* ネット・ベンチャーにおける法的コスト *

白田 秀彰

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1 企業の存在意義

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私は、「情報法」という「流行り物」の領域を担当しているため、 しばしば商売っ気のある学生の不意の訪問を受ける。 この日も研究室のドアをノックする音がした 。

「こんにちは。先生、お時間いいですか?」

「もちろん。」

「僕たちは商学部の学生です。インターネットでオリジナルのTシャツを売るe- コマースサイトを運営してきました。安定的に注文が来るようになったので、 ちゃんとした会社にしようと考えています。でも本当に会社にすることを考えたら、 法律のこと等よくわからないので、相談にうかがったのです。」

やれやれ。法学部の先生だというと、 法律のことを何でも分かっていると思っている学生が多すぎる。 商法やら会社法やらについて素人の私になにを相談しようというのだろう。 だいたい君たちは「e-コマース」って言いたいだけなんじゃないのか?

「会社の設立について知りたいなら、会社法の先生のところに相談に行くべきだね。」

「いえいえ。僕たちは、 インターネットでビジネスする上での法律について知らないので、 先生のところに来たのです。」

ますますもって困る。そういうテーマについては、私が講義を聞きたいくらいだ。 しかし、この学生との対話を通じて、e- コマースが抱える法律上の問題について小一時間ほど考えてみるのも悪くない。

「ところで、君たちは、なんでe-コマースなの?」

「e-コマースなら、(1) これまでの商取引で必須だった店舗のようなコストのかかる設備が不要になり、 パソコン一台でもビジネスを始めることができます。また、(2) 世界につながったインターネットを活用することで、 商圏を地理的に制約されることなく、誰とでも24時間取引を進めることができます。 さらに、(3) 僕たちは美術大学の学生たちと提携して、彼らのデザインをデジタル・ データのまま提携先のTシャツ工場に転送して、製造を委託しています。(4) そのTシャツ工場では、生産は自動化されていて、 こちらの販売見込に合わせて柔軟に生産量を調整してくれます。(5) 僕たちは、 顧客からの注文を記録し、分析し、効率的に需要予測を立てています。(6) 出荷は、 宅配業者に在庫管理から商品発送までを委託しています。これらの取引プロセスは、 すべてインターネットを利用して電子的に進めています。こうした戦略をとることで、 優れたデザインのTシャツを安く顧客に届けているのです。」

「ふう。e-コマースの教科書をそのまま実現したような感じだな。 とはいえビジネスが成り立っているなら立派なものだ。」

「今のところ、顧客からの支払いは、 僕たちのグループの代表の銀行口座を使っています。しかし、 よりいっそうの取引上の信用を獲得するために、クレジット・ カードあるいは電子決済を用いたいと思っています。そこで、 会社組織にしたいと考えているのです。」

「なるほど。ところで、君たちは企業というものが何ゆえ存在するのか、 というようなことを考えたことがあるかい?」

「いいえ。」

「じゃ、そこから考えてみよう。経済学者であるコースは、取引において『不確実性』 が存在せず、仮に取引に何らの費用もかからないなら、 生産において全面的に市場における取引のみを用いても、 あるいは企業組織を用いても効率性の点で変わらないという。ところが、 世の中には不確実性が存在するため、実際には市場における取引には『取引コスト』 がかかる。たとえば、取引先を探すコスト、契約内容について交渉するコスト、 契約を守らせるコスト等だ。加えて、市場取引についての課税もコストとなる。一方、 企業組織もまた、規模が大きくなるにつれ、経営効率が低下していく。たとえば、 生産物を選定したり、生産量を決定したり、 販売先を発見したりといった意思決定に必要なコスト、 生産要素を維持管理するコストが増大するからだ。また、 企業組織に対する社会保険費・各種課税もコストだね。これらを『経営コスト』 と呼ぼう。コースは、市場に存在する取引コストよりも、 会社組織の経営コストの方が小さい限りにおいて、会社組織が存在しうるとした。 すなわち、 生産において会社組織が市場に対して常に有利だとは言えないことになる [1]。e-コマースは、 情報技術の導入によって可能になった事業形態だよね。 どういうコストが変動しただろう?」

「そうですね。市場における探索コスト、交渉コストが低下したといえます。」

「それらは、いずれも市場が優位を増す要素だね。 企業形態が優位になる要素はなんだろう?」

「まず、設備コストが劇的に下がりました。意思決定に必要な情報コスト、 管理コストも低下したといえるでしょう。」

「企業形態が有利になる要素については、怪しいな。 仮に情報技術が会社組織に必要なコストを低減させるなら、 以前に比べて会社組織の規模は大きくなるはず。ところが実際に起きているのは、 情報技術を用いた企業規模の縮小、分社化、外注化だよね。この事実からの仮説は、 (a) 会社組織における情報化投資というのは、 店舗や物理的な営業網に必要だった設備コストよりも高額なのではないかということ と、情報システムに必要な管理コストは、 それまでの人的管理のコストよりも高額なのではないかということだ。 もう一つの仮説は、(b) 市場取引のコストが劇的に低減した結果、 企業形態が比較的にコスト高になったというものだね。」

「僕たちは、 十数万円で PCサーバとネットワーク回線を準備してビジネスを始めました。また、 僕たちは数人の仲間でビジネスをしていますが、電子メールや掲示板、 携帯電話を活用して、とても効率よく意思決定に必要な情報を交換しています。 だから、先生の仮説は当たらないんじゃないでしょうか。」

「まず、市場と企業との間のコスト優位について考えてみよう。 コースによる企業の定義からすると、 君たちが企業を立ち上げることに正当性があるならば、市場を利用した取引よりも、 君たちの企業は何らかの点でコストを低減させる必要があるよね。」

「そういうことになります。」

「そこで、君たちのビジネスを見直してみると、君たちのビジネスは、 あらゆる意味で市場的なんだ。君たちのようなビジネス・ モデルが成立するということは、先の(b)の仮説を補強する事例なんだと思うよ。 よくよく考えてごらん、君たちがいなくても、 顧客と美大生とTシャツ工場が直接ネットワークで結合すれば同じことができないか な?」

「たしかに...」

「あえて言えば、君たちは、需要予測すなわちマーケティング機能と、 仲介機能によって取引コストを低減させているね。また、顧客に対しては、 取引全般に存在するリスクを引き受けているといえる。 これまで君たちが安定して収益を上げられていたのは、潜在しているリスク、 たとえば需要見込み違いによる不良在庫や、取引上のミスを原因とする損失、 代金処理の手違いから生じる損失が顕在化しなかったからだね。もし、 これまでの取引で、どこかでトラブルが起きていたら、 君たちは対処するだけの能力的・資金的裏付けはあったかな?」

「無かったと思います...」

「現状では、顧客も、美大生も、 Tシャツ工場もインターネットを使いこなして直接取引きをするだけの技能を備えて いないんだろう。だから、それらを結びつけた君たちは、 今のところまっとうなビジネスをしていると言える。でも、 情報ネットワークはどんどん使いやすくなっていく。そしたら、 みんな直接取引を始めるはずだよ。そのとき、 君たちが単にコンピュータやネットワークに詳しいだけなら、比較優位も、 仲介を行う正当性もなくなってしまうということになるね。もし、ビジネス・ モデル特許とか、美大生とか工場とかとの独占契約なんかを盾に、 顧客たちの直接取引を妨害するような状態になれば、君たちは、 本来存在しなかった取引コストを発生させてビジネスをしているという点で、 寄生的存在だと言われても仕方が無いことになる。」

「うむむ。僕たちは、起業すべきではないんでしょうか?」

「いやいや、いかなる場合においても、取引には何らかのコストが発生している。 時代ごとの市場の様子をよく観察して コストを縮減させる正しい意味での仕事とい うのは、なくならないものだよ。」

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2 法的コスト

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「それじゃ、逆にe-コマースにおいて、増加するコストってなんだろうか。 考えてみよう。」

「先ほどの取引コストの例のなかでは、 契約を守らせる監視コストが高くなりそうですね。あと、 先生がおっしゃってたように、経営の情報化に必要な設備コストや、 その設備の管理コストが高くなっている可能性がありますね。」

「それらのいずれも、共通の要素にかかわるんだけど、何だかわかるかい?」

「さあ。」

「法律だよ。契約を守らせるということは、法を遵守させるということだ。 取引に関連する法律が合理的に整備されており、 かつそれを強制する執行手段が整備されて、はじめて市場は有効に機能する。 そうした市場を円滑に運用するために必要なコストは、 全般的には取引コストと言えるんだけど、 とくに法を執行するために必要なコストのことを『市場における法的コスト』 と呼びうる。」

「設備コストや管理コストとの関連は?」

「これは、君たちが現在、元手十数万円でビジネスができているということと、 会社組織にした場合との違いについて考えればわかる。 今のところ君たちは学生の片手間ビジネスということで、 責任をあまり意識せずビジネスしてきたはずだ。 これまで大きなトラブルに巻き込まれなかったのは、運が良かったというほかない。 ところが会社組織にして、株主に出資してもらったり、 銀行から融資を受けるようになると話が違ってくる。 出資や融資してもらうということは、他人の財産を預かって運用することだからね。 当然、法の規定に則った経営を進めなければならない。 法令によって発生する会社経営上のコストを『経営における法的コスト』 と言いうるわけだ。」

「企業の抱えるリスクを分類して、(1)市場リスク、(2)信用リスク、(3) 流動性リスク、(4)決済リスク、(5)法的リスク、(6)会計・税務リスク、(7) オペレーション・リスク、(8)システム・リスク、(9) 人的リスクとする考え方があります。そのうち、(1)から(4) までが計算可能なリスクで、(5)から(9)が計算不可能なリスクだと教わりました。」

「通常、法的事項にかかわって発生する費用は『リスク』として把握されている。 企業が費用をどのようなものと考えているかは、 勘定科目でどう扱われているかをみればわかる。 顧問弁護士への報酬など経常的にかかる費用は、 営業費の一種である業務委託費として扱われているみたいだ。 簡単な事案について弁護士の法律相談をうけた場合の費用も、 やはり営業費の一種として雑費(一時損金)として処理することになっている。 ところが、訴訟に直面して弁護士に依頼する場合の費用は、 特別損失の科目のひとつである訴訟費用として扱われるらしい。また、 訴訟の見通しがよくなくて、将来損害賠償を支払う可能性が高い場合は、 損害補償損失引当金を計上しなければならないとしている。 これも特別損失の分類になる。裁判は、 自然災害と同じように予測不能かつ突発的に発生する費用として把握されているみた いだ。また、特許の取得等に掛かる費用は、 研究開発費の一部として扱われているらしい [2]。」

「普通、企業はリスクを平均化するため、保険を利用しますよね。」

「そう。通常の企業活動に伴って発生することが予測されるリスクについては、 保険商品が存在する場合が多い [3]。 そうした場合、 保険に加入することでリスクをコストとして計算可能なものにしているわけだ。 保険料は営業費の一種として扱われている。」

「リスクはコストに変換されうるわけですね。」

「さて、ここで『経営における隠れた法的コスト』というものを考えてみよう。 長くなるので『隠れ法的コスト』とでも呼ぼうか。この『隠れ法的コスト』 というのは、突発的な訴訟にかかる費用ではなく、法規定に沿って経営するために、 経営にかかる諸コストに追加的に発生するコストを総称したものとでも定義しよう。 たとえば、3万円以上の売上について領収書を発行するときに、 印紙を貼ることが法的に要請 [4] されている。これは、こうした法規が存在しなければ発生しなかったコストだよね。 でも、そうしたコストは、 営業費という項目のなかに含まれて処理されてしまっているため、 それが法的に発生しているコストだということが見えにくくなっているんだ。この 『見えにくくなっている』というところが大事な点だよ。」

「わかりました。それで、それと設備投資にかかる費用の増大との関係は?」

「それまで君たちは、信頼性の低い設備であっても、 問題なく経営してこれたわけだね。ところが、これが会社組織になろう、 しかも銀行から融資を受けよう、 さらにはより沢山の顧客との取引を行なおうというわけだ。たとえば一日、 10万アクセスがあり、そのうち10%が決済を伴う取引になり、 さらには君たちが24時間365日のサービス提供を掲げていたらどうなる?」

「嬉しすぎる仮定ですね(笑)。もう、僕たちが現在使用しているPCサーバーでは、 とても捌ききれません。データ・ センター [5] なんかと契約をむすぶ必要が出てきます。」

「24時間365日安定して稼動する設備にかかる費用というのがどのくらいかかるのか、 わからない。しかし、 99.9%以上の稼動を達成しようとするとかなりの設備費が必要になるだろう。すると、 取引においてそのように表示しておきながら、 実際にはそれが実現できなかった場合に負担する可能性のある法的リスクと、 設備費との間には、トレード・オフの関係があることになる。 法的リスクを減少させるために追加的に支払う設備費は、隠れ法的コストといえる。 さらに、 電子商取引にかかる法によって一定の苦情処理手続やそのための組織的対応が義務づ けられていたら、そのためのサポート・ センター [6] などを準備しなくてはならなくなる。 これも法律によって発生した追加的なコストだよね。」

「そうか。僕たちは、これまで法的リスクについて考えないまま営業してきてました。 ところがこれが会社化することで法的リスクに応じた『経営における法的コスト』 を考慮しなければならなくなる、というわけですね。でも、 会社化することによって発生するコストというのは、 これまでも存在していたわけです [7]。 とくにネットワークにおいて発生するコストというものは、 どんなものがあるんでしょうか。」

「それでは、次はe-コマースにおいて特に発生する法的コストについて考えてみよう。 ところでコーヒーでも飲むかい?」

「いただきます。」

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3 e-コマースと法的コスト

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「このコーヒー、ずいぶん甘い香りでまろやかですね。」

野辺山にある専門店からインターネットで注文して取り寄せているんだ。」

「まさにe-コマースですね。」

「まあ、単なる通信販売なんだけどね。さて、e- コマースなんていう言葉が流行りだした1995年あたりの市場の様子について考えてみ よう。そのころは『インターネットを利用した契約がそもそも有効かどうか』 なんていう議論もあったくらいで、e- コマース市場には信頼に足るような法的ルールは存在していなかった。 契約関係を基本としながら、 既存の民法や商法が通用するという想定で取引が進んでいたんだ。とはいえ、 実際トラブルが起こったとき、裁判においてどのように判断されるかなんて、 誰にもわからない状態だった。 市場における不確実性が高い状態であるわけだから...」

「当然、契約を遵守させるコストも高く、したがってe- コマース市場における法的コストは高かった、というわけですね。」

「そう。ところが、結構な数の人々がこの市場に参入し、それなりに活況を見せた。 なぜだろう。」

「既存の市場に比べて、設備コストが著しく低かったからじゃないですか? もうひとつは潜在的な商圏がとても広いと考えられたことでしょうか。」

「設備コストが低かったというのもどうだろう。実際には、e- コマースに乗り出した事業者たちは、先例のない状態から開始したので、 かなりの設備投資と研究開発費を投入したはずだよ。」

「e-コマース小売業のほとんどは、 赤字経営だったと言いますからね [8]。」

「やはり、コスト高でもネットワーク上でビジネスをやりたかった、という 『新し物好き』の精神があったんだろうね。リスク選好型の企業家、 いわゆるベンチャーだね。あるいは、 ルール無しの市場であるということをわざわざ好んでネットワーク上のビジネスに参 入したのだとすれば、既存市場への参入コストがよほど大きいんだろう。e- コマースの活況を喜ぶよりも、 現実世界における参入コストの大きさを嘆くべきかもしれない。」

「ちょっとシニカルですね。で、 ネットワーク上の市場における法的コストについて続けましょう。」

「ネットワーク上の市場では、取引の相手方の確定すなわち認証のコスト、 契約内容を強制するコストなどが著しく高くなる。これは、売り手、 買い手いずれの市場参加者にとっても不利に作用するコストだ。だから、 このころの市場には、 この高い市場コストというハードルを技能的に乗り越えた参加者か、 あるいはリスク選好的な参加者のみが参加していたといえるね。まさに『自己責任』 の市場だったわけだ 。ところが、こうした状況では、 一般的にリスク回避的である消費者が参加してこない。市場の拡大に限界がある。 そこで打ち出されたのが、法制度の整備によるインターネットのインフラ化だ。」

「ずいぶんたくさんの法改正や立法がされましたね。」

「目に付く法改正がリストになっているのがこれ [9]だよ。」

「こうしてみると、着実に市場整備は進んでいるようにみえます。」

「まだまだ不十分だという意見も多いので、これからも立法は続くと思うよ。 通常の商取引に関してはおおよそ整備されたようなので 、次は、知的財産権と個人情報の取り扱いが主たるテーマになりそうだね。 こうした法制度による市場整備は、まさに政府の仕事であり、 その仕事が生み出すコスト削減効果は、 市場全体を受益者とする望ましいものだといえる。とくに、 曖昧であった法を明確化することで、取引における予測可能性を高めることは、 より適切に市場が動作するための必要不可欠の条件だ。」

「ありがたいことですねぇ。」

「なにノホホンとしたことを言ってるんだい。市場全体として見て、法整備は、 これまで存在していた電子商取引における法的コストを確かに低減したよ。しかし、 もうひとつの要素を忘れてはいけない。それは、 法が整備されたとしても市場に本質的に存在する不確実性から発生するコストだ。 法制度とは独立に発生する『取引リスク』だと考えてもらってもいい。」

「法は、取引におけるリスク配分についても調整していますね。」

「そう。民法や商法の規定には、 取引から発生するリスクを誰がどのように負担すべきかのルールを含んだものがたく さんある。取引は複数の当事者が関与してするものである以上、 取引から発生したリスクをどのように配分するかは重要な問題だ。当然、 誰もリスクを負いたくないと考える。リスクを負担させられた側には、 それに伴ってコストが発生することになるからね。」

「なるほど。法整備が進むということは、 市場における法的安定性が増すことで市場における法的コストは低減しますが、逆に、 経営における法的コストは増加することになりがちということですね。」

「単純に『増加する』と言い切れるかどうか。 それまで不明確だったリスクがコストの形であるていど評価可能になったと考えるべ きかもしれない。ここで問題にしたいのは、法に基づいたリスク配分では、 不均衡に取引リスクが配分される点だよ。」

「法は衡平を旨とするんじゃなかったんですか?」

「法は政策の面もとても大きいんだよ。わかっていると思うけど、 現代の市場においては、『消費者 』は政策的に強力に保護されている。『消費者....法』 と名づけられている法規を見てみれば、 それらが不注意な消費者について政策的にリスクを軽減するものであることがわかる と思う。もちろん、こうした消費者のリスクを軽減することで、 よりたくさんの消費者が市場に参加してくれれば、企業の側にも利益になる面がある。 しかし一方、 法制度とは独立に発生する取引リスクを消費者の側について軽減しているということ は、それらの消費者保護関連法は、 事業者の側に取引リスクを転嫁していることを意味している。 消費者が責任を軽減された見かえりとして、 事業者が負担する経営における法的コストは増大していると言える。」

「うむむ。すると、新市場については、法制度の整備が進む前に進出すべき、 ということでしょうか。」

「これまた、そうばかりともいえない。まったくルールが存在しない市場においては、 市場における法的コストがとても大きい。一方、 消費者保護法制が整備された市場においては、経営における法的コストが大きくなる。 どういうタイミングでどういうビジネスを始めるかは、 起業にかかるコストが最小の時点で行うのが望ましいということになるね。 そういう意味で、起業というのは、単に実験的ビジネスがうまくいったから、 資金的な目処が立ったから、と始めるのではなく、 タイミングを計る必要があるということが言える。」

「耳が痛い話です。で、先生は、 そういう観点から法制度について研究してたりするんですか?(ワクワク)」

「いいや。ぜんぜん。」

「ガクっ!」

「私の専門は違うって言ってるだろ。総合的に立法動向を追跡・予測し、 それらの法制度がリスクやコストに与える影響について検討するのは、 一人の人間では無理だよ。」

「そうですね。」

「さて、もうひとつ。法によって経営上発生するコストには、 君たちのような小さなビジネスから立ち上がろうとする人たちに不利に働く要素があ る。」

「なんでしょう。」

「それは、法律がえてして比例的ではなく定数的にコストを課すことだ。法律は、 経済的衡平ではなく規範的衡平を要求する。このため、 最低要件として義務を課すことが多い。具体的にいえば、 個人情報保護法のような法律が成立して、 顧客名簿の厳格な管理が法律によって義務付けられたとしよう。こうした場合、 ありがちなのが、顧客名簿の管理責任者を置くことを求める条項だ。この場合、 従業員がたくさんいる企業に対しても、従業員が4, 5人の君たちのグループのような企業に対しても同じように最低条件が課される。」

「そうか。大企業であれば、そうした部署を設置したり責任者を置く費用は、 会社全体のコストの中でわずかな割合を占めるに過ぎないけど、 僕たちのような小企業の場合には、大きな割合のコストになってしまう。」

「もちろん、何万人分もの顧客名簿を保有している企業であれば、 その顧客名簿の規模に応じて管理コストが増加していくだろう。しかし、 それだけの規模の顧客を抱えているのなら売上もそれなりに大きいと考えられるから、 売上に対して名簿に登載されている顧客一人当たりの管理費用は小さなものになりう るね。ところが、顧客名簿に100人くらいしか記載されていない企業についても、 大企業と同じような管理体制が法律によって義務付けられたとしたらどうだろう。 売上に対して名簿に登載されている顧客一人当たりについて比較的高額の費用が必要 になるんじゃないかな。」

「すると経営における法的コストを重視して考えると、 ある程度以上の規模の企業でないと、経営効率が悪い事態も考えられますね。」

「そうだね。第二次世界大戦の後の混乱期、多数の企業が創業したのは、 起業において乗り越えなければならない法的コストのハードルがほとんど零にまで低 下したからだといえるかもしれない。同様の事態は、 始まったばかりのネットワーク上の市場においても見られたはずだ。いわゆるネット・ ベンチャー・ブームというのは、通常言われているように、(1)安価な設備、(2) 広大な商圏、(3)時間と空間の束縛からの解放のほかに(4) きわめて小さな 経営における法的コストという条件があったと考えなければね。 もちろん、市場における法的コストあるいはリスクは莫大なものがあったから、 リスク選好的な人しか事業に乗り出さなかった。」

「すると、先生が先に示したように、 ネットワーク市場に関する法整備がすすみ始めているということは、 ベンチャーにとっては不利になってきている、ということですか?」

「そのとおり。アイデアひとつで一旗挙げて勝ったまま逃げ切る、 という戦略は通用しなくなってる。 現在の法制度が経営に課している法的コストをきちんと評価した上で、 そのコストに耐えられるだけの事業規模をきちんと算出して、 それに見合った事業計画を立てないとね。」

「ううーん。すると、アマゾンや楽天のマネじゃダメということですか。」

「あるタイミングで成功した事例を、ほかのタイミングでやってどうするんだよ。 事例は事例になった段階でもう使えなくなってると考えないと。 経営における法的コストは増大したかもしれないけど、 起業のハードルを越えられる新規参入者が減ったと考えれば、 市場における競争は緩和されたと考えてもいい。 おまけに市場における法的コストは以前に比べればずいぶん低くなっている。 こうした環境にあわせたビジネス・モデルを考えるのが君たちの仕事だろう。」

「おっしゃるとおりです(ぐったり)。ところで、気がついたんですけど、政府は、 企業に対して課す法的義務、すなわち経営における法的コストを増減させることで、 市場に参入してくる企業の規模や数を制御できたりしませんか?」

「いいねぇ。そのとおりだと思うよ。たとえば、 現在日本国内には 5,600社程度のプロバイダが存在する 。ところが、電気通信分野におけるさまざまな政策を実行する場合、 小規模のプロバイダが多数存在すると、監督官庁は指導監督がやりにくい。 そんなときどうするか? ひとつの方法は、たとえば、設備の最低要件を高めたり、 セキュリティ対策を要求したり、顧客情報管理を義務付けたりすることで、 経営における法的コストを上昇させれば、その法的コストに耐えられない事業者は、 より大手の事業者に事業を譲渡することになるだろうね。 こうして事業者の数を絞り込み、ひとつあたりの事業規模を大きくすることができる。 実は、事業者の規模がある程度大きいほうがありがたい、 というのは監督官庁だけでなく、税務署の都合でもあるんだけどね。」

「ビジネスにかかわってくる法制度って、表面的なものだけじゃないんですねぇ...」

「ところで、チョコレートでも食べる?」

「あ、うれしいです。これもe-コマースで取り寄せたりしたんですか?」

「すぐそこの紀ノ国屋で買ってきただけだよ。」

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4 法的コストとビジネス・モデル

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「どうも、僕たちの起業プランが怪しくなってきました。」

「おいおい、法学部の先生にチョッとつつかれたくらいでシオれるようじゃ、 経営者なんかになれないぞ。」

「僕たちは、あまり大規模なビジネスにしたくない、という思いがあるのです。」

「先ほどの話からすると、 できる限り経営における法的リスクを負わないようにプランを立てる必要があるね。 ところがますます悪い話がある。 このリスト [10]を見てごらん。 これらはこれから制定されそうなネット・ビジネス関連法規だよ。」

「ずいぶんありますね...」

「でね、こういう風に法律がどんどん制定されたり改正されたりしている状況が、 経営における隠れ法的コストの予測可能性を低下させているのはわかるよね。」

「はい。これから起業しようという人たちにとってはずいぶん迷惑なことですね。」

「でもこれは、立法者が悪いというわけではなくて、 不確実性の高い市場の状況ゆえに仕方がないところがあるんだ。 ある制度を導入したことによって市場の変化の方向に枠をはめてしまうと、 新しい状況が発生したときに市場全体が破綻してしまう危険すらある。 早い技術革新のもとで市場の様子がどんどん変化している現在、 あまり市場の方向性を固定化するような制度は導入すべきでないことになる。e- コマース関連法規がつねに曖昧さを伴っていること、また頻繁に改正される理由には、 そうした事情もあるんだ。もっとも、法律の文言をあまり明確にしないというのは、 日本の法伝統でもあるんだけどね。」

「すると、継続的な技術革新が理由となって、 市場における法的コストは十分に低減していない。一方、法整備を進めた結果、 経営における法的コストは増大した、ということでしょうか。」

「付け加えれば、基準が明確でない曖昧な法規は、 法的リスクに悲観的な事業者については過剰な抑制効果を、 法的リスクに楽観的な事業者については脱法行為誘発効果をもたらす。 法律の先生としては言いにくいことだけど、現在のe-コマース市場は 『やったもん勝ち』に近い状況にある。 少々法的に危険がともなうビジネスでも進めてしまって、 法的問題が起きる前に別事業へ鞍替えするという戦略が合理的ということになってる。 まあ、こういうのがまさにベンチャーの本質なのかもしれないけど。」

「たしかに... そういう傾向が見られますね。ところで、 そういう悲観的な話ばかりじゃなくて、 僕たちがどうすればよいのかアドバイスしてください。」

「そうだね、まず、 君たちがどういう点において取引コストを低減させているのかを考えてほしい。次に、 ビジネスの流れを再検討して、余計な業務をできるかぎり排除することかな。」

「なんか、ありきたりですね。」

「法律の教員に経営のアドバイスなんか求めるからだよ(怒)。まあ、 ひとつ具体例を挙げよう。またまた個人情報絡みになるけど。通常、e- コマースというと『顧客情報の収集を精緻化して、データ・ マインニングでピンポイント・マーケティング』 というようなキャッチフレーズが良く語られる。 だいたいそういうことを言う人というのは、高価なデータベース・ システムを売っている人だったりするんだけどね。もし君たちのTシャツ事業が、 顧客と美大生とTシャツ工場とを繋ぐものであるなら、詳細な個人情報は必要かな?」

「必要なんじゃないでしょうか。氏名と商品の送付先である住所、 連絡先としての電話番号やE-mailアドレス、決済するのであれば、 クレジットカード番号なんかも... どういう商品をいつ購入したか、 というような情報も必要だと思います。」

「それはね、個人情報の保有にコストが掛からなかった時代の発想だよ。 コストが零に近いなら、 顧客から手に入れられる情報はすべて保管しておいたほうがいいよね。 いつかは価値を生む可能性もある。マーケティングに使えるかもしれない。 名簿業者に転売できるかもしれない。 顧客情報を資産として評価するというような話を聞いたこともある。でも、 個人情報保護法ができて、 個人情報の保有について法的コストが負荷されるようになると話は変わってくる。 単純に『集めて保有しておけばいつかは...』とは言えなくなる。」

「でも、それは営業上の経費として仕方ないのではないですか?」

「で、怖いのがここからで、法的コストは、 法律の規定によって容易に変動する変数なんだ [11]。 君たちが大企業になっていれば、 法律の改正になんらかの影響力を発揮することができるかもしれないけど、 小さな会社の場合、法的コストの変動は受け入れざる得ない要素であり、しかも、 君たちの会社の都合などお構いなしにかかってくる可能性がある。また、 最近のように、 いろいろな企業のWebサイトでの個人情報の漏洩事件が報道されるようになると、 顧客情報の漏洩への社会的批判も高まる。 法的コストに加えて社会的なリスクも高まっているといえる。」

「どうすれば、いいでしょう?」

「個人情報保有に関するコストが将来高まることがわかっているのなら、 それを最小に抑えるように工夫するのが経営だと思うんだけど。君たちの仕事が(a) デザイン開発、(b)マーケティング、(c)取引におけるリスク負担にあるとしよう。 すると顧客にIDをつけておいて、 その他の個人情報を保存しないという選択がありうる。(1) 顧客の氏名と商品の送付先については、 商品の発送を行う運送業者だけが知っていればよい情報だ。(2) 電話番号やE-mailアドレスは、君たちも知っていなければ困るね。それなら、 それらの番号をIDにしてしまうという手が使える。(3) そのIDを持った顧客がどういう商品を購入したのかの履歴は君たちが保有したいとこ ろだろう。(4)クレジットカード番号は信販会社だけが知るべき番号だね。するとさ、 Web上の注文フォームから個人情報を受け取る場合に、(1)、(4) に関する項目については、直接ほかの会社に渡してしまって、 自分たちは顧客のIDしか知らないという状況にすることができる。 こうすれば君たちが保有しなければならない個人情報は最小限になる。」

「ほかにはどういうものがありますか?」

「君たちのビジネスのやり方について詳しくわからないので、一般的な話になるけど。 美大生が作ったデザインについての権利の帰属については、 契約で明確にしておかないとね。君たちのビジネスのやり方だと、 美大生が作ったデザインは原則として美大生に帰属する。 もしデザインの著作権を会社側で保有したいのなら、 その旨の契約を美大生との間で結ぶことになる。 いまのところ著作権の保有については、ほとんどコストが掛からないので、 できるだけ集めておくほうが有利だろうね。あと、 今後ますます重要視されるだろうと予測されるのが消費者保護。 クレーム対応に掛かるコストをできるだけ小さくしておく工夫がほしいね。 Tシャツのように高額でない商品であれば、 ユニクロのように無条件で返品交換を認めるという方法をとるほうが安上がりになる 可能性が高い。ただ、ユニクロの場合は店頭での返品交換なので、 客の側にも返品交換にともなうさまざまなコストが存在し、 それが無闇な返品交換を抑制していた。 これがネット上では違ってくると考えられる。」

「著作権の件については、そのとおりだと思いますけど、 個人情報とクレーム対応の件は、どうなんでしょう?」

「どうなんでしょう、って言われても。 そのあたりを検証してビジネスにしていくのが君たちの仕事だろ? 私がこれだけアイデアを出してるんだから、あとは自分たちでビジネス・ モデルを研究しなよ。 アイデアの分だけでも君たちから顧問料を取りたいくらいだよ。」

「ストック・オプションでどうですか(笑)。」

「私は絵に描いた餅は食べない主義でね。」

「先生、キツイなぁ。」

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5 終わりに

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「今日は、相談にのってくださってありがとうございました。」

「プランが固まったら また来なよ。」

「『経営上の隠れ法的コスト』の話が面白かったです。 法律の変動によってコストが増減しているということはあまり考えていませんでした から。」

「企業の法務部は、そういうことを研究すべきなんだと思う。」

「僕たちみたいな学生ベンチャーが、 複雑に絡み合うさまざまな法律に常に目配せしておくなんて不可能です。」

「大学が『学生ベンチャー養成』とか謳うなら、 その辺のサポートくらいしてあげるのが筋だと思う。 法律とコストとの関係を常に検討するようなサービスは、まさに情報サービスだから、 学内にいくつベンチャー企業が存在していたとしても、 ひとつの主体でサービスを提供しうる。それぞれの学生ベンチャーが独立に情報収集、 検討するよりも効率が高くなる。」

「それ自体が、ひとつのビジネスになりそうですね。」

「そうだね。法律に関連して発生するコストを研究して、 業務改善コンサルティングをやるような会社になるかな。でも、 それって民間の総合研究所とかでやってるんじゃないかな。」

「先生、やってみたらどうですか?」

「前にも言ったじゃないか。私は絵に描いた餅は食べないんだよ(笑)。」

Note

[1]
Ronald H. Coase, 宮沢 健一 他 訳,『企業・市場・法』 (東洋経済新報社, 1992), 「第2章 企業の本質」

.

[2]
経営における法的コストが会計上どのように把握されているかを知るために、 会計学や勘定科目に関する文献にあたったが、 具体的に記述されているものを見つけられなかった。この部分の記述は、 実在の商学部の学生のアドバイスを受けつつ、嶌村 剛雄, 山上 一夫 編著 『勘定科目全書 <改訂版>』(中央経済社, 1998) を参考に独自に考察したもので、誤りの可能性を否定できない。
[3]
ベンチャーが負担する各種リスクについては、 当該リスクに関する統計的データが揃っていないことが多いため、 保険商品が存在しないことが多いと予想される。Jeffrey Voas, The Cold Realities of Software Insurance, IT Pro, Jan. / Feb. 1999, pp. 71--72. ただし、 電子商取引に対応した保険商品はすでに存在する。たとえば、 『未知のサイバー系脅威の補償にどう対応するか』 Cyber Security Management, Jul. 2001, pp. 38--40 および 福島 正剛, 高橋 真史, 「e-リスク保険」,『ジュリスト』, No. 1183 (2000.8.1-15) , pp. 101--103 参照
[4]
印紙税法 および 印紙税法 別表 第1の17号.
[5]
堅牢な建物と施設に信頼性の高いサーバを置き、 高速なインターネット回線で接続して各種インターネット・ サービスを提供するビジネス。詳細については、大橋 正和, 長井 正利 『インターネットデータセンター革命』(インプレス, 2001) を参照。
[6]
顧客対応を請け負うビジネス。機器の使用法の説明など技術的な支援、 苦情処理などさまざまなサービスを提供している。
[7]
株式会社の場合、 資本金1000万円を準備することに加えて、 設立費用としておおよそ30万円ほど必要になる。 許認可にかかわるような種類のビジネスの場合、法的な要件を満たすために、 さらに費用が掛かることになる。また、商法上、仕訳帳、 元帳などの本格的会計帳簿と、決算字には貸借対照表、 損益計算書の作成が義務付けられる。 これらの帳簿作成を税理士などの専門家に依頼すると、年間30万円ほどが必要になる。
[8]
情報通信総合研究所 編 『情報通信アウトルック2002』(NTT出版, 2002) 第1章5 「クリック & モルタルで変わるEC」参照。また、 「事業の見直しを迫られるオンライン小売業(上・下)」(Hotwired Japan) http://www.hotwired.co.jp/news/news/Business/story/3816.html, http://www.hotwired.co.jp/news/news/Business/story/3823.html.参照。
[9]
リストをできるだけ新しいものに維持し、本論の字数制限から逃れるため、 リストはWebにて公開している。 http://133.25.179.139/hideaki/itlaw1.htm 参照のこと。
[10]
リストはWebにて公開している。 http://133.25.179.139/hideaki/itlaw2.htm 参照のこと。
[11]
最近の事例として、 「MSにはピンチ?ソフトにも製造責任を求める動き」(ZDnet, 2002/06/19 http://www.zdnet.co.jp/news/0206/19/xert_sue.html) が挙げられる。 これまでソフトウェア産業は、ソフトウェアには瑕疵(バグ) が不可避的に存在することを理由に、 製造物の品質について責任を問われてこなかった。 仮にソフトウェアの品質についても法的責任が問われるようなルールが導入された場 合、 バグから発生するコストがソフトウェア利用者からソフトウェア産業側に転嫁される ことになる。

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Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 助教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
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