1 アスペン・サミットとはアスペン・サミットとは、アメリカの情報政策に関して影響力のある団体の中でも、共和党側にたつ団体であるPFF (Progress & Freedom Foundation)が開催した、情報政策に関する重要関係者の公開討論会である。テーマは、「サイバースペースと第二のアメリカン・ドリーム」であり、産業基盤としてのサイバースペースの位置づけと経済分野における自由主義が前提とされている。会期は1995年の8月21日、22日の二日間で、場所はアメリカ中央部の都市デンバーに近いリゾート地アスペンで開催された [1]。PFFに先んじてネットワーク全体についての政策提言や人権保護を唱えてきた団体 EFF(Electronic Frontire Foundation) に関係の深い論者も参加している。EFFがどちらかといえば民主党寄りであることから、人選が偏っているという印象はない。それぞれの詳細な履歴についてはアスペン・サミットのホームページを見てもらうこととして、特に著名な人物について簡単に説明する。 バーロウは、EFFの主力構成員だった人物である。彼はEFFをすでに脱退し新しい団体を設立している。この背景には民主党の最近の通信政策に対する反発があると見られており、バーロウの脱退によってEFFは危機に瀕しているといわれている。ギルダーは、情報技術の社会的影響に関する多数の著書を持つ論客であり、共和党の情報政策に大きな影響をもつ人物の一人である。ケリーは、「デジタル革命」を掲げながらネットワーク文化を一般に紹介する雑誌「WIRED」の編集長である。80年代から、ネットワーク文化の中で活動を続けており、いわゆる西海岸的ハッカー文化に深く精通している人物である。トフラーは、いうまでもなく未来学者として著名であり、「未来の衝撃」「第三の波」など日本でもベストセラーを出している。彼は、また共和党系の広範な人脈を駆使して、政策に影響を及ぼしうる実力者でもある。 このように、共和党と民主党、エリートとサブカルチャーという明確な対立軸がうかがわれる人選である。しかし、ほぼ半数の参加者が大学の博士号をもつ情報エリートであり、それ以外の参加者もコンピュータに深い関係をもつ人々であるため、両者とも情報ネットワークに肯定的であることについては違いはない。ここでのレポートはこのアスペン・サミットに関するオンライン討論の概観とまとめである。討論の議事録は http://aspen.pff.org/forums/forums.htmlにて公開されている。実際のサミット参加者の中でも、いわゆる東部エリートに属する人々がオンラインでは、ほとんど参加していないことが残念である。
2 政府の役割伝統的に共和党は小さな政府、内政重視、連邦主義を掲げているが、近年のアメリカ政治の保守回帰に伴い、この共和党的理念が支持を集めるようになっている。アスペン・サミットの基調もまたこれを反映したものであり、ネットワークへの政府介入の程度をできるだけ小さなものにすべきであるという論調が主であった。この点については、ネットワークへの政府の介入を嫌うネットワーク文化とも利害を同じくしている。これまでゴア副大統領の個人的人気もあって、ネットワーカー達から支持を集めていた共和党は、政権を握って以来、通信政策、通信産業における規制緩和について守りの側に回らざる得なくなっている。このため、市場への信頼を基礎にした、共和党のネットワーク自由主義的な政策への人気が高まっている。 この市場への信頼とは、将来の市場および資源の状態が予測できない状況においては、人為的な資源の分配の失敗の可能性が高まるというものである。これは、人為的な資源の分配よりも市場の方が資源の分配において効率的であるという経済学の理論を基礎としている。少なくとも通信・コンピュータ分野においてはこれまでにない急速な基礎条件の変化が進んでいるのであるから、対応が遅れがちな政府による規制に任せるのではなく、市場機構に任せるのがもっとも確実であるということになる。 資源分配を市場機構に主導させるためには、政府の介入の程度を減少させなければならない。具体的にはFCC (Federal Communications Commission) の再編が一つの主張となっている。FCCはアメリカの連邦レベルでの独立行政委員会であり、国際・州際通信に対する規制、放送規制、電波監理等を担当している。これまでFCCは、いくつかの連邦最高裁の判断を通じて認められた、情報支配力の過度の集中を防ぐ経済規制、放送内容に関する内容規制を行ってきた。例えば長距離電話会社と地域電話会社の市場の分離や、通信事業者の高度情報提供サービスへの参入禁止などである。また、内容規制については年少者保護を目的とした広告規制、放送内容の時間規制などがあげられる。 しかしながら、情報技術の急速な発展によって、既存の規制の枠組みに捕われないサービスが多数発生したため対応を迫られていた。特に共和党が攻撃しているのが、過度のFCCの経済規制により通信・コンピュータ産業の再編が妨げられているというもので、新しい市場の発展のためには大幅なFCCの経済規制の撤廃が必要であるとする。この経済規制の緩和については、行政府側も積極的であり、大きな対立点とはなっていない。1995年通信法改正案の大部分がこの通信分野における経済規制の緩和である。 この通信産業における競争の活性化については、ネットワーカー側の論者も賛成しており対立はない。ただ、過度の自由化は相互に接続できない規格の乱立を招きかねないという懸念が提示されている。しかしながら、規格もまた産業側の主導によって進められるべきもので、政府側の関与は最小限に止めるべきであると主張している。また、ネットワークを産業基盤として用いるためには、そこに秩序が必要であることについても論争はない。しかし、ここにおいても政府の過度の介入は歓迎されず、産業界を主導とした暗号化技術の応用によって解決されるものとみられている。但し、秩序維持における政府の具体的な行動については、対立点があるものとおもわれる。 基調としては、政府の役割はあくまでも補助的なものでネットワークへの介入は小さければ小さいほどよいと考えられているようだ。こうした公的役割の縮小で統一された観のある論調の中で、公的サービスの拡充が求められたのは図書館の役割である。公共図書館がインターネットにおける厖大な情報を整理して紹介する機関として有望であるという指摘がされた。 残るのは、暴力表現や猥褻表現に対してどのような対策を講じるのか、という問題である。市場機構は、道徳的価値について中立であるので、この問題を市場によって解決する事はできない。また、市場機構は短期的には効率を上げるが長的的にはそうとは限らないということが指摘された。すなわち、道徳的価値の破壊による共同体の荒廃から生じる費用である。 道徳的価値の維持について共和党は、一般的にはエクソン法案と通称される1995年通信品位法案に見られるように、FCCの内容規制を維持しようと考えているようであるが、このアスペン・サミットの参加者に限っていえば、ネットワーク文化について理解があるため、「共同体」による自治的統制を行うべきであるという主張が主であった。ただ共同体による倫理規準が効果的に機能し得るか否かについては議論が分かれている。また、匿名による情報発信を抑制すれば倫理的問題は小さくなるという主張も見られた。一方、これに関してはネットワークでの議論が匿名であるが故に、人種・学歴・職業から来る偏見のない平等な議論の土壌が形成されたのであるとの主張もされた。すなわち、匿名性はネットワークによる交流における最も革新的な局面の一つであるという。すくなくとも年少者の保護という局面については、「家庭」を復活させる事により、それぞれの家庭で制御すべきであるという論調が主であった。この「家庭の復活」もまた共和党の基本的な主張の一つである。
3 共同体アメリカの基本的な構造は、この国が小さな地域共同体の集合体として成立していることにある。そしてその共同体の多様性がアメリカの健全性を維持している、と主張する論者がいるように、「共同体」という概念はアメリカの社会構造の重要な単位である。アメリカでは、大きな社会悪に対抗するために小共同体を統合した「国家共同体」がここ数十年にわたって発達してきたが、結果的には、それは巨大な官僚機構と非効率をもたらした。今や小共同体を中心とした社会に移行すべきであり、そのためにはネットワークが文化的な結合と効率的な協調に貢献するというのが基本的な論調である。 しかしながら、ネットワークがこれまでにない形態の新しい人と人の結び付きを形成することについては、一般に認められているが、その結合が共同体と呼べるものか、また、それが既存の地域的共同体にどのような影響を与えるかについては議論がある。 ネットワークに共同体が成立しうるとする論者達は、個人の嗜好によって自由に結合するネットワーク共同体は新しい社会構造を生みだすとし、そこには国境が存在しないので、こうしたネットワーク共同体への個人への帰属意識が強まるなかで、相対的に地理的共同体の重要性が低下するとしている。人々が現実の生活を営む場として、小共同体についてはこれまでと同様に意義を認めるが、小共同体をまとめる上位組織、たとえば連邦政府等は、個々人のネットワークにおける国際的結合に取って代わられうるとする主張も見られた。 しかしながら、ネットワークにおける匿名性や加入・脱退が容易にできうるという組織として結合力の弱さのゆえ、そもそも、それが共に結果を享受しようとする「共同体」といいうるのかという批判も出されていた。共同体は内部に対立点をもち、一方それを解決するための仕組みを備える。その共同体への構成員の関与と、犠牲との能動的な関係によって共同体の道徳的価値が維持されているとする。すなわち、責任である。ネットワークは容易に人々を結び付けるが故に、責任ある共同体を破壊するのではないだろうか、とする疑問もみられた。具体的には、近年の人々は自分の直接の隣人達との共同体関係よりも、より良い職場や学校といった自分に利益をもたらし快適な共同体に重点を置くようになっている。ここでネットワークが導入されると、より自分の利益や嗜好に合致する人々と地理的制約を離れて結合しうるようになるため、より直接の地域的小共同体を弱める作用があると指摘されている。
4 テクノクラシー論者の一人であるスタールマンから、アスペン・サミットの唯一の目的が、ギングリッチをネットワーク時代の帝王として祭り上げることにある、という痛烈な批判が出されていた。実際、アスペン・サミットにおいてまとめられた議論が実際に政策に反映される見込みは少なく、また議論をまとめるには2日間はあまりにも短い。ギングリッチ下院議員議長と関係の深いPFFの主宰でネットワーク通信政策関係者の公開討論会が開かれたという事実のみが意義を持つというわけである。 また、彼はつづけて、既存の秩序や考え方というものは、その登場においては全て新しいものであり、これが確立する過程においては新しい社会の到来が既存社会の既存の枠組みを揺るがし、その不安の中で新しいエリートが次の時代についての指針を示す事によって権威となるのであるという。まさに、いま行われつつある変化は、新しい社会の到来の衝撃であり、その中で、このアスペン・サミットの参加者たちは次世代のエリートを約束された人たちであるという。特にトフラーは70年代以降、「予測型民主主義 (Anticipatory Democracy)」と呼ばれるテクノクラシー優位の社会構造を一貫して提唱してきたと批判されている。すなわち、共和党から主張されている小さな政府とは高度に専門化され、中央集権化されたテクノクラートの政府であるというのである。もう一つ彼が提示した視点としては、我々が新しい考え方を一般化しすぎることへの批判がある。すなわち、ネットワークによって新しくもたらされる事象は既存の社会の変革ではなく、既存の社会に新しい局面を追加するというのである。危険なのはこうした違った局面に適用される原則を従来の局面にまで適用しようとする事であるという。一方、バーロウはサイバースペースは本質的に反君主制であると述べた。すなわち、コンピュータとネットワークはこうしたテクノクラートの情報を「象牙の塔」から民衆の手に移す道具であるという。具体例として東欧革命での情報機器の役割があげられた。
5 まとめ共和党寄りの団体の主宰であるため、またアメリカ政治状況が保守回帰にあるため、アスペン・サミットでの議論は保守色の強い内容になっている。もともと西海岸的なリベラルの雰囲気のつよかったネットワークにも保守の潮流が生じていることが実感される。さて、ネットワークへの政府の介入を最小限にとどめるという点では、一致する論者達にも微妙な違いがうかがわれる。バーロウやスタールマンに代表されるネットワーカー達は、反政府あるいは無政府という文脈においての政府介入の阻止が見られるのに対して、ギングリッチやトフラーに代表される東部エスタブリッシュメント達は、小さな政府、連邦主義、効率化という文脈において政府の介入を抑制しようとしている。この差異をするどく指摘したのがスタールマンであり、共和党がいう「情報革命」は革命でないとする。すなわち、革命は既存の体制の破壊を意味し、支配層の側からの革命はありえないからである。だとするならば、現在進行している事態は、情報エリートによるテクノクラシーであるとする彼の主張が説得力を持つ。確かに高度に情報化され縮小化された効率の良い政府は高い能力を持つスタッフによって支えられなければならないだろう。一方、バーロウはスタールマンに比較すると楽観的である。おそらく、ネットワークが完全に政府の支配のもとに置かれる事はないと判断しているからと思われる。 ここまでの議論を概観した筆者自身の感想を述べる。おそらく、ネットワークによる人と人の結び付きは地理的要因を離れ、より一層複雑に結び付いた緩やかな共同体類似のネットワークを形成するだろうとおもわれる。しかしながら、それは個人主義を加速し地域的小共同体を破壊する方向性をもつだろう。そこに現れるのはネットワークを媒介に集合したばらばらの個人である。この傾向は、小共同体に直接の基礎を置く地域行政組織の弱体化をまねくことになるだろう。そうであるならば、中央政府の影響力が相対的に大きくなるため、中央集権的エリート支配が生じる可能性が高いようにおもわれる。一方、個人の情報能力が大幅に向上したため、個人がネットワークの影響力を使って中央政府に対抗することも可能になっている。その結果、これまでのように個人が中央政府に対して一方的な従属を強いられることもなくなるだろう。従って、地域的小共同体への意識的かつ責任ある参加を通じて地域問題を地域で解決することによってのみ、個人は情報ネットワークの恩恵を十分に享受しつつ、過度な中央集権政治の弊害を防ぐ事ができるということになる。意外にも、地縁、血縁の重視がネットワーク時代の政治形態の鍵となりそうだと感じられた。
Note
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白田 秀彰 (Shirata Hideaki) 法政大学 社会学部 助教授 (Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences) 法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450) e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp |