載するのか」 という選択権 (編集権 editorial control)の行使という形で言論・ 表現の自由を実践してきました。とくにアメリカにおいては、言論・ 表現の自由が憲法上の文言としては freedom of the press として保障されているこ とからもわかるように、メディアの自由が私たち個々人の言論・ 表現の自由を保障するものであると認識されていました。するとメディアは、 一方で言論・表現の自由を行使する主体でありながら、もう一方で、他者の言論・ 表現の自由を左右しうる「場」を提供する立場でもあることになります。こうして、 印刷・出版などのメディアについて独特の規制枠組みが設定されることになります。 また、公園や街頭で木箱に立って発言するときに、 より多くの人に自分の声が届くように、 マイクやスピーカーを使うことは基本的に自由です。もちろん、 その音量が付近の静穏を脅かすほどのものであれば制限を受けますが。では、 電話線や放送設備をつかって自分の声を届ける場合はどうでしょうか? さらに、 インターネットをつかって自分の文書を配布する場合はどうでしょうか? 日本や欧州諸国においては、アメリカほど言論・ 表現の自由を手放しに支持してきたわけではないという事情や、 さまざまな視点からの公共の利益を根拠にして、 電気通信や放送を国営独占 [11] 等のなんらかの法的規制の下に置くということが当然視されていました。それゆえ、 それらの産業にかかわる規制が、 憲法的価値に照らして検討されるべきであるという発想自体があまりなかったのです。 しかし、アメリカの考え方は特殊でして、 そうした電気通信設備や放送設備を用いて行う言論活動もまた、個人が享受する言論・ 表現の自由を根拠として保護されるものと基本的に考えています。ですから、 アメリカの発想では、電話会社や放送局もまた、言論・ 表現の自由の主体であると考えるのが原則となります。 アメリカにおける電気通信や放送に関する規制は、 連邦政府が直接行っているのではなく、政府の外部機関、 独立行政法人である連邦通信委員会 (Federal Communications Commission : FCC) が行っています。というのも、合衆国憲法修正第1条において、「連邦議会は、... 言論および出版の自由を制限する...法律を制定することはできない」 [12]と書かれているからです。 このようにアメリカの考え方では、 電話会社などの通信事業者や放送局などの放送事業者もまた、憲法で保障された言論・ 表現の自由の主体である一方で、それらはまた、言論・表現の「場」 を提供する立場にあるわけです。さらに、一般的に純然たる私企業である印刷・ 出版事業と異なり、通信・放送事業は、物理的・経済学的理由によって寡占的な「場」 の提供者とならざる得ない要素があります [13]。 この寡占的な事業形態から生じる不都合を抑制するため、 政府あるいは公的主体がそれら事業に介入することになります。それゆえ、 通信事業や放送事業には何らかの形で「州の行為」 が存在すると見ることができるわけです。ただ、放送事業において重要な点は、 国民が保持していた放送による言論・表現の自由を、 政府から免許を受けて放送事業者が特権的に行使しているため、放送事業者の言論・ 表現の自由は、公共の言論・ 表現の自由に資するよう制限を受けるものと考えられています。こうして、通信・ 放送を巡る言論・表現の自由には、 出版業とも異なる独特の規制枠組みが設定されることになります。 アメリカにおいて、印刷・出版、通信・放送のような私的なメディアが、 どのようなものとして考えられているのかを端的に示す例を挙げましょう。一つは 「反論権」、一つは「アクセス権」と呼ばれる権利に関する例です。 反論権 日本やアメリカでは制度化されていませんが、欧州諸国のなかには、「反論権」 という権利を制度化しているところがあります。これは、あるメディア、 たとえば新聞や放送の報道において、名誉や信用を毀損された人が、 その報道用内容に対する反論を、もともとの報道と同じ紙面の場所・ 同じ放送時間で行うことを要求する権利です。 反論権を法律によって制度化するということは、 純然たる私企業である出版社の収益源、 すなわち財産であるところの紙面を権力の作用によって強制的にある用途に提供させ るということになりますから、財産権の侵害であると見ることもできます。また、 したくない発言を強制されるわけですから、出版社の言論・ 表現の自由を侵害するものであると見ることもできます。 公的な規制をうける私企業である放送局についていえば、 放送電波は公共のものですが、放送設備は私企業の私有物です。 ある特定の放送時間について、ある特定の表現を行うよう強制されることは、 やはり財産権や言論・表現の自由の侵害であると見ることができます。 上記のような考え方から、 新聞社や放送局の私企業としての側面を重視するアメリカでは、 反論権は制度化されていないのです。 しかし、ある人に関する言論が、 新聞やテレビのように社会的影響力の大きなメディアに取り上げられ、 かつ論争になったという段階で、紙面のある空間や放送時間帯が「公の言論の場」 を形成したとみるならば、メディアを所有するそれら私企業と、 そのメディアに取り上げられた人との間の決定的な発言力の差を是正するために、 ある人に反論権を付与する法制度は合理的だといえるでしょう。 アクセス権 アメリカでは、原則として全ての国民が、 通信設備や放送設備を用いて言論を行う自由をもっていると考えていると先に述べま した。しかし、全国民が好き勝手に通信や放送を行いますと、通信・ 放送に混乱が生じます [14]。 そこで、許認可制や免許制によって一部の私的主体に限定して、 法律の制限のもと事業を行わせることになっています。すると、 通信事業者や放送事業者は、 全国民がそもそも保有していた通信設備や放送設備をつかって発言する権利を特権的 に付与されているという立場になりますから、 彼らに特権的に権利を付与しなければならなかった理由がなくなれば、そうした通信・ 放送についてメディアがもっている特権が国民一人一人にもどることになります。 こうして「アクセス権」と呼ばれる考え方が現れました。それまで、テレビ事業者は、 一つのチャンネルのみを用いて放送していましたので、放送時間は貴重な財産であり、 無駄にすることはできませんでした。ゆえに、 その放送時間枠のなかで最大の利益をあげるべく編集を行う自由があったわけです。 ところが、1局1チャンネルという地上波テレビ放送に対して、 1局で数百チャンネルを持つことのできるケーブル・テレビ(CATV) 事業が登場しました。また、衛星放送事業(BS/CS) でも同様に一局で複数のチャンネルを保有できるようになりました。すると、 テレビというメディアを用いて言論・表現を行いたいと考える国民に、 それらのメディアを合理的な条件で利用させることが憲法的に正しいことであると考 えられるようになったのです。具体的には、Pubic Access Channel などと呼ばれる、 公共目的のチャンネルを準備することを法律で放送事業者に義務付けるなどしていま す [15]。 また、社会が複雑化・情報化していくなかで、 従来のように公園や街頭での言論活動があまり意味を持たなくなりつつあります。 最も市民に普及した放送というメディアは、従来から存在していた「公の言論の場」 の代替としての責務を負う段階に入ったのだと見ることができるかもしれません。
3.2 何がどのように保護されないのか歴史の部分でも説明しましたように、宗教的・思想的言論および政治的・ 社会的言論は、言論・表現の自由の核心を構成していて、 当然に憲法上の保護をうけるものとされています。 逆に伝統的に犯罪であると考えられてきた猥褻表現 (obscenity) 、 名誉毀損的表現 (defamation) については、 それらが犯罪として禁止されていることをうけて、 憲法の保護を受けられない種類の言論であるとされています。また、 商業的な広告等については、宗教的・思想的・政治的・ 社会的要素が乏しいと考えられたため、営利的(商業的)表現 (commercial speech) という枠が設定され、 これもまた憲法による保護を受けられない言論であるとされていました [16]。かつては、社会的な道徳観が確立しており厳格であったため、 猥褻表現とされる範囲は、現在のものに比較してはるかに広いものでした。同様に、 名誉を重視する感情が強かったため、 名誉毀損についても幅広く成立の余地が存在していました。しかしながら、 時代が下るにつれまして、何をもって「猥褻」と考えるのか、何をもって「名誉毀損」 と考えるのかの基準が次第に緩やかになりました。そこで、 猥褻表現のなかからその害悪の程度が軽微だと考えられる「下品な表現 (indecency)」 が分離して一つの枠とされました [17]。また、 名誉毀損的表現のなかから、 名誉を毀損していると考えられるか否かは不明確であるものの、 その言葉を聞いたことによって暴力的な反応や、 憎悪の感情をかき立てる有害な表現として、「挑発的表現 (fighting words)」 「憎悪的表現 (hate speech)」が分離して一つの枠とされました。こうして、 憲法の保護が受けられないことが明確である猥褻表現、名誉毀損的表現を除いて、 営利的表現を含む他の全ての言論について、程度の違いはあれ、 憲法の保護が及ぶと考えるようになりました [18]。
3.2.1 猥褻表現まず、猥褻表現について検討してみましょう。 猥褻であるか否かについて絶対的な基準は存在しません。 時代ごとに場所ごとにさまざまな基準があったのです。現在では、猥褻とは、 「そのときの社会の基準に照らして、平均的な人が、 その表現を見た場合に全体として好色的な興味 [19]に訴えるか」 「性行為を明らかに不快な [20] しかたで描写しているか」「その表現が全体としてみて、文学的、芸術的、政治的、 科学的価値をまったく欠いているか」といった、 「社会における平均的な人のうけとめ方」を基準として猥褻という枠が作られ、 そのうち「その猥褻性を埋め合わせるだけの社会的価値」 を備えたものが猥褻から除外される という判断方法が用いられています [21]。問題は、「社会における平均的な人のうけとめ方」をどのように明らかにすべきか、 ということです。アメリカであれば、猥褻が事件として問題になった場合、 ある表現が猥褻か否かの事実問題 [22] は市民から無作為に選ばれた12人の陪審員によって判断されますから、 「社会における平均的な人のうけとめ方」をはかることができます。 ある表現が問題になったとき、その表現がなされた「場」 における猥褻基準が適用されることになるわけです。 これを共同体基準 (community standard) と呼びます。アメリカでは、 全米に統一的に適用できる猥褻基準は存在しないと考えられています。 地域ごとに基準がちがうということを認めているわけです。ところが、日本の場合は、 事実問題の判断も裁判官が行いますから、裁判官の考える 「社会における平均的な人のうけとめ方」が猥褻表現の基準となってしまいます。 また、猥褻は、刑法においていくつかの犯罪の構成要件の要素となる概念ですが、 主観的にはかられる基準が罪刑法定主義に照らして妥当なものか否かについては疑問 があります。 また、猥褻表現と同様に、 あるいはそれ以上に憲法の保護を受けない表現として犯罪化されている表現に 「児童ポルノ (child porn)」 があります [23]。 それら児童ポルノが本質的に児童に対する虐待を伴うことから、 それらは当然に暴力的表現の一種であるといえます。また、 仮にそうした行為について合意があると見られる場合であっても、 法的行為能力をもたない児童が性的表現の対象である場合、 それは性的ビジネスから搾取を受けている被害者であるとみなされます。 ゆえに児童ポルノは、犯罪的表現であるとして禁止されているのです。 同様の発想から、アメリカでは、成人を対象とするものであっても、 暴力的表現や暴力的に性行為を強制していると見られる表現は厳しく禁止されていま す。児童ポルノと判断されうる映像作品や、 暴力的な性行為を描いた映像作品が多数流通している日本とはちがった観点から規制 基準が定まっている一つの例といえるでしょう。
3.2.2 その他の規制対象となる表現猥褻には該当しないものの、性的な事柄を含む下品な表現、挑発的表現、憎悪的表現、 またそれらに加えていわゆる危険情報と呼ばれるような反社会的な表現や犯罪行為を 助長するような表現は、言論・表現の自由の範囲にあります。しかし、 それはそれらの表現を完全に社会から排除することが許されないだけであり「時、 場所、方法、表現の受け手」 を基準に表現が行われる状況を制限することが合理的な範囲で認められます。 現在では、内容を基準として表現を規制するときに、その規制の根拠となるものは、 (1) 物理的・経済的理由から止むを得ない場合、(2) 生命・ 身体への危害を防止する場合にほぼ限定されており、青少年の健全育成という目的も、 (2) に沿ったものです。具体的な規制方法については、後で述べることにします。日本においては、「猥褻/下品な表現」という区分が用いられていないので、 アメリカに比較して猥褻とされる範囲が広く設定されています。 すなわちアメリカであれば下品な表現に該当する部分まで猥褻の枠に組み入れられて いるわけです。ですから、 表面的には日本の方が猥褻について厳格であると考えられがちです。 しかしながらアメリカでは、下品な表現について、 青少年の目にふれる可能性のある状況においては厳しく規制されています。 逆に日本では、猥褻に該当しない限りは、自由ということになりますので、 性的な内容が日常生活の場に氾濫する結果になっています。日本においては、 憲法上保護されているにもかかわらず、 青少年に対して有害であると考えられる表現については、各メディア業界の自主規制 (という名の実質的には監督官庁の指導)か、 あるいは地方自治体が定める各種の青少年健全育成条例が規制をかけています。 自治体による特定の表現の排除が、 憲法の定める検閲の禁止という規定に抵触しないかについては、 現在も議論のあるところです。
3.2.3 名誉・信用毀損名誉毀損については、日本とアメリカでは視点が違います。日本の名誉毀損は、 本人の名誉感情を重視しています。名誉毀損的発言が行われた結果、 その人がどの程度の被害を受けたかという問題は、刑事裁判においては 「処罰するに値する程度の違法性(可罰的違法性)」 があるか否かの判断に用いられる程度であり、 おもに民事裁判における損害賠償額を判断する場合に用いられます。しかも、 日本の名誉毀損に関する刑法の規定では、 名誉毀損的発言の内容について事実の有無を問わないことになっています。すなわち、 内容が真実であっても名誉毀損が成立してしまうのです。このため、A氏についてB氏が公然と発言したとき、A氏がその発言によって 「自分の名誉・信用が傷つけられた」と感じたならば、 名誉毀損罪の構成要件が整ってしまうことになります。実際には、 裁判に訴えるほど深刻に名誉を傷つけられる場面は、それほど多くないでしょうし、 仮に訴えがなされても、裁判官は、 可罰的違法性 [24]、 違法性阻却事由 [25] の有無を総合的に判断して判決しますので、 名誉毀損罪がむやみに成立することはありません。 しかしながら、事柄が政治や社会的な注目を集めるようなものですと、 名誉毀損が裁判になることも多くなります。たとえば、先ほどの例でいけば、 B氏がジャーナリストである場合、B氏が注意深く真実について報道していたとしても、 名誉毀損訴訟に直面する危険に常にさらされることになります。 そこで、戦後昭和22年になって名誉毀損に関する刑法230条に、 230条の2が追加されました。これは、発言の内容が (1) 公共の利害に関する事柄であり、(2) かつ発言の目的がもっぱら公益を図ることにあったと判断される場合に、(3) その発言の内容が真実であれば処罰しないとしたものです。これは、 ジャーナリズムの活動を名誉毀損訴訟から保護する目的での追加規定ですが、 裁判が起きた場合に、報道する側が内容が真実であることを証明しなければならない (立証責任)ため、発言者側が不利なことは否めません。そこで、判例では、 「230条の2第1項のいう事実が真実であることの証明が無い場合でも、 行為者がその事実を真実であると誤信し、その誤信したことについて、確実な資料、 根拠に照らし、相当の理由があるときは、犯罪の故意がなく、 名誉毀損の罪は成立しないものと解する [26]」とされ、 真実の証明ができなくても、発言内容が根拠のあるものであれば、 処罰しないとする運用がされています。 アメリカの名誉毀損の考え方は、日本とは逆に、 発言をする側を比較的に強く保護するものです。まず、名誉毀損の成立要件からして、 名誉を毀損された側の主観をあまり重視していません。アメリカの名誉毀損は、 まず口頭による誹謗(slander)と文書による誹謗(libel) [27]に分類されます。 文書による誹謗の方が重く罰せられます。名誉毀損は、ある人が、 他者から受けている尊敬、経緯、行為、信頼を失わせたり、 その人に対して反感的で評判を落とすような不愉快になる感情や意見を引き起こすよ うな発言です。 ある人の発言が名誉毀損に該当するか否かの立証責任は、被害を受けたと主張する側 (原告)にあります。名誉毀損を成立させるために、 原告は次の条件を満たさなければなりません。(1) 原告はその発言が明確に自分を指しているか、 あるいは自分であると思わせるような表現がされていることを証明し、(2) その発言が原告だけでなく、第三者にも伝達されたことを証明し、(3) さらには、 その発言によって権利侵害や不利益が生じたことを証明することが必要です。加えて、 (4)発言者が責任を負うべき理由(帰責事由) あるいは過失があることを証明しなければなりません。 (1)については、名誉毀損的であるという発言が、 原告についてのものであることを判断するにあたって裁判所は、 発言者の主観的意図ではなく、 その発言を聞いた合理的な人がどのようにその発言をうけとめるかを基準としていま す [28]。 名誉毀損が原告の社会的な利益に対する侵害であることを重視しているのです。 すると当然、(2)の条件が導かれます。日本の名誉毀損の場合、 刑法230条で規定されている「公然と」とは、 不特定多数の第三者に発言が伝達される状態をさしますが、 アメリカの場合の第三者とは、原告と被告以外の誰かが名誉毀損的表現を見たり、 聞いたり、 読んだりすれば足りるとされています [29]。 (3)に関して、ある発言によって何らかの権利を侵害されたり、 不利益をうけたことを立証することは原告側にとって負担となります。しかし、(a) 刑事犯罪の犯人であるとの発言、(b) 忌まわしい病気や伝染病に罹患しているとの発言、(c) 商売、取引、 職場において他人の権利を侵害するような行為を行っているとの発言、(d) 特定の州では、未婚の女性について処女でないとの発言などは、 原告の権利を侵害していることが明白であるとされ、 発言の事実のみを立証すれば足ります [30]。 (4)の被告の帰責事由・過失という条件は、 原告がどういう立場にあるかによって変わってきます。アメリカでは、 原告が次の三つの類型のいずれに該当するかによって、 どの程度までの被告側の故意の立証が必要かが変わります。まず、(A) 原告が「私人」 (private figure)である場合、 被告が名誉毀損とされる発言を意図して行った [31] ことを立証すれば足りるのですが、(B) 原告が「公人」(public figure)、(C) 「公務員」(public official)である場合には、外的状況から判断して、 被告が原告に対して「現実の悪意 (actual malice)」と呼ばれる 「侵害を加える意図 [32]」 をもって発言したことを立証しなければなりません。これは、 逆に発言者の立場から見れば、言及している対象が私人である場合には、 名誉毀損の責任を問われる可能性が高いのに対して、公人や公務員である場合には、 名誉毀損の責任を問われる可能性が小さいことになります。 また、事実の有無にかかわらず名誉毀損が成立するとされる日本と違い、 アメリカでは、発言内容が権利侵害を引き起こし悪意を持って発表されたとしても、 その内容が真実であることは、名誉毀損を理由とした処罰・ 賠償からのもっとも一般的な防御となります [33]。これは、 「真実について語ることは、正しいことである」 とする倫理観が根底にあるものと思われます。人の和を尊び、「本当のことでも、 言ってはいけないことがある」 と幼い頃から教育する日本の倫理観では受け入れにくい感覚かもしれません。 このようにアメリカでは、名誉毀損の問題についても、 発言を行う側の自由を重視していると言えるでしょう。
3.2.4 プライバシー / 個人情報ある人の属性や個人的事項について言及することもまた、言論・ 表現の自由の範囲にあります。しかしながら、自分の私的な生活に関する発言が、 他者によって自由に行われることは、ときとして精神的な苦痛を発生させ、 静穏な私的生活に対する侵害であるととらえることができます。また、 自分に関する情報が、 他者によってさまざまな目的に自由に利用されるという状態もまた、 ときとして精神的あるいは経済的な苦痛・ 不利益を発生させうる事態が広がってきました。こうして、一般に「プライバシー」 や「個人情報」としてまとめられる個人に関する言論については、 さまざまな法的制約が設定されています。「プライバシー」や「個人情報」とはどういうもので、言論・ 表現の自由とのかかわりはどのようなものであるのか、 またどのように取り扱うべきであるのか等の詳細については、 また別の論文で取り上げたいと思います。
3.2.5 伝達者の責任ある表現を行った人物がその表現の責任を負うことは当然として、 その表現が何らかのメディアを用いて伝達されるとき、 そのメディアの側に責任が生じるか否かが問題になります。 ここでも日本とアメリカでは、ちがったアプローチが取られます。日本の場合は、犯罪とされる行為を行なおうとする意思に着目しますので、 表現を行った人を正犯、 それを助けた人は幇助犯あるいは事後従犯 [34] として従属的な立場にあると考えます。誰かの名誉毀損的表現について、 その内容を知りながら再出版・伝達した人は、 おそらく事後従犯ということになるのでしょう。しかし、わが国の刑法では、 事後従犯は独立の犯罪として刑法に規定がある場合にのみ処罰できるとしています。 ゆえに、民事的責任のみが問題となることになります。 表現とメディアの関係において、 メディアは表現を伝達することを業務として存在しているわけですから、 単に誰かの表現を伝達しただけで内容について直ちに責任を問われることはほとんど ありません。すくなくとも、 その表現が不法なものであることを認識しつつ伝達した場合に責任を負う可能性が生 じます。 これに対して、アメリカの場合は、表現内容が社会に与える効果に着目します。 したがって、その表現を最初に行った人(author)と、それを社会に広めた人 (publisher)との間に責任に差をつける必要がないことになります。そこで、 その発言を繰り返したり、再び公表したりした人は、 ある発言をもともと公表した人と、 同一の責任を負うものとされています [35]。ただし、 発言の単なる頒布者や伝達者(distributor) は情報伝達の受動的な経路に過ぎないものとされ、 伝達している内容が違法なものと認識していたか、 あるいは認識すべきであった理由がない限り、 原則として表現に対する責任を負いません [36]。 積極的に社会に広めた人と単なる受動的な情報伝達経路の区別はどこにあるのでしょ うか。それは、編集権 (editrial control) の有無によって判断されます。 先に説明したように、メディア企業は、 自らの私有財産として情報伝達のメディアを保有しており、 そのメディアを使ってどのような内容を伝達するのかを選択する自由があります。 これが編集権です。この権利行使の結果として、 伝達する情報内容について責任を負うことになるのです。 逆に電気通信事業者は、日本においては、言論・ 表現の自由とともに憲法によって保障されている 「通信の秘密 [37]」によって、 アメリカにおいては、「コモン・キャリア(common carrier) の法理 [38]」によって、 伝達している内容について関与してはならないことになっています。 すなわち電気通信事業者は、基本的に編集権をもたないのです。ゆえに、 伝達している内容について責任を基本的に責任を負いません。ただし、 電気通信事業がつぎつぎに新しいサービスを開始し 多様化するなかで、 電気通信事業者が行っているサービスであるから、 直ちに伝送内容について責任を負わなくてもよいのだ、 という考え方は修正されつつあります。
3.3 どのように規制されるのか憲法上の自由権を制限する立法の合憲性を判断する場合、 財産権に代表される経済的自由権に対する基準と、言論・ 表現の自由に代表される精神的自由権に対する基準を分ける考え方を 「二重の基準論 (double standard)」と呼びます。 経済的自由権を制限する立法については、 憲法に合致した立法であるとの推定を判断の出発点とするのに対して、 精神的自由権を制限する立法については、 憲法違反の立法であるとの推定を判断の出発点とします。 これによって精神的自由権を制限する立法を厳格に審査することにしているのです。 さらに、言論・表現の自由を規制する方法は、(1) 表現内容規制、(2) 表現内容中立規制に分けられます。
3.3.1 表現内容規制「表現内容規制」は、表現されている内容に着目して規制するもので、 ここまで説明してきた、(a) 政治的・社会的言論と、(b) 猥褻、名誉・信用毀損、 営利的表現、その他の規制を受ける表現といった区別に関するものです。(b) の類型については、もとより憲法の保護が与えられなかったり、 保護の程度が低いものとされてきましたので、 規制の目的や手段が合理的であるかぎり合憲とされてきました。一方、(a) の類型については、まさに言論・表現の自由の憲法的保障の核心ですので、 これらの自由を規制する場合には、他の自由、 たとえば身体の自由や経済活動の自由を規制する場合よりもいっそう厳しい基準にお いて、憲法に合致しているか否かを判断されることになります。この基準のことを 「厳格な審査基準 (strict scrutiny test)」と呼びます。厳格な審査基準においては、表現内容に関する立法について、(1) 立法目的が 「やむにやまれぬ政府の利益 (compelling state interest)」 を実現するものであること、(2) 法律で採用された規制手段が、 目的を実現するのに必要不可欠の手段であり、かつ言論・表現の自由に対して 「最も侵害的でない」 手段であることが要求されます [39]。しかも、 それらの条件を満たしていることを政府が裁判所に対して証明しなければならない義 務を負っているところが、この審査基準が厳格であるゆえんです。 土地や財産などを所有・処分する自由である経済的自由権を制限する立法については、 他の法律と同じように憲法に合致した内容をもっているものと推定されます。 仮にその法律が憲法に合致したものであるか否かが問われるような裁判になった場合、 その法律が憲法に違反していることを証明しない限り、 その法律は有効なものであるとされます。逆に、言論・ 表現の自由に代表される精神的自由権を制限する立法については、 まずその法律が憲法に違反したものと推定されます。ですから、 その法律が有効なものであることを政府が証明しない限り、 その法律は憲法に反したものであるとされます。 そもそも法律の正当性の推定にかかる部分から、 経済的自由権と精神的自由権は扱いが違っているのです。 日本の裁判所においては、二重の基準論は一般論としては受け入れられていますが、 積極的には用いられていません。たとえば、「言論、 出版その他の表現の自由は公共の福祉に反しえないのみならず、 自己の自由意志に基づく公法関係上または私法関係上の義務によって制限を受ける [40]」 という判決に端的に表れているように、「公共の福祉」 を理由として比較的容易に精神的自由権を制限する立法を容認する傾向にあるいわれ ています。
3.3.2 表現内容中立規制もう一つの規制の様態として、「表現内容中立規制」と呼ばれるものがあります。 これは、伝達している内容ではなく、伝達手段、伝達方法に着目するものです。 たとえば、拡声器を用いて自らの言論を行う場合、あまりに大音量であれば、 周辺の人々に迷惑ですし、場合によっては身体的な変調の可能性すらあります。また、 美観が重視される地域において、自らの土地を利用するからということで、 過度に巨大で周辺と調和しない広告看板が掲げられることは、 その地域の社会的な価値に損害を与えることになります。また、電気通信・ 放送事業等においては、それらの事業の性質上、管路設置や電波使用に関して、 調整する主体が存在しなければ、 混乱が生じそれらの事業それ自体が成立しないというような状況が発生しかねません [41]。そこで、 これらの事業に対する政府による介入が正当化されます。 これらの事業規制立法もまた表現内容中立規制に関する法理が適用されます。どのような内容の発言であるかを問わずに、表現の「時、場所、方法、受け手」 等に対して規制を掛けることは、 表現内容規制で用いられる厳格な審査基準で要求されるほどの厳密性を要求されない ものとされています。この場合には「中間審査基準 (intermediate standard)」 と呼ばれる基準で、規制立法の合憲性が判断されます。それは、(1) 立法目的が 「重要な政府の利益 (important government interest)」を実現するものであること、 (2) 法律で採用された規制手段が 「目的を実現するために実質的かつ合理的なものであるか」 という基準です [42]。 これらの基準を満たしていない規制は、憲法違反であるとされます。
3.3.3 規制手法の制約先に述べたように、日本では、言論・表現の自由を制限する立法について、 具体的内容や基準について明確でない「公共の福祉」 論に基づいて個々の事件毎に判断が示されているという状態です。しかし、言論・ 表現の自由について常に明確な基準を意識しながら規制を加えてきたアメリカにおい ては、精神的自由権を制限する法律、 とくに表現内容規制を目的とする法律を憲法に合致したものとして有効にするために は、越えなければならないハードルがいくつかあります。まず、検閲(事前抑制)は、絶対的に禁止されます。検閲とは、 表現内容が公表される前に表現内容を公権力が審査することを制度化し、 公権力の許可がない限り発表を禁じることです。従っていったん公表された後に、 何らかの法的根拠によって発行禁止措置、印刷物の回収などを命ずることは、 検閲にはなりません。何らかの形でいったん社会に公表されれば、 たとえ後にその表現が政府によって抑制されたとしても、 その抑制が妥当なものかを判断する手がかりが残ります。一方、 検閲制度があったなら、ある表現が公表される前に禁圧されることになりますので、 検閲に携わった人物以外、 その表現の内容がどういったものであったのかを知ることができなくなってしまいま す。実際には政治的な理由で禁止された書籍が、 表面的には猥褻等を理由として禁止されたとされてしまっても、 誰にも真実がわからないことになってしまうのです。 次に政治的・社会的言論であっても、その表現が、 差し迫った違法行為の明白かつ現在の危険を生じさせる場合には、 その言論は憲法によって保護されないとされています [43]。この 「差し迫った違法行為の明白かつ現在の危険」の基準においては、 違法行為が直ちにその場で生じる危険がなければなりませんから、この基準は、 集会やデモなど多数の人が集合するような状況において適用されることが想定されて います。したがって、 暴動等が発生することが予見されるような非常事態でもない限り、 印刷物や放送によって違法行為を呼びかけるような発言が直ちにこの 「差し迫った違法行為の明白かつ現在の危険」 基準によって抑制されることはありません。 法律によってあらかじめ表現内容を規制する場合、 法文における規制の明確性が検討されます。 規制の対象となる表現が漠然としていて不明瞭な場合、規制の対象となる表現と、 憲法によって保護されるはずの表現が渾然とし、法律の制定によって、 本来憲法によって保護されるべき表現が抑制されてしまう危険があります。これを 「抑止効果 (chilling effect)」と呼びます。これを避けるため、 規制を目的として制定された法律が不明確である場合、 実際にその法律が適用された結果どのような影響が出るかについての検討をまつまで もなく、憲法違反であるとされます。これを 「漠然性ゆえに無効 (void for vagueness)」の基準と呼びます。また、 法律の規定は一応明確であっても、規制の対象とする範囲があまりに広く、 その運用によっては憲法によって保護されているはずの表現をも抑制する可能性があ る場合もまた、その法律は憲法違反であるとされます。これを 「過度の広汎性ゆえに無効 (void for overbreadth)」の基準と呼びます。 また、先ほどの厳格な審査基準でも触れましたが、 「最も制限の少ない他の選びうる手段 (least restribtive alternatives)」 基準というものがあります。厳格な審査基準では、法律が 「やむにやまれぬ政府の利益」を目的とし、その「目的を実現するために必要であり、 かつ自由や権利を最も制約しない」ことが要求されていました。それゆえ、 ある法律が目的を達成するために採用している手段について、 同じように効果的でかつ他の自由や権利を侵害しない手段が他に存在することが証明 されれば、その法律は憲法違反であると判断されることになります。
4 補論: 通信・放送事業の性質以上で、言論・表現の自由の基礎的な考え方について概観しました。 これらを踏まえて「情報時代における言論・表現の自由」について、 さらに考えていくことになります。しかしながら、情報時代においては、言論・ 表現におけるメディアの役割がますます高まっていくことが予想されます。 そこでメディアに対する法規制がどのような根拠で行われているのかという知識を補 う必要があるでしょう。 そこでこの章では、情報時代の重要な言論の場になると考えられる、通信・ 放送メディアについて解説して、前半部分の議論を補い、 後半部分での議論の基礎にしたいと思います。とくに、それらの事業が言論・ 表現の自由についてどのような位置付けにあるのか、 どういった理由で各種規制が設定されているのかを中心に解説します。
4.1 公益事業電気通信事業や放送事業は、公益事業と呼ばれるものに分類されます。 公益事業の例としては、(1) 鉄道、都市交通、バス、定期船、 定期航空などの運輸サービス事業、(2) 郵便、電信、電話、 放送などの通信サービス事業、(3) 電気、ガス、 水道などの基礎的サービス財の供給事業が挙げられます。20世紀前半まで、市場経済は、 その市場が大きいほど効率的に富を生み出すと考えられていました。 そこで近代国家は、 国内に分散していた市場を統合して大きな単一市場を形成することに努力しました。 この国内市場の統合を考えるときに、物資と情報の伝達を国内的にあまねく、統合的、 効率的に行う必要があります。市場とは、物資と情報の交換を行うところだからです。 ですから、国内の道路整備から始まって、郵便制度の確立、鉄道の敷設、 電信網の整備、電話網の整備は、ほとんどの諸国においては、公営(国営・ 地方自治体による営業)事業、半官半民による企業体、 あるいは事業独占の特権を付与された特殊企業によって行われました。それは、 産業国家の都合という面もありましたが、 民営による自由競争では著しい不都合が生じるという経済学的事情があったせいでも あります。これについては、あとで詳しく検討することにしましょう。 付け加えるならば、国際鉄道、国際航路、国際航空路もまた、たいていの場合、 国営あるいは国家から補助金をうけて整備・運営されました。 海外市場や植民地と本国を結ぶ回路の維持は、 帝国主義の時代には国家の生命線だと考えられており、それらの事業を営む企業には、 莫大な補助金が支出される代わりに、それらの事業者は、 有事に軍事的活動を支援するものとされていました。かつての郵便屋さんから、 国鉄職員、国際航路の船員、国際航空路の乗員が、 軍隊とよく似た組織構造と軍服によく似た制服を着用していたことは、 単なる類似を越えた必然性があったのです。 そして、それらの運輸・通信に関する事業において一貫して追求されたのは、 サービスの統合性・効率性とサービス地域の網羅性です。 サービスが効率的であることは、すなわち市場が効率的に機能することですし、 サービス地域が網羅的に拡大していくことは、 すなわち市場の規模を大きくするものだからです。 公益事業に共通する特質としては、(1) 国民一般の日常生活に必要不可欠のサービスおよびサービス財を提供している、 (2) 貯蔵や転売ができないので需要と供給の調整が難しく、独占的性質を必要とする、 (3) 生産および供給施設において、自然的・技術的・ 経済的に固定性や統合性の必要が大きい、 (4) 巨額の固定資本を必要とし、 その資本回転が遅く、回収が長期にわたる、 (5) 消費者や利用者の代替的経済的手段による対応が困難である、 (6) 他の諸産業にとって基礎的なサービスないしサービス財である というものが挙げら れます。ここで、(2)の独占の問題を中心として検討します。というのは、(3)、(4)、 (5)の要件がいずれも(2)の独占という問題の根拠となっているからです。
4.2 通信事業4.2.1 独占が必要になる理由まず、通信事業について検討してみましょう。 以下の話ではもっぱら電気通信事業を念頭において説明しますが、郵便事業にも旅客・ 貨物運輸事業にもあてはまる話です。まずあなたが、明治時代の事業家だとしましょう。 まだ通信事業を手がけている人は誰もいないと仮定します。まず、 どこに回線を敷設しますか? もっとも需要が大きいと考えられる「東京←→大阪」 間に敷設するはずです。通信回線設備を整えるとき、 回線1kmあたりに必要な費用というのは、だいたい決まっています(もちろん、 平坦な地域と山がちな地域では費用が違うわけですが)。しかし、 いったん回線が敷設された後、どのくらいの利用があるかというのは、 地域によって相当に差があります。当然、 人口密度が高く産業が活発な地域ほど高い収益が期待できます。あなたは、まず 「東京←→大阪」間の通信事業で十分な収益を上げ、 ついでその通信回線を福岡や仙台などに伸ばすことで、 さらなる事業拡大を計画するでしょう。そして、いずれは、 もっと広い地域を結ぶ電気通信事業を構想するはずです。 あなたは、「東京←→大阪」間の通信で収益を上げつつ、 次の事業計画を考えていたのですが、困ったことが発生しました。 ライバル会社が参入してきたのです。当然、ライバルも「東京←→大阪」 間に回線を敷設しました。あなたの会社では、 いずれ他の地域にも回線を拡大することを考えていましたから、 「運営経費 + 将来の設備投資の原資」を通信料金計算の基礎にしていましたが、 ライバル会社は、「将来の設備投資の原資」の部分の幅(マージン)を薄くして、 価格競争を仕掛けてきたのです。あなたの会社と、 ライバル会社は価格競争に突入しました。値下げ競争のすえ、 サービスの価格に転嫁されていた「将来の設備投資の原資」 の部分がなくなることになります。すると、結果的には「東京←→大阪」 間に二重の設備投資が行われる一方で、 その他の地域には回線が伸びていかないことになってしまいます。 この問題を解決するためにはどうすればよいでしょうか。答えは「(地域) 独占を与える」です。これは独占権の特許でも、 あるいは事業免許という形での独占付与でも同じ結果となります。 いったんある事業者に「東京←→大阪」の事業免許を与えたら、もう他の事業者には、 その区間の同種の事業を禁止するわけです。すると、他の事業者は、 次に収益性の高い区間を探して、そこでの事業を始めることになるでしょう。 これを繰り返していけば、通信回線事業が採算のとれる区間すべてについて、 民間事業者の力のみで通信ネットワークを整備していくことが可能になります。
4.2.2 内部相互補助の必要性ここで、「採算の取れる区間すべてについて」と書きました。では、 採算の取れない過疎地域などはどうすればよいのでしょうか。経済原理にもとづけば、 採算の取れない事業は誰もやらないことになります。しかしながら、 「ネットワークは全国津々浦々あまねく普及させるべきである」 という国家目標を前提にするとなんとかしたいところです。付け加えるならば、 電気通信事業には、 「ネットワークの外部性 [44]」 と呼ばれる効果があって、 加入者が増えれば増えるほどネットワークの有用性すなわち価値が高まるという性質 を持っています。これもまた、「全国津々浦々あまねく普及」 を目標とするための理由となります。そこで使われるのが「内部相互補助」という方法です。収益性の高い地域と、 収益性の悪い地域を両方含むサービス提供地域(service area) について事業者に独占権を与えて、収益性の高い地域で挙げた利益で、 収益性の悪い地域の損失を補填し、サービス提供地域全体で採算を維持する方法です。 この方法もまた、地域独占を前提としないと成り立ちません。
4.2.3 電気通信の事業形態さて、迅速に全国ネットワークを拡大し、しかも公益的視点から、 全国均一のサービスを誰に対しても行うために、もっともよい方法はなにか? 大雑把に考えますと、国営あるいは、 全国で単一の事業体のみを認可するという方法が答えになりそうです。こうして、 通信事業は、 全国的なネットワークが完成するまで国営に近い事業形態になる理由があるのです。日本において、明治時代に官営事業として始まった電信電話事業は、 逓信省→電気通信省→日本電信電話会社(電電公社)と独占事業として進んできました。 後に電電公社は、 特別法によって設置された特殊民間企業である日本電信電話株式会社となり、 電気通信事業への他の民間事業者 (New Common Carrier: NCC) の参入が可能になりました。この背景には、 1979年に電話の全国ネットワーク化が完成したことがあります。 基礎的電気通信の国家的ネットワークが完成したため、 独占を維持する理由が薄れたのです。 一方、アメリカでの電気通信の発展は異なっていました。アメリカでは、 ベル電信電話会社(アメリカ電信電話会社 AT%&Tの前身) がニューヨークを中心に電話事業を開始していらい、 電気通信事業が国営で行われたことはありません。ベル電信電話会社のほかに、 いくつもの地域的電話会社が各中核都市を中心に事業を展開していたのです。しかも、 それぞれの電話会社には、はじめのうち相互接続できないという不都合がありました。 しかし市場における顧客獲得競争の結果、 結果的にAT%&Tによる全国的な電話ネットワークが完成しました。 事実上の独占が完成したのです。そこで、合衆国政府は、 AT%&Tを独占禁止法上の特例とするかわりに、 さまざまな政府規制に服する義務を課しました。こうして、AT%&Tは、 純然たる民間企業でありながら、実質的には、公社と同じような立場になったのです。 このように、電気通信事業は、 巨額の初期投資と固定資産を必要とする事業であるがゆえ、 また全国同じ条件でのサービス提供を実現するために、 独占事業にならざるえない性格を持つわけです [45]。
4.2.4 コモン・キャリアの義務先に「コモン・キャリアの法理」について簡単に触れましたが、ここでは、 なぜコモン・キャリアが非差別的なサービス提供の義務や、 伝送内容について関与してはならない義務を負うのかについての説明をします。ある独占的な電気通信事業者が、発信者や受信者の何らかの属性 (居住地域、性別、 思想信条、人種等)を基準にサービス提供を拒否することを考えてみましょう。 サービス提供を拒否された人は、サービスを受けることを諦めるか、 自分自身で通信を伝達しなければならなくなります。 これはサービスを拒絶された人にとっては、 自らの意思を伝達する自由に対して差別的な負担を課されたことになります。 ですから、他に同様のサービスを提供する事業者が多数存在する状況においては、 通信事業者も選択的なサービスの提供をしても構わないことになりますが、逆に、 独占的な通信事業者しか存在しない場合には、選択的なサービス提供は、 利用者の憲法上の権利に強い影響を及ぼすことになるのです。 さらに、基礎的なサービスを全国的かつ独占的に供給する事業者に対しては、 「あまねく提供義務 (universal service)」が付加されます。 これも非差別的サービス提供義務と同じ理由から導けます。 ある地域に住んでいる人が、 たとえば電話サービスを受けたいと望んでいるにもかかわらず、 その地域が非常に辺鄙な地域であり、 電話施設を設置するコストを考えると採算が取れないことを理由にサービス提供を拒 絶されたらどうでしょう。独占的にサービスを提供している事業者から拒絶されたら、 もうその人は電話を利用することができなくなってしまいます。これは、 その人にとって、 自らの意思を伝達する自由に対して差別的な負担を課されたことになります。 先に説明したように、 ある事業者に対してある地域に対しての独占を付与する根拠として 「内部相互補助を可能にするため」というものがありました。それゆえ、 ある地域について独占を付与された事業者には、採算を度外視しても「あまねく」 サービスを提供する義務があるのです。日本の法律では、 NTTの提供する基本的電話サービスとNHKの地上波放送に対して、「あまねく提供義務」 が規定されています [46]。 通信事業者が通信内容を傍受してはならないということは、 憲法において検閲が禁止され通信の秘密が保障されているという理由だけでなく、 経済学的にも支持されます。仮に正面から 「電気通信事業者は通信内容について傍受を行う」 としてしまった場合について考えてみましょう。もちろん、 誰に聞かれても当たり障りのない会話であれば、事業者が傍受していても、 利用者は気にならないかもしれません。しかし、重要な内容を含む通信については、 利用者が通信事業者を使わなくなることは明らかです。そうした通信は、 それぞれの個人が準備する他の通信方法によって行われるはずです。すると、 せっかく電気通信設備があるのに、 また同じような電気通信設備が並立することになってしまいます。すなわち、 無駄な二重投資が行われることになるわけですから、 国家全体としての効率を低下させてしまいます。そこで、信書開封罪、 信書隠匿罪などの刑事罰や郵便法による検閲の禁止、 信書の秘密の確保等の法的手当てをすることで郵便や電気通信事業において、 名宛人以外の人に通信内容が読まれないことを保障しているわけです。
4.3 放送事業4.3.1 独占が必要になる理由つづいて放送事業について、見てみましょう。放送は、 一つ一つの家庭にケーブルを敷設するような作業を必要としませんが、 電波という媒体を用いるところに特徴があります。電波には、周波数というものがあります。周波数とは、 単位時間あたりに電磁波の位相が何回変化しているかを意味しています。 電波には次のような性質があります。電磁波には波が長いもの(長波)から、 非常に波が短いもの(γ線)までありますが、波長が短いもの、 すなわち周波数が高い電磁波のほうが、 単位時間あたりに伝送できる情報量が大きくなります。しかしながら、 周波数の高い電磁波は、ある段階で光になってしまうことからわかるように、 光と同じように物体の表面で反射したり、遮られたりして、 到達距離が短くなる性質を持ちます。 放送というメディアが伝達する情報量は、少ない順番から、AMラジオ、 短波ラジオ放送、FMラジオ放送(ステレオ)、TV放送(VHF)、TV放送(UHF)となります。 ですから、周波数もこの順番に低い周波数から高い周波数に並んでいます。また、 それぞれのメディアが必要とする情報量を確保するためには、使用する周波数の幅 (帯域幅)が必要です。たとえば、おなじ情報量のTV画像を伝送する場合、 VHFとUHFでは、VHFのほうが周波数が低く情報量が少ないため、 広い帯域を必要とします。逆に、UHFでは周波数が高いので、 1チャンネルあたりの帯域幅を狭くすることができます。 このように、TV放送に使用できるように割り当てられた電波の幅を、 TV放送に必要な帯域の幅で割りますと、何チャンネル使用できるかが決定されます。 こうして、日本のテレビでは、VHF帯では おおよそ10チャンネルが、 UHF帯では おおよそ30チャンネルほどが物理的な最大数とされています [47]。また、 一つのチャンネルを複数の放送局で使用しますと混信という状態が発生し、 放送内容の伝達ができなくなってしまいます。ですから、 物理的なチャンネルの数が同じ地域に存在しうる放送局の物理的上限になるわけです。 すなわち、ある地域において、放送局の数に物理的限界が存在するため、 放送電波を使用して言論活動を行おうと考える主体の数に対して、放送電波は 「有限かつ稀少な資源」であるということです。わかりやすく言えば、 先に述べたように、本来私たちは、電波を用いて好きなように言論・ 表現活動を行う自由を持っていたのにもかかわらず、電波が「有限かつ稀少な資源」 であるために、特定の周波数の電波を排他的に使用する特権を、 誰かに与えざるえない状況があるわけです。それゆえ、放送事業は、 ある地域において避けようがなく寡占的事業にならざる得ません。 その一方で、放送メディアは、 1つの放送局から膨大な数の受信機に対して情報を一方的に流すことができる効率的 なメディアであって、その社会的影響力は強大です。書籍や新聞と違って、 情報の受け手に積極的に選択されるわけでもないこと、また、 音声と動画の組みあわせであるTVは、文字の読めない子供から、 老人までに作用することのできるメディアであることが指摘されています。それゆえ、 放送事業の初期の段階では、有効な政府の宣伝メディアであると考えられ、 しばしば国営独占事業とされました。仮に民間放送事業者の存在を認めるとしても、 その放送内容は強力な国家統制のもとに置かれることが多かったのです。 さらに、放送行政という観点から見ると、 もうひとつ経済的な理由が寡占事業という性質をさらに強力にします。放送免許が、 ある特定の事業者に公共の資源である電波を排他的に使用させるものであるというこ とを理由にして、放送事業者には公的な言論媒体としての責任があるとされます。 そしてその責任を果たすため、また、逆に責任の見返りとして「経営の安定」 が要請され、また保障されています。 民間放送事業者が事業免許を受けているにも関わらず、 乱脈な経営をすることで倒産してしまったりしたら、 貴重な公共の資源である電波を無駄に放置することになるからです。 そこで、この経営の安定を根拠に、 民間放送事業の経営には経済的規制が掛けられています。民間放送事業者の収益源は、 もっぱら広告収入です。ところが放送に使用できるような高い周波数の電波は、 到達距離が短く、受信可能範囲は限定されています。すると、 その受信可能範囲における広告需要がおおよそ推測されます。たとえば、 ある県において年間のTV広告支出が2億円だと仮定しましょう。もし、 安定的に TV放送局を維持するために年間に1億円の収入が必要だとしますと、 その受信可能範囲に存在しうる放送局数は2局ということになってしまいます。 仮にそれ以上の放送免許が付与されますと、広告収入の奪い合いで、 結局いずれかの事業者が倒産する結果になることは明らかだからです。 こうして放送局に免許を与える場合、物理的限界が上限となり、 経済的限界が実質的な放送局の数を決定するわけです。日本においては、東京、大阪、 名古屋の大都市圏において5局以上のチャンネルが存在しますが、 それ以外の県においては、おおよそ1県にNHK第一、NHK第二、 民放2局の4局体制が取られていました [48]。 こうした仕組みは、公共の資源である電波の配分に関する、 政府を管理者とする中央集権型の計画経済体制であると見ることができます。 政府と事業者が相互の利害において協力しあう一方、 新規参入をほとんど認めない特殊な市場を形成していたわけです。これは、 護送船団方式として批判されていた日本の金融行政と基本的に同一の構造です。
4.3.2 アメリカにおける放送事業規制の経緯アメリカでは、次のような歴史的背景から、別のアプローチが取られました。 アメリカの法律観というものは、わが国のそれと異なっており 「法律によって禁止されていない限りは自由」と捉えているようです。そこで、 マルコーニが無線による電気通信に成功して以来、 企業もアマチュアも好きなように電波を用いた無線通信の実験などを行っていました [49]。そして商用ラジオ放送がはじまったのですが、これが次のような業態をしていました。 ラジオ受信機を製造・販売するメーカーが、 そのラジオ受信機で受信するための番組を放送していたのです。 どのような周波数を使うかについては、規制はありませんでした。ですから、ラジオ・ メーカーは、 自分の製造するラジオ受信機を広く販売するためにできる限り広いエリアに電波を飛 ばそうとして放送局の出力を上げました。もちろん、混信が起きはじめましたが、 そんなことはお構いなしでした。 これらの放送局の自由運用が、1910年代には、 ついに船舶無線や軍事無線に影響を与えるようになると、 電波の使用について政府規制をしなければならない、という気運が高まりました。 ところが1920年代には、政府が電波を用いた言論活動の規制を行うことが、 憲法によって認められるか否かが問題になりました。そこで1930年代になって、 電波規制の問題は言論規制の問題ではなく通商問題の一種であるという解釈によって、 政府の外部におかれた独立行政法人である州際通商委員会によって監理されることに なったのです。のちに、 州際通商委員会から連邦通信委員会 (Federal Communications Commission)が分離し、 現在の放送に関する制度を運用しています。 アメリカのメディア法分野に特徴的なことは、 放送事業者がFCCの規制を合衆国憲法違反であるとして、 救済を連邦裁判所に申し立てる例がとても多いということです。すなわち、 放送事業者には言論・ 表現の自由があるということが当然の前提になっているわけです。
4.3.3 公益を理由とした社会的規制電気通信は、回線に余裕のある限り多数の言論を送受信することができますが、 放送は違った性質を持っています。一個所の放送局は、一定の周波数を占有し、 一つの内容を放送することで、 多数の受信機に一斉に同じ内容を伝達するという性質です。 もともと公共の資源であった電波を占有しているのですから、その利用については、 「公共の利益」の観点が導入されることになります。すなわち、放送局にも言論・ 表現の自由があるわけですが、その自由の行使には「公共の利益」 という制約がはいることになります。日本では、 もともと放送事業が社団法人によって担われてきたという歴史がありますので、 放送内容に対して公益的観点が導入されることは「あたりまえ」 という感覚があります。しかし、民放しか存在しないアメリカにおいては、 私企業である放送事業者が、 同じように私企業である出版業のような既存のメディアよりも、 なにゆえに厳しい内容規制に服さねばならないのかという問題が議論されてきました。 これについて合衆国最高裁判所は、次のように説明しました。
無線周波数の希少性を根拠として、政府は、 この特異なメディアで表明されるべき意見をもつ他の者に有利になるように、 免許所有者に制約を課すことが許されている。一方、全体として国民は、 無線による自由な言論に関する彼らの利益や、 メディアを修正第1条の目的に適合させる彼らの集団的権利を有している。 至高なのは、視聴者の権利であって、放送事業者の権利ではない。すなわち、放送内容を制約する「公共の利益」とは、 多様な意見をもった視聴者の集団的な言論・表現の自由であり、それは具体的には、 放送内容が「思想の自由市場」 を形成することに貢献するよう編成されなければならないという考え方を導くことに なります。 加えて、放送には特殊なメディアの性質があるといわれます。 書店で売られている書籍については、 購入者が自主的に内容を選択して内容を受けとるのに対して、 放送は受信者が限られたチャンネルからしか選択できない上に、受信者は、 そのチャンネルから送られてくる内容を受動的に受けとるしかありません。また、 内容を受けとるために、文字を読むことが必要である書籍に対して、放送は、 音と映像の組みあわせで、文字を読むことのできない子供や、 意識的に番組を見ていない受信者に対しても、 強い影響力を及ぼすメディア (permeative media / pervasive media) であるからです [51]。 こうした十分な番組の選択能力を持たない「囚われの聴衆」 を放送事業者が提供する恣意的な内容から保護するために、 政府による内容規制が正当化されるのだとされています。 日本において、内容(コンテンツ)規制の根拠となっているのが、 放送法3条の2 [52]です。 逆にいえば、これ以上の基準について定めた法律は存在しません。では、 具体的にはどのように、放送番組の内容基準が決定されているかといえば、 民放については、日本民間放送連盟が定める「放送基準」が基準となっています。 すなわち、憲法の言論・表現の自由をうけて、 政府は内容規制の枠組みのみを法律で定め、具体的な基準や運用については、 事業者の自主規制に任せるという態度をとっているのです。ですから、 日本ではある放送内容がその基準に合致しているか否かについて、 あるいは逆に現在の放送基準が憲法の保障する言論・ 表現の自由に違反したものではないかについて、法的な判断や議論がされることは、 ほとんどありません。それゆえ、 それらの基準の妥当性について客観的な理由が提示されたことはありません。 アメリカでは、 放送に関する規制をFCCの管轄事項としています [53]。FCCは、 連邦通信法を根拠に放送番組内容に関する規制基準を示してきました。 業界が指導官庁との緊密な連絡のうちに基準を解釈・ 運用することで放送秩序を維持してきた日本と違い、アメリカでは、 このFCC基準に対して、放送事業者が違憲訴訟を提起することで、 具体的な放送秩序が形成されてきました。 公平原則 また、放送事業にのみ適用される内容規制として「公平原則」があります。 公平原則は、放送メディアが寡占的性質を持っていること、 世論に対する強い影響力を持っていることを前提にして、 放送メディアがある問題について、 できるだけ多様な意見を平等に伝達することを要求するものです。日本では、 放送法第3条の2第4号において要求されています。アメリカにおいても 「公平原則 (fairness doctrine)」 はFCCによる放送内容規制の指針とされてきました [54]。「できるだけ多様な意見」 という部分については、ある特定の意見に偏らない限り、 放送事業者の編集権が及ぶものとされていますが、「平等に」という部分については、 各意見の取り扱いにおいて割り当てられた放送時間の平等として把握されています。 放送電波帯域が有限な資源であることに加えて、 放送時間もまた最大24時間という限界があるからです。 なお、日本の新聞は、協会の声明として、この公平原則と類似した「不偏不党原則」 を掲げています [55]。これは、 日本においては全国紙とよばれる大新聞社による報道が、 世論形成に大きな影響を与えているという認識を基礎にした社会的責任の反映として 掲げられています。しかし、こちらは法的な根拠をもつ規制ではありません。事実、 複数の新聞を比較的に読んでみれば、 新聞社毎に同じ事件の取り扱いが異なっていることはすぐに明らかになります。一方、 欧米の新聞は、 むしろ特定の視点から報道を行うことを明らかにして報道を行っています。 クオリティ・ペーパー(高級紙)と大衆紙といったように、新聞としての性格、 記事内容はもちろん、その購読者層までも明確に分別されていることが多く、 欧米の新聞の大部分は独立の立場をとりながらも、明確な政治的立場を掲げています。 集中排除規制 「集中排除規制」とは、同一地域において、テレビ、ラジオ、 新聞の三事業がおなじ資本によって所有されてはならないという規制です。 この規制は、伝達内容に関係する規制である内容規制と関係しない規制ですので、 経済的規制と呼ばれています。この規制の根拠は、 これら三事業が寡占的性質を持たざる得ないこと、 世論の形成に強い影響力を持っていることを背景にしています。日本の場合、テレビ・ ラジオ放送は基本的に都道府県を事業エリアとして免許が交付されています。 ある県において、三事業が単一資本によって所有されている場合、 ある県全体の世論が、 ある特定の考え方によって強い影響を受ける危険があると考えられているのです。 この集中排除規制は、 アメリカにおいてもFCCの免許政策の一環として行われています。 このように三事業の同一資本による所有が好ましくないということは理解されている にもかかわらず、実際には、日本のテレビ、ラジオ、 新聞の間には明確な系列関係が存在していることはよく知られているところです。
4.4 独占・寡占と政府の役割ここでまとめますと、電気通信事業についても、放送事業についても、 地域独占あるいは寡占事業として経営されなければならない物理的・ 経済的な理由があるということです。そして、 こういった独占や寡占を付与したり取り締まったりするのは政府の仕事であるがゆえ に、これらの事業への政府の介入が要請されるわけです。すなわち、 事業への参入や退出について許認可制度が採用されることになります。また、 それらが独占・寡占事業であるがゆえに、暴利、非効率、 顧客の差別的取り扱いの危険が生じます。これらの弊害を除去するためにも、 これらの事業への政府の介入が要請されるわけです。こうして、本来、国民の誰もが自由に行えるはずだった、通信・ 放送事業に法律的な規制が適用される根拠が整うわけです。そして、 当然のことながら規制の内容は、それらの根拠に根差したものでなければなりません。
5 情報時代における言論・表現の自由この章では、誰もが自由に情報発信できる情報ネットワークの時代において、 従来型の言論・表現の自由がどのように変質しつつあるのか、 それに対して私たちはどのように対応していけば良いのかを検討することにしましょ う。 ※ 以下の部分については、まだ十分な検討を経ていません。 こうした問題に関心のある学生さんたちと議論しながら、 検討していきたいと思います。関心のある方は、 shirata1992@mercury.ne.jp 宛てにメールをください。 5.1 誰が誰の言論・表現の自由を侵すのか言論・表現は、他者に働きかけてその意思決定や行動を制御しうるという意味で、 本質的に権力(power)の一種です。もちろん、 私たちは日常的にコミュニケーションの道具として言語を用いていますし、 私たちが外に向かって発する情報は何らかの意味で表現であるといえますので、 私たち一人一人がささやかながら一種の権力を持っていることは間違いありません。 しかし、法が発動し問題とするような言論・表現というものは、 社会的に影響力の強い、強制的な力を発揮する言論・表現であったということが、 これまでのこの文章の記述から理解してもらえるかと思います。そして、 社会的に影響力のある強制的な力を発揮する言論は、 人間の肉声や肉筆だけでは行えません。つねにそれらの力を増幅する、「言論の場」 を提供するメディアを必要としていたのです。そこで、 以下メディアにおける言論に注目して言論・表現の自由について検討してみましょう。これまで、こうした社会的影響力の強い言論・表現というものは、 政府のような物理的な強制力をもった組織と、政府による言論・ 表現に対抗する覚悟もったその他の集団や個人との間で行われてきました。 政府が示す考え方に国民が統一されるべきとする市民革命期以前の統治のあり方から すれば、軍隊や警察を動員し、 また莫大な経済力をもって特定の考え方を強制してくる政府の手法について問題があ るとは考えられませんでした。このころ、国内最大のメディアは、たいていの場合、 王室に認められたアカデミーやサロンやその印刷所であり、 また国教を行う宗教組織や教育機関やその印刷所でした。それらは、 採算をあまり考慮せずに、望ましいとされる思想や表現を生み出し、 印刷して国内に流布させていました。しかし、議会制、 民主制といった多数の意見のなかから政策を選択する政治のあり方が採用されるよう になりますと、意見の優劣を純粋に議論によって決するために、 政府が振るう暴力や経済力を禁じる必要がでてきます。 「自らの才覚と資金でもって政府の考え方に対抗しようとする集団や個人の活動を、 議論以外の方法によって妨害してはならない」という原則が、古典的な意味での 「言論・表現の自由」です。 一方、宗教的・政治的意見の表明の道具として以上に、 広く教養や娯楽にまで用いられるほど技術的にも産業的にもメディアが成熟するよう になると、政府が独占的に制御してきた言論の場が、 政府以外の主体によっても制御されうるようになります。政府の支配から自由であり、 かつ独立した経済能力をもった「発言するメディア(≒ジャーナリズム)」は、 政府とは別個の言論の権力を保有する勢力として、議会制・ 民主制にとって必要不可欠な存在であったわけです。また それらメディアは、 市民の中から立ち上がってくる言論主体に言論の場を提供するという役目を担ってい ました。 しかし、それらは事業体であることから次のような問題を抱えています。 第一に 事業を規制する権限をもつ政府の介入を受けやすいこと、 第二に 経営面から他の資本の影響を受けやすいこと、第三に 商品としての言論・ 表現の市場動向に左右されやすいことです。とくに娯楽という要素を取り込んだ結果、 メディアは政府による言論に対抗するのみではなく、 社会の多数者の意見や興味を背景に、誤報や虚報を恥じることなく安易な報道を行い、 社会を煽り立てるような記事をばら撒き、 少数者や個人を攻撃することで商業的な利益を得ようとするまでになりました。 ここにおいて「政府からの言論・表現の自由」は、 メディアに免罪符を与える結果になってしまいます。 言論・表現の自由をめぐる事業規制のルールは、 いずれも上記の三点の問題から生じる弊害をいかに小さなものにするのかという工夫 から生み出されてきたものといえます。商業主義に支配されたメディアの時代には、 単に政府が言論や表現に関与しないというだけの消極的なアプローチでは、 政府と並ぶ権力主体となったメディアそのものが暴走しかねません。ゆえに、 ジャーナリズムにかかわる人々の倫理や矜持のみに頼るのではなく、 事業的側面を中心に政府による各種規制が正当化され、 市場における購買活動を通じて、 国民によるメディア産業への評価が行われることになるわけです [56]。 昨今の情報社会において生じている現象は、 メディア技術のよりいっそうの進化によって、 国家や事業体のような大きな組織を背景としない個人が、 メディア産業の助けを得ずとも、社会的に影響力のある言論・ 表現活動を行えるようになったことです。社会的に影響力のある言論は、 これまでメディアの力を借りなければ行えませんでした。そのメディアは、 言論の場の管理者として市民に対して責任を負い、 絶えず政府からの注視の下にありました。ゆえに、 個人の剥き出しの意見が社会に流布することはほとんどありえませんでした。 なんらかのメディアを経由することで、社会的言論に相応しい意見が選択され、 社会的言論に相応しい内容に整理されていたのです。これは、「制約なしの言論・ 表現の自由」という観点からすれば、一種の統制であることには違いありません。 しかしすでに述べたように、 社会に対して影響力を行使しうるメディアの伝達能力が希少な財であったことを考え れば、それが責任ある主体によって管理され、 意義のある言論のために使用されることで、 メディアによる伝達能力の効率的な配分が達成され、 言論の場は最大限に開放されえたのだともいえるでしょう。 ここで、コンピュータやネットワークの発達により、 誰もが自分のためのメディアを持つようになりますと、メディアは、 伝達能力の希少性ゆえに行使していた選択と整理という機能を果たせなくなります。 誰もが誰の統制もうけずに発言し表現できるという状態は、単純にみれば言論・ 表現の自由にとって理想的な状態です。しかし、どんな種類の表現(信号)であっても、 表現(信号)が増大すれば伝達される情報が増大するというものではありません。 シャノンの 「通信の数学的理論 [57]」では、 物事の起こりうる可能性として Z_1, Z_2, Z_3 ... Z_n が考えられるときに、 その起こりうる可能性(不確実性)を排除して、実際におこる物事を予測する 「確からしさ」を増すものが「情報」であると説明しました。この通信理論では、 伝送されている信号を撹乱し、かえって物事の起こりうる可能性(不確実性) を増加させてしまう信号を「ノイズ」であると説明しています。 このシャノンの情報理論のイメージを手がかりに考えてみますと、 メディアが個人に解放されて、誰もが剥き出しの意見を発表するようになる中で、 言論の場の機能がむしろ阻害されるような状況になる可能性があると思われます。 もちろん、言論や表現は、信号伝送のように何らかの一つの「正しい答」 に向かって収束する必要性はないわけですが。 情報を収集し、分析し、見解を練り上げるには、それに比例したコストがかかります。 ゆえに、それらの活動についてコストを埋め合わせる報酬がないならば、 そうした活動に着手する人の数はきわめて小さいことが予想されます。その一方で、 情報発信にかかるコストがほとんど零にまで低下すれば、 誰もが思いつきをそのまま発表することができることになります。 これまでメディアは、管理者として「誰に発言させるか」を制御することで、 また言論の場から得られる収益を十分に考察された見解に対して支払うことで、 言論の場を比較的良好な状態に維持してきたとみることもできました。しかし、 メディアの数が爆発的に増大し、またそれぞれのメディアが大量の伝達経路(channel) を保有するなかで、さらにはそれぞれの個人が自らのメディアを保有するなかで、 言論は誰にも管理しえない空間へと移行しつつあります。 その言論の場に投げ出される膨大な量の剥き出しの意見の嵐の中では、 十分に考察され吟味された意見の存在は霞んで消えてしまいがちです。 これが情報時代において言論・ 表現の自由を実質的に妨げる状況であると私は考えます。すなわち、 政府やメディア産業が権力的に私たちの言論を制約すること以上に、 メディアを保有したそれぞれの個人が言論・表現の自由を行使する結果として、 かえって言論や表現の効果が制約されるような状況が発生するのではないかと考えて いるのです。 言論・表現の自由を実質的に維持するという問題は、かつてのような「国家権力」と 「市民的自由」の対立という図式では描けなくなります。誰もが言論・ 表現という権力を自由に行使する時代において、私たちの言論・ 表現の自由を脅かすのは、私たち自身ということになると考えられます。 経済学的な言い方をすれば、「言論の場」 への参加コストが限りなく零に近づいた結果、「言論の場」 という社会的な共有資源について 「共有地の悲劇 [58]」 が発生しうるのだといえばよいでしょうか。
5.2 言論・表現の自由の指導原理とはでは、誰がどのように言論の場を保全・管理すべきでしょうか。これまでの言論・ 表現を取りまく歴史を振り返れば、政府が直接的に言論の場を保全・ 管理することは容認されえないでしょう。それでは、メディア産業でしょうか。 いいえ。少なくとも言論・表現の自由の歴史は、 何者かによる言論の場の制御を排除する方向に進んできたはずです。逆にいえば、 これまでは言論の場を実質的に制御している「何者か」が存在していたため、この 「何者か」に対抗することのみを目標としていれば言論・ 表現の自由は前進しえました。ゆえに、「何者も管理し得ない言論の場」 がネットワークの中に立ち現れてくる中で、どのような方法で実質的な「言論・ 表現の自由」を前進させるのか、私たちは その方法論を検討したことがないのです。ここで原則に立ち返ってみましょう。議会制・ 民主制という政治体制が採用されたため、言論・ 表現の自由は憲法の中でも強固に保障される地位を得ました。言論・ 表現の自由の目的は、第一に政治的対話の促進による政治的な善(正義) の促進であることには間違いありません。そのもっとも近い周辺には、 学問的な真実を追究する学問の自由が、芸術的な美を追求する表現の自由が並びます。 かつては、その資格をもつ社会のなかの一部の人たちのみが真・善・ 美の追求を行うものとされていました。しかし、それらの人々が導き出す真・善・ 美は、 結局のところその一部の人たちに奉仕するものにしかなり得なかったというのが、 これまでの歴史の示す結果でした。そこで、一部の人々にのみ開かれていた 「善の追求、真の追究、美の追求」 をあらゆる市民が参加する共同的な作業の中で行い、 可能な限り多様な観点からそれらの価値の究極的な実現を図るというのが近代的自由 主義国家の理念的な形であるといえるでしょう。このためには、 より多くの人々が対話に参加し、たくさんの見解や意見が表明され、 それらが言論の場において公平に判断され選択されることが必要になります。逆に、 人々の対話への参加を困難にしたり、見解や意見の表明を阻害したり、 判断に歪みをもたらすような種類の言論は、それらがたとえ言論・ 表現という形を取っていたとしても「ノイズ」 にしかなりえないということになります。 もちろん、どの発言が真・善・美の追求に向けられたものか、 あるいは単なるノイズに過ぎないのかを判断することも、 また一種の価値判断になりますので、あらかじめどのような言論を行うべきか、 という枠を作ることはできません。しかし、 前節で説明してきた憲法の保護を受けられない種類の言論や、 あるいは弱い保護しか受けられない種類の言論を再検討してみれば、 それらが一般的に真・善・美への対話を妨害する種類ものであることがわかります。 猥褻表現 まず、猥褻表現についてです。「なぜ猥褻表現が禁じられるか」という問題に対して、 その表現内容からでは明確な理由が導けません。なぜなら、 猥褻表現の対象となっている猥褻であるとされるものは、私たちの身体の一部であり、 猥褻行為であるとされる行為は、 私たちが生物として当然に行うだろう生殖行為に付随する行為であるからです。また、 それらについては、一定の年齢に達した成人であれば、 相手の合意のもと実体験において知っていること、 または知りうることに違いないからです。 しかし、これが言論・表現として社会的言論の中に位置付けられた場合には、 その効果が変わってきます。私たちにとって、猥褻な事柄は、 誰もが知っていることでありながら、本来的に強い興味を引くものです。ゆえに、 とくに憲法的に保護を与えなくても、もっとも一般的な話題の一つとして、 あるいは娯楽的話題として根強く残っていくことは間違いありません。放っておけば、 逆に社会の主要な話題の一つになることすら考えられます。ここで、 社会的な言論の場あるいは情報の伝達能力に制約があるという条件を前提としますと、 法律によって猥褻表現を禁圧することで、 その他の種類の表現に対してより多くの資源割り当てを行っていた、 と見ることができるのではないでしょうか。 実際には、猥褻表現の取り締まりの理由は、もっぱら「善良の風俗を維持するため」 とされてきました。しかし、価値観が多様化する中で「善良」 とは何かが定義できない時代に至り、 猥褻表現取締りについて根拠が薄弱となってきます。ここで私は、 猥褻表現取締りの根拠を、 誰もが知っているありきたりの事柄であるにもかかわらず、 あまりにも人々の興味を強くかきたてすぎる というところに求めます。 資源としての言論の場や伝送能力という観点からは、 猥褻情報は強力なノイズになりうると考えるのです。また、 世の中には猥褻表現を好まない人もいるでしょうし、 まじめな議論の中に性的な話題が混じることを好まない人もいるでしょう。 そうした人たちにとっては、猥褻それ自体がノイズであると言うこともできます。 上記の私の見方は、猥褻表現を定義する条件である 「そのときの社会の基準に照らして、平均的な人が、 その表現を見た場合に全体として好色的な興味に訴えるか」 「性行為を明らかに不快なしかたで描写しているか」 「その表現が全体としてみて、文学的、芸術的、政治的、科学的 価値をまったく欠いているか」という条件にもうまく適合すると考えます。 その他の規制対象となる表現 対話や議論の対極にあるのは、拒絶や暴力であるといえるでしょう。 規制対象とされる表現である挑発的表現や憎悪的表現は、 いずれも対話や議論を破壊する表現であるといえます。挑発的表現は 「暴力的な反応を引き起こす」表現であるとされています。すなわち挑発的表現は、 対話を停止させ暴力的関係を発生させ、ひいては将来の対話までも阻害する 危険性の高い表現であるということができます。また、憎悪的表現は 「特定の個人や集団について、その他の人々の嫌悪感や憎悪をかきたてる」 表現であるとされています。すなわち、憎悪的表現は、 ある個人や集団を言論の場から排除することを目的とした 表現であるということができます。いずれも、言論の場を殺伐とさせ、 対話への参加を躊躇させ、対話参加者に断絶をもたらし、多様な意見の存在を否定し、 言論の場を破壊することを狙った表現であるということができます。 名誉毀損 (プライバシー) アメリカの名誉毀損の法理においては、「私人・公人・公務員」 によって名誉が保護される程度が変わることをすでに説明しました。また、 公的な言論の場に自ら参加したか、 あるいは巻き込まれると私人としての扱いから公人としての扱いへと変わるというこ とも説明しました。逆にいえば 私人とは公的な議論とは一切関係のない領域にいる人 のことを指すわけです。 言論の場において議論の内容とは無関係な私人をあげつらったり、 その人の個人的な生活について語ることは、まさにノイズに他なりません。また、 議論において、その議論の内容とは無関係な個人的事情で相手を攻撃することは、 議論を本質的問題から逸らすノイズであるということができます。 一方、言論の場において議論の目的となるような人物、 すなわち公人や公務員については、 それらの人物について対話を行う人々の側が かなりの程度つよく法的に保護されて いる様子がうかがわれるかと思います。 もし やみくもに名誉やプライバシーの保護を強化するばかりですと、私たちは、 ある特定の人物について語ることができなくなってしまいます。 社会的に意義のある議論において特定の人物を掲げることができないという事態が対 話にどれほど大きな制約になるかは、言うまでもないでしょう。 営利的表現 営利的表現は、 もっぱら商品やサービスを購入するよう呼びかける広告の形をとります。それらは、 事業を営む人の利益を目的として行われます。ゆえに、 営利的表現が利益に結びつく限り、その表現の内容や量は過剰になる傾向をもちます。 先ほどの猥褻表現とおなじく、放っておけば 営利的表現は、 言論の場や伝送能力を広告であふれさせ宣伝文句で埋め尽くしてしまう危険性がある のです。これらはまさに対話にとってノイズ以外のなにものでもありません。 ゆえに、それらについては、強力な憲法の保護を与えず、 法律による一定の制約を置くことが要求されるのです。 近年、電子メールや電子掲示板が、人々の重要な対話のメディアとなっています。 「スパム [59]」 と呼ばれる不要で邪魔なだけの電子メールがネットワークの伝送能力の半分近くを消 費し、「荒し [60]」 とよばれる電子掲示板での人々の対話を妨害するような書き込みが溢れるなかで、 こうした「スパム」や「荒し行為」 を法律によって抑制しようとする動きが現れるのは当然のことです。
以上のように、憲法によって保護されない種類の言論・表現とは、いずれも 社会において実現されるべき真・善・美に関する内容をまったく含まず、かつ真・善・ 美に向けられた対話を具体的に阻害する種類の言論・表現であるといえます。 付け加えれば、「補論」で述べた通信・放送事業に対する各種施策や規制もまた、 国内における情報伝達環境を整備し、 設備やサービスの面から国内における人々の対話を促進するものであるといえますし、 また各種規制によって、通信・ 放送事業者が公平で自由であるべき言論の場を 支配できないような仕組みを導入し ているのだといえるでしょう。
5.3 情報の津波各種情報機器が発達し、メディアの多様化と大衆化が進む中で、 言論の場や伝達能力の希少性は大幅に緩和されました。 電話料金や通信料金は大幅に安くなりました。 それまで数チャンネルしかなかったTV放送も、 CATVやBSと契約しさえすれば数百チャンネルから番組を選択することができます。 書籍出版数も増大しました。書店の書棚は本で溢れかえり、 大量の書籍が廃棄処分されているような状況です。総務省が発表する「通信白書」 においても、私たちの受発信する情報の量は年を追うごとに増大しています。 こうしたなか、社会における言論の場や伝送能力が稀少であることを理由として、 一定の言論を制限したり 何らかの規制を置く根拠が失われつつあります。たとえば、 それまで電波帯域の希少性を理由に公平原則のような内容に関する厳しい規制が設け られていた放送事業においても、 多チャンネル化をうけて特定の立場や特定の内容に特化した放送が認められるように なりました。また、厳しい事業規制の下に置かれていた通信事業も、 民間事業者の導入や、同一地域における複数事業者の認可、 あるいは許認可制から届出制への手続の簡素化などがすすめられています。そうであるならば、 猥褻表現や営利的表現への抑制もまた根拠を失いつつあると見ることができます。 事実、そうした傾向がみられます。性的な内容を含んだ言論・ 表現がここ20年ほどの間に著しく増大していることや、 広告やマーケティングの手法の洗練によって通常の言論と商業的言論の区別が困難に なるほど一体化が進んでいることは明らかです [61]。一方、 メディアの数や伝達能力が増大したことで、 それら一つ一つへの社会的な統制 [62]が困難になるなか、 挑発的表現や憎悪的表現の抑制、名誉・ プライバシーの保護への法的な対処がますます求められる状況にいたっています。 しかし、それら問題を含む言論・ 表現が憲法が与える保護の境界上にあると見られる限り、 それらの言論を法的に停止させることは大変困難なのです。 言論の場が増えメディアの伝達能力が増大したから、 猥褻表現や営利的表現への規制を緩和をしてよいのだ、 と私たちは速断してはなりません。 私たち自身の情報受容能力が増大していないことがその理由です。私たちは、 同時に二つのテレビ番組を見る事はできませんし、 二冊の本をいっぺんに読む能力を持ちません [63]。また私たちは、 1日24時間をすべてメディアからの情報受容に当てるわけにはいきません。 事業として行われる情報発信に加え、 私たち一人一人が自分のためのメディアを持つような現状において、 情報は洪水どころか津波のように私たちに押し寄せています。それらの情報は、 ある観点から見れば有用な情報かもしれませんが、憲法が想定し、 促進しようとしていた「社会的な真・善・美の追求」 という観点から見ればノイズといえるようなものが大部分を占めるという状況になっ ています。 商業的で快楽を中心に据えた情報の津波に私たちの情報受容能力が消費されていくな かで、私たちは 政治的・学問的・芸術的対話を喪失しつつあります。 「より多くの視点」「より多くの言論」を憲法が保障し、促進するだけでは、 憲法が実現しようとしていた価値を保持することができなくなっているのです。 情報時代においては、政府や巨大メディアからの不干渉を内容とする言論・ 表現の自由を声高に叫ぶだけでは、 結果的に民主主義の土台となるべき社会的対話を失ってしまいます。しかし、 国家や政府がメディアを統制することは、 より悪い結果を導く危険性が高いことはこれまでの歴史において証明されています。 経済活動に基盤をおく巨大メディアに対して、 必ずしも営利に結びつかない社会的言論を促進するよう期待することもまた、 あまり現実的ではありません。どうすれば良いのでしょうか。 今の私に思いつく手法としては、「教育」しかありません。 コンピュータやネットワークは、これまでの言論・ 表現に関する問題の所在を逆転してしまったような、 まったく新しい言論状況を私たちにもたらしました。しかし私たちは、 まだそれらの言論状況に相応しい「ふるまい」について訓練を受けていません。 これを一般教育の課程に組み入れ、議会制・民主制を維持しうる言論・ 表現状況へ誘導するところまでは、おそらく政府の仕事でしょう。仮にそれが言論・ 表現の自由に対する政府の干渉であると批判されるとしても、あくまでも 「対話の作法」に関する教育にとどまる限り、 表現内容中立規制であると判断しえます。そうであるならば、それは、「社会的な真・ 善・美の追求を通じた、自由主義的・民主的政治体制の維持」という 「重要な政府の利益を実現するもの」ですから、憲法的にも容認されるでしょう。 そして具体的な課題は、「その目的を実現するために実質的かつ合理的」 な教育内容とはどのようなものであるのかという検討であろうと考えます。
6 おわりに本論をいったんここで終えたいと思います。 問題点を指摘するばかりで具体的な解決策を示さないのは一種の怠慢だと私自身は思 うのですが、「情報時代における言論・表現の自由」 を維持するための教育内容に検討したり、 あるいは教育に代わるもっと合理的でより言論・ 表現の自由を制約しない方法について考察・検討するのは、 私の専門とする仕事の範囲を超えることになるでしょう。 本論では、まず「言論・表現の自由」は、 国民の政治的対話を基本として成立する議会制・ 民主制国家を維持するために必然的な前提であること、またそれは、 強大な力をもって、 ある考え方を強制しがちな政府から私たちの自由な発想や議論を保護するために憲法 に組みいれられたということを説明しました。 続いて、言論・表現の自由にかんして議論するさいに、 ぜひ押さえておかなければならない各種法理について説明しました。 そこで提示された法理は、 民主主義国家において望ましい言論の場とはいかなるものか、 いかにしてその言論の場を維持するのか という問題をめぐる長い期間を費やした政 府とメディアと市民との論戦から導かれた精髄であるということができるでしょう。 さらに、通信・放送メディアに対する様々な法的規制の根拠について、 それらメディアの技術的、経済的、歴史的背景から説明をしました。 それらへの法的規制は、メディアが事業として成り立ち、 できる限り私たちの自由な言論に奉仕できるように慎重に設計されたものであること が示せたかと思います。 情報時代に至り、「言論・表現の自由」をめぐるこれまでの歴史的・ 経験的蓄積を一変させてしまうような情報環境が現われつつあると私は考えます。 私はそれを「情報(ノイズ)の津波」であると指摘しました。情報が溢れかえり、 政治的対話を見失わせてしまうような状況のなか、単に「言論・表現の自由」 と唱えるばかりでは、 結果的に民主主義の根幹を揺るがしかねない状況に至るのではないかと懸念します。 法の根拠を導いてきた背景的事情が変化してしまうなら、 法もまた変わっていくでしょう。本論での整理と指摘が、 情報時代の法をめぐるみなさんの政治的・ 学問的対話のために役立つことを願っています。
Note
|
白田 秀彰 (Shirata Hideaki) 法政大学 社会学部 助教授 (Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences) 法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450) e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp |