Abstract本論は、「情報倫理」に関する基本的考察を行い、現在いわれている「情報倫理」に関する基本的問題点を指摘するものである。その結論はいわゆる「情報倫理」が、「倫理」を語るほど成熟していないこと、「倫理」に関する検討に必要な前段階の研究から取り組まざるえないことを指摘する。
1 コンピュータ・ネットワーク表題を分解すれば「コンピュータ・ネットワーク」「自由」「倫理」に分けることができる。「コンピュータ・ネットワーク」という語を用いたのは、この語よりも対象が限定されているか、あるいは何らかの追加的意味を含んでいると考えられる「インターネット」や「サイバースペース」という語を使いたくなかったからだ。ここでは、さしあたり最広義での「コンピュータ・ネットワーク」を想定されたい。
2 ネットワークにおける自由次に「コンピュータ・ネットワークにおける自由」と「コンピュータ・ネットワークにおける倫理」が検討されるべき内容となる。いうまでもなく「自由 (libertas)」という語も、「倫理 (ethica)」という語も、さまざまな文脈において多様な意味を持っている。哲学史の本を読めば、さまざまな種類の「自由」や「倫理」が存在することがすぐにわかる [1]。 それでも「自由」という言葉についての定義は、比較的に明確かもしれない。ある主体が何らかの目的をもち行為し、妨げられることなく意図した通りの結果を得られるとき、自由であるといえるだろう。目的や行為について、それ自体に制約があると考える立場もあるが、その内在的制約についても自由を「妨げるもの」であると考えれば、「自由」はそれを「妨げるもの」について検討していけば、具体的な内容が明らかになっていくと考えられる [2]。 「コンピュータ・ネットワークにおける自由」を妨げるものとしては、物理的なもの、技能的なもの、制度的なもの、法的なもの等が考えられる。コンピュータ・ネットワークへの参加には、そのための物理的な手段が必要である。加えて、ネットワークにおいて自由に活動するためには、現実社会におけるのとは異なった種類の技能が必要になる。また、ネットワークが運営される上では、プロトコルといった技術的制度から、その運営のルールにいたるまでの制度が存在する。そして、様々な様態での法的制約が存在する、と考えるわけである。 物理的制約については、技術の改良・進歩が次第にその制約を緩和する方向に進んでいる [3]。この技術の改良・進歩については、一般的に自由を増大するものとみることができる。また、ある視点からその善悪について判断をすることが可能だろう [4]。 技能的制約については、個々の利用者の知識と技能に依存している。技能が乏しいために存在する制約は、不利益が本人のみに影響する場合、その人個人の問題となる。しかし、ネットワークでは、利用者が「知らないがゆえ」「能力が不足しているがゆえ」に引き起こす問題や紛争があることを考えれば、技能的制約は、本人にとっても他者にとっても自由を制約する要因の一つであるといえる [5]。 制度的制約については、次の法的制約との区別を次のように設定しておきたい。すなわち、それを受け入れない場合、ネットワークへの参加が不可能となる種類の制度、たとえば各種の手順・手続を指す。これには接続手順のような物理的・技能的なレベルのものから、ニューズ・グループ設置のための手続のような社会的レベルのものまでを含む [6]。 法的制約については、先の三つの制約から逃れていながら、なお、特定の行為を禁じるものである。その中には権力による強制を伴う法律による禁止から、望ましいものとして提示されている行為規範にすぎないものまでを含む [7]。
3 二つの「倫理」続いて「倫理」について検討する。この「倫理」の特徴として主体的・内発的であること、すなわち外部からの強制を伴わないことが強調される。また実際には外部から与えられた「倫理」についても権力による強制を伴わないという意味で主体性を認められるだろう [8]。こうした「倫理」の性質のために、法律による強制を行うと法律体系全体との調整や整合に問題が生じる種類の規範の奨励を目的として、濫用される傾向がある [9]。 法律を制定して強制するためには、その法律の目的や効果、および副作用についての厳密な検討が要求されるが、こうした法律化へのテストには、時間がかかり、また法的制約のなかには、目的や効果について具体的に説明できないものがあることもまた事実である。こうした場合、法律に準ずる規範として「倫理」が用いられる。しかし、この用法での「倫理」は本来の意味での「倫理」の語義からすれば適切ではない。日本語においては「倫理」と「道徳」の区別が明確ではないが、あえて言えば、この種類の「倫理」はむしろ「道徳」「行為規範」として把握されるべきもので、「みんなとなかよくしよう」「きまりをまもりましょう」というレベルで語られているものである [10]。 また、こうした日常的倫理には、その倫理の示す規範に従っていれば、いかなる情況においても他者からの批判を受けない、あるいは称賛を受け得るという意味での「望ましい」行為類型として提示されていることもある。これについては二つの問題点がある。一つは、この種の倫理は一般的、普遍的な「善 (bonum)」に関する社会的合意を基礎にしていること、もう一つは、この種類の倫理が「礼儀 (honestas)」と近い意味での行為主体の積極性を要求することである。本稿で検討しようとしている「ネットワークにおける倫理」については、一般的な「善」の概念が成立しているかどうか、はっきりしていないという問題がある。また、倫理的判断が問題となる場面では、しばしば複数の異なる水準の規範が対立しているが、こうした場合に「礼儀」的な積極的規範は、どれだけの拘束力を持ち得るのかが問題となる。 これらのレベルでの命題については、一般的・包括的・常識的なもので、あえて「コンピュータ・ネットワークにおける倫理」として取り上げるまでもなく、日常生活における「行為規範」がたまたまネットワークにおける行為規範として繰り返されているに過ぎない。ただ、このレベルで日常生活の行為規範が繰り返される意義としては、ネットワークにおける行為が日常生活の行為と同じ制約原理のもとにあることを示していることにあると思われる。しばしば見られる「オフラインで違法なものは、オンラインでも違法」[11] という命題と同じ考え方の上にあるといえる。すなわち、現実社会における行為規範のネットワークへの類推適用が有効であることを主張しているわけである。この考え方には、利用者がネットワークにおける活動に不慣れで、問題解決能力が乏しい段階においては、明確な行為規範を設定しうるという利点がある。 しかし、こうした倫理には、現実社会における諸規範が成立した原因・理由がそのままネットワークにおいても成立しているのか、といったような検証が十分になされていないように思われる。さまざまな社会に異なった行為規範が存在する理由は、その行為規範が生じた前提条件が異なるからである。とすれば、ネットワークにおいて叫ばれている「倫理」についても社会学的視点からの理由説明が要求されると考える。 地理的あるいは情報的に近接している人間から形成される集団には、説明不可能あるいは説明不要な慣習について暗黙の一般的合意が形成されることが多い。しかし、本論で問題としているコンピュータ・ネットワークにおいては、現実社会において異なった社会集団、たとえば異なった国家に属している人々が交流するわけである。そうであるならば、ある規範に関する説明可能性がなければ、それを他の人に対して説得して当該規範に参加させることが不可能だろうからである。ネットワークにおける倫理について語るとき「国際的調和」がしばしば強調されるが、この国際的調和の条件として、規範の背景に関する説明可能性が必要であると考えるのである [12]。 あるいは、こうした社会学的視点からの理由説明が十分に行えないがゆえに、もしくは、法律として必要とされる強制力が有効でないがゆえに、本来なら法律として強制されるべき規範が「倫理」という未熟な形態を取っているのかもしれない。そうであるならば、倫理の前提としている情況に関する研究が進めば、現在「ネットワークにおける倫理」として掲げられている規範のいくらかの部分については、法律化され、また別の部分については、誤った規範であるとして否定されるかもしれない。 一方、語義としてより厳密な「倫理」は内面的・自発的かつ法律の上位に位置する規範である。「法律は最低の倫理」といわれるときに示されている倫理である。社会において一般的とされる倫理が存在するとき、倫理は法律の指導原理にもなる。法律が完全なものでないことを前提とすれば、法がその一般倫理に反する場面も存在するだろう [13]。こうしたとき、ある個人における倫理的態度とは、敢えて法に反して、法の罰を甘んじて受けるという結果になることが多い。こうした文脈における倫理は、先に示された「行為規範」あるいは「強制力なき法」としての倫理とは、まったく異なっている。先の倫理が、不活発な判断能力のために一定の既製の規範を提供して、当人の責任を軽減するものであるのに対して、後者の倫理は、自らの行為に関する真剣な判断と責任負担を要求するものである [14]。 社会秩序をより迅速かつ簡便に維持するという点では、「行為規範」の宣伝もまた重要であり、専門家がこうした「倫理綱領」を作成して社会に周知することも重要だろう。しかし、専門家が作成する「倫理綱領」がいつまでもその説明責任を曖昧にしたままでよいとは考えられない。すなわち、「倫理綱領」の法律化の作業を行わなければならない。そしてこの法律化の作業のためには、その指導原理である後者の倫理についての検討が避けられない。
4 ネットワークにおける倫理それでは、ネットワークには、現実社会で提示された倫理と異なる独自の「倫理」が存在しうるのだろうか。この作業は現実社会における倫理哲学の研究と同じく、結論を得難い問題であるとも考えられるが、筆者の管見の限りで方向性について検討してみたい [15]。 倫理哲学の歴史をみると、倫理が成立する場面には三つの異なった状態が存在するようである [16]。すなわち、第一に、社会的合意としての「善」の概念が確立しており、この「善」の実現のために要求される行為の体系として「行為規範」が存在する場合、第二に、社会における身分的、職業的役割が確立しており、それぞれの社会的役割毎に要求される「美徳 (virtus)」あるいは「職業倫理」がその社会的役割から当然に導き出しうる場合、第三に、社会的合意としての「善」も、社会における役割も存在せず、ただ存在する人間としての「行為規範」が探求される場合、である。行為規範としての倫理の拘束力は、第一、第二、第三の順番に弱くなり、当然、その倫理の正当化のための理論の複雑さもまた、この順番に増大する。 これらの類型は歴史上の社会変化に応じて登場したものであるが、ある社会に存在する倫理規範の内容を分析する上でも基準となりうる。すなわち、ある社会において合意された「善」の概念があれば、その実現のための行為は、その「善」の内容から導き出すことができる。しかも、この行為規範はもっとも強固な基礎に立っていることになる。次に、ある社会において明確な集団として分類することができる役割が存在するならば、その役割の内容から一定の行為規範を導き出すことができる。そして、最後にもっとも困難なものが第三の類型であるが、実はこの類型は、その性質上、現実社会でのものと、ネットワーク上でのものと、区別することを許さない倫理なのである。したがって、ネットワークにおける倫理を考察する限りでは、第一、第二類型のみを検討すれば良いことになる。 まず、第一類型の倫理について検討する。一般的な「善」の概念の解明は、長い倫理哲学の歴史においてもまだ為し得ていない。ここでは「ネットワークにおける善」について検討する。 そもそも「善」の概念を基礎にした倫理が古代ギリシャにおいて成立していたということ、また、そこにおいては、「善」とはポリス的市民としての成功と富裕を意味していたことを基礎にして考えると、「ネットワークにおける善」には、先に述べた「ネットワークにおける自由」が包含されていると考えられる。というのは、「ある主体が何らかの目的をもち行為し、妨げられることなく意図した通りの結果を得られる」能力の基礎のうえに、ネットワーク上での成功と富裕が実現可能なのであるし、また同時に、その主体が行うネットワーク上での行為について倫理的責任および非難可能性が生じるからである。初心者がコンピュータの誤操作によって他人に迷惑を掛ける場面が多く見られるが、彼らの誤操作の責任は、彼自身の倫理性というよりは、彼の「無知」にあると考えるのが適切だろうと考えるからである。ただし「無知」それ自体もまた非難の対象となりうることは言うまでもない [17]。 このように考えれば、すくなくとも「ネットワークにおける自由」を実現する行為の集合、たとえば、自らが占有するコンピュータ資源を最適化して物理的制約を緩和する行為や、より効率的なコンピュータ操作のための技術およびプログラム言語を習得する行為や、ネットワーク運営に関する手続について学び円滑な運用に寄与する行為は、倫理的行為であるということができる [18]。逆にみれば、いつまでも初心者の段階に止まって良しとする態度、自分の無知を理由として責任を他者に転嫁する態度は、非倫理的であるということができよう。すべての人が達人になることを期待することは困難であるが、それぞれの能力に応じて、他人に迷惑を掛けない程度の技能と知識を備えることは、「ネットワークにおける倫理」の最も基本的な要件であると考える。 当然「ネットワークにおける自由」に含まれない種類の「ネットワークにおける善」が存在しうる。その内容と性質の解明は、困難な作業であるが、「ネットワークにおける自由」において「すべての人が達人になることを期待することが困難である」という前提から考えれば、その一つの要素として「他者の行為に対する寛容」が挙げられるだろう。ネットワークには多様な技術水準の利用者が存在していることを考えれば、ネットワークにおいて過剰な紛争と対立を避けるためには、どうしても技術水準の高い利用者の側に「寛容の精神」が要求される。すなわち、ある人が引き起こしたトラブルの内容が「無知」に由来するものであれば、その人については非難可能性がないわけであるから、知識を与えて善導しなければならないことになる [19]。 また利用者それぞれが、ネットワークにおける制度や手続について熟知し、協調的なネットワーク運営に寄与することが望まれるかもしれない。というのは、文化的・規範的価値に中立な、制度および手続についての合意があってこそ、共通の文化的基盤を持たない他者との交流が可能となり、その上にこそ、ネットワークにおける一般的「善」の概念の形成が可能になるからである。この論点は、ネットワークにおいて強く擁護されている「民主的運営」と同趣旨と把握されるかもしれないが、ここでの「協調的」とは、政治的色合いを持たない、規約(protocol)の遵守という意味合いで把握されたい。 続いて、第二類型の倫理について検討する。第二類型の検討に入るためには、まずネットワークにおける社会的役割、あるいは職業的役割が形成されているかどうかを検討しなければならない。 まず明らかに形成されている集団として、職能集団が存在する。正確な分類とは言えないかもしれないが、プログラム開発に従事する集団、ネットワークの管理に従事する集団が存在している。これらの集団については、既に「倫理綱領」が示されている場合もあるし、またその職業の目的と役割について考えるならば、そこからその職業上の「徳」を導くことはたやすいだろう。当然、職業集団に属する人間の倫理は、その職業上の「徳」を貫くことである [20]。また、高度技能者として「ネットワークにおける自由」を増進すること、いっそうの「寛容の精神」が要求されることは言うまでもない。 問題は、職業上の「徳」が集団の外に存在する規範と衝突する場合の扱いである [21]。歴史的にみれば、それは職能集団とそれを取り巻く社会との力関係で決まっていたというほかない。たとえば、ギルドが社会の構成単位として強力な支配力を持っていた中世においては、ギルドの構成員について、普通法の適用に先んじてギルドの規約が適用された。逆に、ギルドの枠外で犯罪を犯した構成員がギルドによって保護されるという場面も存在していたようである。 近代国家の成立とともに、国家はあらゆる社会集団を越えて支配力を及ぼすとされているが、現在のところ国家を運営している諸集団がネットワークにおいても十分な統治能力をもっているとは言えないようである。近代国家は、分散した中世の権力構造を整理して、一元的に国家のもとに置くことで効率的な統治形態を作り出したが、この統治形態がネットワークにそのまま適用可能であるかどうかについては、多くの疑問が提示されている。一方、国家の側でもネットワークをその支配下に置こうとする様々な努力を続けている。いかなる統治形態がネットワークにおいて最も適切なものであるかは大変困難な問題である [22]。とりあえず、ネットワークに独自の社会構造と規範が存在することを前提とする本論においては、現実社会における規範のすべてがそのままネットワークにおいても有効である、とする態度については疑問があると指摘するに止める。 さて、難しいのが、こうした職能集団に含まれていない利用者の類型化である。ネットワーク上の人々には、いくつかの類型が存在しているらしいことが~しばしば指摘される。しかし、それらの類型が集団として分類可能なのであるか、また、その集団としての行為規範が存在しているのか、またし得るのかについての検討は為されていない。今後の研究に期待せざるえない。なお、付言すれば、ネットワークには、ハッカーあるいはクラッカーと呼称される反社会的集団が存在すると、しばしば強調される。多くの人々がそれらの集団を糾弾している割には、それについての、きちんとした社会学的研究がされていないようである [23]。 このように、職能集団に含まれない利用者を集団として把握できない以上、第二類型の倫理をそこから導出することは困難である。とすれば、ネットワーク利用者一般についての第三類型の倫理を適用せざるえない。すると、先の定義の通り、それは現実社会における日常の行為規範ということになってしまうわけである。このように考えれば、いま提示されている「情報倫理」が日常の行為規範を繰り返すに止まっているのは、やむを得ないというほかない。ここに「情報倫理」の問題点があるわけである。
5 「情報倫理」を探求するために本論における考察で、現在の「情報倫理」に関する基本的な問題点とその克服への手法が明らかになった。ここで整理する。 第一類型の倫理について、「ネットワークにおける自由」および「寛容の精神」そして「協調的な運営への参加」が要素として存在していることが示された。その両者を実現するための方法としては、利用者それぞれが自分の能力に応じて、知識・技能を向上させるよう努力することが要求される。当然、「ネットワークにおける善」については、まだ多くの他の要素があると考えられる。着実な考察による「ネットワークにおける善」の探求が期待される。 第二類型の倫理について、職能集団毎の「徳」に関する考察と、外的規範との関係の考察が要求されることが示された。近代国家の論理を貫徹するならば、国家が示した規範が常に優越することになるが、ネットワークという場の性質を考える場合、この論理が常に「真」であるとばかりも言えないのでは、という疑問がある。ここで倫理哲学や法律学研究の前段階の研究としてのネットワーク社会学の充実が必要であることを強調したい。この領域の研究が進展すれば、職能集団の「徳」と外的規範との関係、およびネットワークにおける諸集団の性質と行為規範が明らかにされるだろう。 総括すれば、現在いわれている「情報倫理」は、まだ「倫理」を語るほど成熟していないといえよう。それは「ネットワークにおける行為指針」とすべきだろう。そして「情報倫理」を探求するならば、倫理の形而上学に取り組む前に、その前段階の研究から取り組むことが必要であると指摘したい。
Note
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白田 秀彰 (Shirata Hideaki) 法政大学 社会学部 助教授 (Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences) 法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450) e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp |