* 『コピーライトの経済分析』の残骸 *

白田 秀彰

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1 分析の対象

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著作権法あるい著作権制度について議論するとき、 法律学での議論と経済学での議論には、 対象となる関与者の把握の仕方に違いがあるように思われる。 法律学、とくに欧州法型著作権法理論では、 権利の源泉として著作者を中心に把握するために、関与者は、「創作者(author)」と 「利用者(user)」という二者として把握されることが多く、一方、 経済学での議論においては、専ら知的財産が取引される市場を中心に把握するために、 関与者は、「提供者(provider)」と「利用者(user)」 という二者として把握されることが多く見られる。もちろん、 全ての議論について確認することは不可能であるので、 上記の分類はあくまでも印象の域を越えない。しかし、 法律学と経済学の把握の仕方の差が上記の様に実際に存在するならば、 本稿での議論はむしろ経済学的把握に近い。

本稿でこの視点を採用する理由は、第一に、 著作権制度の出自が市場にあるからである。イギリスにおいて著作権制度は、 書籍業ギルドの内部機構として発生した。その制度は、 同ギルドが機構を維持するために定めた規約が、 法的正当性を獲得しながら法律制度として成長することによって確立された。 この成長過程のなかで、 単なる版権取引の制度であった著作権制度は 「著作者の権利」と結合したのである。 この成長過程は私の知る限り、イギリス法に限らず、ドイツ法、 フランス法においても同様である。

第二に、著作権法に関して新しく生じてきた問題点の所在が著作者の周辺ではなく、 利用者の周辺、すなわち消費市場に存在しているからである。1950年代までのように、 利用者が高速かつ正確な複製手段を保有することがほとんどない場合には、 著作権法は、創作者同士の関係、創作者と媒体企業の関係、 または媒体企業同士の関係を規律することが中心であった。ここでは、 知的創作物の複製物を消費する地位に止まっていた利用者が、 著作権法を意識することはほとんどなかったと思われる。ところが、 利用者が高速かつ正確な複製手段を獲得するようになった 1960年以降 [1]、 媒体企業と利用者の利害の対立が最も緊張したものとなった。 これは著作権法の歴史において初めて直面する問題なのである。

第三に、著作権法の権利の源泉であったはずの人間個人としての「創作者」 の相対的地位の低下である。著作権法の保護する対象が、単に文学・ 芸術的なものであるという他に、娯楽産業を中心とした産業分野にまで拡大した現在、 「創作者」の姿は知的創作物を大量複製し市場に送り出す、 媒体企業のなかに埋没しているように見える。 O'Hareは、

「最低限の著作権法は、著作権を創設し、とくに、 作品の創作者に権利を与えている。この部分において最も重要なのが、 この財産権の創設と定義である。その内容は、 その権利を作品の創作者に与えるのに都合がいいものとなっているが、しかしながら、 知的財の市場はあたかも、 その権利が最初から出版者に与えられているかのように機能する。重要なことは、 創作作品の財産権の所有者が単なる集団として参加するのではなく、交渉し、 行動を決定する個人であるべきだと言うことなのである [2]。」
すなわち、 法的に著作権を与えられることよりも、 実際に著作権を行使することのできる市場へ参画する能力の方が、 問題であるとするのである。

こうした状況において創作の真の源泉である創作者を保護することも、 著作権法の重要な機能になっている。

このように問題点を把握するとき、著作権法は「創作者と媒体企業」の関係、 すなわち労働市場を規定する部分と、「媒体企業と利用者」の関係、 すなわち消費市場を規定する部分に分解されることになるだろう。本稿は、 後者の関係について検討するものである。そしてさらに、 創作者が独立の集合として存在せず、 つねに利用者という集合の部分集合であることを考えれば、 従来の法的分析の枠組みである「創作者と利用者」の間の対立関係は、 知的財産権市場全体の問題としては調和されうる性質のものであることが指摘できる。 すると結果的には、著作権について検討される対象は 「媒体企業と利用者 (創作者) 」という枠組みに組みかえられることになる。

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2 経済分析の前に

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法の経済分析においては、実際に創作を行う創作者と、 創作者からライセンスを受けて知的財の複製・ 流通を行う媒体企業が一体の経済主体として把握されることが多い。 このことは法律学の議論においても混同されがちなことであるし、また、 英米法において、コピーライトの保護を受けるのは必ずしも創作者本人ではなく、 コピーライト保有者なのであるから、 実際にコピーライトの排他的独占権を行使する媒体企業を、 あたかも創作者として扱うことに抵抗が少ないのかも知れない。 また、法人著作の規定が承認されている以上、 職務として行われた知的創作については雇用者に直接権利が帰属するから、 この法人著作の場合には、創作者と媒体企業の間には実際の一体的関係が存在する。

しかしながら、どのような法的・経済的説明をしても、 知的創作物は根源的には人間の頭脳から生じたものであることは否定できない。 したがって、 法の経済分析で通常されているような提供者⇔消費者という単独市場の背後に、 創作者⇔媒体企業⇔消費者という二つの市場が存在していることに、 ほとんど考察が及んでいないことが奇異に感じられる。 創作者本人と媒体企業の間の経済的立場の違いについては分析がなされている。 Plantは

「著作者の経済的報酬と出版者の利益の最大点は一致しない。 著作者の利益は出版者との契約内容に依存している。一般に、 出版者が最も収益をあげ得る条件よりもより大きな版で安価に出版した方が、 著作者にとっての収益は最大になる。出版者が経営を重視する場合、 総コストに対する総収益の余剰を最大にしようとする。

一方、著作者は収益が、一冊あたりの報酬や、 出版価格の一定割合で固定されている場合、彼は出版にかかる総費用に影響されない。 仮に一冊あたりの報酬で報酬が固定されている場合、店頭販売価格を低く抑えて、 より多くの冊数が販売されることが最もの望ましい。また、 彼が出版価格の一定割合の報酬を得る場合、 彼の収益は売上からの総収益が最大になるとき、最大化するのであり、 コストを差し引いた実質収益が最大化されるときに最も収益を得るのではない。

追加的出版が総コストを増加させるので、実質収益と出版者の利益は、 総収益と著作者の利益が最大化される価格と販売量よりも高額で少ないものとなる。 この両者の最大利益点の分離は次の図表で示される。

したがって、著作者と出版者が共同経営関係にあり、 コストを差し引いた実質収益を分配する場合において著作者と出版者の最大収益点は 一致する。また、著作者が出版事業において全てのリスクを負担し、 出版者に関与に応じた費用と総収益を分配する場合においては、 出版者が望むよりも著作者は少ない量を出版し、より高価格に設定しようとする。 [3]

と説明している。

しかも、実際には創作者とは消費者の一部を構成しているのであるから、 通常いわれるように創作者と消費者の間に、 強い利害の対立が存在しているとは考えにくい。 コピーライトの歴史について検討してみれば、 コピーライトとは媒体企業相互間の商取引の法として生じ、 長くその性質を維持してきたことが明らかになる。 媒体企業と消費者の間に対立関係が生じてきたのはごく近年のことなのである。 しかも、コピーライトの歴史においては、創作者と媒体企業はある時は協調し、 ある時は対立する独立の主体として存在してきた。こうして考えれば、 利害関係対立の構図は媒体企業⇔(創作者、消費者) というようにまとめなおされる必要があるように思われる。

このように私自身は、 提供者⇔消費者という構造においての市場分析には批判的であることを前置して、 経済分析についての検討に移りたいと思う。

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3 コピーライトとは何か?

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法の経済分析において、創作物が財であることは、ほぼ所与の前提とされており、 その財産権としての性格についての検討はあまりなされていない。

コピーライトの性質についての議論は、次のようにまとめられる。

(1)創作者の創作物に対する自然法上の財産権に基礎をおくもの。

(2)創作物を創作者の人格の外部化したものと理解し、 人格権 (moral right)として把握するもの。

(3) 著作者の社会への貢献に対して、 報酬を与えると考えるもの。

これまで検討した論者がこれらの見解のいずれを採用しているかについてまとめると、

(1)Adelstein & Peretz、 彼らはアイデアについても保護されるべき財産として把握している。 Landes & Posner、 彼らの議論は最適な保護の程度についての検討に集中しているので、 コピーライトが財産権であるということを議論の前提としている。

(2)Hurt & Schuchmanが人格的側面について触れているのみで、 法の経済分析において考慮の対象外となっている。

(3)Hurt、 彼は創作者の貢献に基礎をおく、社会的義務として把握している。 創作者に報酬を与えるために創設された独占権であるとコピーライトを把握するが、 彼自身は、 この手法が税金の免除やあるいは直接の報酬付与よりも効率が悪いと考えている [4]

(4) Patterson、 コピーライトを知的努力の成果を社会に公開させるための制度として把握し、 利用者側のアクセス権を中心として制度を説明しようとする。 創作者のこの社会貢献の対価として 一定期間の独占権が認められているのだと主張する。 特に彼は、コピーライトを

「著作物を商業利用する時に必要な排他的権利を与えるものであり、 その附随的機能として、現在と将来の世代に対して、 著作物が利用可能なようにする義務を与えるものである。 仮に著作者が自己の作品を利用可能にする義務を避けるならば、 コピーライトの主張もまたさし控えられなければならない [5]
と利用者のアクセス権の保証がコピーライト付与の条件であると主張している。

しかし、Pattersonを除いて、 コピーライト制度は創作物という希少な財を効率的に分配するためのシステム、 すなわち非排他性という意味で、 公共財としての性質をもつ創作物を制度的に 私的財として市場取引する制度だとみている点では共通である。

「非排他性という局面で特徴づけられる公共財ではない多くの日用品が存在する。 例えば、最初の生産者以外の個人によって、その記録の複製物が作為され得るならば、 あらゆる種類の記録は部分的に非排他的である [6]。」

O'Hareは、すでに存在する財の分配ではなく、 社会的に必要とされる知的財の生産について、 適切な創作者に効率よく情報を与える制度であるとする。

「著作権法は著作者が適切な価格情報を獲得する事を確実にする。 この情報が著作者を創作に誘い、彼の生産物の適切な量を明らかにするのである。

当然、芸術家や発明家は経済的報酬とは別の理由で創作をおこなうが、しかし、 問題は、著作権が存在しなくても誰かが創作活動を行うか否かではなく、 適切な人物が適切な量、創作を行うか否かなのである。仮に、 特定の種類の芸術や研究にとって、市場機構が存在しないことが最適であっても、 ここでの考察においては、 社会が市場機構に委ねたいと考えるような、 芸術や知的財にとっての著作権の重要性に注目しているのである [7]。」

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4 最大化されるべき価値とは何か?

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Landes & Posner他は

「コピーライトは、使用の排除による不利益を最小にしながら、 知的創作物から生じる効用を最大化する制度である。 [8]

「コピーライトの中心的な機能は知的財の社会的活用であり、 仮に社会的活用の機能が無視されるならば、 著作者の財産権は通常の財産権と全く異なることがなく、 独立の権利を設定する意味が失われる。著作権はまた、 public domainを拡大する目的に資する [9]

等と、 最大化すべき利益を社会的効用とするのに対して、 Adelstein & Peretzは権利者の私的利益が最大化されるべきだと主張している。 この見解は、彼が新古典主義的な市場の自動調節機構を信頼している結果であるが、 この意味では、 彼が権利者の私的利益の最大化が、 結果的に社会的効用の最大化と等値であると考えているからだと思われる。

特にPattersonはコピーライトを「学習のための権利 [10]」 として利用者のアクセス権を重視する [11]のに対して、 Adelstein & Peretz は、 学習振興目的のために排他的独占権の適用が免除されている公正利用 (図書館での複製等) が創作者の財産権を不当に制限していると批判する [12]。 Plantは、創作者本人は自らの作品が広く伝達されたいと望んでいるのだとし、 コピーライトによる排他的独占権から生じる経済的利益と 創作活動の間の関連について懐疑的な態度をとる [13]。 この立場において最大化されるべき価値は、創作者の精神的利益ということになる。 というのは、出版者の経済的利益を保証することによって、出版活動が奨励され、 結果として自らの創作物を広く伝達したいと願う創作者の欲求が 充足されるからである。

これらの議論の一方で、実際のコピーライトの歴史において、 最大化されてきた価値とは媒体企業の営業利益であるとする見解も見られる。 この場合、 しばしば例示されるのは、 自動ピアノの演奏プログラムが刻まれたロール紙の著作物性をめぐる議論である。 ここで示されるのは、 それぞれがコピーライトに私的利益を有する企業家たちが 自らの利益を最大化するように政府に働きかけ、また、 政府でも国内の産業がもっとも効率的に発展するように、 立法を通じて作用していく様子であり、ここにおいては、 コピーライトとは単なる産業政策の道具として把握されるのである [14]。 特に、Pattersonは20世紀に入ってから、 競業者間の問題として把握されていた海賊版の問題が、 個人用複製機器の普及によって、 個人的利用者の活動まで拡張されてきたことを指摘している [15]

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5 著作権の効果により創作は奨励されているか?

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最大化されるべき価値と関連して、 コピーライトが目的としている価値の一つに「諸学・技術の振興 [16]」という目的がある。 この目的がコピーライトによって達成可能であるかどうかについて、 懐疑的な論者が多い。例えばHurt & Schuchmanは

「コピーライトが生じる以前にも、 大量の著作物が世に送り出された。このことは、 コピーライトが与える以外の動機付けが存在することを示している。また、 学術出版のように経済的採算性よりも、 業績の数を重視するというような動機付けもある。」

「学術的な著作物はほとんど経済的報酬を考えずに創作されている。 いくつかの種類の著作物は、 出版される以前の創作活動に於いて多大な費用を必要とするので、 事後的な報酬は効果が薄い。もし我々が長い研究期間を必要とするような、 また創作に多額の費用が必要な創作を振興したいと考えるならば、 コピーライトで保護された潜在的な報酬ではなく、執筆期間、 著作者を援助することの方が望ましい [17]

としている。また、Plantは
「コピーライトのために、 成功した著作者がより一層沢山の作品を書くかということについては疑問がある。 というのは、 執筆に費す時間に対する収入についての彼らの欲求は弾力性があるからである。 即ち、手にはいった収益をよりゆとりある生活に振り向けたり、 早く引退しようとするかもしれない。また、 最も収益が期待される種類の本の執筆をするように勧められるために、 本来自分が執筆したかったような作品を書けなくなるかもしれない [18]
と指摘する。

また、Plantはコピーライトによる事後的な独占的利益による動機付けが、 「より危険な事業に着手しようとする動機を増加させる [19]」ような効果をもたらし、 過剰な出版物の生産をもたらす不経済を指摘する。彼は、

「出版物の全てについて無差別に奨励を与えることの妥当性については疑いがある。 コピーライトの効果によって引き出された出版についても、 それが必ず本の形で具体化しなければならないかについても理由はない。 出版の危険をLloydsのような保険引受によって、 より多くの人々に分散することも考慮することができる。 [20]

「特殊な出版物については注文出版の形態をとることが可能であるし、 公共的な目的での出版であれば、 国民への課税と補助金による出版形態の方が、 コピーライトによる独占で資金を保証するよりも効率的である。また、 仮に政治的理由により上記の方法が採用できないにしても、 コピーライトによる独占をこれらの種類の出版物に限定することができる。また、 コピーライト制度が無くても、第一の出版社は巧妙な価格設定と供給量の調整により、 過当競争を避け、十分な収益をあげることが可能である。 [21]

と指摘している。

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6 著作物の生産に向けられた資源は代替生産物の価値を越えているか?

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また、コピーライトが知的創作物の生産を活発にするとしても、 それが他の代替的な資源の分配よりも効率的かどうかについても検討されている。 一般に、「著作物の生産は、教育と同様に、振興されるべきである。というのは、 その他の生産物に比較しても、長期的な周辺効果の故に、 より多くの潜在的利益が存在しているからである」 と学習に資源がより多く分配されることが正当化されるが、 長期的周辺効果は計量困難なので、根拠がない [22]としかいえない。一方、 「コピーライトの効果によって多くの費用を必要とする出版が可能となっている。 附属的な権利からの収益への期待が新しい出版の危険の懸念を相殺する [23]」とされ、 創作物からの経済的収益の法的保護がより 積極的な創作活動を促進していることが主張される。しかしながら、 「特定の種類の作品の経営的成功の可能性の相対的評価をしようとするとき、 経験あるいは特別な技能が有効に機能しない限りにおいて、 コピーライトは危険を負担しうる幅を増加させる。すなわち、 より危険な事業に着手しようとする動機を増加させる [24]」とし、 コピーライトの保護効果が、 知的創作活動に投入される資源を過大にしているという見解もある。すでに、 1877年には、英国通商相T. H. Farrerが主張するように、あまりに多数の出版物、 しかも果たして出版されるだけの価値があるのか 疑わしい出版物が出版されることによって、 本当の良書が世に出されることをかえって阻害しているとする意見も現れていた [25]

しかしながら、民主主義体制においては、意見の多様性を重視し、とくに、 世に送り出される主張の内容に、 政府は干渉しないという基本原則が強く擁護されている [26]から、 コピーライト制度が生み出している経済的局面においての不経済は、 政治的局面における上位価値判断によって、 正当化されているということもできるかも知れない。

また、創作物の生産の局面だけでなく複製物の生産・ 流通の局面についても検討されなければならない。

売行良好作品から得られる莫大な収益を正当化する論拠として、 出版企画の2割程度しか採算が取れておらず、 現在と同程度の出版される作品の多様性を維持しながら 出版事業を継続するためには、 排他的独占権の強化が必要であるとする主張が存在する。 これは現在においてなお出版事業が効率的でないことを端的に示している。 こうした不効率が存在する理由としては、先に掲げた 「コピーライトがもたらす莫大な期待収益のために、 出版者が引き受けてもよいと考える経営危険が大きくなっているからである」 とする論拠がそのまま妥当する。したがって、コピーライトの強化徹底が行われれば、 提供者側の経営判断がより緩和され、多数の創作物が市場に投入されることになる。

しかしながら、本来営利企業である媒体企業が、 社会的文化的目的のために不採算事業を継続しなければならないとする理由は、 存在しない。これまでの社会においては、創作者は媒体企業を通じなければ、 自らの作品を世に送り出すことが困難だった。 だからこそ媒体企業に対して法的保護が過剰に与えられてきたのではないだろうか。 そうであるならば、創作者本人が、 出版事業の採算点を下回る少数の需要者に対して、 直接作品を伝達できる基盤が整備されれば、「排他的独占権を強化せよ」 とする主張の政治的局面における正当理由は、 消滅することになると思われる。 「コピーライトがもたらす過大な収益見込みのために、過大な生産が行われる。 これを正当化するためには、出版活動から生じる黙示の経済効果あるいは、 消費者の選好と出版事業の採算性が無関係であると想定する必要がある [27]」。

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7 著作権法は独占的効果を生んでいるか?

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通常、コピーライトにおいて (経済上の) 独占の問題は生じないとされている。また、 独占禁止法の適用も排除されている。しかしながら、 これらのことから単純にコピーライトが独占の弊害をもたらさないと 結論することはあまりにも短絡的である。

歴史的な検討から、 そもそもコピーライトが経済的独占権であったことは明らかであるが、現代において、 その弊害は回避されているだろうか、 あるいはそのような弊害は何らかの正当化の根拠を獲得しているのだろうか。 アメリカには、次のような事例がある。 ある領域の著作権を全て統括する団体の存在が アメリカ独占禁止法に牴触すると判断された。(Alden-Rochelle v. ASCAP [28]) [29]また、 映画の抱き合わせ興行が違法とされた (United States v. Paramount Pictures, Inc) [30]。 コピーライトから生じる独占権は、 契約に営業規制的な条項を盛りこむことを正当化しないと判示された (Interstate Circuit, Inc. v. United States) [31]。これらのことから、 一般に信じられている考え方とは逆に、 「コピーライトは数多くの独占禁止法に牴触する問題をもたらしている [32]」とされている。

また、出版者がコピーライトから独占利益を獲得できないにもかかわらず、 書籍の価格がコピーライトが存在しない状態で市場決定されていただろう価格よりも 常に高く設定されるとする見解もある。

「コピーライトから生じる収益は、 出版事業に取り組もうとする事業者の数を増大させる。 出版者同士の激しい出版競争は、 著作者がコピーライトによって独占権をもっているために、 著作者にとって有利な取引を可能とする。しかし、その結果として、出版者の報酬は、 彼らの他の領域の資本と技能を活用して市場から獲得できる収益の水準にまで低下す る。しかしながら、コピーライトが維持される限り、 増加した不良在庫の場合は別にして、 本の価格は完全競争市場で設定される価格以上に維持されるだろう [33]

「経済学的な説明において、 独占的市場状況が、 完全自由競争市場以上に希少な財を効率的に運用できるとする理論はない [34]

しかしながら、 コピーライトが与える独占的権利が そのまま経済的な独占利益を意味するものでないことは明らかであり、 Plantの上記の議論は、 コピーライトが与える独占権が経済的な独占と結合した状態にのみ妥当するものだ ということを確認しておかなければならない。

しかも、 コピーライトがもたらす排他的独占権が 自由な市場を維持するための必要不可欠な前提であると議論する論者もいる。 Adelstein & Peretzは、大量複製時代以前に存在していた「自然的コピーライト」 すなわち技術的問題に起因する複製の困難さが、 創作物の市場を形成する要因として存在していたとする。 「写本時代には著作者の コピーライトなどは存在せず、 写本の獲得者はその写本に基づいて、次の商品を生産することが可能となった。 いちはやく原稿を手に入れたものは生産における時間的差異のために、 利益を獲得することが可能だったし、 自分が販売している写本が競合的な商品を生み出すことを承知していた。 また筆写は必然的に誤りを付加していくので、最初の原稿獲得者は特別な価格で、 原稿を売ることもできた。それゆえ、 彼らは著作者が獲得する以上の permanent margin を受けとことができた [35]

ところが、 大量複製技術の進歩により、創作物は大量に複製できるようになり、 希少な財を交換する機構としての市場に適合しなくなりつつあると指摘する。 彼は自由市場による資源の分配を理想的なものとして把握しているので、 この創作物の自由市場を維持するために、 コピーライトによる複製禁止をより強化しなければならないとして、 フェアユースの適用領域をできるだけ小さくすべきであると主張する [36]

しかしながらAdelstein & Peretzの議論は、 創作物の市場の状態を通常の財の市場と同様の仕組みに置くために、 古くから存在していた情報流通における不効率を維持しようとする結果となっており、 しかも、 理論的には市場の外部要因の介入は、 市場の自立的な均衡を歪ませるとされているにもかかわらず、 彼の議論では市場が存在するそもそもの前提として、 外部要因 (コピーライト)の導入が必要とされる点で矛盾したものである。 具体的には、彼の主張する知的財の自由市場において、 どのような型の知的財がどの程度の保護を受けられるかという法制度上の決定が、 結果的には均衡した市場の富の分配に大きな影響を与える。そうであるならば、 彼の主張する自由市場による均衡は、 結果的に法制度の保護の状態に決定的に影響されることになり、 それは自由市場における均衡とは無関係ということになると思われる。

コピーライトがもたらす排他的独占権は、 経済的独占獲得するための根拠として容易に利用されうる、 しかしながら、排他的独占権が経済的独占と結合した場合には、 裁判所はその排他的独占権を認めなかった、したがって、 コピーライトの排他的独占権が経済的独占と無関係であるということはできない。 一方、 現在の創作物の市場機構を維持するためには、 確かに排他的独占権を強化しなければならないが、 その他のより効率的な知的財の配分の仕組みが存在すれば、 排他的独占権を維持する根拠は消滅するということができる。

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8 著作権に代わる保護手段はないだろうか?

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コピーライトがもたらしているといわれる学芸・ 科学の奨励効果については古くから疑いがあるとされてきた。

「仮に特定の本の出版に補助金を与えるような公共的理由が存在するのならば、 公共経済学の学生は、 出版の費用を分配するより平等な方法を発見できることに合意するだろう [37]

実際に、 学術出版は印刷術の始まりのころから補助金なしで継続することは不可能だった。 現代においても、 採算の取れる出版物が 必ずしも著作権の掲げる目的に適合した内容のものであるかどうかについては 疑いがある。

コピーライトが存在しなければ、 著作者は結局パトロン制(patronage)に頼ることになり、 結果的に創作物の独自性がゆがめられると一般に信じられていてる。

「パトロン制のみが コピーライトに代わるものであり、 パトロン制が非常に有害なものであるので、コピーライトが正当化される [38]
すなわち、 コピーライトの学問奨励効果は疑わしいが、 言論の自由に対して害のあるパトロン制に比較すれば良い制度である、 と考えるのである。歴史的には、 パトロン制 (というよりは政府の著作物の内容への関与) の害悪を避けるために、 コピーライトが制定法としてもたらされたということは事実である。 このように考えれば、 コピーライトが制度として正当化される一つの論拠として、 やはり「言論の自由」「思想の自由市場の維持」という、 より上位の目的が存在していることがうかがわれる。

しかし、パトロン制がそれほど害悪ではないとする見解もある。

「パトロン制はそれ自体、害悪とは言えない」

「ある内容の著作を執筆させることを必要とする人が、 自分の目的に適合する作品を書かせるのに適当な人物に 支払いを申しでる自由をもつべきでないというのは合理性がないように思われる」

「パトロン制は多数の優れた作品を生み出してきたし、 その下では作者は自由に創作することができる。また、 その他の公務員や弁護士などの職業も、自分の意見と異なっていても、 依頼主の意向に従っている [39]

しかしながら、 パトロン制という方法は、 明らかに思想の自由市場における影響力と 創作者の背景にいる人物の経済力を直接結合するものであるから、 民主主義体制においては容認されないだろう。

コピーライトに代わる手法としては次のように主張される。

「特殊な出版物については注文出版の形態をとることが可能であるし、 公共的な目的での出版であれば、 一般的な課税と補助金による出版形態の方が、 コピーライトによる独占で資金を保証するよりも効率的である。 また、 仮に政治的理由により上記の方法が採用できないにしても、 コピーライトによる独占をこれらの種類の出版物に限定することができる。 コピーライト制度が無くても、第一の出版社は巧妙な価格設定と供給量の調整により、 過当競争を避け、十分な収益をあげることが可能である [40]
これらの見解は法の経済分析においてはしばしば主張されるものであり、 それぞれに詳細な分析が行われている。

特に第一出版社の利益については19世紀アメリカの事例が掲げられる。

「 (アメリカでは) 19 世紀に、 外国著作物の出版者について著作権の保護はなかった。 それでもなおアメリカの出版社は最初に出版できる権利を、 自発的に権利使用料 (royalityes) を支払うに見合う価値あるものだと考えていた。 英国の著作者は、 しばしば英国国内からの権利使用料以上の金額をアメリカの出版社から得ていた [41]

「19 世紀において、 アメリカでは外国著作物を誰でも自由に複製することができた。それでもなおかつ、 アメリカの出版社は英国の著作者と協定を結ぶことの方が利益にかなうと考えた」

「アメリカにおいて、国外著作者に対する コピーライト保護が存在しなかったため、 完全競争市場が機能し、市場が生み出す余剰利益と、 著作者に支払われる報酬の間に乖離が存在しなかったからである [42]

しかも、19世紀アメリカにおけるコピーライトの無法領域においてこそ、 市場原理が理想的に機能していたとする主張もある。
「出版社が著作者から最初に原稿を受け取る保証自体が支払いに値する特典であった。 1) アメリカの出版社は最初に出版するという優先権を維持するために、 英国の作家の advance sheets に対して、一括払い (lump sum) を支払っていた。 2)アメリカの大手の出版社の間では、 互いに海賊版を出版しないという暗黙の了解が成り立っていた。 3) 仮に、その他の出版社が海賊版に着手した場合、 "Fighting Edition" とよばれる廉価版を出版し、海賊業者の価格よりも安く販売し、 海賊業者を潰した」

「アメリカでは、 二番目の出版社の本はおくれて市場に届くために、低価格が設定されており、 このため、 アメリカの出版物はイギリスの価格の 1/2 から 1/8 であることは珍しくない。 そのような状況において、アメリカの公衆は低廉な出版物の恩恵を受け、 出版社は十分な収益をあげ、英国の作家は advance sheet で一括払いをうけ、 さらには、印税を受け取るのである [43]

この事例は実に興味深く、 今後の詳細な研究の中心点となるだろう。

また、 強制使用許諾制度を導入することで、 コピーライトの弊害を軽減できるとする主張もある。 Plantは、

「最終的な著者からの提案は、最初の出版から、 短期間の (例えば 5 年後) 強制使用許諾制度の導入によって、廉価版を迅速に、 かつ広く流通させることである。これによって、 著作者の死後 25 年まで自由出版が遅延されることがなくなり、一方、 著作者はコピーライトの保護期間が存続する間、報酬を受けることができる。 これによって書籍の価格は低下する。 著作者が獲得する報酬額は現在よりも上昇するだろう。 [44]
と指摘している。

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9 経済分析

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10 知的財産権の性質

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知的財産権を公共財的性質を持つものとして把握する考え方が一般的である [45]。すなわち、 制作に掛かる費用は大きいものの、複製に必要な費用は低く、 いったん公開されたならば、 使用者による追加的な複製物の制作を停止することはできないものとして把握される。 すなわち、知的財においては消費において競合性(rivalry)が存在せず、 また私的提供者が代価を支払わない受益者を排除するための費用が大きい (排除可能性: nonexcludability ── 競合性と排除可能性を合わせて排他原則 (exclusion princible)と呼ぶ) ので、一種公共財としての性質を持っており、 何も手当しない状態では存在する総需要に比較して過少にしか生産されない。

そこで、 法律の規定 (特許権、著作権 etc…) によって生産者に独占権を与え、 私的財として取り扱うことを強制する。 これによって市場において経済的対価を受け取ることを可能にし、 創作への動機付けを増加させ、 市場機構の自動調節によって適切な量の情報の生産と適切な分配を実現するという [46]。すなわち、 本来公共財であった情報を知的財産権を設定することで人為的に私的財と成し、 これを市場で取引することで、最適な生産と分配を可能とするというのである。

一方、これが単純な公共財として把握されないことも主張されている。すなわち、 公共財は費用を負担しない受益者の排除が困難である という意味で公共的な財なのであるが、 知的財産について検討するならば、 そもそもの原始的供給者が供給を開始した途端に、 これを受けた消費者が直ちに二次的供給者となり、 財の供給局面においても原始的供給者の制御を困難とする点において、 単なる公共財とは異なった要素を持っているとするのである。

しかも、 情報の伝達費用が0であり、かつ情報の記憶能力が完全であるという仮定の下、 一人の消費者に追加的に与えられる同一の種類の一単位の財は、 追加的な利益を生まないとする [47]。 先の議論は公共財であった知的財が、 コピーライト制度を媒介にして通常の財と同じく 市場機構による調整を可能とするという点において、 コピーライトの排他的独占権を正当化し、後者の議論においては、「理論的」 には私的な自由複製が追加的な利益を生まない、 すなわち私的複製が社会的利益を生み出すとする議論に対する反論を構成していた。

しかしながら、私はこの知的財産を公共財として把握する考え方には疑問を持つ。 というのは、コピーライトが印刷術の登場以来一貫して保護してきたものは「表現」 であり「事実・アイデア」ではないからである。 「表現」と「アイデア」の境界については、 これだけで一つの研究となるほど確定困難な問題であるが、 ここでは立入らない。しかし、少なくとも「表現」である以上 「内容」よりも「形式」が保護の対象になっているという点について争いはない。

仮に「表現」が情報のひとつの形態であるとしても、「表現」は公共財ではない。 「情報」あるいは「内容」と「表現」が公共財という定義について見せる差異は、 同一性という点に現れる。すなわち、「情報」であれば、 ある命題に関する真偽が反転しなければ、それが「情報」 として機能することには変わりない。「アテネがスパルタに勝利した」という情報は、 「スパルタはアテネに敗北した」や「アテネがスパルタに勝ったぞ!」 等さまざまな表現を許し、 最初に市場に投入された情報の表現がどのように変形されていようとも、 情報の価値に大きな変動はない。一方、「表現」はある命題に関する真偽だけでなく、 最初に市場に投入された形式が維持されることを必要とする。 「野分して 風鈴の音 落ちにけり」というような短詩があったとして、これが 「台風が来て風鈴が落ちてリンと鳴った」 と情報伝達されたならばすでに表現としての意義は失われている。

極めて短い表現であっても、数人の伝達者を経由するならば、 その表現が少しずつ変形することは、伝言ゲームの例を考えれば明らかである。 まして、例えば「源氏物語」 のような長大な表現が、 何らかの信頼性のある媒体を経由せずに伝達されるとは到底考えられない。

「情報」はその公共性の定義において排除可能性を挙げた。 代価を支払わない利用者を排除することが困難であるということは、逆にいえば、 利用者が非常に低いコストで情報の内容を消費しうるということである。 これが情報が公共財である一つの論拠になっていた。しかしながら、「表現」 については、最初に作成された「表現」 が正確に利用者に提供されることが必要である。それは、「表現」 を伝達する媒体にコストがかかることを意味する。また、逆に、 媒体にコストをかけなければ「表現」は伝達過程で次第に変形され、 利用者が受け取る「表現」にはノイズが混入することになる。 このノイズ自体が「表現」に加えられたコストとなる。

したがって、「表現」を伝達するには正確性の高い「媒体」が必要であり、 この「表現と媒体の結合物」の生産に十分なコストが必要である以上、 媒体の流通管理で「表現」の流通管理を代替することになるのである。 まさにコピーライトが現実の知的財の保護について行っている機能とはこれであり、 「無権限者による違法な複製の禁止」というコピーライトの実質的機能と 「表現の保護」という法的機能が結合することを十分に説明するものである。 また、実際には、情報にもさまざまな程度に複雑さの程度がある。 単一の命題で構成された情報は容易に伝達され、公共財としての性格を示すだろうが、 数十の命題が結合したような内容の場合、 それが表現の伝達において必要だった正確な媒体を必要としないとは考えられない。 かりに非常にコストの低い、すなわち信頼性の低い媒体を利用して伝達されるならば、 その情報には多くのノイズが付加され、 結果的に受け手がその情報を受信した時のコストは上昇しているのである。

理論的には情報は公共財かも知れないが、 およそ法律の保護の対象であるような種類の情報が、 公共財として市場に存在したことは、一度もないと言い切って構わないと考える。 中世までの写本が多大なコストで生産されていたことは言うに及ばず、 現代のコンピュータネットワーク上で伝達される情報にも、 伝達に必要な多額の設備投資というコストが掛かっているからである。 したがって、表現や情報が公共財としての性質を強くするか、 あるいは媒体と結合して通常の財と同様に取り扱われるかを決定する因子は、 それらの表現や情報が伝達される媒体の質に 依存するということができるだろう。

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11 知的財産権の帰属先

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また、知的財産権がとりあえずも法的な権利として存在するとして、 その権利が誰に帰属すべきかという問題がある。

「結果としてコースは責任法には三つの目的があるとした。第一に、 財産権の帰属先を特定し、当事者が交渉できるようにする。第二に、 財産権が規範的に最初に付与されるべき当時者を決定する。第三に、 交渉費用が存在する状態において、 社会的費用を最小にする事ができる当事者に財産権を付与するという機能である。 第二、第三の目的において、 特定の財産権の異なった所有者たちを暗示していると言うこともできる [48]。」

「最も重要な事は、誰かが著作権を保有する事であり、 それが著作者に固定される必要はない。実際、 著作権法の起源は出版の独占権を獲得した書籍業カンパニーの認可であった。 ルネサンス期英国の著作者が彼らの作品について支払いを受けるようにされたのは、 契約なしの作品の公表や創作を拒否するためであった [49]。」

「上記のことから、三つの結果が導き出される。第一に、 効率的な市場機構が働くためには、知的財の財産権が定義され、市場において、 交渉や交換をする事ができる当事者に付与されている必要があること。第二に、 最初の近似から分かるように、 誰が権利を付与されるかという問題は結果に影響を与えないこと。第三に、 権利の譲渡が行われたとき、まだ生産されていない作品について考えるならば、 衡平化作用がしないばかりか、その状況においては、 ── 著作者がその作品の生産に排他的な能力を持っているとして、 ── 適切な当事者自身の利益への適切な彼の利益への他の請求の法的可能性を 蹂躙する事になること [50]。」

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12 取引市場について

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知的財産権とは、 公共財的性質をもつ著作物を権利者に排他的独占権を与えることにより、 私的財と成し、市場取引により最適な財の分配を目指すものして説明される。 しかし、そもそも、 パレート最適が達成されるような市場が存在しているのかが問題である。 Adelsteinは

「パレート最適が公的政策の目的ならば、完全競争からの環境的乖離は、 それを達成すべく設計された市場への法的あるいは行政的介入の前提となる。 完全競争達成されたならば、分散的市場はそれぞれ最適達成のための機能を発揮し、 財の最適分配を達成する。しかし、完全競争の達成に失敗すると、 効率の名のもとに政策の目的は一般的に直接的中央集権的な財の分配になる。 判断者や規制者が、彼らを導く基準となる関連する市場のないまま、 市場機能を推測によって代替するようになり、 自発的交換により達成されるはずの効率が、 具体的な日用品の分配や認可による法的権原の分配へと代わる。 [51]
と述べているが、 この部分の記述は矛盾しているようにおもわれる。 そもそも知的財の取引において市場が成立しない環境が存在ししていたが故に、 彼がいうように行政的介入により知的財産権制度が創設されたのである。しかし、 それはすでに「完全競争」の状態ではなく通常の財の市場とは全く異なった、 財の基本的価値について人為的価値判断が先行している市場があるにすぎない。 したがって、 「完全競争の達成の失敗」が直ちに 「直接的中央集権的な財の分配」を生み出すというのは誤りである。 彼は続けて
「コピーライトの保有者と、 潜在的利用者が自由に取引することができるならば、 知的財産の効率的な配置が可能だろう。しかし、 市場における上記のような取引が不可能であるか、 あるいは不可能なほど費用がかかる場合、また、 コピーライトの保有者が無権限の使用者を排除することができない場合に、 パレート最適を達成するためには、集中化された分配のシステムが必要となる。 もっとも顕著な例は フェアユース の司法的立場である。 [52]
と述べているがこれも誤っている。 彼は知的財産の価値を推定する市場価格は存在しない [53]とみずから述べながら、 達成すべきパレート最適状態が存在すると考えているのである。

また、知的財産の効率的な配置を阻んでいる要因は、 市場における商品についての情報の不均衡であり、 自らが生みだした知的財の需要がどこに存在するのか、 あるいは自分のほしい情報が どこにどの程度の価格で存在しているのかという情報流通の問題が、 取引費用の大部分を構成しているのである。 この市場における情報の不均衡を解決するには、 Adelsteinがいうような中央集権的分配では、 中央が処理すべき情報量が飛躍的に増大し、 結果的に不効率な財産の分配状態を招くことは、 社会主義の計画経済システムをみれば明らかである [54]

そこで、 真に情報の不均衡を解決する手法は、 情報の需要の現場で交換が生じることであり、 これはすなわち、 どれだけたくさん複製しても価値が減ずることのない情報商品であれば、 その知的財そのものを市場に遍在させ、 これを利用する需要者が自らの需要と効用に応じて、 権利者に対価を支払うシステムを維持することが最も効率的になる。この時、 彼のいう「無権限の使用者」とは潜在的顧客に異ならないのであるから、 まして集中的管理システムは不要なのであり、 必要になるのは集中的代価徴収あるいは支払いのシステムなのである。

したがって、 この市場の失敗がそのまま「フェアユースの司法的立場を生みだした」 という議論は明らかにこじつけということになる。確かに、 現存する擬似市場的知的財産権交換システムにおいて、 外部性が大きな領域について フェアユースが適用されている、 すなわち家庭内における私的複製が認められることは正しいが、 フェアユースの概念はこのような市場の失敗を理由にするのではなく、 明らかに政策的目的に従って存在している領域、すなわち図書館、 学校における自由複製もあるのである。 これらの場所における複製は管理者が存在するという意味で、 複製の対価徴収をしやすい局面であるにもかかわらず、 フェアユースは認められているのである。

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13 フェアユースについて

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Pattersonの主張によれば、 フェアユースは、一般的に存在する知的財産権システムのほころびではなく、 知的財産権システム自体が 一般的に存在する情報流通自由の原則の特例であると説明する。 このように考えれば、 AdelsteinおよびGordonが行ったような、 フェアユースによる権利者の財産権上の損害が 社会的利益で埋め合わされるというようなことを検討することは逆であり、 むしろ、コピーライトによって生じる社会的損害が、 コピーライトの存在によって生み出された社会的利益によって、 どのくらい埋め合わされているのかについて検討する必要があるのである。

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14 危険負担について

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知的財産のそれぞれの作品についての固定費用は、 全生産費用に対して大きな割合を占める、とされる。 この命題の意味するところは、 おそらく作品創作に費される創作者本人の労力や投資を指すのだろうが、 この中には、複製物生産に至るまでの印刷機械等の設備費や組版、 校正などに関与する媒体企業側の初期投資をも含んでいると思われる。 この高い固定費用に比較して、複製物生産の限界費用は逓減する。このため、 複製物の生産が開始されれば、平均費用もまた急速に減少していく。このことから、 知的財の市場流通には、 一定規模の市場が存在しなければ、 事業として成立しないことが示される。従来、 平均費用を合理的な値にまで引き下げるだけの市場が見込まれない創作物は、 知的財の市場から排除されることになった。

しばしば出版事業は需要見込が困難であり、 採算割れした出版物の穴埋めを少数の売行良好作品の収益で行っていることが、 特定の売行良好作品について投資の数倍の利益を独占的に認める根拠として 主張されてきた。しかし、 媒体企業は、 通常の企業と同様に需要見込について経営的責任を持たなくてはならないのであり、 ある作品の経営的失敗を他の作品の収益で補うことを認めるという 保護政策を維持することには疑問がある。しかも、 この経営上の危険回避を理由に、 売行良好作品からの収益を過大に維持し続けることは、 市場に投入される作品の数を過大に維持する結果となる。しかしながら、 知的財産権の目的の一つが創作物の多様性にあると考えるならば、 経営的成功の可能性はなくても 社会的に有為な作品を市場に送り出し得る手段として、 経営上の危険分散の論拠は容認され得るかもしれない。

一方、 出版者が利益を最大化しようとしているかどうかについて疑いがあるという見解もあ る。

「売行良好本と不人気本の間の価格差は小さい。 また消費者の書物の消費選好について、価格によって決定しているのではなく、 出版者のブランドや、宣伝活動や、著作者の権威によるものである。従って、 価格と売り上げの関数関係については疑問がある。 本の価格決定は業界の価格指導企業 (price leader) によって行われている。 書籍業界は価格競争に関して、関心をもっていないし、影響を受けない。 書籍の価格の低下は必ずしも売り上げの向上につながらない。 需要に与える価格の弾力性の問題は最初の定価を決定するときに重要なのであり、 その後の需要をにらんだ調整にはあまり影響しない。本の価格弾力性は非常に低く、 生産量の増加や変動費の低減に影響されない [55]。」
このような書籍の定価における大きな弾力性の説明として、 書籍市場が通常の自由競争市場とは異なった性質を持つことの一つの証左である。 このような価格の硬直性が再版制度と関係があると考えられる。しかし、 書籍価格の弾力性が大きく、また再版制が存在すれば、 結果的に書籍価格は市場で決定されるはずの価格よりも常に高く設定される傾向があ ると考えられる。いくつかの売行良好本の価格が上昇することはないが、 不人気本の価格は再版制によって維持されるのである。

以上の検討は媒体企業と消費者の間の市場についての考察だったが、 創作者本人の危険について知的財産権は手当しているだろうか。 先に述べた固定費用には、 当然に創作に費された創作者の労力や費用が含まれているはずであるが、通常、 創作者本人が自らの創作について、 厳密な需要見込を立てながら創作するとは考えにくい。しかも、 創作者本人は創作の過程においては、 自らの投資において創作をしなければならない。 さらに、媒体企業がこの作品について十分な市場が存在しないと判断したならば、 創作者はいっさいの経済的報酬を受け取ることができない。 この創作者本人の危険について何らの手当も存在しないのだろうか。

これは奇妙な結果となる。というのは、そもそも、 媒体企業が特定の作品から過大な収益を獲得する根拠として、 市場に提供される作品の多様性を大きくするという、 政策的目的が存在していたのであるが、 その場合においてさえ、 ある創作者の作品が市場に送り出されることを 経営的判断において拒否される局面が存在するからである。 出版事業が営利企業によって行われることを考えれば、 需要見込をたて、 採算が取れないと思われる出版を行わないことは、 当然の経営活動である。 しかしながら、知的財産権によって 特定の作品について過大な収益を保証することは、 明らかに媒体企業側の経営危険を分散する結果となっており、 これは媒体企業に対する保護政策となっている。この保護政策が容認されるならば、 逆に創作者側に存在していた危険を出版者側に転嫁する仕組みが存在しなければ、 不平等ではないだろうか。具体的にいえば、 出版の意思のある創作者の出版を、 媒体企業が拒否できないというような仕組みが存在しなければ、 媒体企業に対する保護政策が創作者の利益と結び付かない。一方、 創作者側の創作活動に存在する危険については何らの手当もしていないことは、 知的財産権が創作者の権利であるとする命題に対する一つの反証となる。

また、一単位の商品の価格に比べて、その生産に必要な追加的な資源は非常に小さく、 固定費用を加味した費用と固定費用を除外した費用の間には大きな乖離が存在する。 このため当然に平均費用に差が生じ、 結果的に市場に投入される価格の差となるのである。 この乖離が海賊版の問題を生じさせる。 この海賊版の問題は、 印刷術が誕生した時点から存在する複製技術に根源的に存在する問題である。 海賊版は固定費用を他者に転嫁する点で不正な営業行為だということができる。 このため、知的財産権制度は、海賊版の禁止 すなわち違法な複製を禁止するという機能を、 原始的な形態の当時から中心的な機能として持ってきたのである。

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15 海賊版について

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著作権制度の始まりの時点から、 その制度が禁止しようとしてきた対象は海賊版にほかならない。先に述べたように、 出版事業においては固定費用を回避することができれば、 事業に必要な費用は大幅に小さくなる。また、 固定費用を回避するためには他者の出版物をただ複製すればよいのであるから、 ある人物を海賊出版に着手させるための誘引は大きいと言える。しかしながら、 複製に必要なコストが正規版と海賊版の間で同一であれば、 著作権法によって禁止しなくても、 海賊版を抑制することが可能であるという考えかたも多い。例えばHurtは

「それぞれの作品の生産についての固定費 (fixed cost) は全生産費に対して大きな割合を占める。高い固定費と限界原価 (marginal cost) の低減のため、平均費用 (average cost) は急速に減少する。出版者は、 需要を予測し、その需要予測に基づいて本の価格を決定する。この状態で、 海賊出版者は、より低い固定費で出版が可能となる。しかし、限界費用は第一出版者、 海賊出版者いずれとも小さく、低減して行く。 このため海賊出版者は第一出版社よりも明らかに低い平均費用で生産を行うためには、 第一出版社と同程度の期間にわたって生産を続ける必要がある。このため、 本の生産は当初の需要予測の二倍となる。この時、 仮に第一出版社が正確に需要を予測し、これに基づいた価格を設定していたとすれば、 より低い価格帯の市場に到達できるほど価格が低下するまで、 大量の在庫を抱えることになる。限界費用は両方の出版社とも同一のため、 第一出版社は同様に在庫を消化するために価格を下げることができる。 [56]
と述べている。すなわち、 第一出版社には早く市場に到達できるという優位性が存在しており、 市場投入価格における需要を正確に予測することができれば、 その需要を満たすだけの商品を最初に投入することで、 その価格帯の需要を独占的に満たすことができる。そうすれば、 海賊出版業者はより低い価格帯での需要を目指して、 低い価格設定をしなければならない、しかし、 この時すでに第一出版社は、 固定費用を加味した投資額に見合うだけの収益を獲得しており、 海賊出版業者と同様に固定費用を除外した価格設定で、 海賊版と競争することが可能である。 この時、一般に第一出版社の規模が大きければ、 海賊出版業者より低い価格で商品を市場に投入することができるので、 海賊版を正規の廉価版によって駆逐することは容易である。したがって、 著作権法の保護が存在しなくても、正規版の出版は継続され、また、 消費者は正規版を先んじて購入することができるし、 また正規出版者から出される廉価版をまって購入することができ、結果として、 より広い価格帯の市場に商品が投入されることにより、 社会的利益は増大するのである。同様の見解として、Plant [57]が存在する。 この時間的先行の優位による海賊版抑制のシステムは現実に機能していた。先 [Jump!] の“Fighting Edition”がそうである。

ここで何よりも必要となるのは正確な需要予測である。しかしながら、 上記のような先行関係による優位を機能させるためには出版時に潜在的購入者が一斉 に購入することが想定されている。実際には、 著作物の消費は長期間にわたって分散的に生じるのであり、一方、 海賊版は最初の商品の投入が行われれば直ちに作成可能となるのであるから、 やはり一定期間の排他的独占権が存在しなければ、 最初に投入される正規版が海賊版が市場に投入されるまでの期間に存在する市場しか 想定できないので、 この段階のみで固定費用を回収しようとすると第一正規版の価格が高価になりすぎる 危険性がある。そうすれば、 当然に消費者は次に登場する海賊版あるいは廉価版を購入しようと第一正規版の購入 を控えるのであり、 結果的には第一出版社が固定費用を回収することを困難にするのである。したがって、 出版物の市場が空間だけでなく時間的にも分散していることを想定すれば、 むしろ上の分析は著作権制度の排他的独占権が一定期間存在することを説明すること になる。

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16 私的複製について

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では、私的複製行為、すなわち利用者が自ら行う複製行為についてはどうだろうか。 印刷術が誕生してから近年まで、利用者の複製能力は非常に低く、 複製の限界費用には媒体企業と利用者の間には大きな乖離が存在しており、 私的複製において海賊業者と同様に固定費用を負担しないという 不公正が存在していたのであるが、問題とならなかった。 端的にいえば、 私的複製で作られた複製物は、 媒体企業が提供する正規版に比較して市場性が著しく低かったので、 実際問題として正規版の営業利益を脅かすことはなかったのである。

私的複製者は複製の限界費用が非常に高い、すなわち、 正規版を購入した方が経済的であるにもかかわらず、 複製行為を行うからにはそこには合理性が存在していた。例えば、 一部分の複製のみが必要であり、 正規版を購入して知的財の全体を保有する必要がない、 あるいは正規版が絶版しており、購入することができない場合などである。 一部分の複製については、媒体企業はその部分についてのみ販売していないのだから、 その部分の私的複製によって獲得された利用者の利益の分だけ、 社会的利益が増大しているはずである。 一方、購入できない出版物の複製についても、 媒体企業が手当しなくなった市場について利用者の利益が増大した分、 社会的利益も増大したのである。したがって、 これらの私的複製は伝統的に容認されてきたものと思われる。

このような私的複製は創作者自身の利益を害するだろうか。 創作者が仮に作品を媒体企業に売却してしまっていれば、 既に創作者の利益と複製物の生産良の間には何らの関係もない。したがって、 私的複製は創作者の利益を害しない。一方、 創作者の報酬が出版された書籍の数に比例している場合、 潜在的に存在していた需要が第三者によってまかなわれた分、 創作者は潜在的な利益を失ったとも考えられる。しかし、先に掲げた、 媒体企業と創作者の間の複製に対する限界費用に 大きな乖離がある場合の例で考えるならば、 いずれの市場も媒体企業が手当していなかった市場なのであるから、 そもそも、創作者は報酬をうけることができなかったのである。従って、 上記の私的複製において、潜在的報酬が存在しないのであるから、 潜在的損害も存在しない。

逆に、 媒体企業の複製についての限界費用と 利用者の複製についての限界費用の間の差がほとんどない場合、 すなわち、 利用者の複製費用が低く なおかつ正規版と複製版の間の代替性が高い場合である。 この場合には、私的複製は明らかに正規版の市場に対して脅威となる。 この情況において正規版の代替物として複製版を作成する私的複製者は、 明らかに正規版を作成する権利をもつ媒体企業の利益を侵害していると言える。

このようにして、 近年生じている知的財産権への興味の高まりが説明されるのである。 その主張は、全ての私的複製を禁止せよというものであり、 知的財産権を強化せよという主張となる。しかしながら、ここで注意すべき点がある。 媒体企業の複製についての限界費用と利用者の限界費用に差がなくなっても、 なおかつ媒体企業が知的財の流通において 特別な地位を保有すべきなのだろうか?

コースの企業理論において企業とは交渉費用を最小化するために、 あるいは規模の経済でより効率的に財、 サービスの生産を行うために存在しているといわれる [58]。 利用者における複製の限界費用が十分に小さくなった状態において、 それ以上の低い費用で知的財を供給できないのであれば、 経済主体としては存在意義がないことになる。この状態において残る不公正とは、 創作者および媒体企業が投入した固定費用を私的複製者が負担していないことである。 従って、この場合における社会的利益を最大化する解は、私的複製の禁止ではなく、 いかにして私的複製者に固定費用を負担させるかという制度的検討である。

「1959年のXerox 914の発売により、 印刷物の利用者はたやすく複製を作成し利用することができるようになった。 複製物の品質は原本に劣るが、 それはしばしば原本以上に便利に利用することができる。 著作権を保有している印刷物の提供者は、 このような形態の生産物の利用を彼らの財産権の侵害であると考えている。 より重要なことには、複製が、 彼らの収益と原本に対する需要を消耗させると考えている。しかしながら、 写真複製の実行可能性は、一般的には知られていないが、重要な効果を持っている。

(1)これらの原本が安価に複製できるので、 それらの複製可能な原本についての需要が高まること、 (すなわち、著作権保有者によって複製者の需要は間接的に領有可能となる)

また、

(2)著作権の存在する財の全体的な価値が劇的に変化することである。

これらの二つの効果を理由として、複製は必ずしも、著作権保有者の収益に対して、 有害な影響を与える訳ではない [59]。」

「所有者はある数量の正規版を販売する。この正規版から無権限の複製物が作成される。中古車の購入者の例と同様に、仮に、正規版の購入者が、 正規版の購入の際に正規版の再販売を計算に入れて購入していたとすれば、 海賊版の利用者は、海賊版の購入によって、 間接的に著作権者に海賊版の使用料の支払いをなしていたのである。それ故、 著作権者の収益に対する複製の影響は明確でない [60]。」

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17 新しい市場について

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このように議論するならば、存在していなかった市場、 例えば新しい形態の媒体が現れることによって生じた市場において、 創作者の潜在的利益が存在していなかったのであるから、 ここで作品を利用して生じる利益を、 その市場を開拓した人物に与えるのは正当であるという考え方も 出てくるだろう。しかし、 その新媒体にともなって生じた市場において、 創作者の作品を利用することによって、 新しい作品を創作するために必要だった固定費用を負担していないことになる。 従って、新しい媒体によって生じた市場についても、 創作者の固定費用は負担されなければならない。すなわち、 著作権使用料は支払われれるべきである。

しかしながら、 従来の市場においてその作品を提供してきた媒体企業は、 新しい市場については何らの手当をしてこなかったのであるから、 何らの権利主張もできないことはいうまでもない。まして、 新しい媒体によって従来の媒体市場における需要が低下することを論拠に、 何らかの権利を主張することは容認されない。 知的財産権法は媒体産業における既得権を保護するものではないからである。

創作者ではなく媒体企業が著作権を保有している場合がある。また、 著作権そのものではなくても、複製権などの支分権であり、 なおかつ基本的な権利を保有している場合がある。この場合は、当然に、 創作者から媒体企業に著作権や複製権か移転する際の価格に、 潜在的市場から獲得される潜在的利益についても考慮がなされていたはずであるから、 この場合に、媒体企業が権利を主張することは容認される。

しかしながら、 技術的革新の速度が早い現代においては、長期的な予測にたって、 権利の価格を決定することはなかなか困難であり、 著作権法が創作者を保護する立場を堅持するならば、一定期間の後に、 売却した権利の価格について再検討する必要があると思われる。 このような制度については、既にアメリカのコピーライト法においてすでに、 一定期間の経過の後に、 著作権が創作者本人あるいはその遺族に復帰する制度を導入している。 この制度は著作権の保護期間が長期化する傾向のある現代において、 創作者の利益保護のための制度として必要な制度であると考えられる。 そうでなければ、知的財産権の利益を正確に創作者本人に与えるためにには、 創作者および媒体企業は権利の移転交渉の際に、 長期的な市場の需要予測を行わなければならず、 取引費用が不合理に増大する危険があるからである。

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18 学習奨励効果について

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いうまでもなく、知的財産権は、 創作者に対して投資の回収を保証したものである。 従って、創作過程において、創作者は何らの援助もなく創作を行わなければならない。 事前に創作活動に対して資金的援助が行われる場合、それはパトロン制と呼ばれ、 あまり好ましくない社会的結果をうむものとして説明される。 Landes & Posnerの検討により、 知的財産権の強化は、 結果的に創作者の創作費用を上昇させるものとして説明されているが、 創作者が何らの資金援助もなく創作をおこなわなければならないのに対して、 創作費用が上昇するならば、創作活動は抑制される結果となる。この場合、 知的創作から得られる期待収益が知的財産権の保護により増大するから、 その程度において学習奨励効果があるとする議論がある。しかしながら、 期待収益の大きさが 経営的成功の確率と成功した場合の収益の大きさの積で表されるので、 すでに成功した著作者ではない成功の可能性が非常に小さな創作者については、 全く奨励効果がなく、 創作費用の増大に伴って学習奨励効果は逆の効果を発揮することになる。

知的財産権の保護の強化により創作費用が増大する状況において、 創作をおこなおうとする者に対する何らか別の奨励策がない限り、 知的創作に従事しようとする者は自らに一定の資産が存在するか、 あるいは創作活動の期間その費用を支弁してくれる保護者の存在を必要とする。 このようにして、知的財産権の強化は、 個人的な努力により創作活動を行おうとするものに不利に働き、その結果、 創作活動を行おうとするものは、創作活動を大学などの研究機関において、 公共的な援助を受け、さまざまな創作活動を支援する設備を利用できる者か、 あるいは民間の企業に就職し、その開発費用に依存しながら研究を続けることになる。 その結果、知的創作に従事しようとする人々は次第に大企業に吸収される結果となる。

仮に、知的創作が自由な人間の精神に基づくものであるならば、 この傾向はpagronageと同様の理由で好ましくなく、また、 法人著作の規定がある国家においては、著しく法人側に有利に働く。しかしながら、 現代の知的創作の規模が大きくなり、 もはや個人の能力では市場における競争力が維持できないならば、 この法人に知的創作を行う人的資源が集中するという傾向は、 国家の産業能力を強化する目的において有効に機能することになる。但し、 このような創作者の経営者への従属状況が、 長期的な観点にたって知的創作の量および質を最大化するか否かについては、 疑問がある。

現在の知的創作物の市場において、明らかに能力の高い人気作家は別にして、 文筆家は出版社に、音楽家はレコード会社に、 プログラマはソフト会社に吸収される傾向がある。 知的財産権の強化は明らかに先の分析の効果によって生じたものであるし、また、 保護の強化によってこの傾向は強化されるだろう。 創作が人間の個人的な能力に依存すると仮定するならば、知的財産権の強化とともに、 創作活動に従事する者への経済的支援策を準備しなければ、 学術振興効果はほとんどないといって良いだろう。

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19 コピーライトの保護の強化が社会的効用を最大化する条件は?

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社会的損失について。

「生産者が保有している市場力のゆえに、 生産者価格が顕著に生産において 必要な限界費用を上まわっているだろうという事実に結合し、 このことが、 過少利用に由来する社会的損失として知られる 第二の社会的福利の損失へと導くのである。 この社会的福利の損失は二つの部分から構成されている。第一は、 消費者について生じる損失である。すなわち、彼は、 生産物の限界費用について支払う意図がありながら、 高額に設定された価格のためにその商品を消費しない消費者である。第二は、 仮にこれらの消費者がそのソフトを生産者から購入したならば、 生産者によってなされるであろうよりも、 複製においてより現実の資源を拡大する消費者によって生じる損失である [61]。」

「いくつかの種類の財は、 独占状態あるいは売り手寡占の状態で 最も効率的に提供されると考えられている。 その一つが著作権法である。しかしながら、 いくつかの証拠はこの仮定が常に正しいと限らないことを示す。 著作権法が効率的になるにはいくつかの条件を満たすことが必要である。 たとえば副次的市場(Market fot subsidary use)の存在。また、高い複製費用、 また複製物市場の存在である [62]。」

「技術に付随する四つの費用が関係をもつ。複製に必要な固定費用。 特異の作品の複製に必要な固定費用、最初の複製の変動費用、 そして第二回目以降続く複製の変動費用である [63]。」

「19世紀のイギリス作家のアメリカでの出版の逸話に指示されて、私は、 著作権法の保護とは独立の、出版活動における技術の故に、著作者は、 適切な使用権料価格を確実に把握することができると結論する。 実際に印刷技術のために、出版者は、仮に著作権法の保護が存在しなかった場合に、 大量の安価な版の出版を余儀無くされるだろう。従って、 著作権法の社会的価値は否定的なものとなる。書籍についていえば、 本として読まれるだけでなく、映画やその他の派生的形態によって楽しまれる。 著作権法はおそらく、効果的な市場に対して必要不可欠であろう。 油絵の場合に示されたように、 書籍において示されるアイデアの市場の性質に於ける経済学的正当化の仕組みが、 書籍が書籍自体として取引される市場の正当化と同一でないことに注意せよ [64]。」

「私は、基本的著作権法の保護は、 それが現在適用されている知的財産権の部分集合についてのみ有功であると結論する。 基準的要求水準は、その作品が配布形態において価値を持ち、あるいは、 海賊複製が作成する多くの複製物の割合で、複製が期待され、 特定の作品についての固定費用が低い場合である。私は、 より狭くそしてより一般的な示唆に進みたいと思う。第一に、著作者にとっても、 出版者にとっても、 多くの種類の媒体について著作権法の保護を強化するように追求することは、 得策ではない。例えば、私は、次のことについて悲観的である。 コンピュータソフトウェアの出版者への著作権が競合する出版者を除いて、 複製を抑制するというような傾向である。 もっと広くいえば、政策の道具の一般化は、 危険な試みである。 特定の市場の独特の仕組みとそれぞれの技術の差異は、 社会機構においての制度的障害の効率性を予測するにあたって、 本質的であり、偶発的なものではないのである [65]。」

上記の議論は、四つのそれぞれに興味深い論点をもたらす。社会的福利の損失は、 経済主体が、障害を乗り越えたり、 回避したりする場合に資源を消費する場合に生じると広く認識されている。例えば、 関税を回避するために消費される資源に由来する 社会的損失についての一連の研究である。 一方、窃盗に由来する社会的福利の損失の大部分は、 窃盗を回避するために投入される人々が投資する資源によると主張する。 しかしながら、これらのいずれの論文も、

※ たぶん、私はここで執筆を中断したものと思われる。

「効用関数に含まれる経済財の生産と利用可能性の増大を通じて、 直接あるいは間接の効用関数に含まれる財あるいはサービスの生産ではなく、 罰金としての収益を生む」行為について考えてきた。我々の分析は次のことを示す。 この種類の社会的福利の損失は、複製物の生産がそうであるように、 積極的生産をふくむ考察のもとの活動においても、生じうること [66]。」

「社会的福利の損失についての我々の結果が これほどまでに先行研究者の主張と異なった理由は、 我々の仮定する消費者が 部分的に非排他的な財の品質についての評価が異ならないからである。 この仮定は非常に重要である。なぜなら、仮に著作権法の保護が、 この仮定が維持されない世界において、強化されるべきものならば、 いくらかの個人は、部分的に非排他的な財を全く消費しなくなるからである。 しかしながら、我々は、そのような世界においても我々が示したかったことは、 正しく維持されると推量する。すなわち、そのような状況においても、 著作権法の強化は、 過小利用に由来する社会的福利の損失を 減少させることができるだろうというのである [67]。」

「いくつかの原本のみが複製される場合、原本の複写は、 全ての原本について同様の影響を与えない。この場合、 複製は原本によって提供される価値について多様なものとなる。 この複製に起因する価値の多様性に直面して、同様の収益可能性を維持するために、 出版者は、原本の購入者の間で価格差を導入できるようにする必要がある。 多くの複製の作成に使用されるだろう原本には、 高い価格を設定しするというようなことである。 仮に、価格についての差別が設けられないとすると、 出版者は高い価格を設定するだろう。この場合、複製物を作成することを計画し、 出版者側の過剰な剰余を除去するような個人のみが原本を購入することになる。 あるいは出版者は安い価格を設定することもできる。 これによって複製者や非複製者もが原本を購入するので、 需要の拡大を期待することができる。しかしながら、 原本から複製物を作成しようとする消費者からは、 多くの剰余を獲得することに失敗する。原本あるいは複製物の所有者が、 複製物を作成ことによって、獲得した利益を評価することができないので、 著作権者が自らの作品から収益を獲得する可能性を減少させる。極端な話、 個々人の優位が無権限の複製に使用され、また仮に、 収益可能性の連鎖が早くも破壊されているならば、 収益可能性は完全に消滅してしまう [68]。」

─────── * ───────

20 終わりに

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『コピーライトの史的展開』 を1998年に刊行した後、私は、 『コピーライトの経済分析』を執筆しようと研究に取り掛かっていた。 その計画が頓挫した残骸がこの文章だ。幸いにも1999年には、 法政大学社会学部に講師として採用され、経済的に安定したのだが、 こんどは社会学部での法律学関連講義の準備に全力を傾けなければならなくなった。 これに取り組んでいるうちに、1998年当時に手に入るだけ集めた、 経済学者による「コピーライトの経済分析」に関する論文が どんどん古くなってしまった。 2002年頃までは、なんとかこの成果を形にしようという気持ちがあったが、結局、 未完成のままハードディスクドライブの中に長年放置されることになっていた。

著作権をめぐる議論では、 「著者がより大きな報酬を獲得して経済的に安定すれば、 よりいっそう励んで創作活動に従事するはずだ」 という主張があるが、 経済学者たちは、この主張を根拠のないものと否定する。 私もこの未完の論文をめぐる自己の経験から、経済学者たちに同意する。

こうした未完の論文を、2011年にもなってあえて公開する気になったのは、この年、 『〈反〉 知的独占』という書籍の解題を執筆し公開したことと関係している。 読んでいて気がついたのだが、『〈反〉知的独占』は、 私がこの文書で狙っていたことを、 学術的にも毒舌的にもより高い次元で実現していたのだ。まあ、 経済学者たちの議論を読んだ上で、 知的財産権について考えれば似たような結論に至ることは当然だと思うのだが。

もしかすると、この未完の論文であっても、『〈反〉知的独占』 を理解するための手助けになるかもしれないと思ったので、 整理して公開することにしたのだ。この未完の『コピーライトの経済分析』が、 何らかの意味で皆さまのお役に立ちますよう。

Note

[1]
1959年に複製時代の象徴とも言えるXerox 914乾式複写機が市場に現れた。
[2]
Michael O'Hare, Copyright: When is Monopoly Efficient?, Journal of Policy Analysis and Management, vol.4, no.3,(1985) p.408.
[3]
Arnold Plant, The Economic Aspects of Copyright in Books, Economica, New Series I, no.1-4,(1934) p.186.
[4]
Robert M. Hurt and Robert M. Schuchman, The Economic Rationale of Copyright, The American Economic Review, vol.LVI, no.2,(1966) p.424.
[5]
L. Ray Patterson and Stanley W. Lindberg, The Nature of Copyright: A Law of User's Rights, (University of Geogia Press, Geogia, 1991) p.51.
[6]
Ian E. Novos and Michael Waldman, The Effects of Increased Copyright Protection: An Analytic Approach, Journal of Political Economy, vol.92, no.2,(1984) p.236.
[7]
O'Hare, supra note 1, at 411.
[8]
William M. andes and Richard A. Posner, An Economic Analysis of Copyright Law, Journal of Legal Studies, vol.XVIII, (1989) p.326.
[9]
Patterson, Nature, supra note 1, at 50.
[10]
Id. at 51-52.
[11]
Id. at 68.
[12]
Richard P. Adelstein and Steven I. Peretz, The Competition of Technologies in Markets for Ideas: Copyright and Fair Use in Evolutionary Perspective, International Review of Law and Economics, vol.5, (1985) pp.227-229.
[13]
Plant, supra note 1, at 167-168.
[14]
Id. at 189-190, Patterson, Nature, supra note 1, at 76-78.
[15]
Id. at 67.
[16]
Contstitution Section 8-[8].
[17]
Hurt, supra note 1, at 425.
[18]
Plant, supra note 1, at 192.
[19]
Id. at 191.
[20]
Id. at 192.
[21]
Id. at 193.
[22]
Hurt, supra note 1, at 429.
[23]
ibid.
[24]
Plant, supra note 1, at 191.
[25]
Id. at 184.
[26]
The Message in the Medium: The First Amendment on the Information Superhighway, Harvard Law Review, vol.107, (1994) pp.1062─1098.
[27]
Hurt, supra note 1, at 431.
[28]
American Society of Composers, Authors and Publishers.
[29]
80 F. Supp. 900 (S.D.N.Y. 1948).
[30]
334 U.S. 131 (1948).
[31]
306 U.S. 208 (1936).
[32]
Hurt, supra note 1, at 431.
[33]
Plant, supra note 1, at 192.
[34]
ibid.
[35]
Plant, supra note 1, at 171.
[36]
Adelstein, supra note 1.
[37]
Plant, supra note 1, at 185.
[38]
Macauley "House of Commons, second reading of Serjeant Talfords, Copyright Bill in 1841" (February 5, Hanserd, vol. LVI).
[39]
Id. at 170.
[40]
Id. at 193.
[41]
Hurt, supra note 1, at 427.
[42]
Plant, supra note 1, at 172.
[43]
Id. at 173, Hurt, supra note 1, at 428.
[44]
Plant, supra note 1, at 194.
[45]
Landes & Posner, supra note 1, at 326.
[46]
Robert D. Cooter and Thomas S. Ulen, 法と経済学, 太田 勝造 trans., (商事法務研究会, 東京, 1990), Law and Economics, (Scott, Foresman & Co., Glenview, Illinois, 1988).
[47]
Adelstein, supra note 1, at 218.
[48]
O'Hare, supra note 1, at 410.
[49]
Id. at 410─411.
[50]
Id. at 411.
[51]
Adelstein, supra note 1, at 211.
[52]
ibid.
[53]
ibid.
[54]
Id. at 212.
[55]
Hurt, supra note 1, at 432.
[56]
Id. at 428.
[57]
Plant, supra note 1, at 174.
[58]
Ronald H. Coase, 企業・市場・法, 宮沢 健一 and others trans., (東洋経済新報社, 東京, 1992) pp.39─64, The Firm, The Market, and The Law (The University of Chicago, Illinois, 1998).
[59]
Liebowitz, supra note , at 945─946.
[60]
Id. at 947.
[61]
Novos, supra note 1, at 237.
[62]
O'Hare, supra note 1, at 407.
[63]
Id. at 412.
[64]
Id. at 415.
[65]
Id. at 417.
[66]
Novos, supra note 1, at 244─245.
[67]
Id. at 245.
[68]
Liebowitz, supra at 948.

─────── * ───────

Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 准教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
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